↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
PR
134/134

地鳴りの夜

その夜、リーヴェル村に早い眠りは訪れなかった。


日が沈んだ後も、村人たちは家の前や広場に集まり、小声で話し続けていた。


中央井戸の水は少しだけ落ち着いたが、まだ飲み水にはできない。

薬草畑の一部は湿りを取り戻し始めたが、折れた茎は戻らない。


収穫増幅柱の中央設定は、基準の一・〇五倍で固定されている。

西側流路の局所圧も、基準圧の一・一五倍まで下がったところで、一時的に安定していた。


中央設定を基準値へ戻すには、まだ早い。


西側流路の圧は下がったが、地脈そのものは傷ついたまま、眠れずにいる。


アトカは村長の家の一室で、窓の外を見ていた。


昼間、根が吸える水を作った区画のことが頭から離れない。


水を流し込んだわけではない。ただ、土が抱えられるところまで湿りを戻しただけだ。


それでも、あの時の土は確かに息をしたように感じた。


小さく、弱く、それでも自分で水を吸おうとしていた。


「眠れませんの?」


背後からエルマの声がした。


彼女はまだ記録帳を抱えている。

目元には疲れが見えるが、筆記の手は止まっていなかった。


机の上には村の簡易地図が広げられ、古水路、井戸底の根、黒色停滞区画、収穫増幅柱、薬草畑の乾燥区画が、それぞれ別の印で書き込まれている。


「少しだけ」


アトカは振り返った。


「土って、難しいです」


「今さらですわね」


エルマは椅子に座り、記録帳を閉じた。


「ですが、私も同感です。数式で形にしても、すぐにその外側が出てくる。畑の履歴、村人の癖、古い水路、木の根、作物の種類。どれも地脈の流れに関わっていますわ」


「でも、エルマ先輩は楽しそうです」


「楽しくはありません」


エルマは即答したが、少し間を置いてから視線を逸らした。


「……ただ、分からないものがあるなら、分かるところまで書きたいとは思います」


部屋の隅では、バルトロが毛布の上に寝転がっていた。


夕食の後には、学園から持参した規定量の魔石も噛んでいる。

身体を維持するための補給は足りているはずだった。


それでも、この村では地脈魔力の匂いが途切れない。


井戸の底にも、畑の下にも、柱の根元にもある。

しかも、そのほとんどは喰ってはいけないものだ。


バルトロは目を閉じていたが、眠ってはいなかった。


不意に、低く唸る。


「来る」


アトカとエルマが同時に彼を見た。


バルトロは起き上がり、床へ手をついた。琥珀色の瞳が細くなる。


「下が鳴ってる。柱じゃねぇ。もっと深い。黒い土の方だ」


次の瞬間、地面が震えた。


小さな揺れではなかった。


家の柱が軋み、棚の皿がかすかに鳴る。

外から犬の吠える声と、誰かの悲鳴が聞こえた。


エルマはすぐに携帯補助板を開き、ディノへ緊急信号を送った。


「黒色停滞区画ですわ。日が落ちて薬草の吸収が弱まり、昼間に側枝へ押し出されていた残留魔力が、低い停滞区画へ沈んだ可能性があります」


「村の人たちは」


「広場から東側へ避難させます。クライン技官にも伝えましたわ」


三人が外へ出ると、村は暗いざわめきに包まれていた。


空に月はある。だが、畑の方角だけが薄く金色に明滅している。土の下から光が漏れているのだ。


村長ハルムが広場で人々を集めていた。


「西の畑へ近づくな!子供と年寄りは東の放牧地側へ!」


ディノ技官も走り回っている。顔は青かったが、手は止まっていなかった。


携帯式の操作板を抱え、収穫増幅柱と各流路の状態を確認しながら、村人へ避難路を示している。


アトカたちは西へ向かった。


薬草畑へ近づくほど、土の匂いが強くなる。


湿り、熱、鉄、腐った根。いくつもの匂いが混ざり、息が重くなった。


黒色停滞区画は、昼間より広がっていた。


真っ黒な泥が畑の一角を覆い、その表面がゆっくり膨らんでは沈んでいる。


まるで土の下で大きな獣が寝返りを打っているようだった。


金色の魔力が泥の隙間から漏れ、黒い水泡を作っている。


ローム爺はすでにそこにいた。


異変を察し、畑の警鐘を鳴らしたのも彼だったらしい。


鍬を持ち、黒い土の手前に立っている。

夜風に外套が揺れていたが、老人自身は少しも揺らがない。


「遅い」


「何が起きていますの?」


エルマが測定器具を構えながら問う。


「寝かせていた土が、起こされた」


ローム爺は黒い泥を見たまま言った。


