地鳴りの夜
その夜、リーヴェル村に早い眠りは訪れなかった。
日が沈んだ後も、村人たちは家の前や広場に集まり、小声で話し続けていた。
中央井戸の水は少しだけ落ち着いたが、まだ飲み水にはできない。
薬草畑の一部は湿りを取り戻し始めたが、折れた茎は戻らない。
収穫増幅柱の中央設定は、基準の一・〇五倍で固定されている。
西側流路の局所圧も、基準圧の一・一五倍まで下がったところで、一時的に安定していた。
中央設定を基準値へ戻すには、まだ早い。
西側流路の圧は下がったが、地脈そのものは傷ついたまま、眠れずにいる。
アトカは村長の家の一室で、窓の外を見ていた。
昼間、根が吸える水を作った区画のことが頭から離れない。
水を流し込んだわけではない。ただ、土が抱えられるところまで湿りを戻しただけだ。
それでも、あの時の土は確かに息をしたように感じた。
小さく、弱く、それでも自分で水を吸おうとしていた。
「眠れませんの?」
背後からエルマの声がした。
彼女はまだ記録帳を抱えている。
目元には疲れが見えるが、筆記の手は止まっていなかった。
机の上には村の簡易地図が広げられ、古水路、井戸底の根、黒色停滞区画、収穫増幅柱、薬草畑の乾燥区画が、それぞれ別の印で書き込まれている。
「少しだけ」
アトカは振り返った。
「土って、難しいです」
「今さらですわね」
エルマは椅子に座り、記録帳を閉じた。
「ですが、私も同感です。数式で形にしても、すぐにその外側が出てくる。畑の履歴、村人の癖、古い水路、木の根、作物の種類。どれも地脈の流れに関わっていますわ」
「でも、エルマ先輩は楽しそうです」
「楽しくはありません」
エルマは即答したが、少し間を置いてから視線を逸らした。
「……ただ、分からないものがあるなら、分かるところまで書きたいとは思います」
部屋の隅では、バルトロが毛布の上に寝転がっていた。
夕食の後には、学園から持参した規定量の魔石も噛んでいる。
身体を維持するための補給は足りているはずだった。
それでも、この村では地脈魔力の匂いが途切れない。
井戸の底にも、畑の下にも、柱の根元にもある。
しかも、そのほとんどは喰ってはいけないものだ。
バルトロは目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
不意に、低く唸る。
「来る」
アトカとエルマが同時に彼を見た。
バルトロは起き上がり、床へ手をついた。琥珀色の瞳が細くなる。
「下が鳴ってる。柱じゃねぇ。もっと深い。黒い土の方だ」
次の瞬間、地面が震えた。
小さな揺れではなかった。
家の柱が軋み、棚の皿がかすかに鳴る。
外から犬の吠える声と、誰かの悲鳴が聞こえた。
エルマはすぐに携帯補助板を開き、ディノへ緊急信号を送った。
「黒色停滞区画ですわ。日が落ちて薬草の吸収が弱まり、昼間に側枝へ押し出されていた残留魔力が、低い停滞区画へ沈んだ可能性があります」
「村の人たちは」
「広場から東側へ避難させます。クライン技官にも伝えましたわ」
三人が外へ出ると、村は暗いざわめきに包まれていた。
空に月はある。だが、畑の方角だけが薄く金色に明滅している。土の下から光が漏れているのだ。
村長ハルムが広場で人々を集めていた。
「西の畑へ近づくな!子供と年寄りは東の放牧地側へ!」
ディノ技官も走り回っている。顔は青かったが、手は止まっていなかった。
携帯式の操作板を抱え、収穫増幅柱と各流路の状態を確認しながら、村人へ避難路を示している。
アトカたちは西へ向かった。
薬草畑へ近づくほど、土の匂いが強くなる。
湿り、熱、鉄、腐った根。いくつもの匂いが混ざり、息が重くなった。
黒色停滞区画は、昼間より広がっていた。
真っ黒な泥が畑の一角を覆い、その表面がゆっくり膨らんでは沈んでいる。
まるで土の下で大きな獣が寝返りを打っているようだった。
金色の魔力が泥の隙間から漏れ、黒い水泡を作っている。
ローム爺はすでにそこにいた。
異変を察し、畑の警鐘を鳴らしたのも彼だったらしい。
鍬を持ち、黒い土の手前に立っている。
夜風に外套が揺れていたが、老人自身は少しも揺らがない。
「遅い」
「何が起きていますの?」
エルマが測定器具を構えながら問う。
「寝かせていた土が、起こされた」
ローム爺は黒い泥を見たまま言った。
