畑の老人
ローム爺は、畑の奥へゆっくり歩いていった。
急いでいるようには見えない。背も少し曲がっている。
古びた帽子のつばは日に焼け、外套の裾には乾いた土がこびりついていた。
けれど、不思議と足取りは乱れなかった。
ひび割れた土の上でも、湿って沈みかけた土の上でも、老人の足は迷わず置かれる。
畑のどこが固く、どこが柔らかく、どこへ体重をかければ崩れないのか、考える前から分かっているようだった。
アトカはその背中を追いながら、無意識に足元を見た。
同じ畑なのに、場所によって土の色が違う。
乾いた区画は灰色がかり、異常に育った麦の周囲は濃すぎる黒緑に見えた。
黒ずんだ湿った場所からは、腐った草と鉄を混ぜたような匂いが上がっている。
エルマは記録帳を開いたまま、老人の足取りと畑の状態を見比べていた。
「ロームさん、とお呼びすればよろしいですか」
老人は振り向かない。
「村の連中はローム爺と呼ぶ」
「では、ロームさん」
「好きに呼べ」
会話を切るような声だった。
エルマは少し眉を寄せたが、引かなかった。
「この畑の異常は、いつ頃から始まりましたの?」
「最初は、麦の伸びが早すぎるだけだった」
ローム爺は、異常に育った麦の前で足を止めた。
太い茎が風に揺れる。近くで見ると、穂は大きいのに、根元が妙に不安定だった。
育ちすぎた身体を、自分の根が支えきれていないように見える。
「村の連中は喜んだ。今年はよく育つとな。去年は寒さでひどかったから、なおさらだ」
村長ハルムが、後ろで帽子を握り直した。
「実際、春先は助かりました。薬草も麦も、例年より早く伸びまして……帝都への納入も間に合うと、皆で安心していたのです」
「安心したくもなるだろうよ」
ローム爺は淡々と言った。
「腹が減っている時に、飯が出てくりゃ人は喜ぶ。だが、胃が弱っているところへ山盛り押し込まれりゃ、喜んだ後で倒れる」
バルトロが、畑を見たまま低く笑った。
「分かりやすいな」
「お前さんは分かる顔をしとる」
「どういう意味だよ」
「腹を空かせた顔だ」
バルトロの表情が少し険しくなった。
「見りゃ分かるのか」
「毎日、畑を見てりゃな。足りてるものと足りてないものくらいは、顔に出る」
老人はそれだけ言うと、鍬の先で麦の根元を軽く掘った。
土がほろりと崩れる。
その下から現れた根は、太い茎に比べて細かった。
白い根の一部は金色の魔力を吸い込みすぎたように光り、先端は焼けたように茶色く変わっている。
エルマが息を呑む。
「根が育ちに追いついていませんわ」
ディノ技官は青ざめた顔で膝をついた。
「そんな……表面上は生育良好だったはずです。葉の厚みも、茎の太さも、測定値では……」
「測定値は嘘をつかんのだろう」
ローム爺は言った。
「だが、測った場所しか答えん」
ディノは言葉を失った。
エルマはすぐに記録帳へ書き込んだ。
「異常成長区画。茎および葉の発育過剰。根の伸長不足。魔力吸収の偏り。見かけの生育値と実際の根の状態に差異あり」
アトカは、掘り返された根を見つめていた。
大きな麦は、豊かに見えた。
けれど根は苦しそうだった。
たくさん与えられているのに、それを支える準備ができていない。
急に大きくなるよう押されて、土の中で必死に踏ん張っている。
「かわいそうです」
思わず口にすると、ローム爺がちらりとアトカを見た。
「麦がか」
「はい」
アトカは少し迷ってから続けた。
「育っているのに、苦しそうです」
老人はしばらく黙っていた。
それから、鍬を肩に担ぎ直す。
「なら、見た目に騙されんことだ。元気に見えるものほど、根が泣いている時がある」
その言葉は、畑のことだけを言っているようで、そうではないようにも聞こえた。
アトカは胸の奥に、少しだけ引っかかるものを感じた。
ローム爺は次に、ひび割れた区画へ向かった。
そこは足を踏み入れるだけで、乾いた音がした。
麦は低く、葉は黄色く変わり、土の隙間から細い根が見えている。
アトカは思わず水を出したくなったが、義手の指を握って止めた。
エルマがそれに気づき、満足げに頷く。
「よく我慢しましたわ」
「はい。まだ測定が先です」
「その通りです」
ローム爺は、ひびの一つへ鍬の先を差し込んだ。
「ここは、腹を空かせとる。だが、水をぶちまければいいわけじゃない」
アトカが顔を上げる。
「どうしてですか?」
「乾いた土は、急に水を飲まされると割れる。表だけ流れて、奥まで届かん。ひびの間を走って、根を置き去りにする」
老人は屈み、指先で土をすくった。
さらさらと崩れる土が、風に少しだけ舞う。
「こういう時は、少しずつだ。上から与えるだけでは駄目だ。どこに根が残っているか見て、そこへ届くようにする」
アトカは、土の中の根を想像した。
目に見える葉ではなく、見えないところで水を待っている根。