「昼間、柱の流れをいじった。薬草の根は助かった。乾いた区画も少し息をした。だが、行き場を失った濁りが、日が落ちてここへ沈んだ」


ディノが追いつき、息を切らしながら操作板を確認する。


「中央設定は変えていません! 基準の一・〇五倍で保持しています。西側の局所圧も、先ほどまでは基準圧の一・一五倍で安定していました!」


「棒の数字はそうだろうな」


ローム爺は短く返した。


「だが、土は夜に動く」


エルマの測定器具の針が大きく振れた。


「停滞魔力が膨張していますわ。このままでは、黒い土が隣の乾燥区画へ流れ込みます。根が戻りかけている場所まで腐敗が広がる」


アトカは黒い泥を見つめた。


水を入れてはいけない。


昼間、ローム爺が言っていた。ここは寝かせる場所だ。動かせば腐りが広がる。


けれど、今はその眠りが乱されている。


「どうすれば……」


アトカが呟くと、バルトロが一歩前へ出た。


「膨れてる分だけ喰えばいいんだろ」


エルマが鋭く止める。


「全部ではありませんわ。ここは腐敗した水と停滞魔力が入り交じっています。表層の膨張分までなら減らせますが、下層へつながった部分まで喰らえば、地脈ごと引きます」


「面倒くせぇな」


「ええ。面倒です」


エルマは静かに答えた。


「だから、貴方一人に任せません」


アトカは頷き、義手の指を開いた。


畑の上へ霧を置く。


昼間より濃い霧だったが、黒い泥には触れさせない。

表面の少し上だけを漂わせ、漏れ出す魔力の輪郭を浮かび上がらせる。


金色の筋がいくつも見えた。


だが、昼間の薬草畑とは違う。


根へ向かう細い筋はほとんどない。

泥の中で渦を巻き、重なり、腐った水と混ざりながら膨らんでいる。


「上へ膨れているものと、下に残すものがあります」


アトカは息を整えた。


「上の泡みたいな魔力だけなら、減らせるかもしれません。でも、下まで引っ張ると土が崩れます」


バルトロが霧の中を睨む。


「泡だけ喰えってことか」


「はい。でも、エルマ先輩がいいと言うまで触らないでください」


「分かってる」


その返事は、以前より重かった。


エルマはディノへ向き直る。


「限定捕食を行います。対象は表層膨張分のみ。累積摂取量が身体強化域へ近づいた場合、または下層反応が一段でも下がった場合は即時中止しますわ」


「承認します。操作板側でも局所圧を監視します」


バルトロは片膝をつき、黒い泥へ直接触れない距離で手をかざした。


指先が震えている。


目の前には濃い魔力がある。喰らえば、腹の奥は少し楽になる。


けれど彼は、すぐには吸わなかった。


「右のやつ、喰っていいか」


エルマが測定器具を見る。


「表層分のみ、摂取可」


「左は?」


「下層とつながっています。不可ですわ」


「真ん中は」


アトカが霧を細めた。


「上の半分だけです。下はまだつながっています」


バルトロは舌打ちした。


「半分って何だよ」


「僕が水膜で分けます」


アトカは金色の泡の下へ薄い水膜を差し込んだ。


強く切断するのではない。

下層から浮き上がり、すでに泥から離れかけている部分だけを包み、残すべき流れとの間に境界を作る。


エルマが測定器具を確認する。


「下層との接続低下を確認。膜の内側だけです」


バルトロは指先で水膜の表面をかすめた。


金色の泡が一つ、薄く削られる。


バルトロの喉が鳴り、同時に黒い泥の膨らみが少しだけ沈んだ。


「表層余剰魔力、選別摂取成功。下層反応の低下なし」


地鳴りが再び響いた。


今度は黒色停滞区画の端に細い亀裂が走り、乾燥区画の方へ伸び始める。


「そこを止めます!」


アトカは水糸を伸ばした。


水を土へ染み込ませるのではない。

割れ目の両縁へ薄い膜として張り、亀裂を広げようとする力だけを散らす。


ローム爺が亀裂の先を見た。


「左は古い溝だ。右は根が死んどる。右へ逸らせ」


「承知しましたわ」


エルマは根のない右側へ、短い土の支えを斜めに置いた。


深く打ち込まない。表層の割れ方だけを変え、亀裂が乾燥区画へ伸びるのを防ぐ。


エルマはディノへ声を飛ばした。


「クライン技官、西側上流弁をもう一段絞ってください。西側への供給係数を、基準の一・〇倍相当まで下げます。中央設定は一・〇五倍のまま保持!」


「了解しました!」


ディノが操作板を叩く。


空気が一瞬、重くなった。


地面の奥で、何かが向きを変える。


「西側上流弁、作動! 供給係数、基準の一・〇倍相当!」


