ストーンボアの群れ
中央井戸の応急処置が終わった頃、村の西側から鐘の音が響いた。
一度。二度。三度。
低く、急かすような音だった。
広場にいた村人たちが一斉に顔を上げる。村長ハルムの表情が強張った。
「畑の警鐘です」
エルマが記録帳を閉じる。
「魔獣ですの?」
「おそらく。ここ数日、地脈魔力に引き寄せられて、畑の外れへ現現れるようになっていました。ですが、昼間に群れで来ることは……」
最後まで聞く前に、バルトロが西を見た。
「来てる。土の上を走ってる音がする」
アトカも遅れて気づいた。
地面が震えている。
最初は遠い太鼓のようだった。
けれど、すぐに重い足音へ変わる。畑の方角から、何かが土を蹴り、石を砕きながら近づいていた。
ローム爺が鍬を肩に担ぎ直す。
「ストーンボアだな」
「ストーンボア?」
アトカが聞き返す。
「岩をまとった猪型の魔獣だ。地脈魔力の匂いへ寄ってくる。畑へ入れば、根まで掘り返すぞ」
村長の顔が青ざめた。
「西の薬草畑には、まだ補修作業をしている者が一人おります!」
ディノはすぐに携帯用の警報板を取り出した。
「ハルム村長、広場の者を東側へ避難させてください。家畜も東の柵へ移します。畑に残っている作業者には、私から退避信号を送ります」
「分かりました!」
村長が村人たちへ声を張り上げる。
ディノは警報板へ魔力を流し、西側の作業者へ退避を示す赤い信号を送った。
エルマもすぐに状況を切り分ける。
「私たちは魔獣の畑への侵入を止めます。クライン技官は避難経路が交戦区域と重ならないよう、東側から誘導してください」
「お願いします。作業者の退避を確認し次第、私も畑の東端へ入ります」
ローム爺はその場に残ろうとしていた。
アトカが心配になって声を上げる。
「ローム爺も、石垣の外へ下がってください!」
老人はアトカを一瞥すると、畑を見渡せる高い畦の上へ移った。
「ここなら踏み込まれん。お前らは前を見ろ」
畑へ入らずに済む位置へ下がったことを確かめ、三人は西の薬草畑へ向かった。
バルトロが先に走る。
アトカとエルマが続いた。
エルマは走りながら測定器具を腰のケースへ収め、四属性の展開位置と残量を表示する小さな補助板を開いた。
術の源ではなく、複数の魔術を同時に扱う際の位置と出力の誤差を確認するための道具だった。
西の薬草畑に着いた時、すでに土煙が上がっていた。
畑の向こうにある低い石垣の一部が崩れ、その隙間から灰色の巨体が次々と押し寄せている。
ストーンボア。
名前のとおり、猪に似た魔獣だった。
肩の高さは大人の胸元近くまであり、太い四肢が土を抉っている。
肩から背にかけての厚い皮膚には、土属性魔力によって周囲の土砂と石片を固めた岩殻が張りついていた。
牙は短いが太い。突進の直前には根元へ土属性魔力を集め、硬さと衝撃を増す性質を持つらしい。
バルトロが土煙の向こうへ目を凝らす。
「見えるのは六。後ろに三頭いる。全部で九だ」
エルマが補助板へ数を書き込む。
「九頭。収穫増幅柱へ向かう個体を優先して止めます。村側へ逸れた個体は、必ず進路を変えること。追撃は、村と畑から離れた時点で中止しますわ」
一頭目が石垣を越え、畑へ突っ込んだ。
薬草の列が土ごと跳ね上がる。
アトカの胸が痛んだ。
昨日から見てきた畑だった。
村人が手を入れ、水を分け、根を守ろうとしていた場所へ魔獣が突っ込み、土ごと掘り返していく。
だが、水を広げすぎれば畑の土を流してしまう。強く押さえれば、薬草の根まで傷める。
