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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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132/134

食べない強さ

薬草畑の揺れが収まった後、村には短い休息が訪れた。


収穫増幅柱の中央設定は、基準の一・〇五倍で固定されていた。


西側流路の局所圧は、基準圧の一・一五倍まで下がったところで一時的に安定している。


標準値へ戻すにはまだ早い。


西側流路の圧は下がったが、地脈そのものは傷ついたまま、眠れずにいる。


エルマは村長の家の広間を借り、机いっぱいに記録帳と図面を広げていた。


古水路。井戸底の根。薬草畑の旧作付け区画。収穫増幅柱の補助流路。

村人から聞き取った畑の使い方。ローム爺が短く告げた土の癖。


それらが、彼女の手で一枚の大きな記録へ重ねられていく。


「ここが、昨日の漏出箇所ですわ。柱の逆流、古い排水溝、薬草畑の根系が重なっている。単純に設定出力を下げれば済む場所ではありません」


ディノ技官は向かいに座り、真剣な顔で頷いていた。


昨日までの彼なら、まず設計図を見ていたかもしれない。

だが今は、村長から聞いた古い畑の話や、農夫たちの証言まで資料板に書き込んでいる。


「村の西側は、昔から水が溜まりやすかったそうです。だから薬草畑にした。湿りを好む種類を植えれば、土地を無理に変えずに済むから」


「それを、収穫増幅柱の流路設計では考慮していなかった」


「はい」


ディノは悔しそうに答えた。


「僕たちは、畑を均等に見すぎていました」


エルマは少しだけ目を細める。


「間違いを認めたなら、次は修正ですわ。落ち込むだけなら、紙の重しにもなりません」


「はい」


そのやり取りを、アトカは部屋の端で聞いていた。


彼の隣では、バルトロが壁にもたれて座っている。


昼過ぎから何も食べていないわけではない。

村人が用意してくれたパンも、干し肉も、野菜の煮込みも食べた。


それでも、彼の顔色は良くなかった。


この村では、空腹が消えない。


地脈の魔力がどこにでもある。井戸の底にも、畑の下にも、柱の根元にも。

しかも、その多くは食べてはいけないものだ。


バルトロにとっては、食卓に座らされているのに、皿のほとんどへ手を出すなと言われているようなものなのだろう。


アトカは小さく声をかけた。


「バルトロ先輩、大丈夫ですか」


「大丈夫に見えるか」


「見えません」


「なら聞くな」


そう言いながら、バルトロは怒鳴らなかった。


アトカは少し考えてから続ける。


「僕の魔力を渡す話は、しません」


バルトロの目だけが動いた。


「……覚えてたのか」


「はい。楽な方を覚えたくないって、言っていたので」


「そうだよ」


バルトロは天井を見た。


「お前の魔力は、たぶん喰いやすい。嫌な混ざり方がしねぇ。水で薄めたとしても、腹には入る。今ここで少しもらえば、楽になる」


アトカは黙って聞いた。


「でも、それをやったら終わりだ。俺は次もそうする。柱の前でも、畑の前でも、井戸の前でも、腹が減ったらお前を見る。土じゃなくて、漏れた魔力じゃなくて、お前を餌として見るようになる」


