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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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濁った井戸

リーヴェル村は、帝都から半日ほど離れた低い丘陵のふもとにあった。


最初に見えたのは、小麦畑だった。


曇った空の下、まだ若い麦の穂が風に揺れている。

遠くから見れば、村は穏やかだった。低い石垣に囲まれた畑。屋根の低い家々。道端に積まれた薪。柵の向こうで草を食む家畜。

どれも、アルン平原の家に少しだけ似ていた。


アトカは馬車の窓から身を乗り出しすぎないよう気をつけながら、その景色を見つめた。


「静かな村ですね」


「見た目は、ですわ」


エルマは膝の上の測定器具から目を離さずに言った。


針は、帝都を出た時よりも大きく震えている。


「地脈魔力の揺れが強くなっています。村全体に薄く広がっているというより、いくつかの場所から噴き出しているような反応ですわ」


「噴き出している……」


アトカは畑の土を見る。


穏やかに見える土の下で、何かが乱れている。


そう思った瞬間、馬車の隅から低い声がした。


「近い」


バルトロだった。


さっきまでだるそうに背中を丸めていたのに、今は窓の外へ視線を向けている。

琥珀色の瞳に、薄く光が戻っていた。けれど、それは元気になったというより、飢えた獣が匂いを嗅ぎつけた時のような鋭さだった。


アトカは少し心配になった。


「バルトロ先輩、苦しくないですか?」


「腹は減ってる」


「僕の魔力で少し楽になるなら……」


言いかけたところで、エルマの視線が鋭く向いた。


バルトロも同時に顔をしかめる。


「やめろ」


短い声だった。


アトカは驚いて口を閉じる。


バルトロは窓の外を見たまま、低く続けた。


「お前の魔力を食えば、楽にはなるんだろうな。多分、かなりな」


「それなら」


「だから駄目だ」


バルトロは苛立ったように舌打ちした。


「一回それを覚えたら、俺は次も楽な方へ行く。腹が減るたびに、お前を見ちまう。そういうのは、まだ嫌だ」


アトカは何も言えなかった。


エルマも少しだけ表情を緩める。


「珍しく、自分でまともな判断をしましたわね」


「うるせぇ」


「褒めていますのよ」


「褒め方が下手なんだよ」


バルトロはそっぽを向いた。


アトカは膝の上で義手の指を重ねる。


自分を差し出せばいい。


そう考える癖が、少しだけ顔を出していたのだと気づく。


カインに言われた。

一人で全部止めようとするな。

リリシアにも言われた。

怖い時は怖いと言ってほしい。


そして今、バルトロは自分で楽な方を拒んだ。


アトカは小さく頷いた。


「分かりました。じゃあ、土地から漏れすぎている魔力だけを見つけましょう」


「それなら食っていいんだな」


「測定後ですわ」


エルマが即答した。


「ちっ」


馬車は村の入口で止まった。


待っていたのは、白髪混じりの村長と、若い技官らしき男だった。

村長は日に焼けた顔に深い皺を刻み、何度も帽子を握り直している。

隣の若い男は地方管理部の制服を着ており、胸元に小さな認可章を付けていた。


「王立エルシオン学園の方々ですね。よくお越しくださいました」


村長が深く頭を下げる。


「村長のハルムと申します。こちらは地方管理部から派遣されているディノ・クライン技官です」


「ディノ・クラインです」


若い技官は礼儀正しく頭を下げたが、顔には疲労が濃かった。

寝不足なのか、目元が赤い。手には分厚い資料板を抱えている。


エルマが代表して一歩前へ出た。


「王立エルシオン学園魔導科四年、特等枠のエルマ・ガトランドです。こちらは同じく特等枠の、魔導科一年アトカ・アッシュフォードと、魔導科三年バルトロ・レイヴンです」


「特等枠……」


ディノが一瞬だけアトカを見た。


白い髪。

漆黒のローブ。

空の左袖。

右肩の義手。


その視線には好奇心が混じっていたが、すぐに彼は目を逸らした。村の状況がそれどころではないのだろう。


村長が不安そうに言う。


「まず、井戸を見ていただけますか。広場の井戸が、今朝また濁りまして……」


「今朝?」


エルマの声が鋭くなる。


「はい。昨日の夕方はまだ、煮沸すれば使えそうな程度だったのですが、夜明け前から急に泥と鉄の匂いが強くなりました」


「案内してください」


三人は村の中央広場へ向かった。


広場には、すでに村人が集まっていた。


桶を抱えた女。小さな子供を連れた老人。家畜用の水桶を持った少年。皆、井戸を囲んでいるが、誰も水を汲もうとしない。


井戸の縁には、濡れた縄と桶が置かれていた。


桶の中の水は、薄い茶色に濁っている。


泥水というほど濃くはない。けれど、澄んだ水とは到底言えなかった。

表面には細かな銀色の膜のようなものが浮き、鼻を近づけなくても、湿った土と錆びた鉄に似た匂いが漂ってくる。


アトカは思わず一歩近づいた。


「待ちなさい」


エルマの声が飛ぶ。


アトカはすぐに足を止めた。


「はい。測定が先、でした」


「よろしい」


エルマは記録帳を開き、測定器具を井戸の縁へ置いた。細い銀針が震え、青と茶の小さな光が器具の中で揺れる。


「水属性反応は乱れています。土属性魔力が過剰に混入。金属質の反応もわずかにありますわ。単純な泥の流入ではありません」