使う水は少なく。
必要な場所だけ。
アトカは義手の指を開いた。
畦道に残る朝露と空気中の湿り気が最初の足掛かりとなり、アトカの魔力へ応じて必要な分だけ水が集まる。
水は細い帯となって、一頭目の前脚へ滑った。
足元の狭い範囲だけが薄くぬかるむ。
ストーンボアが踏み込んだ瞬間、重心を崩した。
アトカは首と前脚へ水を巻きつける。
胴体を押し潰すのではなく、関節の動きと力の向きだけを横へ逃がす拘束だった。
巨体は石垣沿いの作物が植えられていない場所へ倒れ、そのまま前脚を畳まれる。
「一頭、拘束しました!」
「右から二頭!」
バルトロが叫んだ。
二頭目と三頭目が、崩れた石垣を越えてくる。
畑の中央では、取り残されていた男が警報板の光に気づき、東の畦道へ向かって走り始めていた。
二頭目が男へ狙いを変える。
エルマが風を走らせ、二頭目と男の間に立ちこめた土煙を横へ払った。
「そのまま東へ!止まらないでください!」
男の進路と魔獣の間へ、斜めの土壁がせり上がる。
ストーンボアは土壁を避け、男の背を追おうと角度を変えた。
バルトロが横から飛び込む。
魔獣そのものではなく、肩の岩殻を固着させている土属性魔力だけを、右手でかすめるように喰らった。
魔力の支えを失った表面の土砂と石片が、砂のように崩れ落ちる。突進の勢いがわずかに鈍った。
アトカは地面へ細い水糸を走らせた。
前脚を引くのではない。
踏み出す方向を半歩だけずらす。
二頭目は男の背中から外れ、作物の植えられていない空き区画へ突っ込んだ。
身体が傾き、岩殻に守られていない胸元が露出する。
アトカは短く圧縮した水槍を急所へ通した。
魔獣は一度大きく震え、そのまま動かなくなった。
余計な傷を増やさず、一撃で終わらせる。
その間に、三頭目が収穫増幅柱へ向きを変えていた。
牙の根元へ土属性魔力が集まり、淡い光が強くなる。
あのまま突進すれば、石柱だけでなく、地下へ続く導管まで壊される。
「バルトロ先輩、牙の外側へ集まった魔力だけを!」
「分かってる!」
バルトロが石垣沿いを走り、魔獣の側面へ回る。
光る牙の根元へ手を触れ、突進のために集められた魔力だけを喰らった。
牙の光が消え、突進の勢いが落ちる。
アトカは収穫増幅柱の手前へ水膜を走らせた。
地中へ水を入れず、土の表面だけを滑らせる。
三頭目の前脚が滑り、巨体が横へ傾いた。
その前へ二本の水杭を立てる。
杭は脚を貫かない。倒れ込む方向だけを塞ぎ、首を柱から遠ざける。
露出した顎の下へ、アトカは水の刃を通した。
三頭目が倒れる。
「次、三頭来ますわ!」
エルマの声が飛ぶ。
四頭目、五頭目、六頭目が、畑へ異なる方向から入ってきた。
四頭目は家畜のいる東側へ。
五頭目は黒ずんだ停滞区画へ。
六頭目は収穫増幅柱へ向かう。
三方向だった。
アトカの胸が焦る。
全部止めなければ。
そう考えた瞬間、カインの声が頭をよぎった。
一人で全部止めようとするな。
アトカはすぐに顔を上げた。
「エルマ先輩、家畜へ向かう一頭をお願いします!バルトロ先輩、柱へ向かう一頭の外側の魔力を削ってください!」
「承知しましたわ!」
「任せろ!」
エルマが四頭目の鼻先へ風と土埃を叩きつける。
視界を奪われた魔獣の前へ、土の杭が斜めに突き出した。
杭は身体を貫かず、走る方向だけを作物のない畦道へ変える。
続いて、四頭目の足元の土が片側だけ沈んだ。
巨体が横転し、岩殻に守られていない腹部が露出する。
