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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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130/140

収穫増幅柱

ストーンボアの群れが去った後、薬草畑には重い静けさが残った。


踏み荒らされた畦道。倒れた薬草。泥に沈んだ若い葉。


倒れたストーンボアの巨体は、村の男たちが畑の外から差し入れた縄で一頭ずつ固定し、搬出用の橇へ載せようとしていた。

ディノが残存魔力を確認し終えるまで、誰も岩殻や牙には触れないよう指示されている。


アトカはその様子を見ながら、胸の奥に小さな痛みを覚えていた。


村人は誰も怪我をしていない。家畜も無事だった。

黒ずんだ湿った区画にも、魔獣を踏み込ませずに済んだ。


それでも、畑は傷ついた。


守れたものと、守りきれなかったものが、同じ土の上に並んでいる。


ローム爺は鍬の先で泥になった畦道を軽くならしながら言った。


「ぼうっとするな。傷を見たら、次は手当てだ」


アトカは、はっと顔を上げた。


「はい」


「水を入れすぎるなよ。今の土は踏まれて緩んどる。優しいつもりで水を足せば、追い打ちになる」


「分かりました」


ローム爺は畦道の脇にある浅い溝を鍬で示した。


「この溝は畑の外の沈砂地へ抜けとる。今は詰まっとらん。余った水を逃がすなら、そこまでだ」


アトカは頷き、泥になった畦道のそばへ膝を折った。


水を足すのではない。


畦道へ溜まりすぎた水分を、表層から薄い霧として少しだけ浮かせ、確認された溝へ移す。

乾いた区画には送らない。湿りすぎた場所だけを軽くし、土の深いところには触れない。


エルマが横で記録する。


「戦闘後の土壌応急処理。過湿部分の表層水分のみを霧化。排出先は畑外沈砂地へ続く既存溝。土中深部への干渉なし」


搬出と畦道の応急処置には、一刻近くかかった。


その間、エルマはバルトロの呼吸、筋緊張、歩行時の踏圧を定期的に確認していた。


ストーンボアから喰らった魔力による身体強化は、すでに収まっている。

畦道を踏んでも土が沈まず、本人の空腹も通常の補給待ちに近い状態へ戻っていた。


「身体強化反応、終了を確認しますわ」


「何度も見なくても分かる」


「貴方の感覚だけで判断した結果を、昨夜すでに見ています」


「……分かったよ」


バルトロは不満そうに答えたが、確認を拒まなかった。


彼は橇へ載せられたストーンボアの一頭を見下ろす。


「こいつら、地脈の魔力に寄ってきたんだよな」


「ええ」


エルマは測定器具を畑の奥へ向けた。


「群れの進路は、明らかに収穫増幅柱へ向かっていました。柱の周辺から漏れている魔力が、魔獣を誘引していますわ」


ディノ技官は青ざめたまま、柱の方を見ていた。


「そんな……魔獣避けの簡易結界も組み込まれています。柱が魔獣を呼び寄せるなんて、本来なら」


「本来なら、でしょう」


エルマの声は厳しかった。


「魔導具は、正常に動いている時の性能だけを見ても意味がありません。損傷した時、流路が詰まった時、土地の側が耐えきれなくなった時、どの安全機構が働き、何が起きるのかまで確認する必要があります」


ディノは言い返さなかった。


村長ハルムが深く息を吐く。


「ディノ殿だけを責めないでやってください。柱の出力を上げることには、わしらも同意しました。去年の不作で、村は本当に苦しかったのです。帝都への納入を減らせば、次の支援まで削られる。若い者たちも村を出るかもしれない。そう思うと……」


