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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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割れた畑と大きすぎる麦

放牧地の井戸は、村の東側にあった。


中央広場から伸びる細い道を抜けると、視界が少し開ける。

低い柵の向こうでは、数頭の牛が草を食んでいた。

けれど、その動きはどこか鈍い。水桶の前に集まっている牛もいたが、桶の中身はほとんど空だった。


案内していたディノが、申し訳なさそうに眉を寄せる。


「こちらの井戸は、まだ完全には濁っていません。ただ、水量が少し落ちています。村の全員と家畜を支えるには、長くは持ちません」


放牧地の井戸は、中央広場のものより小さかった。石組みも古いが、手入れはされている。

井戸の縁には何度も縄が擦れた跡があり、この村の人たちが長く使ってきたものだと分かった。


エルマが測定器具を井戸の縁に置く。


銀針は細かく震えたが、中央広場の時ほど激しくはなかった。


「水属性反応は比較的安定。土属性魔力の混入はありますが、濁りは軽微ですわ。今すぐ飲用に戻すには確認が必要ですが、家畜用としてなら処理次第で使える可能性があります」


村長ハルムの顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。


「それは助かります。中央の井戸が使えないとなると、皆が水を取り合うことになってしまう」


「取り合う前に、分け方を決めるべきですわ」


エルマはきっぱりと言った。


「まず人の飲み水。次に家畜。その次に畑への最低限の散水。優先順位を村で決めてください。曖昧なままにすると、必ず混乱します」


村長はすぐに頷いた。


「分かりました。すぐに人を集めます」


アトカは井戸を見つめていた。


中央の井戸ほど苦しそうではない。

けれど、水の奥に小さな濁りがある。綺麗な布に、少しずつ泥が染みているような感じだった。


「アトカ君」


エルマが声をかける。


「はい」


「触れる前に、何をするつもりか言葉にしなさい」


アトカは少し考えた。


「水そのものを動かすのではなくて、上に浮いている濁りだけを薄く寄せたいです。井戸の底までは触りません。水の表面に薄い膜を作って、濁りを端に集めます」


「範囲は?」


「桶一杯分だけです」


「目的は?」


「村の人たちが応急的に使えるか、確認するためです」


エルマはアトカの顔を見た。


それから、測定器具の針を確認し、ゆっくり頷く。


「許可します。ただし、井戸全体へ干渉しないこと。桶一杯分のみです」


「はい」


アトカは井戸から汲み上げられた桶の前に膝を折った。


右の義手を桶の上へかざす。水には直接触れない。

指先から細い水膜がほどけ、桶の表面にそっと広がっていく。


濁りは、押し流されるのではなかった。


水膜が表面だけを撫で、細かな土の粒と銀色の膜を、桶の縁へ静かに寄せていく。

水の奥へ余計な力は入れない。底をかき混ぜない。濁りを追い立てるのではなく、そこにいる場所を少しだけずらす。


やがて、桶の中央に澄んだ部分ができた。


完全な清水ではない。


だが、先ほどよりずっと透明だった。


村長が息を呑む。


「おお……」


アトカはすぐに手を下ろした。


「これ以上は、まだやめておきます」


エルマは測定器具を桶へ近づける。


「表層の濁りは減っています。深部の反応は動かしていませんわね。よろしい。応急処理としては使えます」


ディノが少し驚いたようにアトカを見る。


「井戸全体を浄化するのではないんですね」


「今やると、井戸が悪くなるかもしれないので」


アトカは桶の水を見たまま答えた。


「この水は、まだ頑張っている感じがします。だから、全部動かさない方がいいと思いました」


ディノは返事に困ったようだった。


魔導局や地方管理部の人間なら、数値や出力で説明するのだろう。

けれどアトカの言葉は、まるで井戸を生き物のように扱っていた。


エルマはそれを記録帳に書き込む。


「応急水処理、桶一杯分。表層濁質のみを水膜で分離。井戸本体への干渉なし。感覚記録、水がまだ頑張っている」


「最後のも書くんですか?」


アトカが少し恥ずかしそうに聞く。