アトカは畦道を使って接近した。
乾いた土を崩さず、湿った場所を沈ませない。
キルウェスタから叩き込まれた歩法で重心を軽く移し、魔獣の牙の軌道から半歩外れる。
圧縮した水杭を腹部の急所へ通す。
四頭目が動きを止めた。
同じ頃、バルトロは六頭目の側面へ回っていた。
牙と肩へまとった魔力だけを続けて喰らい、突進と岩殻の補強を剥がす。
二度、三度と明確に分離された魔力を喰らったことで、維持に必要な量を越えた。
バルトロの背筋が強く伸び、細い腕に筋が浮く。
踏み替えた足の下で、固い畦道が浅く沈んだ。
「身体強化が入った。畑の中には踏み込まねぇ」
短く告げ、作物のない石垣際へ下がる。
強くなったから前へ出るのではない。
強くなった身体で根や水路を壊さないために、踏み込む場所を選んでいる。
バルトロは石垣の上を走り、六頭目の側面へ回った。
魔力の支えを失って薄くなった肩へ、強化された拳を横から一度だけ叩き込む。
巨体が収穫増幅柱とは反対側へ倒れた。
アトカが水糸で首の動きを止め、岩殻の割れ目から細い水槍を急所へ通す。
六頭目が動かなくなった。
一方、五頭目の足は黒ずんだ停滞区画へ入りかけていた。
ローム爺の低い声が畑の端から届く。
「そっちへ行かせるな。黒い土を踏ませれば、腐りが広がる」
「分かりました!」
アトカは広い水壁を作らなかった。
エルマが畑の外へ漏れていた土属性魔力を、地面との接続を切りながら小さな土塊へ集める。
「誘導に使いますわ。黒色区画から離れた空き地へ運んでください!」
アトカは土塊を薄い水膜で包み、作物の植えられていない区画へ滑らせた。
五頭目が魔力の反応を追い、黒い土から鼻先を逸らす。
後方にいた三頭のうち、一頭が石垣を越え、同じ土塊へ向きを変えた。
「もう一頭、誘導先へ向かっています!」
「二頭の足場を落としますわ!」
エルマが空き区画の土だけを浅く沈める。
五頭目と七頭目の前脚が同時に取られ、二つの巨体が大きく傾いた。
アトカは水糸を左右へ分ける。
五頭目の顎と前脚を拘束し、七頭目には前脚を畳ませたまま、首だけを丘陵側へ向けた。
二頭を一度に倒そうとはしなかった。
まず五頭目の首下へ短い水の刃を通す。
五頭目が動きを止めた。
七頭目は窪みの中で身体を起こそうとしている。
アトカは急所へ水槍を向けかけ、止めた。
村や畑へ進ませず、丘陵側へ退かせられるなら、ここで倒す必要はない。
「エルマ先輩。七頭目は丘陵側へ逃がします!」
「承知しましたわ。村へ続く道を塞ぎます!」
エルマが低い土壁を立て、村と畑の中央へ続く道を閉ざす。丘陵の林へ向かう経路だけを残した。
後方にいた残りの二頭も、仲間が次々と倒れたことで、畑へ踏み込む直前に足を止めている。
一頭が村へ続く細道へ向きを変えかけた。
アトカは水糸を後ろ脚へ絡めた。
強く引かず、進む角度だけを丘陵側へずらす。
エルマも村側の土壁を厚くし、丘陵へ続く道だけを開けた。
アトカは七頭目の前脚を縛っていた水を解く。
七頭目は一度よろめきながら立ち上がり、後方の二頭と合流した。
三頭はしばらく地面を掻いていたが、やがて丘陵の林へ向かって退いていった。
バルトロは追おうとしなかった。
「追わなくていいな」
「ええ。村と畑から離れています。逃走方向を記録し、警戒対象にしますわ」
丘陵へ退く三頭の姿が林へ消えた頃、ディノが畑の東側から駆け寄ってきた。
「作業者の退避を確認しました。村人と家畜も全員無事です」