今までの自分なら、乾いていると分かった瞬間に水で包もうとしたかもしれない。
けれど、それでは根まで届かず、表の土だけを壊してしまう。
「水は、優しすぎても駄目なんですね」
ローム爺は小さく鼻を鳴らした。
「優しいだけの水は、時に土を甘やかす。時に根を腐らせる。時に全部さらっていく」
アトカは何も言えなかった。
その言葉は、まっすぐ自分に向けられているわけではない。けれど、胸に当たる。
誰かを助けたい。
包みたい。
傷つけたくない。
その気持ちは嘘ではない。
でも、それだけでは守れないものがある。
エルマは、老人の言葉まで記録していた。
「水を与える際は、表層流出に注意。根の残存深度を確認。段階的湿潤が必要……」
「難しい言葉にするんだな」
ローム爺が言う。
「後で誰が読んでも分かるようにするためですわ」
「読んだ者が畑を見なけりゃ、半分も分からん」
「ならば、見に来る理由も記録します」
エルマは即答した。
ローム爺は初めて、ほんの少しだけエルマを見直したような顔をした。
「口は達者だ」
「頭も使えますわ」
「なら、土も見ろ」
「見ています」
「まだ見方が浅い」
エルマの眉がぴくりと動いた。
バルトロが横で笑いを噛み殺す。
「言われてるぞ」
「貴方はまず、食欲以外を見る練習をなさい」
「見てるだろ。飯になりそうな場所は分かる」
「それを食欲と言いますの」
二人のやり取りに、アトカは少しだけ笑いそうになった。
だが、次の区画に近づいた瞬間、その笑みは消えた。
黒ずんだ湿った土。
そこだけ、空気が重かった。土が水を含みすぎて沈み、麦の根元は黒く変色している。
葉の一部は妙につやつやしていたが、触れれば崩れそうな危うさがある。
匂いも強い。
腐敗と、濃すぎる魔力。
バルトロが顔をしかめた。
「ここは嫌な匂いだな。食えそうで、腐ってる」
エルマが測定器具を向けると、針はゆっくり大きく揺れた。
「魔力が停滞しています。流れがないまま溜まり、土中で腐敗反応と混ざっている……」
ディノが資料板を見ながら呟く。
「この区画は、補助流路の終端に近いです。流れてきた魔力が抜けきらず、溜まっているのかもしれません」
ローム爺は黒い土の手前で立ち止まった。
「ここは触るな」
その声は、先ほどまでより低かった。
アトカも自然と足を止める。
「水もですか?」
「ああ。水を入れれば、腐りが広がる。魔力を抜きすぎれば、根が崩れる。今は寝かせるしかない」
「寝かせる……」
「土にも眠りが要る」
老人は鍬を地面に立てた。
「人間も同じだろう。怪我をした身体を、無理に立たせ続ければ壊れる」
その言葉に、アトカは旧第三風圧実験場のことを思い出した。
誰かを試すために、風が閉じ込められた。
土地も、人も、無理に動かされれば壊れる。
まだ名前も知らない大きなものが、どこかで同じ形をしている気がした。
村長が不安そうに聞いた。
「では、この畑はもう駄目なのでしょうか」
ローム爺はしばらく黒い土を見ていた。
「今年は諦めろ」
村長の顔が曇る。
「ですが……」
「今年だけで済ませたいなら、諦めろ。来年もその次も失いたいなら、今いじればいい」
厳しい言葉だった。
村長は黙り込む。
ディノも唇を噛んだ。
エルマはその様子を見て、静かに言った。
「記録します。この区画は応急回復対象ではなく、休耕および隔離対象。原因除去後、土壌回復を待つ必要あり」
「休ませるんですね」
アトカが呟く。
ローム爺は頷かなかった。
ただ、畑を見たまま言った。
「休むことを惜しむ土地は、いずれ全部失う」
それから老人は、鍬を肩に戻して歩き出した。
「ついて来い。柱を見る」
「収穫増幅柱ですか」
エルマが聞く。
「そう呼んどるな、役人どもは」
「ロームさんは、そう呼ばないのですか?」
老人は少しだけ鼻を鳴らした。
「土を急かす棒だ」
ディノの顔が強張った。
彼にとっては、自分たちが村を助けるために設置した設備だ。
そう簡単に悪く言われたくはないのだろう。
だが、反論は出なかった。
目の前にある畑が、すでに答えを出していたからだ。
歩き出す前に、アトカはもう一度畑を振り返った。
大きすぎる麦。
割れた土。
黒く眠る場所。
それぞれに、必要な助け方が違う。
全部を綺麗にすることは、助けることではない。
全部を満たすことも、助けることではない。
時には、触らないことも必要になる。
アトカは義手の指先を静かに握った。
水は流れる。
けれど、どこへ流すか。
どこで止めるか。
どこには入らないか。
それを知らなければ、優しさも刃になる。
ローム爺の背中は、ただの農夫の老人のように見えた。
けれど、その背中が歩く先で、畑の土がほんの少しだけ静かになる気がして、アトカは目を離せなかった。