「書きますわ。貴方の感覚は、数値とは別の観測情報です。ただし、後で私が注釈を付けます」


バルトロは井戸から少し離れた柵にもたれていた。


放牧地の井戸は、彼にとってはあまり強い匂いがしないのだろう。先ほどより落ち着いている。


だが、村の西側へ視線を向けるたび、表情が険しくなった。


「あっち、やっぱ濃いぞ」


「西の薬草畑ですわね」


エルマが記録帳を閉じる。


「中央井戸と放牧地井戸の差は確認できました。次は畑を見ます」


村長が頷き、ディノが先導する。


放牧地から西へ向かう道は、村の家々の間を抜け、やがて畑へ続いていた。


途中、何人もの村人が三人を見た。


期待。不安。疑い。


さまざまな視線がある。


アトカは、その視線を受けながら歩いた。


以前なら、自分がどう見られているのかだけを考えていたかもしれない。

けれど今は、村人たちの手に目がいった。水桶を抱える手。土で荒れた指。小さな子供を引く手。

どれも、生活の重さを持っている。


やがて、小麦畑が見えてきた。


遠くから見た時は、穏やかに風へ揺れていた畑。


しかし近づくと、その異常ははっきり分かった。


畑の一部だけ、麦が不自然に高く伸びている。


周囲の麦が子供の膝ほどの高さなのに、その区画だけ腰近くまで育っていた。

茎は太く、穂も早すぎるほど膨らんでいる。

豊作に見えなくもない。けれど、色が濃すぎた。緑が深く、葉脈には薄く金色の筋が走っている。


その隣の区画では、逆に土が割れていた。


細いひびが何本も走り、麦の根元は乾ききっている。葉は先端から黄色く変わり、いくつかは倒れかけていた。


さらに奥には、黒ずんだ場所がある。


根が腐ったような、湿った重い匂いが漂っていた。


アトカは足を止めた。


同じ畑なのに、まるで三つの違う季節が並んでいるようだった。


「これは……」


エルマの声も硬くなる。


彼女はすぐに測定器具を地面へ向けた。


「魔力濃度が極端に偏っていますわ。異常成長区画は過剰。ひび割れ区画は不足。腐敗区画は停滞。地脈魔力が均等に流れていない」


ディノが悔しそうに唇を噛む。


「収穫増幅柱は、地脈魔力を均等に分配するはずなんです。少なくとも、設計上は」


「設計上は、ですわね」


エルマは冷静に返した。


「現実の畑には、水はけ、根の深さ、土質、古い水路、石垣の位置があります。図面だけで均等に流したつもりでも、実際には受け取る側が均等ではありません」


ディノは黙った。


責められているわけではない。


だが、痛いところを突かれた顔だった。


バルトロは異常成長した麦の区画へ、ふらりと近づきかけた。


「バルトロ先輩」


アトカが呼ぶ。


バルトロの足が止まる。


「……分かってる」


声は低かった。


けれど、額には汗が滲んでいる。


アトカはその視線の先を見る。大きすぎる麦の根元から、濃い魔力が漏れているのだろう。

バルトロにとっては、目の前に食べ物を置かれているのと同じだ。


エルマが測定器具を向ける。


「この区画は漏出魔力が多すぎます。ですが、まだ作物が吸い上げている最中ですわ。今ここで喰らうと、根が一気に枯れる可能性があります」


「じゃあ、どうすんだよ」


バルトロは苛立ちを押し殺すように言った。


「余った魔力なのか、根が必要としている魔力なのか、分けられねぇだろ」


アトカは畑を見つめた。


大きすぎる麦は、元気に見える。


けれど、よく見ると茎が震えていた。

風ではない。内側から押され、膨らみすぎているような震えだった。


「この麦、苦しそうです」


「苦しそう?」


ディノが聞き返す。


「たくさん食べさせられているけど、ちゃんと飲み込めていない感じがします」


エルマはすぐに記録する。


バルトロは嫌そうな顔をした。


「腹減ってる奴に、無理やり詰め込んでるみてぇなもんか」


「そうかもしれません」


アトカは頷いた。


「でも、ここで全部取ったら、今度は急に空っぽになってしまいます」


「面倒くせぇな、畑って」


「はい。難しいです」


アトカは素直に言った。


その言葉に、バルトロは少しだけ毒気を抜かれたようだった。


エルマが畑の区画を見比べる。


「まずは全体の記録が必要です。魔力過剰区画、不足区画、停滞区画。それぞれの土質、作物の根の状態、水の流れを確認します。アトカ君、まだ水は使わないこと」


「はい」