言葉は乱暴だった。


けれど、その奥にある恐れは、はっきりしていた。


アトカは自分の義手を見下ろした。


自分を差し出せば、相手が楽になることがある。なら、差し出したくなる。

苦しんでいる人を見ると、そうしたくなる。


でも、それが本当に相手を助けるとは限らない。


「僕も、気をつけます」


アトカは静かに言った。


「すぐに、自分で何とかしようとしてしまうので」


バルトロは少しだけ鼻で笑った。


「お前、自覚あったのか」


「最近、少し」


「遅ぇよ」


その時、広間の戸口にローム爺が現れた。


鍬は持っていない。代わりに、古びた木の器を抱えている。

中には、乾いた土と小さな石、枯れた根が入っていた。


「腹を空かせた小僧」


バルトロが嫌そうに顔を上げる。


「俺のことか」


「他におらん」


ローム爺は木の器を床に置いた。


「来い」


「何だよ」


「食い方の練習だ」


エルマの筆が止まった。


アトカも顔を上げる。


バルトロは眉を寄せた。


「土を食えってのか」


「馬鹿を言うな。土に残すものと、捨てていいものを見分けろと言っている」


ローム爺は器の中の土を指した。


「これは薬草畑の端から取った土だ。根が死んだ部分、まだ生きている部分、余った魔力がこびりついた小石が混ざっとる」


エルマがすぐに立ち上がり、測定器具を持って近づいた。


「確かに、微弱な魔力反応がありますわ。生きている根に残るものと、小石に付着した余剰分が混在しています」


ローム爺はバルトロを見る。


「小石の分だけを喰え。根に残ったものは喰うな」


バルトロは器を睨んだ。


「そんな細かいこと、分かるかよ」


「分からんなら、今のまま畑の流れは任せられん」


老人の声は静かだったが、容赦はなかった。


「腹が減ったからといって、土の飯まで奪う奴は、畑のそばに立たせられん」


バルトロの顔が強張る。


アトカは思わず口を開きかけたが、止めた。


かばう場面ではない。


バルトロ自身が、聞かなければいけない言葉だった。


バルトロはゆっくり床に膝をついた。


器の中の土へ手を近づける。

触れた瞬間、全部を吸い上げてしまいそうで怖いのか、指先は少し震えていた。


エルマが横にしゃがむ。


「私が測定します。アトカ君、霧で輪郭を」


「はい」


アトカは器の表面から指一本分ほど離れた高さへ、ほんの薄い霧を漂わせた。


霧は土や根には触れない。


下から立ち上る魔力の気配だけを受け取り、淡い像として空中へ浮かび上がらせる。


枯れた根の周りには弱い光があり、小石の一つからは、少し強い金色の筋が立ち上っていた。


バルトロが目を細める。


「……これか」


「たぶん、それです」


アトカが答える。


「たぶんでやらせるな」


エルマが測定器具を近づける。


「小石表面の余剰魔力で間違いありません。根には触れないこと」


エルマは小石の横へ、魔力を含まない細い木片を置いた。


アトカは霧を消す。


器の上から、アトカの魔力は完全に退いた。


「これで、アトカ君の霧へ触れる心配もありませんわ。印を置いた小石の表面だけです」


「分かってる」


バルトロは指先を小石へ近づけた。


喰らうというより、削る。


爪の先で粉を払うように、金色の魔力だけを薄く吸い取る。


小石の光が消えた。


枯れた根の周りの弱い光は、残っている。


エルマが少しだけ目を見開いた。


「成功ですわ」


バルトロは息を吐いた。


額に汗が滲んでいる。


「……全然、腹にたまらねぇ」


ローム爺は頷いた。


「だろうな」


「これを何回やれってんだよ」


「必要なだけだ」


「ふざけんな」


「畑はふざけておらん」


ローム爺は木の器を軽く叩いた。


「腹を満たすために、土を痩せさせるな。足りん分は、持ってきた魔石で補え。畑の飯まで奪うな」


バルトロは老人を睨んだ。


だが、言い返せなかった。


アトカはその横顔を見た。


食べないこと。


それは、バルトロにとってただの我慢ではない。


自分の飢えを認めたうえで、他のものの飢えも見ようとすることだ。


土にも飯が要る。


