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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
土に根づくもの
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帝都の外へ

翌朝、帝都フェル・ザインの空は薄い雲に覆われていた。


王立エルシオン学園の外門前には、学園の紋章が入った馬車が一台停まっている。

飾り気は少ないが、車輪は太く、荷台には調査器具、予備の水袋、簡易結界石、保存食の木箱が積まれていた。


アトカは漆黒のローブを整え、馬車の前で小さく息を吸った。


森や高原へ行く課題とは違う。今回は、人が暮らす村へ向かう。

井戸があり、畑があり、そこで明日の食事を待つ人たちがいる。

失敗すれば壊れるのは、実験場の結界ではなく、誰かの暮らしそのものかもしれない。


「早いですわね」


背後からエルマの声がした。


彼女は記録帳と測定器具を抱えて歩いてくる。

黒紫の髪はきちんと整えられ、眼鏡の奥の紫紺の瞳には、すでに調査へ向かう集中が宿っていた。


「おはようございます、エルマ先輩」


「おはようございます。睡眠は十分取りましたの?」


「はい。少し緊張しましたけど、眠れました」


「なら結構ですわ。今回、貴方が井戸水や湧き水へすぐ触れようとしないか、私が見ていますから」


アトカは困ったように笑った。


「昨日も言われました」


「何度でも言います。まず測定、記録、原因推定。その後に対応です」


「はい。測定、記録、原因推定。その後に対応」


アトカが真面目に復唱すると、エルマは満足そうに頷いた。


そこへ、重い足音が近づいた。


バルトロだった。金髪はいつも以上に乱れ、肩には小さな荷袋を引っかけている。

目の下には薄い影があり、朝からずいぶんだるそうだった。


「朝からうるせぇな……」


「貴方がぎりぎりに来るからですわ」


「間に合ってるだろ」


「余裕を持つことも大事です」


「余裕があったら寝てる」


バルトロは馬車の側面にもたれ、深く息を吐いた。


アトカはその顔を見上げる。


「バルトロ先輩、大丈夫ですか?」


「あ?」


「具合が悪そうです」


「いつものことだ。飯が足りねぇだけ」


エルマが冷たく補足する。


「通常の生徒三人分ほど朝食を食べ、補給用の魔石も規定量を噛んでいましたわ。それでも空腹が引いていないのです」


「足りねぇんだから仕方ねぇだろ」


いつもの乱暴な声だったが、力は弱かった。


アトカは、昨日フレデリックが言っていたことを思い出す。

地脈から漏れる魔力は、バルトロにとって危険であると同時に、食べ物のようなものなのだろう。


その時、カインが学園門の内側から姿を現した。


右腕と胸元には、調整中の拘束具が細く巻かれている。

外出用ではない。見送りに来ただけだと分かった。


「カイン先輩」


カインは近づきすぎない距離で立ち止まる。


「無理するな」


「はい」


「全部、自分でやろうとするな」


「はい」


「水に触る前に、エルマに聞け」


「はい。ちゃんと聞きます」


バルトロが鼻を鳴らした。


「母親かよ」


カインはそちらを見る。


「お前は勝手に食うな」


「お前まで言うのかよ」


「食うな」


「分かってるって言ってんだろ」


リリシアも駆け寄ってきた。両手には小さな布袋を持っている。


「アトカ君、これ……応急布と、簡単な薬草です。エルマ先輩にも確認してもらいました」


「ありがとうございます」


リリシアは布袋を馬車の荷物箱へ入れ、少し迷ってから言った。


「怖い時は、怖いって言ってくださいね」


アトカは一瞬、目を丸くした。


前の記録の件で、自分が少しだけ覚えた言葉だった。


アトカは静かに頷く。


「はい。言います」


「約束です」


ギルベルトは少し離れた場所で懐中時計を見ていた。


「そろそろ出た方がいい。外門の検問で時間を取られる」


エルマが馬車へ乗り込む。


「では行きますわよ。アトカ君、足元に気をつけなさい」


「はい」


アトカは義手で車体の縁を軽く支えながら乗り込んだ。

バルトロもだるそうに続き、隅の席へ沈む。

御者が手綱を取り、馬車はゆっくりと動き出した。


学園の門が遠ざかる。


リリシアが小さく手を振り、カインは手を振らずにこちらを見ていた。ギルベルトは懐中時計を閉じ、軽く顎を引く。


馬車は最上層の広い道を進んだ。


石畳はなめらかで、車輪の揺れも少ない。

左右には高い塀と整えられた庭園が続き、貴族の邸宅や官庁の塔が白く輝いている。

通りを歩く者たちは、学園の紋章入りの馬車へちらりと視線を向けた。


アトカはその視線を感じながら、前より少しだけ背筋を伸ばした。


知らない人に勝手に試されるのは嫌です。


