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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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根が吸える水

午後のリーヴェル村には、湿った土の匂いが戻り始めていた。


雨が降ったわけではない。中央井戸も、薬草畑も、収穫増幅柱も、まだ完全には直っていない。

それでも、朝より空気が少しだけ柔らかい。村人たちが畦道を直し、倒れた薬草を起こし、使える水を桶で分け合っているからだろう。


アトカは薬草畑の端に立ち、ひび割れた区画を見ていた。


そこは、朝から何度も目にしてきた場所だった。

土は白く乾き、細いひびが根元まで走っている。薬草の葉は垂れ、先端は黄色くなっていた。


けれど、完全に死んではいない。


ローム爺が掘り返した根の一部には、まだ薄い白さが残っていた。細く、頼りなく、それでも土の中で水を待っている。


「ここへ水を入れたいです」


アトカが言うと、エルマは測定器具を構えたまま答えた。


「入れればいい、という話ではありませんわ。午前中に確認した通り、この区画の土は表面が乾きすぎています。水を一度に流せば、ひびを通って下へ抜け、根の周りには残りません」


「はい」


「さらに、下層に古い排水溝があります。そこへ水が逃げれば、隣の黒色停滞区画へ流れ込み、腐敗を広げる可能性があります」


「はい」


「分かっていて、それでも入れたいのですわね」


アトカは頷いた。


「根が、まだ水を待っている気がします。でも、上からたくさんあげるんじゃなくて、根が吸える形にしたいです」


エルマは記録帳へ視線を落とした。


「根が吸える形、ですか」


少し離れた場所では、バルトロが木の器を前にして座っていた。

ローム爺に言われた通り、余剰魔力だけを喰う練習を続けている。

顔は不機嫌そのものだが、根に残る魔力へ手を出さない。

小石にこびりついた金色だけを、指先で削るように喰らっている。


ローム爺は畑の畦に腰を下ろし、アトカを見た。


「根が吸える水とは何だ」


アトカはすぐに答えられなかった。


水は水だ。


そう思いかけて、違うと分かった。


井戸の水。霧。泥。流れる水。留まる水。水糸。水膜。

どれも同じ水なのに、土にとっては意味が違う。


「流れてしまう水ではなくて、土の中に少し残る水です」


アトカは言葉を探しながら続けた。


「でも、溜まりすぎて根を腐らせる水でもなくて……根のそばに、少しずつ置いておくような水です」


ローム爺は白い眉の下からアトカを見た。


「置いておく、か」


「違いますか?」


「悪くはない。だが、水だけを置けば、土が逃がす。土に抱かせろ」


「土に、抱かせる」


アトカはその言葉を繰り返した。


エルマがしゃがみ込み、乾いた土を指で崩す。


「土粒の間に水分を保持させる、ということですわね。表層から一気に注水するのではなく、根の周囲の土へ段階的に湿りを戻す。水脈を作るのではなく、保水層を作る」


ローム爺が少し嫌そうな顔をした。


「また難しくしたな」


「必要な言葉ですわ」


「畑の者には分からん」


「では、村人向けには、土に水を抱かせる、と書きます」


「それでいい」


アトカはひび割れた区画の前で膝を折った。


右の義手を地面に近づける。触れはしない。

まず、霧を出す。昨日よりもさらに薄く、薬草の葉に水滴がつかないほど細かな霧だった。


霧は地面の上を漂い、ひびの中へ入り込んでいく。


だが、アトカはすぐに水を増やさなかった。


ひびの奥を感じる。


乾いた土の壁。細い根。古い排水溝へ向かう斜めの隙間。隣の黒い土へ続く危うい湿り。


「右奥に逃げ道があります」


アトカが言う。


エルマが測定器具を向ける。


「確認しました。そこは古い排水溝へ繋がっています。水を流せば抜けますわ」


「塞ぎますか?」


ディノが道具箱を抱えて聞いた。


アトカは首を横に振る。


「塞ぐと、たぶん別のところが割れます。今は塞ぐんじゃなくて、水がそっちへ行きにくいようにしたいです」


ローム爺が頷く。


「流れを怒らせるな。少し嫌がらせをするくらいでいい」


「嫌がらせ、ですか」


「水は通りやすい方へ行く。なら、通りにくくしてやれ。行くなと命じるな。行きたくないと思わせろ」


エルマが少し考える。


「微細な水膜で排水方向の土粒を重くし、流速を落とす。完全遮断ではなく抵抗を増やす、ということですわね」


「また難しい」