その間も、戦闘開始時に拘束した一頭目は、石垣沿いの空き地で激しく暴れていた。
水を解けば、再び村や畑へ向かう可能性がある。
しかし、今の村には生きたまま安全に運び、収容するための設備がなかった。
エルマがディノへ確認する。
「クライン技官。残る一頭について、村での収容は可能ですの?」
ディノは首を横に振った。
「できません。岩殻を失わせても、拘束を解けば再び突進する危険があります。村人と畑の安全を優先し、討伐をお願いします」
「承知しましたわ」
アトカは静かに頷いた。
拘束を少しだけ調整し、首の下にある岩殻の薄い部分を露出させる。
余計に苦しませないよう、一度で終わらせる。
アトカは呼吸を整え、短い水の刃を急所へ通した。
一頭目の身体から力が抜ける。
これで、畑へ押し寄せた九頭のうち、六頭を討伐。
三頭は丘陵側へ退避した。
西の畑に、ようやく静けさが戻った。
残っているのは、三人の荒い呼吸と、土埃の匂いだった。
エルマはすぐに記録帳を開く。
「ストーンボア九頭を確認。六頭討伐。三頭は丘陵北西側へ退避。村人負傷なし。家畜被害なし。薬草畑の一部損傷。黒色停滞区画および収穫増幅柱への侵入は阻止」
アトカは足元の土を見た。
水を使った範囲は、必要最小限に抑えたつもりだった。
それでも、何列かの薬草は倒れている。畦道の一部は泥になり、石垣も崩れたままだ。
守った。
だが、傷は残った。
バルトロは石垣の上で、自分の手を見ていた。
「魔獣が外へまとってる分だけなら、土までは引かなかったな」
「今回は、ですわ」
エルマが釘を刺す。
「地面と直接つながっておらず、捕食対象が明確だったからです。すべて同じとは考えないこと」
「分かってる」
その声は、前夜より落ち着いていた。
エルマは戦闘中の誘導に使った土塊へ近づいた。
土塊には、まだわずかな魔力が残っている。
バルトロも土塊を見たが、自分から手を伸ばさなかった。
「これは、もう土と切れてるのか」
「現在確認していますわ」
エルマは測定器具を向け、周囲の地脈との接続が切れていることを確かめる。
「接続は切れています。ですが、追加の摂取は不要ですわ」
「分かった」
エルマは土塊を封印布で包み、調査試料として隔離容器へ収めた。
ローム爺が倒れた魔獣と畑を見比べる。
「まあ、畑は残った」
「壊してしまったところもあります」
アトカが言うと、老人は鍬で泥になった畦道を軽く突いた。
「壊れた場所が分かっているなら、直せる」
アトカは顔を上げた。
ローム爺は続ける。
「全部守れると思うな。だが、何を守って、どこを直すかは見失うな」
その言葉が、土の匂いとともにアトカの胸へ沈んだ。
ディノは村長と作業者へ指示を出す。
「倒した魔獣には、まだ土属性魔力が残っている可能性があります。触れないでください。搬出用の橇を用意し、畑の外で処理します。丘陵へ逃げた三頭については、今夜から西側の見張りを増やします」
エルマは魔獣の岩殻と周囲の土を測定し、地脈との接続が切れていることを一頭ずつ確認した。
村人たちは畑へ入らず、石垣の外から搬出用の橇と縄を運ぶ。
アトカは泥になった畦道へ水を足さなかった。
ディノとローム爺が乾いた土と平たい石を入れ、踏み固めすぎないよう仮の足場を作る。倒れた薬草には目印が立てられ、後で根の状態を確認することになった。
戦いは終わった。
だが、この畑を本当に守る仕事は、まだ終わっていなかった。