「昼間、柱の流れをいじった。薬草の根は助かった。乾いた区画も少し息をした。だが、行き場を失った濁りが、日が落ちてここへ沈んだ」
ディノが追いつき、息を切らしながら操作板を確認する。
「中央設定は変えていません! 基準の一・〇五倍で保持しています。西側の局所圧も、先ほどまでは基準圧の一・一五倍で安定していました!」
「棒の数字はそうだろうな」
ローム爺は短く返した。
「だが、土は夜に動く」
エルマの測定器具の針が大きく振れた。
「停滞魔力が膨張していますわ。このままでは、黒い土が隣の乾燥区画へ流れ込みます。根が戻りかけている場所まで腐敗が広がる」
アトカは黒い泥を見つめた。
水を入れてはいけない。
昼間、ローム爺が言っていた。ここは寝かせる場所だ。動かせば腐りが広がる。
けれど、今はその眠りが乱されている。
「どうすれば……」
アトカが呟くと、バルトロが一歩前へ出た。
「膨れてる分だけ喰えばいいんだろ」
エルマが鋭く止める。
「全部ではありませんわ。ここは腐敗した水と停滞魔力が入り交じっています。表層の膨張分までなら減らせますが、下層へつながった部分まで喰らえば、地脈ごと引きます」
「面倒くせぇな」
「ええ。面倒です」
エルマは静かに答えた。
「だから、貴方一人に任せません」
アトカは頷き、義手の指を開いた。
畑の上へ霧を置く。
昼間より濃い霧だったが、黒い泥には触れさせない。
表面の少し上だけを漂わせ、漏れ出す魔力の輪郭を浮かび上がらせる。
金色の筋がいくつも見えた。
だが、昼間の薬草畑とは違う。
根へ向かう細い筋はほとんどない。
泥の中で渦を巻き、重なり、腐った水と混ざりながら膨らんでいる。
「上へ膨れているものと、下に残すものがあります」
アトカは息を整えた。
「上の泡みたいな魔力だけなら、減らせるかもしれません。でも、下まで引っ張ると土が崩れます」
バルトロが霧の中を睨む。
「泡だけ喰えってことか」
「はい。でも、エルマ先輩がいいと言うまで触らないでください」
「分かってる」
その返事は、以前より重かった。
エルマはディノへ向き直る。
「限定捕食を行います。対象は表層膨張分のみ。累積摂取量が身体強化域へ近づいた場合、または下層反応が一段でも下がった場合は即時中止しますわ」
「承認します。操作板側でも局所圧を監視します」
バルトロは片膝をつき、黒い泥へ直接触れない距離で手をかざした。
指先が震えている。
目の前には濃い魔力がある。喰らえば、腹の奥は少し楽になる。
けれど彼は、すぐには吸わなかった。
「右のやつ、喰っていいか」
エルマが測定器具を見る。
「表層分のみ、摂取可」
「左は?」
「下層とつながっています。不可ですわ」
「真ん中は」
アトカが霧を細めた。
「上の半分だけです。下はまだつながっています」
バルトロは舌打ちした。
「半分って何だよ」
「僕が水膜で分けます」
アトカは金色の泡の下へ薄い水膜を差し込んだ。
強く切断するのではない。
下層から浮き上がり、すでに泥から離れかけている部分だけを包み、残すべき流れとの間に境界を作る。
エルマが測定器具を確認する。
「下層との接続低下を確認。膜の内側だけです」
バルトロは指先で水膜の表面をかすめた。
金色の泡が一つ、薄く削られる。
バルトロの喉が鳴り、同時に黒い泥の膨らみが少しだけ沈んだ。
「表層余剰魔力、選別摂取成功。下層反応の低下なし」
地鳴りが再び響いた。
今度は黒色停滞区画の端に細い亀裂が走り、乾燥区画の方へ伸び始める。
「そこを止めます!」
アトカは水糸を伸ばした。
水を土へ染み込ませるのではない。
割れ目の両縁へ薄い膜として張り、亀裂を広げようとする力だけを散らす。
ローム爺が亀裂の先を見た。
「左は古い溝だ。右は根が死んどる。右へ逸らせ」
「承知しましたわ」
エルマは根のない右側へ、短い土の支えを斜めに置いた。
深く打ち込まない。表層の割れ方だけを変え、亀裂が乾燥区画へ伸びるのを防ぐ。
エルマはディノへ声を飛ばした。
「クライン技官、西側上流弁をもう一段絞ってください。西側への供給係数を、基準の一・〇倍相当まで下げます。中央設定は一・〇五倍のまま保持!」
「了解しました!」
ディノが操作板を叩く。
空気が一瞬、重くなった。
地面の奥で、何かが向きを変える。