「止められなかった」


ローム爺が短く言った。


村長はうつむいた。


「はい」


その沈黙に、アトカは胸が重くなった。


誰か一人だけが悪いわけではない。


村を守りたかった。収穫を増やしたかった。帝都へ納める約束を守りたかった。

来年も村で暮らせるようにしたかった。


その願いが重なり、土を急かしてしまった。


エルマは一度息を整え、声を落とした。


「村が出力上昇へ同意した事情は記録します。ですが、村の同意と、設備を安全に運用する技術上の責任は別ですわ。根系や井戸への影響を確認しなかった事実も消しません」


ディノが小さく頷く。


「……はい」


「まず柱を確認します。原因を見ずに責任の押しつけ合いをしても、土地は戻りませんわ」


一行は薬草畑の奥へ向かった。


収穫増幅柱は、昨日見た時よりも不安定に見えた。


石柱に巻かれた銀色の魔導線が、ときおり淡い金色に光り、すぐにくすむ。

根元の導管は土へ潜っているが、その周囲の草だけが異常に伸び、反対側の土は乾いて白くなっていた。


エルマが柱の操作盤を見つける。


「クライン技官、解錠を」


「はい」


ディノは認可章を押し当て、小さな鍵を差し込んだ。


柱の側面が開き、中から魔導式の調整盤が現れる。

細い水晶管が何本も並び、その中を金色の光が流れていた。


だが、流れは均一ではない。


強く光る管。ほとんど動かない管。途中で泡立つように脈打つ管。


アトカには、それが苦しそうな血管に見えた。


「ここが、畑へ魔力を分けているところですか?」


「そうです」


ディノは調整盤を指した。


「中央の汲み上げ核が地脈から魔力を取り込み、ここで各補助流路へ分配します。通常は小麦畑、薬草畑、放牧地側へ、土地ごとの基準に応じた量を流します」


「現在の設定出力は?」


エルマが尋ねる。


「昨夜、一・三倍から一・一倍まで段階的に下げました。操作記録にも残っています」


ディノは調整盤の表示板を指した。


中央の設定値には、確かに一・一倍と示されている。


しかし、その隣に並ぶ流路別の実測管は、まるで別の状態を示していた。


小麦畑側は標準値をわずかに下回っている。放牧地側はほぼ標準値。西の薬草畑へ続く流路だけが、大きく明滅していた。


エルマが補助板を重ねる。


「柱全体の設定値は一・一倍。ですが、西側流路の局所圧は、一・三倍相当まで上がっていますわ」


ディノの顔が強張った。


「設定を下げたのに……」


「設定出力と、詰まった流路の内部圧は同じではありません」


エルマは脈打つ水晶管へ視線を向けた。


「昨夜の減圧で汲み上げ量そのものは下がった。ですが、西側流路の奥に溜まっていた魔力が抜けず、局所的な高圧状態が残っています」


アトカは調整盤の奥にある細い光を見つめた。


柱が新しく魔力を吸い上げ続けているというより、すでに流路へ送り込まれた魔力が、行き場を失って押し合っているように感じる。


「中に残った魔力が、詰まっているんですね」


「その可能性が高いですわ」


エルマはディノを見る。


「出力を上げた経緯を、段階ごとに確認します。最初に一・一倍へ変更した日付は?」


ディノは資料板を開いた。


「先月の四日です。地方管理部の臨時増産許可を受けました」


「一・二倍は?」


「十三日です。薬草の生育値が目標へ届かなかったため、上司へ追加申請しました」


「一・三倍は?」


ディノの指が止まる。


「二十一日です。許可は出ました。ただし、条件として十日ごとの土壌確認と、井戸水の比較測定を行うよう指示されていました」


「実施状況は?」


「簡易土壌測定は行いました。ですが、根の確認はしていません。井戸水の比較測定も、濁りが出るまでは……行っていませんでした」


エルマは怒鳴らなかった。


変更日、承認経路、付帯条件、未実施項目を、一つずつ記録帳へ書き込んだ。


「収穫増幅柱、西側補助流路。出力設定、一・一倍、一・二倍、一・三倍へ段階上昇。地方管理部の許可あり。付帯条件のうち、根系確認および井戸水比較測定は未実施。異常の発見を遅らせ、流路内の偏りを拡大した可能性あり」