直後、黒い泥が大きく膨れた。


バルトロが歯を食いしばる。


「増えたぞ!」


「末端側に残っていた魔力が、弁の動作で側枝へ押し出されていますわ。局所的な圧力波です!」


ディノが操作板を見つめながら叫ぶ。


「黒色区画側の局所圧、基準圧の一・二二倍まで瞬間上昇! 西側本流は低下を始めています!」


アトカは霧を広げかけた。


全体を見なければ。


そう思った瞬間、エルマの声が飛ぶ。


「アトカ君、霧を広げすぎないで。輪郭が潰れます!」


「はい!」


アトカは霧を狭めた。


見える範囲を増やしたい気持ちを抑える。


全部を一度に見ようとすれば、全部がぼやける。

今必要なのは、目の前の一筋を間違えないことだった。


「バルトロ先輩、手前の泡です。奥は駄目です」


「見えてる!」


アトカが水膜で一つずつ境界を作り、エルマが下層との接続を確認する。


バルトロは許可された表層の泡だけを、指先で薄く削っていった。


三つ目が消える頃には、泥の膨らみも目に見えて低くなっていた。


「累積摂取量、維持域の上限へ近づいていますわ」


エルマが告げる。


「身体強化へ移る前に止めます。次の一つで終了です」


「まだ喰える」


「喰えることと、喰ってよいことは違います」


バルトロはエルマを睨んだが、反論はしなかった。


ローム爺が静かに鍬を持ち上げる。


「下が暴れる」


老人は黒い泥の手前へ一歩出た。


アトカは止めようとしたが、声が出なかった。


ローム爺が鍬を振り下ろす。


ただ土へ打ち込んだだけに見えた。


けれど、その瞬間、地鳴りの低さが変わった。


ごうごうと唸っていた音が、さらに深いところへ沈んでいく。

黒い泥の奥で暴れていた魔力が、鍬の先を中心にゆっくりと重くなった。


上へ噴き上がろうとしていた力が、下へ戻る場所を思い出したように落ち着いていく。


エルマの測定器具の針が、一瞬だけ、あり得ない動きをした。


「今の……」


バルトロも鍬の刺さった土を睨んでいた。


「爺さんの魔力じゃねぇ」


低い声だった。


「何かを出した匂いがしねぇ。土が勝手に戻ったみたいだ」


ローム爺は振り返らない。


「見ている暇があるなら、手を動かせ」


エルマは何かを言いたそうにしたが、すぐに飲み込んだ。


「アトカ君、亀裂の支えを維持。バルトロさん、最後に残った表層分だけです。クライン技官、数値を!」


「西側への供給係数、基準の一・〇倍相当で保持! 西側本流の局所圧、基準圧の一・〇八倍まで低下! 黒色区画側の圧力波も収まりつつあります!」


「数値を読み続けなさい!」


作業はしばらく続いた。


アトカは水糸で亀裂の縁を支え、腐った水を乾燥区画へ流さないようにした。

エルマは測定と指示を続け、バルトロは最後に分離された表層分だけを喰うと、それ以上は手を伸ばさなかった。


ローム爺の鍬は、黒い土の手前に刺さったままだった。


やがて地鳴りが弱まった。


黒い泥はまだ黒い。腐った匂いも消えていない。


だが、畑の外へ膨れ出す動きは止まっていた。


バルトロはその場に座り込み、嫌そうに舌を出した。


「……腹いっぱいじゃねぇのに、気分悪ぃ。腐った飯の匂いを嗅ぎながら食ったみてぇだ」


エルマは測定器具を向け、呼吸と筋緊張を確認する。


「身体反応に異常はありません。身体強化の兆候もなし。単に貴方の摂食感覚に合わない味だっただけですわね」


「分かってる。だから気分悪ぃって言ってんだよ」


「ならば、しばらく口直しをなさい。追加の摂取は禁止です」


「もうあんなの食わねぇよ」


アトカは黒い土を見た。


完全には救えていない。


ただ、今夜広がるのを止めただけだ。


ローム爺は鍬を抜き、土を軽く払った。


「今夜はこれで寝る」


「この土が、ですか」


アトカが聞くと、老人は頷いた。


「無理に起こすな。明日の朝、根が吸える水の次をやる」


「次?」


「水は土を選ばにゃならん」


ローム爺はアトカを見た。


「どの土に染み、どの土を避け、どこで留まるか。それを覚えろ。明日は、それが要る」


アトカは静かに頷いた。


夜の畑には、まだ熱が残っている。


だが、地面の下の唸りは少しだけ遠くなっていた。


村は眠れない夜を越えようとしている。


アトカはその土の上に立ち、自分の水がまだ何も知らないことを、はっきり感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。