「バルトロさん、喰らわないこと」


「分かってる」


「ディノ技官。収穫増幅柱の出力履歴と、補助流路の図面をください。特に西側流路の調整履歴を」


ディノは資料板を抱え直し、頷いた。


「分かりました。柱の記録は村の倉庫にあります。ただ……」


「ただ?」


「昨月から、出力を少し上げています。帝都への納入量が落ちていたので」


エルマの視線が鋭くなった。


「どれくらいですの?」


ディノは少し言いづらそうに答えた。


「標準値の、一・三倍です」


村長が慌てて口を挟む。


「それは、わしらも同意しました。今年の春先は寒さが長く、薬草の育ちが悪かった。このままでは納入に間に合わないと……」


「事情は分かります」


エルマの声は厳しかったが、切り捨てるものではなかった。


「ですが、土地が耐えられるか確認せずに出力を上げれば、今のような偏りが起きます」


アトカは割れた土を見た。


乾いている場所。

育ちすぎた場所。

腐っている場所。


どれも、同じ畑の一部だった。


助けようとして、急がせすぎたのかもしれない。


村を守るための魔導具が、村の土を苦しめているのかもしれない。


アトカは膝を折り、ひび割れた土の近くにしゃがんだ。

触れない。指先を少し離したまま、そこにある乾きと熱を感じようとする。


土は黙っている。


でも、静かではなかった。


奥の方で、細い何かが軋んでいる。


アトカは小さく息を吸った。


「エルマ先輩」


「何ですの?」


「この畑、全部同じように助けるのは、たぶん駄目です」


エルマはアトカを見た。


アトカは、三つの区画を順に見つめる。


「水が欲しい場所と、魔力を減らした方がいい場所と、動かさずに休ませた方がいい場所がある気がします」


エルマの目が細くなる。


「……感覚記録としては、非常に重要ですわね」


バルトロが面倒くさそうに言う。


「つまり、畑ごとに飯の量を変えろってことか」


「たぶん、そうです」


「畑って、やっぱ面倒くせぇ」


その時、畑の奥から、乾いた咳のような音が聞こえた。


三人が振り向く。


畑の端で、一人の老人が鍬を杖のように持って立っていた。


背は高くない。腰も少し曲がっている。

古びた帽子をかぶり、土の付いた外套を羽織っている。手は大きく、指の節は太い。

どこにでもいる農夫の老人に見えた。


老人はアトカたちをじろりと見て、それから割れた畑へ視線を落とした。


「畑が面倒なのは当たり前だ」


低く、土を踏んだような声だった。


「面倒を見なきゃ、畑なんぞすぐ拗ねる」


村長がほっとしたように言う。


「ローム爺」


老人は返事をせず、鍬の先で大きすぎる麦の根元を軽く突いた。


「食わせすぎだな」


次に、ひび割れた土を見て言う。


「こっちは腹を空かせとる」


最後に、黒ずんだ湿った土を見る。


「こっちは寝かせろ。今いじれば腐りが広がる」


エルマが目を細めた。


「随分、はっきり分かるのですね」


老人はエルマを一瞥した。


「毎日見てりゃ分かる」


それだけ言って、鍬を肩に担ぐ。


アトカは老人を見つめた。


彼が鍬で軽く突いた麦の根元だけ、さっきまで震えていた茎が、ほんの少し静かになった気がした。


気のせいかもしれない。


けれど、アトカには、土が短く息を吐いたように感じられた。


老人はアトカの視線に気づき、白い眉の下からじろりと見る。


「水の子か」


アトカは少し驚きながらも、丁寧に頭を下げた。


「アトカ・アッシュフォードです」


「名は聞いとらん。水の扱いを間違えるなよ」


老人は畑へ視線を戻した。


「水は流れればいいってもんじゃない。流れすぎりゃ、根が持っていかれる」


その言葉に、アトカは静かに息を呑んだ。


フレデリックが言っていたことと、似ている。


けれど、もっと土の近くから出た言葉だった。


ローム爺と呼ばれた老人は、それ以上説明せず、畑の奥へ歩き出した。


鍬の先が土に触れるたび、乾いた地面が小さく鳴る。


アトカはその背中を見つめ続けた。


大きすぎる麦。

割れた土。

濁った井戸。

そして、土を毎日見てきた老人。


リーヴェル村の異常は、ただ魔導具を止めれば終わるものではない。


アトカはそのことを、ようやくはっきり感じ始めていた。

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