食べない強さ
薬草畑の揺れが収まった後、村には短い休息が訪れた。
収穫増幅柱の中央設定は、基準の一・〇五倍で固定されていた。
西側流路の局所圧は、基準圧の一・一五倍まで下がったところで一時的に安定している。
標準値へ戻すにはまだ早い。
西側流路の圧は下がったが、地脈そのものは傷ついたまま、眠れずにいる。
エルマは村長の家の広間を借り、机いっぱいに記録帳と図面を広げていた。
古水路。井戸底の根。薬草畑の旧作付け区画。収穫増幅柱の補助流路。
村人から聞き取った畑の使い方。ローム爺が短く告げた土の癖。
それらが、彼女の手で一枚の大きな記録へ重ねられていく。
「ここが、昨日の漏出箇所ですわ。柱の逆流、古い排水溝、薬草畑の根系が重なっている。単純に設定出力を下げれば済む場所ではありません」
ディノ技官は向かいに座り、真剣な顔で頷いていた。
昨日までの彼なら、まず設計図を見ていたかもしれない。
だが今は、村長から聞いた古い畑の話や、農夫たちの証言まで資料板に書き込んでいる。
「村の西側は、昔から水が溜まりやすかったそうです。だから薬草畑にした。湿りを好む種類を植えれば、土地を無理に変えずに済むから」
「それを、収穫増幅柱の流路設計では考慮していなかった」
「はい」
ディノは悔しそうに答えた。
「僕たちは、畑を均等に見すぎていました」
エルマは少しだけ目を細める。
「間違いを認めたなら、次は修正ですわ。落ち込むだけなら、紙の重しにもなりません」
「はい」
そのやり取りを、アトカは部屋の端で聞いていた。
彼の隣では、バルトロが壁にもたれて座っている。
昼過ぎから何も食べていないわけではない。
村人が用意してくれたパンも、干し肉も、野菜の煮込みも食べた。
それでも、彼の顔色は良くなかった。
この村では、空腹が消えない。
地脈の魔力がどこにでもある。井戸の底にも、畑の下にも、柱の根元にも。
しかも、その多くは食べてはいけないものだ。
バルトロにとっては、食卓に座らされているのに、皿のほとんどへ手を出すなと言われているようなものなのだろう。
アトカは小さく声をかけた。
「バルトロ先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫に見えるか」
「見えません」
「なら聞くな」
そう言いながら、バルトロは怒鳴らなかった。
アトカは少し考えてから続ける。
「僕の魔力を渡す話は、しません」
バルトロの目だけが動いた。
「……覚えてたのか」
「はい。楽な方を覚えたくないって、言っていたので」
「そうだよ」
バルトロは天井を見た。
「お前の魔力は、たぶん喰いやすい。嫌な混ざり方がしねぇ。水で薄めたとしても、腹には入る。今ここで少しもらえば、楽になる」
アトカは黙って聞いた。
「でも、それをやったら終わりだ。俺は次もそうする。柱の前でも、畑の前でも、井戸の前でも、腹が減ったらお前を見る。土じゃなくて、漏れた魔力じゃなくて、お前を餌として見るようになる」
言葉は乱暴だった。
けれど、その奥にある恐れは、はっきりしていた。
アトカは自分の義手を見下ろした。
自分を差し出せば、相手が楽になることがある。なら、差し出したくなる。
苦しんでいる人を見ると、そうしたくなる。
でも、それが本当に相手を助けるとは限らない。
「僕も、気をつけます」
アトカは静かに言った。
「すぐに、自分で何とかしようとしてしまうので」
バルトロは少しだけ鼻で笑った。
「お前、自覚あったのか」
「最近、少し」
「遅ぇよ」
その時、広間の戸口にローム爺が現れた。
鍬は持っていない。代わりに、古びた木の器を抱えている。
中には、乾いた土と小さな石、枯れた根が入っていた。
「腹を空かせた小僧」
バルトロが嫌そうに顔を上げる。
「俺のことか」
「他におらん」
ローム爺は木の器を床に置いた。
「来い」
「何だよ」
「食い方の練習だ」
エルマの筆が止まった。
アトカも顔を上げる。
バルトロは眉を寄せた。
「土を食えってのか」
「馬鹿を言うな。土に残すものと、捨てていいものを見分けろと言っている」
ローム爺は器の中の土を指した。
「これは薬草畑の端から取った土だ。根が死んだ部分、まだ生きている部分、余った魔力がこびりついた小石が混ざっとる」
エルマがすぐに立ち上がり、測定器具を持って近づいた。
「確かに、微弱な魔力反応がありますわ。生きている根に残るものと、小石に付着した余剰分が混在しています」
ローム爺はバルトロを見る。
「小石の分だけを喰え。根に残ったものは喰うな」
バルトロは器を睨んだ。
「そんな細かいこと、分かるかよ」
「分からんなら、今のまま畑の流れは任せられん」
老人の声は静かだったが、容赦はなかった。
「腹が減ったからといって、土の飯まで奪う奴は、畑のそばに立たせられん」
バルトロの顔が強張る。
アトカは思わず口を開きかけたが、止めた。
かばう場面ではない。
バルトロ自身が、聞かなければいけない言葉だった。
バルトロはゆっくり床に膝をついた。
器の中の土へ手を近づける。
触れた瞬間、全部を吸い上げてしまいそうで怖いのか、指先は少し震えていた。
エルマが横にしゃがむ。
「私が測定します。アトカ君、霧で輪郭を」
「はい」
アトカは器の表面から指一本分ほど離れた高さへ、ほんの薄い霧を漂わせた。
霧は土や根には触れない。
下から立ち上る魔力の気配だけを受け取り、淡い像として空中へ浮かび上がらせる。