ディノの肩が落ちる。


「僕は、村を助けたかったんです」


声は小さかった。


「去年、ここの人たちは本当に困っていました。薬草の納入が遅れれば、帝都の医療工房も困る。村への支援も減る。だから、少しでも収穫を戻したくて……」


ローム爺が柱を見上げた。


「助けたいなら、急かしていいわけじゃない」


ディノは唇を噛む。


アトカは彼を見て、灰庭救護院のことを思い出した。


救いたいという気持ちが、いつの間にか相手の痛みを見えなくすることがある。


痛みを消せばよい。


収穫を増やせばよい。


数字が戻ればよい。


けれど、その下で何が壊れているのかを見なければ、救いは別の苦しみになる。


「ディノさん」


アトカは静かに声をかけた。


「村を助けたかったのは、本当なんですよね」


ディノは驚いたようにアトカを見た。


「……はい」


「なら、今から土を助ける方法を一緒に探したいです」


ディノの目が揺れた。


エルマが横から言う。


「動機は記録します。確認を怠った事実も記録します。どちらか一方を消すつもりはありませんわ」


それから、調整盤を指した。


「設置記録と操作権限を持つ技官がいなければ、安全に減圧できません。落ち込むのは後にしてくださいまし」


「はい……!」


ディノは資料板を握り直した。


バルトロが柱の根元へ近づき、鼻を鳴らす。


「ここ、漏れてるぞ。昨日の夜のやつより濃い。でも、変な混ざり方してる」


エルマがすぐに測定器具を向ける。


「根元の接続部ですわね。汲み上げ核から分配盤へ入る前の魔力が、一部だけ接続部から土中へ漏れています。流路内の残圧に押し返されているようですわ」


アトカは柱の根元へ意識を向けた。


土から上へ引かれた魔力が、柱の中へ入りきれず、接続部の隙間から細く滲んでいる。


その一部が井戸の古い根の道へ流れ、別の一部が薬草畑へ入り込んでいるのだろう。


「吸い上げすぎた時の魔力が、まだ中で詰まっているんだと思います」


「アトカ君の感覚記録。過去の過剰汲み上げによる残圧と、接続部からの逆流感あり」


エルマは記録しながら頷いた。


「実測値とも一致しますわ」


ディノは調整盤の弁を確認する。


「設定出力を標準値まで下げることは可能です。ただし、一度に下げれば、流路内部の圧力差が大きくなります。詰まりが急に抜けた場合、溜まった魔力が弱い流路へ一気に流れる危険があります」