「西側上流弁、作動! 供給係数、基準の一・〇倍相当!」
直後、黒い泥が大きく膨れた。
バルトロが歯を食いしばる。
「増えたぞ!」
「末端側に残っていた魔力が、弁の動作で側枝へ押し出されていますわ。局所的な圧力波です!」
ディノが操作板を見つめながら叫ぶ。
「黒色区画側の局所圧、基準圧の一・二二倍まで瞬間上昇! 西側本流は低下を始めています!」
アトカは霧を広げかけた。
全体を見なければ。
そう思った瞬間、エルマの声が飛ぶ。
「アトカ君、霧を広げすぎないで。輪郭が潰れます!」
「はい!」
アトカは霧を狭めた。
見える範囲を増やしたい気持ちを抑える。
全部を一度に見ようとすれば、全部がぼやける。
今必要なのは、目の前の一筋を間違えないことだった。
「バルトロ先輩、手前の泡です。奥は駄目です」
「見えてる!」
アトカが水膜で一つずつ境界を作り、エルマが下層との接続を確認する。
バルトロは許可された表層の泡だけを、指先で薄く削っていった。
三つ目が消える頃には、泥の膨らみも目に見えて低くなっていた。
「累積摂取量、維持域の上限へ近づいていますわ」
エルマが告げる。
「身体強化へ移る前に止めます。次の一つで終了です」
「まだ喰える」
「喰えることと、喰ってよいことは違います」
バルトロはエルマを睨んだが、反論はしなかった。
ローム爺が静かに鍬を持ち上げる。
「下が暴れる」
老人は黒い泥の手前へ一歩出た。
アトカは止めようとしたが、声が出なかった。
ローム爺が鍬を振り下ろす。
ただ土へ打ち込んだだけに見えた。
けれど、その瞬間、地鳴りの低さが変わった。
ごうごうと唸っていた音が、さらに深いところへ沈んでいく。
黒い泥の奥で暴れていた魔力が、鍬の先を中心にゆっくりと重くなった。
上へ噴き上がろうとしていた力が、下へ戻る場所を思い出したように落ち着いていく。
エルマの測定器具の針が、一瞬だけ、あり得ない動きをした。
「今の……」
バルトロも鍬の刺さった土を睨んでいた。
「爺さんの魔力じゃねぇ」
低い声だった。
「何かを出した匂いがしねぇ。土が勝手に戻ったみたいだ」
ローム爺は振り返らない。
「見ている暇があるなら、手を動かせ」
エルマは何かを言いたそうにしたが、すぐに飲み込んだ。
「アトカ君、亀裂の支えを維持。バルトロさん、最後に残った表層分だけです。クライン技官、数値を!」
「西側への供給係数、基準の一・〇倍相当で保持! 西側本流の局所圧、基準圧の一・〇八倍まで低下! 黒色区画側の圧力波も収まりつつあります!」
「数値を読み続けなさい!」
作業はしばらく続いた。
アトカは水糸で亀裂の縁を支え、腐った水を乾燥区画へ流さないようにした。
エルマは測定と指示を続け、バルトロは最後に分離された表層分だけを喰うと、それ以上は手を伸ばさなかった。
ローム爺の鍬は、黒い土の手前に刺さったままだった。
やがて地鳴りが弱まった。
黒い泥はまだ黒い。腐った匂いも消えていない。
だが、畑の外へ膨れ出す動きは止まっていた。
バルトロはその場に座り込み、嫌そうに舌を出した。
「……腹いっぱいじゃねぇのに、気分悪ぃ。腐った飯の匂いを嗅ぎながら食ったみてぇだ」
エルマは測定器具を向け、呼吸と筋緊張を確認する。
「身体反応に異常はありません。身体強化の兆候もなし。単に貴方の摂食感覚に合わない味だっただけですわね」
「分かってる。だから気分悪ぃって言ってんだよ」
「ならば、しばらく口直しをなさい。追加の摂取は禁止です」
「もうあんなの食わねぇよ」
アトカは黒い土を見た。
完全には救えていない。
ただ、今夜広がるのを止めただけだ。
ローム爺は鍬を抜き、土を軽く払った。
「今夜はこれで寝る」
「この土が、ですか」
アトカが聞くと、老人は頷いた。
「無理に起こすな。明日の朝、根が吸える水の次をやる」
「次?」
「水は土を選ばにゃならん」
ローム爺はアトカを見た。
「どの土に染み、どの土を避け、どこで留まるか。それを覚えろ。明日は、それが要る」
アトカは静かに頷いた。
夜の畑には、まだ熱が残っている。
だが、地面の下の唸りは少しだけ遠くなっていた。
村は眠れない夜を越えようとしている。
アトカはその土の上に立ち、自分の水がまだ何も知らないことを、はっきり感じていた。