枯れた根の周りには弱い光があり、小石の一つからは、少し強い金色の筋が立ち上っていた。
バルトロが目を細める。
「……これか」
「たぶん、それです」
アトカが答える。
「たぶんでやらせるな」
エルマが測定器具を近づける。
「小石表面の余剰魔力で間違いありません。根には触れないこと」
エルマは小石の横へ、魔力を含まない細い木片を置いた。
アトカは霧を消す。
器の上から、アトカの魔力は完全に退いた。
「これで、アトカ君の霧へ触れる心配もありませんわ。印を置いた小石の表面だけです」
「分かってる」
バルトロは指先を小石へ近づけた。
喰らうというより、削る。
爪の先で粉を払うように、金色の魔力だけを薄く吸い取る。
小石の光が消えた。
枯れた根の周りの弱い光は、残っている。
エルマが少しだけ目を見開いた。
「成功ですわ」
バルトロは息を吐いた。
額に汗が滲んでいる。
「……全然、腹にたまらねぇ」
ローム爺は頷いた。
「だろうな」
「これを何回やれってんだよ」
「必要なだけだ」
「ふざけんな」
「畑はふざけておらん」
ローム爺は木の器を軽く叩いた。
「腹を満たすために、土を痩せさせるな。足りん分は、持ってきた魔石で補え。畑の飯まで奪うな」
バルトロは老人を睨んだ。
だが、言い返せなかった。
アトカはその横顔を見た。
食べないこと。
それは、バルトロにとってただの我慢ではない。
自分の飢えを認めたうえで、他のものの飢えも見ようとすることだ。
土にも飯が要る。
ローム爺の言葉が、アトカの中でゆっくり沈んでいく。
バルトロは二つ目の小石に手を伸ばした。
アトカが再び霧を浮かべる。
今度の小石から立ち上る光は弱く、その下にある根の光と細くつながっていた。
バルトロは少しだけ早く手を動かしかけ、途中で止まる。
「これは違うな」
エルマが測定する。
「正解です。根に残る魔力とつながっていますわ」
アトカが霧を消す。
バルトロは小石へ触れなかった。
「気持ち悪ぃ。喰えそうなのに、駄目な匂いがする」
「その区別が必要です」
バルトロは舌打ちした。
「分かってる」
練習はしばらく続いた。
アトカが霧で輪郭を浮かべ、エルマが余剰魔力か根に必要な魔力かを測定する。
触れてよい対象が決まると、エルマが魔力を含まない木片で印を置き、アトカは霧を消した。
その後で、バルトロが小石にこびりついた余剰魔力だけを喰う。
根の周りに残る魔力には触れない。土の奥へ染みたものは吸い上げない。
一度、バルトロの指が根の光へ触れかけた。
アトカが声を上げるより早く、彼は自分で手を止めた。
「今の、喰えた」
「ええ」
エルマが言う。
「でも、喰いませんでしたわね」
バルトロは顔をしかめる。
「喰ったら、根が死ぬんだろ」
ローム爺が短く言った。
「そうだ」
「なら、喰わねぇ」
その声は不機嫌だった。
けれど、はっきりしていた。
アトカは小さく笑った。
バルトロが睨む。
「何笑ってんだ」
「いえ。強いなと思って」
「あ?」
「食べることより、食べないことを選ぶのは、すごく難しいと思うので」
バルトロはしばらく黙った。
それから、乱暴に顔を背ける。
「気持ち悪い褒め方すんな」
「すみません」
「謝るな。それも調子狂う」
エルマが静かに記録帳へ書き込んだ。
「バルトロ・レイヴン。余剰魔力の選別摂取訓練。根系魔力への接触前に、自発的に手を停止」
バルトロが嫌そうに見る。
「本人の考えまで勝手に書くなよ」
「今記録したのは、実際に手を止めたという行動事実だけですわ」
エルマは筆を止め、バルトロを見た。
「先ほどの『喰えるが、喰わない』という貴方の言葉は、本人発言として残してもよろしいですか?」
「書くな」
「承知しました。では、発言は記録しません」
エルマは記録帳へ余計な言葉を加えず、行動記録だけを残した。
バルトロは少しだけ意外そうに彼女を見たが、何も言わなかった。
ローム爺は器の中の土を見下ろした。
「まだ畑の流れを任せるには荒い。だが、昨日よりはましだ」
「褒めてんのか、それ」
「ましだと言った」
「やっぱ褒めてねぇだろ」
老人は答えなかった。
だが、立ち上がる時、器をバルトロの前に置いたままにした。
「日が暮れるまでに、あと三回やれ。腹を満たすためではなく、手を止めるためにな」
バルトロは器を睨んだ。
「命令ばっかだな、この村」
「畑は待ってくれん。だが、急かしすぎても壊れる」
ローム爺は戸口へ向かいながら言った。
「その間を覚えろ」
老人が出ていくと、広間に少しだけ静けさが戻った。
外では、村人たちが畑の補修を始めている。柱の調整も、井戸の処置も、まだ終わっていない。
アトカはバルトロの隣に座った。
「次も、霧を出します」
「いらねぇ」
バルトロはそう言ったが、少し間を置いてから続けた。
「……まだ、少しだけ出せ」
「はい」
エルマが記録帳を開き直す。
「私も測定します。失敗した場合は行動事実として記録しますわ」
「言い方を選べよ」
「成功した場合も、行動事実として残します」
「そういう問題じゃねぇ」
アトカは薄い霧を、木の器から少し離れた空中へもう一度漂わせた。
土の上から立ち上る金色の筋が、小さく浮かび上がる。
食べていいものと、食べてはいけないもの。そして、今は触れずに残しておくもの。
それらを分ける練習は、とても地味だった。
けれどアトカには、この村に来てからのどんな戦いよりも、大事なことのように思えた。




