ゼロ点の先へ
思い返せば、キルウェスタ先生がこの家へやってきたあの日から、僕の見ていた世界は大きく変わった。
泥の残る道を、まるで地面の方が汚れることを遠慮しているみたいに歩いてきた、赤髪の魔女。
漆黒のドレスを揺らし、黒い日傘を差し、翡翠色の瞳で僕を見下ろしたその人は、口を開けば容赦のない皮肉ばかりだった。
お母さんは顔を青くしていたし、お父さんも少し困ったような顔をしていた。
それでも、僕は不思議と怖くなかった。
怖いというより、胸の奥が震えた。
先生が僅かに指を動かすだけで、大気に満ちる魔力の乱れが静まり、周囲のすべてが同じ呼吸を始めたように見えた。
あの人は、世界さえ自分へ従わせている。
あの時の僕には、そう見えた。
この人みたいになりたい。
それが、僕がキルウェスタ先生へ抱いた、最初の憧れだった。
けれど、その後に始まった特訓は、僕が想像していた魔術の修行とはまるで違っていた。
火を出すことも、水を動かすことも教えてもらえない。
庭の切り株へ座り、自分の心臓の音だけを聴き続ける。
それが最初の課題だった。
「心臓で息をしなさい、アトカ坊や」
先生の声には、僕がそれまで知っていたような優しさは、少しもなかった。
身体の内側で暴れる魔力の熱に押し潰されそうになるたび、本当に心臓が内側から弾けてしまうのではないかと思った。
僕の魔力は、どこから始まり、どこへ向かえばよいのかを知らなかった。
先生が知っている、肩から腕へ、腕から指先へと流す型も、僕の身体には当てはまらない。
以前、僕の魔力が暴れて、お母さんを泣かせてしまった時のことを何度も思い出した。
また失敗すれば、お母さんをもっと悲しませるかもしれない。
いつか、本当に家族の誰かを傷つけてしまうかもしれない。
そう考えると、自分の中にある魔力が急に怖くなった。
そんな焦りも恐怖も、先生には最初から見えていたのだと思う。
それでも先生は、いつも容赦なく言った。
「ゼロ点ですわね」
その言葉を聞くたび、胸が小さく縮こまった。
けれど、先生は僕を見捨てなかった。
普通の教え方には当てはまらない僕の魔力を、先生だけは正面から見続けてくれた。
危険だからと遠ざけるのでもなく、可哀想だからと何もさせないのでもない。
できない理由を一つずつ見つけ、できるようになるまで、何度でも同じ場所へ立たせた。
先生が何を考えているのか、僕にはまだ全部は分からない。
でも、先生が僕を諦めないことだけは、分かっていた。
義手を与えられた時も、そうだった。
最初は、ただ動かないだけの義手だった。
世界樹の末端枝から作られた、綺麗で、重くて、僕の身体から遠く感じる義手。
右肩へ接続されているのに、指一本動かせない。
そこへ魔力を押し込もうとすれば弾かれ、肩口へ鈍い熱だけが溜まった。
焦った僕は、力任せに何度も魔力を流そうとした。
肩の奥が焼けるように痛くなり、とうとう床へ倒れてしまった。
あの夜、先生が最初に叱ったのは、指を動かせなかったことではなかった。
痛みを隠し、一人で無理を続けたことだった。
自分を壊すことを努力と呼ぶな。
異常が起きたなら、すぐに助けを求めなさい。
我慢した方が偉いなどという考えは、魔術師には必要ない。
静かな声だった。
けれど、ゼロ点と言われた時よりも、ずっと胸へ刺さった。
その後で先生は、義手へ魔力の道を作る方法を示してくれた。
異物として従わせるのではない。
肩口で終わっていた魔力の流れに、新しい道を作る。
義手の中へ編み込まれた金属糸を、少しずつ身体感覚の続きとして迎え入れる。
先生が示したのは、そこまでだった。
最後にその感覚を掴むのは、僕自身でなければならなかった。
何度も失敗した。
それでも、やがて人差し指がほんの少しだけ動いた。
あの時の感覚を、僕はきっと忘れない。
生まれて初めて、自分の意思が義手の指先まで届いた。
それは、失っていた何かを取り戻した感覚ではなかった。
それまで存在しなかった新しい道を、自分の内側へ作った感覚だった。
その次に待っていたのは、自分の魔力を外へ出す訓練だった。
僕にとっては、世界へ触れることよりも、自分の内側にある魔力を指先から僅かに放つことの方がずっと難しかった。
今までは、水を思い浮かべれば、世界の方から勝手に近づいてきた。
僕自身がどこから魔力を出したのか。