ローム爺の言葉が、アトカの中でゆっくり沈んでいく。


バルトロは二つ目の小石に手を伸ばした。


アトカが再び霧を浮かべる。


今度の小石から立ち上る光は弱く、その下にある根の光と細くつながっていた。


バルトロは少しだけ早く手を動かしかけ、途中で止まる。


「これは違うな」


エルマが測定する。


「正解です。根に残る魔力とつながっていますわ」


アトカが霧を消す。


バルトロは小石へ触れなかった。


「気持ち悪ぃ。喰えそうなのに、駄目な匂いがする」


「その区別が必要です」


バルトロは舌打ちした。


「分かってる」


練習はしばらく続いた。


アトカが霧で輪郭を浮かべ、エルマが余剰魔力か根に必要な魔力かを測定する。


触れてよい対象が決まると、エルマが魔力を含まない木片で印を置き、アトカは霧を消した。


その後で、バルトロが小石にこびりついた余剰魔力だけを喰う。


根の周りに残る魔力には触れない。土の奥へ染みたものは吸い上げない。


一度、バルトロの指が根の光へ触れかけた。


アトカが声を上げるより早く、彼は自分で手を止めた。


「今の、喰えた」


「ええ」


エルマが言う。


「でも、喰いませんでしたわね」


バルトロは顔をしかめる。


「喰ったら、根が死ぬんだろ」


ローム爺が短く言った。


「そうだ」


「なら、喰わねぇ」


その声は不機嫌だった。


けれど、はっきりしていた。


アトカは小さく笑った。


バルトロが睨む。


「何笑ってんだ」


「いえ。強いなと思って」


「あ?」


「食べることより、食べないことを選ぶのは、すごく難しいと思うので」


バルトロはしばらく黙った。


それから、乱暴に顔を背ける。


「気持ち悪い褒め方すんな」


「すみません」


「謝るな。それも調子狂う」


エルマが静かに記録帳へ書き込んだ。


「バルトロ・レイヴン。余剰魔力の選別摂取訓練。根系魔力への接触前に、自発的に手を停止」


バルトロが嫌そうに見る。


「本人の考えまで勝手に書くなよ」


「今記録したのは、実際に手を止めたという行動事実だけですわ」


エルマは筆を止め、バルトロを見た。


「先ほどの『喰えるが、喰わない』という貴方の言葉は、本人発言として残してもよろしいですか?」


「書くな」


「承知しました。では、発言は記録しません」


エルマは記録帳へ余計な言葉を加えず、行動記録だけを残した。


バルトロは少しだけ意外そうに彼女を見たが、何も言わなかった。


ローム爺は器の中の土を見下ろした。


「まだ畑の流れを任せるには荒い。だが、昨日よりはましだ」


「褒めてんのか、それ」


「ましだと言った」


「やっぱ褒めてねぇだろ」


老人は答えなかった。


だが、立ち上がる時、器をバルトロの前に置いたままにした。


「日が暮れるまでに、あと三回やれ。腹を満たすためではなく、手を止めるためにな」


バルトロは器を睨んだ。


「命令ばっかだな、この村」


「畑は待ってくれん。だが、急かしすぎても壊れる」


ローム爺は戸口へ向かいながら言った。


「その間を覚えろ」


老人が出ていくと、広間に少しだけ静けさが戻った。


外では、村人たちが畑の補修を始めている。柱の調整も、井戸の処置も、まだ終わっていない。


アトカはバルトロの隣に座った。


「次も、霧を出します」


「いらねぇ」


バルトロはそう言ったが、少し間を置いてから続けた。


「……まだ、少しだけ出せ」


「はい」


エルマが記録帳を開き直す。


「私も測定します。失敗した場合は行動事実として記録しますわ」


「言い方を選べよ」


「成功した場合も、行動事実として残します」


「そういう問題じゃねぇ」


アトカは薄い霧を、木の器から少し離れた空中へもう一度漂わせた。


土の上から立ち上る金色の筋が、小さく浮かび上がる。


食べていいものと、食べてはいけないもの。そして、今は触れずに残しておくもの。


それらを分ける練習は、とても地味だった。


けれどアトカには、この村に来てからのどんな戦いよりも、大事なことのように思えた。

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