魔力を喰らう土
収穫増幅柱の前に立った瞬間、アトカは思わず息を止めた。
薬草畑のさらに奥、低い丘へ続く斜面の手前。
そこに、灰色の石柱が一本、土へ深く根を下ろすように立っていた。
高さは大人の背丈の二倍ほど。
石柱の表面には銀色の魔導線が巻きつき、根元からは細い導管が何本も畑の下へ潜っている。
飾り気はない。だが、地方管理部の認可印と、作動状態を示す小さな魔導灯が埋め込まれていた。
その灯りが、不規則に明滅している。
畑の奥で感じていた低い振動は、ここへ来ると足裏だけでなく、胸の内側にまで届くようだった。
ディノ技官は、石柱を見上げたまま顔色を悪くした。
「本来なら、緑の灯りが一定間隔で点滅するはずです。こんなふうに揺れるのは、流量が安定していない時だけで……」
「今さら驚くことではありませんわ」
エルマは測定器具を構えながら言った。
「畑を見れば、安定していないことくらい分かります」
ディノは唇を噛んだ。
責められているわけではないと分かっていても、彼の目は落ち込んでいた。
自分が管理した装置が村を苦しめている。
その事実は、若い技官には重すぎるのだろう。
アトカは柱の根元を見た。
石柱そのものより、その下が気になった。
土の奥で何かが引っ張られている。
地脈から魔力を汲み上げ、畑へ流そうとしているのに、うまく分かれず、ところどころで詰まり、別の場所では漏れている。
まるで、細い血管へ無理に多すぎる水を流しているようだった。
「苦しそうです」
アトカが呟くと、ローム爺が鍬を杖のように立てた。
「土を急かす棒だと言っただろう」
「止めればいいんですか?」
「止めりゃ済むなら、とっくに止めとる」
老人は柱を見上げる。
「急に止めれば、流れかけた魔力が戻り場を失う。畑の下で跳ね返って、弱い場所を割る」
エルマも頷いた。
「出力を段階的に下げる必要がありますわ。ただし、どの導管がどの畑へ繋がっているか、図面だけでは信用できません。先ほどの古水路の件がありますもの」
バルトロは、少し離れた場所で黙っていた。
顔色は、村に着いた時より良い。だが、それは健康そうという意味ではない。
琥珀色の瞳はぎらつき、額には汗が浮いている。
収穫増幅柱の根元から漏れる魔力が、彼を引き寄せているのだと分かった。
エルマが鋭く声をかける。
「バルトロさん」
「分かってる」
「まだ何も言っていませんわ」
「食うな、だろ」
バルトロは低く言った。
「分かってるって言ってんだろ」
アトカは、彼の拳が震えていることに気づいた。
飢えている。
けれど、我慢している。
柱の調査は夕方まで続いた。
エルマは流路ごとの魔力濃度を測り、ディノは設置記録と照合した。
アトカは水の気配をたどり、地下の水脈がどのあたりで地脈と重なっているのかを感じ取ろうとした。
ローム爺は口数少なく畑を歩き、ときおり鍬で土を突いては、「ここは触るな」「ここは古い溝だ」「ここは根が残っとる」と短く言った。
その言葉のたびに、エルマの記録帳は分厚くなっていく。
しかし、すぐに解決はできなかった。
日が傾く頃、村長は三人を村の空き家へ案内した。
今夜はそこで休み、翌朝から本格的な流路調整を始めることになった。
空き家は小さかったが、手入れはされていた。干し草の匂いと、古い木の匂いがする。
村人が用意してくれた夕食は、硬めのパンと野菜の煮込み、少しの干し肉だった。
バルトロは誰よりも早く食べ終えた。
それでも、満たされた様子はなかった。
夜が深くなった。
エルマは灯りの下で記録を整理していたが、やがて椅子にもたれて目を閉じた。
アトカも毛布にくるまり、横になっていた。
遠くで牛の鳴く声が聞こえる。風が窓を叩き、土の匂いが部屋の中へ入り込んでくる。
その中で、バルトロだけが起きていた。
彼は壁際に座り、膝に肘を置いている。
「眠れないんですか」
アトカが小さく声をかけると、バルトロは舌打ちした。
「起きてたのかよ」
「少しだけ」
「寝ろ」
「バルトロ先輩は?」
「寝たら、そっちへ歩きそうで嫌なんだよ」
そっち。
言われなくても分かった。
収穫増幅柱のある方角だ。
外は暗い。けれど、バルトロには見えているのだろう。
土の奥から漏れる魔力の匂いが。腹の底をくすぐり、手を伸ばせば楽になるものが。
アトカは起き上がった。
「僕の魔力は、やっぱり駄目ですか」
バルトロは目だけで睨んだ。
「その話は昼に終わった」
「はい」
「俺は楽な餌を覚えたくねぇ。お前も、すぐ自分を差し出すな」
その言葉は乱暴だった。
だが、アトカを拒んでいるだけではなかった。
アトカは膝の上で義手の指を重ねる。
「はい。気をつけます」
「……素直すぎて調子狂う」
バルトロは顔を背けた。
しばらく沈黙が落ちる。
その時、地面の下から、低い音が響いた。
ごう、と小さく腹の底へ届くような音。
アトカは顔を上げる。
エルマも目を開いた。
「今のは」
「地脈ですわ」
彼女はすぐに測定器具を掴む。
バルトロはすでに立っていた。
「漏れてる」
「どこですの?」
「近い。村の外れだ。柱じゃねぇ。もっと浅いところから出てる」
三人は急いで外へ出た。