どれだけ使ったのか。
どこで止めるのか。
そんなことを考えなくても、水は目の前へ現れた。
けれど、それでは駄目なのだと先生は言った。
水門を壊して溢れさせるのではなく、必要な分だけ開く。
流し終えたら、自分の意思で閉じる。
そうしてようやく、義手の指先から透明な魔力が僅かにこぼれ、小石を指二本分ほど転がした。
たったそれだけのことだった。
けれど、僕にとっては世界の見え方が変わるほど大きな一歩だった。
そして次の日。
指先から放った自分の魔力を起点に、その周囲へだけ水の像を重ねた。
義手の先に、小さな水球が生まれた。
それは、以前のように僕の意識が外界へ広がった結果ではなかった。
心臓から義手へ送った僕の魔力が、最初に世界へ触れた。
始めたのも僕だった。
動かしたのも僕だった。
そして、終わらせたのも僕だった。
キルウェスタ先生は、水球が土へ染み込むところまで見届けてから言った。
「今日の課題に限れば、及第ですわ」
最初は、その意味が分からなかった。
何度もゼロ点を突きつけてきた先生が、初めて僕のしたことを認めてくれた。
僕には、先生の口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
あの瞬間、胸を満たした熱は、魔力の熱よりもずっと強かった。
できたことを認めてもらえた。
僕が歩いてきた道が、ほんの少しだけ先生へ届いた。
その喜びが、身体の奥へゆっくりと広がっていった。
それからの特訓は、前よりもさらに厳しくなった。
義手の指先から魔力を放つ。
水球を作る。
形を保つ。
望んだ方向へ動かす。
必要な場所へ下ろす。
魔力の流れを閉じる。
始めることから終わらせることまで、一つでも自分の意思から外れれば、先生は当然のようにゼロ点を突きつけた。
少しできたくらいでは、滅多に褒めてくれなかった。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
日を追うごとに、自分の内側を巡る魔力が滑らかになっていくのが分かった。
初めは遠い道具にしか思えなかった義手の中を、今では確かに僕の魔力が巡っている。
義手の中に血は流れていない。
けれど、そこを通る魔力は僕自身のものだった。
指を曲げることも、手首を動かすことも、少しずつ自分の身体感覚として分かるようになってきた。
何より、魔術を学ぶことが楽しかった。
兄ちゃんと同じようにはできないことが、僕にはたくさんある。
おもちゃを両手で抱えることも、泥団子を掌で丸めることも、兄ちゃんと同じ構えで剣を握ることもできない。
でも、それは何もできないという意味ではなかった。
義手で掴むことができる。
水で支えることもできる。
どうしても難しい時には、誰かの手を借りてもいい。
同じ形でできないなら、僕にできる形を探せばいい。
できないことを数え続けるより、選べる方法を少しずつ増やしていけばいい。
遠い帝都の学園で僕を待っている、頼もしい兄ちゃん。
いつも僕を愛し、帰る場所を作ってくれるお父さんとお母さん。
そして、口が悪くて、底意地も悪くて、それでも決して僕を見捨てない赤髪の魔女。
僕は、自分にないものだけを見て立ち止まるつもりはない。
腕がないことも。
義手を使うことも。
魔術で世界へ触れることも。
誰かの助けを借りることも。
その全部を抱えたまま、僕は僕のやり方で魔術師になりたい。
明日からは、きっともっと厳しい特訓が始まる。
また何度もゼロ点を突きつけられると思う。
悔しくなることも、苦しくなることもあるだろう。
それでも、痛みを隠して一人で倒れるようなことは、もうしない。
分からなければ聞く。
危ないと思ったら止まる。
助けが必要なら、ちゃんと助けてほしいと言う。
それも全部、キルウェスタ先生が僕へ教えてくれた、魔術師になるための修行だから。
かつて動かなかった義手の五指を、ゆっくりと握りしめる。
木でできた指が、僕の意思に従って確かに曲がった。
まだぎこちない。
まだ、できないことばかりだ。
それでも、僕の魔力は心臓から肩へ、肩から義手へ、そして指先まで確かに届いている。
だから僕は、いつものように胸を張って笑う。
次に先生がゼロ点を告げた時も、きっと同じように答えるために。
だったら、次はもっと上手にやってみせる、と。