「後で分かりやすくします」


アトカは小さく息を吸った。


霧の一部を、右奥の逃げ道へ向ける。

水を流すのではない。ひびの壁に薄くまとわせ、土の粒同士をほんの少しだけ結びつける。

そこを通る水が、急いで抜けないように。


次に、薬草の根元へ意識を移した。


根は浅い。細く、乾いている。


そこへ水を当てれば、驚いてしまう気がした。


アトカは霧をさらに細かくほどいた。

水は粒ではなく、湿りになった。

目にはほとんど見えないほど薄く、土の表面から少しずつ染み込んでいく。


乾いた土が、最初は弾いた。


まるで、長く眠れなかった身体が、急に差し出された毛布を拒むようだった。


アトカは焦らなかった。


霧を増やさず、同じ薄さのまま待つ。


やがて、土がほんの少し色を変えた。


白く乾いた表面に、淡い茶色が戻る。


エルマの測定器具の針が、ゆっくり動いた。


「水分が表層に留まっています。流出は少ない。根周辺の反応、わずかに回復」


バルトロが器の前から顔を上げた。


「根の匂いが変わった」


「どう変わりましたの?」


エルマが聞く。


「さっきまで、空っぽの匂いだった。今は……少し飯を見つけた匂いだ」


エルマは一瞬だけ黙り、それから記録した。


「根系反応、バルトロ・レイヴンの捕食感覚では、空乏状態から微弱な回復へ変化」


「そのまま書くなよ」


「重要です」


「毎回それだな」


アトカは霧を保ち続けた。


水を増やしたい気持ちが何度も湧いた。

土の色が変わると、もっと入れればもっと元気になるのではと思ってしまう。


けれど、それは急かすことだ。


収穫増幅柱と同じことを、水でしてはいけない。


「ここで止めます」


アトカは言った。


ディノが驚いた。


「まだ全体の半分も湿っていませんよ」


「根が吸い始めたところなので、今たくさん入れると、また逃げるか腐ると思います」


エルマが測定結果を見て頷く。


「同意します。第一段階としては十分ですわ。一定時間置いて、根の反応を見るべきです」


ローム爺は鍬の柄に顎を乗せるようにして、湿り始めた土を見た。


「水の子」


「はい」


「今、何をした」


アトカは少し考えた。


「土が水を抱けるところまで、少し手伝いました」


「それだけか」


「はい。それ以上は、土と根がすることだと思います」


ローム爺は長く黙った。


畑の上を風が通る。薬草の葉が、弱々しく揺れた。


やがて老人は、低く言った。


「それを忘れるな」


アトカは静かに頷いた。


その言葉は褒め言葉ではない。

けれど、ローム爺の声には、これまでより少しだけ重いものがあった。


エルマは立ち上がり、広げた図面に新しい印を書き加えた。


「乾燥区画への処置は、段階的湿潤。アトカ君の霧で初期保水を作り、村人が少量ずつ水を撒く。撒く間隔と量を記録する必要がありますわ」


村長ハルムが近づいてきた。


「わしらにもできますかな」


「できます。ただし、一度に桶を空けてはいけません。手桶で少しずつ、土の色が変わったところで止める。次は時間を置いてからです」


エルマは村人向けの紙を一枚取り出し、簡単な図を描いた。


「ここまで濡れたら止める。ここまでひびが閉じたら待つ。葉が立ち上がっても、すぐに追加しない。根が吸う時間を置く」


村長は紙を両手で受け取った。


「分かりました。皆に伝えます」


ディノはその横で、深く頭を下げた。


「僕も手伝います。今度は、数値だけでなく、土の色と根の状態も見ます」


エルマは少しだけ満足げに頷いた。


「ようやく技官らしくなりましたわね」


「今までは違ったんですか」


「図面係でしたわ」


ディノは苦笑したが、反論はしなかった。


バルトロは器を持って立ち上がった。


「で、俺はまだこれかよ」


ローム爺が即答する。


「ああ。お前さんは、日が暮れるまで食わない練習だ」


「食ってんのに食わない練習って意味分かんねぇ」


「分かるまでやれ」


バルトロは舌打ちした。


しかし、今度は器を投げ出さなかった。


アトカは湿り始めた土を見つめた。


薬草はすぐには元気にならない。折れたものは戻らない。

乾いた根も、今夜のうちに回復するわけではない。


それでも、土は水を少し抱いた。


根は、それを自分で吸おうとしている。


助けるとは、全部を代わりにやることではない。


相手が自分で戻れる場所を、少し整えること。


アトカはそのことを、乾いた畑の前でゆっくり覚えていた。

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