「二段階で下げます」


エルマは操作盤と補助板を見比べた。


「第一段階で、一・一倍から一・〇五倍。各流路の実測圧を確認し、西側の残圧を逃がします。安定後、標準値の一・〇倍へ下げます」


ディノが頷く。


「操作は私が行います。異常値が上限を越えた場合、すぐ一・一倍へ戻します」


「お願いします」


エルマはバルトロを見る。


「貴方の身体強化はすでに終了しています。ですが、今回の捕食量は最小限です」


バルトロが嫌そうに顔を上げる。


「俺か」


「漏出した余剰分だけです。ただし、霧で見えるようにするだけでは足りません。土中流路との接続を一時的に分けてから喰らってもらいます」


「見えるようにしろ。切れてるかも確かめろ。昨日みたいなのはごめんだ」


「そのつもりですわ」


アトカは頷いた。


「僕が霧で輪郭を出します。その後、漏れている筋だけを薄い水膜で包んで、土の流れから離します」


「簡単に言うな」


「難しいです。でも、一人ではやりません」


バルトロは少し黙り、舌打ちした。


「やるしかねぇだろ」


ローム爺は柱そのものではなく、周囲の土と薬草の葉を見ていた。


何も起きていないから手を出さないのではない。


地下の流れが別の場所へ逃げれば、すぐに分かる位置へ立っている。


「土の色が変わったら言う」


短く告げ、鍬の先を地面へ置いた。


ディノが操作盤へ手をかける。


「第一段階。一・一倍から、一・〇五倍へ下げます」


エルマが測定器具を構える。


「アトカ君、霧を」


「はい」


アトカは柱の根元へ薄い霧を広げた。


霧は土の表面を這い、接続部から漏れ出す金色の魔力を浮かび上がらせる。


土中に残る太い流れには触れない。


柱からこぼれ、周囲の土へ入り込もうとしている細い筋だけを、白い霧の中へ映し出す。


バルトロの喉が鳴った。


だが、すぐには手を出さなかった。


琥珀色の瞳で、霧の中の金色の筋を見定める。


「右の細いやつ。あれは漏れてる。下の太いのは駄目だ。まだ土とつながってる」


「測定上も一致しますわ」


エルマが答える。


「アトカ君。右の細い筋の根元だけを分離してください」


アトカは霧の内側へ、透き通った薄い水膜を重ねた。


水膜は漏出筋を強く引かず、土中へつながる根元との間へ細く差し込まれる。

柱側と土側の流れを押し返すのではなく、漏れ出してすでに外へ浮いた部分だけを、小さな水の膜の内側へ包む。


エルマの測定器具が、土中の太い流れとの接続低下を示した。


「分離を確認。対象は一本。接触は三呼吸までです。土中流路の濃度が一段でも下がった場合、または身体強化の兆候が出た場合は即時中止」


バルトロが短く復唱する。


「一本。三呼吸。強化が入ったら止める」


彼は手を伸ばした。


今度は掴まない。


水膜へ包まれた細い金色の筋へ、指先だけをかすめる。


一呼吸。


魔力が、細く削られるように彼の中へ入る。


二呼吸。


柱の不規則な明滅が、わずかに落ち着く。


周囲の土は乾かない。土中の太い流れにも大きな低下はない。


「そこまでですわ」


三呼吸目へ入る前に、エルマが止めた。


バルトロはすぐに手を離した。


「まだ二呼吸だぞ」


「十分に下がりました。目的は貴方を満たすことではありません」


「分かってるよ」


口では不満を言いながらも、再び手を伸ばさなかった。


アトカは肩の力を抜く。


「土は大丈夫ですか?」


ローム爺が足元を見たまま答える。


「今のところはな」


ディノも操作盤を確認する。


「接続部の漏出、低下。西側流路以外の圧力も安定しています」


バルトロが短く息を吐いた。


「……今度は、土まで引かなかった」


「分離してから喰らったためですわ。今回の成功を、接続した地脈へそのまま当てはめないこと」


「分かってる」


その時だった。


操作盤の奥で、泡立つように脈打っていた水晶管が、突然強い光を放った。


ディノが顔を上げる。


「西側流路の奥で、詰まりが抜けました!」


水晶管に蓄積されていた金色の光が、一気に西側へ走る。


エルマの測定器具の針が大きく振れた。


「出力を下げたことで生じた逆流ではありません。流路内に残っていた圧力が、詰まりの解消と同時に薬草畑側へ流れ出していますわ!」


「西側局所圧、一・五倍相当まで上昇!」


ディノは操作盤へ両手を置いた。


「私はここに残ります。設定値を一・〇五倍で保持します。上限を越えた場合は一・一倍へ戻し、自動遮断弁を作動させます!」


エルマが携帯用の補助板を開く。


「こちらへ実測値を送ってください。私たちは西側流路の出口を確認します」


「分かりました!」


ローム爺が鍬を上げ、薬草の植えられていない石畦を示した。


「西の畦を使え。湿った土と黒い区画へ入るな。棒だけ見ていても、土は救えん」


アトカ、エルマ、バルトロは頷いた。


走るのではない。


崩れていない石畦を選び、可能な限り速く、けれど土を踏み荒らさない足取りで進む。


柱の設定値は、昨夜から確かに下がっていた。


それでも、土地の中へ残った圧力までは、数字を下げただけでは消えない。


図面の上で出力が落ちても、その先の畑が受け止めきれなければ、別の場所が壊れる。


アトカたちは、西側流路を走る金色の光を追い、薬草畑の奥へ向かった。

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