ディノが頷く。


「こちらの簡易測定でも同じ結果でした。ただ、原因地点が分からないんです。水脈全体なら放牧地側の井戸にも同程度の濁りが出るはずですが、そちらはまだ軽い」


エルマは彼を見る。


「地脈観測柱の記録はありますの?」


「あります。ただ、昨夜の地鳴りの直後から数値が跳ねています。こちらです」


ディノが資料板を差し出す。


エルマは受け取り、すぐに目を走らせた。


その間、アトカは井戸を見つめていた。


水の声、と呼んでいいのかは分からない。


けれど、井戸の底から上がってくる気配は、落ち着かないものだった。

水が濁っているというより、土の奥で何かに押され、行き場を失っているような感覚がある。


「苦しそうです」


ぽつりと呟くと、村長が顔を上げた。


「水が、ですか?」


アトカは少し迷ってから頷く。


「はい。水だけじゃなくて、土も。押されて、混ざって、うまく流れられていない感じがします」


村人たちは不思議そうにアトカを見る。


エルマは資料から顔を上げ、アトカの言葉を記録帳に書きつけた。


「感覚記録として残しますわ。ただし、まだ原因とは断定しません」


「はい」


バルトロは井戸から少し離れた場所に立っていた。


珍しく、自分から近づこうとしない。


アトカが見ると、バルトロは不機嫌そうに眉を寄せた。


「そこ、濃い」


「井戸ですか?」


「井戸の底じゃねぇ。もっと下だ。土の奥から、飯の匂いが上がってくる」


村長の顔が青ざめる。


「飯……?」


「ああ、悪い。俺の話だ」


バルトロは乱暴に言ったが、井戸には触れなかった。


エルマは測定器具をもう一つ取り出す。


「バルトロさん、井戸の縁から三歩下がったまま、どの方向が一番濃いか指してください」


「命令すんな」


「調査です」


「ちっ」


バルトロは舌打ちしながらも、井戸の周囲を見回した。


しばらくして、広場の西側、畑へ続く道を指す。


「あっちだ。井戸の下から、あっちへ繋がってる」


ディノが資料板を見て息を呑んだ。


「西の薬草畑……収穫増幅柱の補助流路が通っている方向です」


エルマの目が細くなる。


「やはり無関係ではなさそうですわね」


村長が慌てて言う。


「ですが、あの柱は去年の不作を助けるために入れたものです。実際、今年の春先は薬草の育ちも良かった。村の者も助かっておりました」


「責めているわけではありません」


エルマはきっぱりと言った。


「ただ、便利なものほど、壊れた時に何を巻き込むか確認しなければなりません」


アトカは桶の中の濁った水を見た。


この水を、今すぐ澄ませることはできるかもしれない。


けれど、フレデリックの言葉が胸に残っている。


濁った水を流せば、一時的には澄むかもしれない。

だが、流し方を誤れば井戸の壁を崩し、畑の土を痩せさせることもある。


アトカは義手を握りしめ、井戸へ伸ばしかけた気持ちを止めた。


「今は、触りません」


誰に言うでもなく、そう口にした。


エルマが静かに頷く。


「それでいいですわ」


その時、広場の外れから小さな泣き声が聞こえた。


見ると、幼い女の子が空の水差しを抱えて立っている。

母親らしき女性が肩を抱いていたが、女の子は井戸を見つめたまま泣いていた。


「お母さん、牛さんのお水は?」


その声に、村長が苦しそうに目を伏せる。


アトカは胸が痛くなった。


助けたい。


すぐにでも、水を澄ませたい。


けれど、ここで無理に水を動かして井戸を壊せば、もっと困る人が増える。


アトカは女の子の前へ歩いた。


急に近づきすぎないよう、少し離れた場所で膝を折る。


「こんにちは」


女の子は涙の残る目でアトカを見た。


「お水、なおせるの?」


アトカはすぐに頷かなかった。


「なおせるように、ちゃんと調べます。急いで触って、井戸がもっと悪くなったら困るから」


「でも、牛さん、のどかわく」


「はい。だから、別の井戸のお水を使えるか、先に調べます。牛さんにもお水が届くようにします」


女の子はまだ不安そうだったが、少しだけ泣き止んだ。


アトカは立ち上がり、エルマへ振り返る。


「放牧地の井戸も見に行きたいです。そこがまだ使えるなら、村の人たちが困らないかもしれません」


エルマは記録帳を閉じた。


「正しい判断ですわ。中央井戸の原因調査と並行して、代替水源の確認を行います」


ディノが慌てて頷く。


「案内します。放牧地の井戸は東です」


バルトロは広場の西側を一度見た。


地脈魔力の濃い方向。


彼にとっては、そちらの方がずっと強く引かれるはずだった。


だが、彼は井戸にも西の道にも触れず、乱暴に肩を回した。


「じゃあ、さっさと行くぞ。腹減ってんだから、長引かせんな」


エルマが歩き出しながら言う。


「それを我慢できている点だけは、評価しますわ」


「だけかよ」


「現時点では、そこだけです」


「本当に褒め方が下手だな、お前」


アトカは二人の後を追いながら、もう一度だけ中央井戸を振り返った。


濁った水は、桶の中で静かに揺れている。


今すぐ綺麗にすることだけが、助けることではない。


そう分かっていても、胸は少し苦しかった。


リーヴェル村の土の下で、何かが押し合い、流れを失っている。


アトカはその気配を忘れないようにしながら、東の放牧地へ向かった。

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