夜の村は静かだった。家々の窓には小さな灯りが残り、遠くで犬が吠えている。
バルトロは迷わず歩き出した。アトカとエルマが後を追う。
村外れの畑に着くと、土の一部が淡く光っていた。
昼に見たひび割れ区画の端だった。細い割れ目から、薄い金色の魔力が煙のように漏れている。近くの麦は、葉を震わせながら光を浴びていた。
エルマが測定器具を向ける。
「漏出魔力です。量は多くありませんが、このまま広がれば根が焼けますわ」
「なら、喰っていいんだな」
バルトロの声は低かった。
エルマは即答しなかった。
測定器具の針を見て、土の割れ目を見て、唇を噛む。
「待ちなさい。根が近い。全部喰らえば、周辺の地脈まで引きずります」
「じゃあどうすんだよ!」
バルトロの声が荒くなる。
「漏れてんだろ。ほっときゃ焼ける。食うなって言うなら、別の方法を出せよ」
エルマは言葉を詰まらせた。
その一瞬だった。
バルトロが踏み出した。
手を伸ばし、割れ目から漏れる金色の魔力へ触れる。
「バルトロ先輩!」
アトカの声より早く、バルトロの手が魔力を掴んだ。
空気が吸い込まれるように歪む。
金色の漏出魔力が、彼の手へ流れ込んだ。
バルトロの顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
飢えが満たされる表情だった。
しかし次の瞬間、周囲の麦が音を立てて萎れた。
乾いた土が、さらに白くひび割れる。
光っていた割れ目は消えたが、その周辺の土から力が抜けたように沈んだ。
細い根が、土の中でぱきりと切れる音がした気がした。
バルトロは手を離した。
「……俺が、やったのか」
声が掠れていた。
エルマは測定器具を見つめる。
「漏出分だけではありません。周囲の地脈魔力まで引いています。範囲は狭いですが、土が急激に乾いていますわ」
バルトロは黙った。
さっきまでぎらついていた瞳から、熱が引いていく。
「止めたんだろ」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
「漏れてたのを、止めたんだろ。なのに」
アトカは萎れた麦を見た。
魔力の漏れは止まった。
けれど、土も傷ついた。
バルトロが喰えば楽になる。
漏れた魔力も消える。
それでも、全部が救われるわけではない。
「バルトロ先輩」
アトカは近づきすぎない距離で声をかけた。
「責めていません」
「責めろよ」
バルトロは低く言った。
「俺が勝手に食った。止められてたのに食った。土がこうなった。なら責めろ」
アトカは首を横に振る。
「でも、漏れた魔力を放っておいても、麦は焼けていたと思います」
「だから何だよ」
「だから、次は漏れているところだけを食べられるようにしたいです。土が必要としている分まで持っていかないように」
バルトロは奥歯を噛んだ。
「そんな器用なこと、俺にできるかよ」
エルマがゆっくり息を吐いた。
「今はできていません。ですが、できないと決めるには早いですわ」
バルトロが睨む。
「慰めか?」
「違います。現地観測です」
エルマは記録帳を開いた。
「今の反応で分かりました。貴方は漏出魔力だけを喰らおうとしても、周辺の地脈魔力まで引き込みます。つまり、境界が見えていない。ならば、境界を見える形にすればいい」
バルトロは黙った。
アトカは、ひび割れた土へ視線を落とす。
「僕の水で、魔力の流れを薄く見えるようにできるかもしれません」
エルマが頷く。
「霧で輪郭を出す。貴方が余剰分だけを喰らう。理屈としては可能です」
「失敗したら?」
バルトロが低く聞く。
アトカは萎れた麦を見た。
「その時は、また考えます。でも、今みたいに一人で我慢して、一人で限界になるよりは、三人で考えたいです」
バルトロは何も言わなかった。
ただ、乾いた土の前で拳を握っていた。
そこへ、暗がりから足音がした。
ローム爺だった。
いつからいたのか、鍬を肩に担ぎ、夜の畑の端に立っている。
老人は萎れた麦と、白く乾いた土を見た。
それからバルトロを見る。
「食ったな」
バルトロは顔を背けない。
「食った」
「腹は楽になったか」
「少しはな」
「土は痩せた」
「……分かってる」
ローム爺はしばらく黙っていた。
怒鳴ることも、責めることもしなかった。
ただ、鍬の先で乾いた土を軽く突く。
「なら覚えろ。喰うなとは言わん。だが、土にも飯が要る。お前さんだけが腹を空かせているわけじゃない」
その言葉に、バルトロの表情が歪んだ。
アトカは、夜の畑に立つ三人を見た。
飢えているのは、バルトロだけではない。
土も、根も、水も、それぞれに必要なものを求めている。
誰か一人が満たされれば、それで終わるわけではない。
夜風が、乾いた麦を小さく揺らした。
バルトロはその音を聞きながら、低く呟いた。
「次は、余った分だけにする」
エルマが記録帳に書き込む手を止めた。
アトカは静かに頷いた。
「はい。一緒に探しましょう」
ローム爺は何も言わず、畑の奥へ目を向けた。
地面の下では、まだ小さく魔力が唸っている。
リーヴェル村の夜は、静かではなかった。