そう言葉にできたことを思い出すと、視線の重さが少し変わる気がした。


やがて馬車は、最上層から中層へ降りる傾斜街道へ入った。

城壁の内側を大きく迂回する幅広の道で、片側には荷車用の緩やかな坂、もう片側には徒歩用の階段がある。

壁際では、魔導具で動く昇降台がゆっくりと上下していた。


アトカは目を輝かせる。


「すごいです。荷物もああやって運ぶんですね」


「帝都の三層構造は、物流だけでも一つの学問ですわ」


エルマは資料から顔を上げずに答えた。


「最上層は政治と教育と軍事の中枢。中層は商業と職人区。最下層は……生活条件が良いとは言えない区域です」


「リーヴェル村は、どこに近いんですか?」


「帝都の外ですわ。層の外側。けれど、帝都を支える土地です。小麦も薬草も、勝手に最上層の食卓へ湧くわけではありませんもの」


バルトロが窓の外を見ずに言う。


「上の奴らは、土なんか見ねぇだろ」


「そういう者も多いでしょうね」


「で、土が割れてから慌てる」


「今回は慌てる前に呼ばれたのだと思いたいですわ」


馬車は中層へ入った。


街の音が変わる。鍛冶場から金属を打つ音が響き、パン屋の前には焼きたての香りが漂う。

道端には、泥の付いた野菜を積んだ荷馬車も停まっていた。根菜の葉には朝露が残っている。


アトカはその荷をじっと見た。


「畑から来たんでしょうか」


「おそらく。帝都近郊の村々から中層の市場へ運び込まれますわ」


「リーヴェル村からも?」


「ええ。資料によれば、小麦と薬草が主ですが、季節によっては根菜や果実も納めているようです」


アトカは頷いた。


まだ見ぬ村にも、畑があり、井戸があり、朝早くから働く人がいる。

アルン平原の家と同じだ。そう思うと胸が温かくなる一方で、もしその土が割れ、水が濁ったらどうなるのかを想像し、義手の指先に力が入った。


外門へ近づくにつれ、バルトロが少しずつ顔を上げ始めた。


エルマが気づく。


「バルトロさん。何か感じますの?」


「まだ遠い。でも、あるな」


「地脈魔力ですか?」


「多分な。街の中の魔導灯や結界とは違う。もっと下から来る。腹の底をくすぐられるみてぇで、落ち着かねぇ」


朝より顔色が良くなったわけではない。

だが、眠そうに濁っていた琥珀色の瞳には、獲物の匂いを捉えた獣のような鋭さが戻っていた。


アトカは静かに聞いた。


「苦しいですか?」


バルトロはしばらく黙り、それから低く答えた。


「腹が減る。目の前に飯があるのに、まだ食うなって言われてる感じだ」


エルマの顔が引き締まる。


「現地で勝手に地脈へ触れないでくださいまし」


「分かってる」


バルトロは苛立った声で返す。


アトカは少し考えてから言った。


「バルトロ先輩が食べないと苦しいなら、何か方法を探したいです。でも、土もその魔力が必要なら、全部食べるのは駄目なんだと思います」


「……全部食うなんて言ってねぇだろ」


「はい。だから、どこなら食べても大丈夫か、エルマ先輩と一緒に見つけましょう」


バルトロは何か言い返そうとして、やめた。


エルマも少しだけ表情を緩める。


「漏出している余剰魔力だけなら、喰らうことで安定する可能性はあります。ただし、判断は測定後です」


「面倒くせぇ」


「面倒でも必要です」


「分かったよ」


外門の検問を抜けると、帝都の壁が背後へ遠ざかった。


高い城壁の外には、広い街道が伸びている。

曇り気味の光が、遠くの畑と林を柔らかく照らしていた。

馬車が石畳から土の道へ移ると、車輪の音が鈍く変わる。


アトカはその揺れに、懐かしさを覚えた。


帝都へ向かった時は、兄との約束を果たすためだった。


今は、誰かの暮らす土地を診るために向かっている。


エルマは地図を膝の上へ広げた。


「リーヴェル村は、この街道を南東へ進んだ先です。北側に小麦畑、西側に薬草畑、南に低い丘陵。井戸は中央広場に一つ、東の共同放牧地に一つ、村外れに古い井戸が一つ」


「井戸が三つあるんですね」


「ええ。濁りが報告されているのは中央広場と村外れの古井戸。放牧地の井戸は軽微。水脈全体ではなく、地脈との交差点が限られている可能性があります」


アトカは地図の端に小さな印を見つけた。


「これは何ですか?」


「収穫増幅柱ですわ」


「収穫を、増やす柱?」


「地方管理部が設置した農業支援用の魔導設備です。地脈から少量の魔力を汲み上げ、畑へ均等に流すことで作物の生育を補助します。適切に扱えば、不作の被害を減らせます」


「便利なんですね」


「適切に扱えば、です」


エルマの声が硬くなる。


「土地は機械ではありません。出力を上げれば収穫も増える、という単純なものではないはずですわ」


バルトロが窓の外を見ながら呟いた。


「腹減ってる奴に、もっと働けって言うようなもんか」


エルマは少し意外そうに見た。


「……珍しく分かりやすい例えですわね」


「うるせぇ」


アトカはその言葉を胸の中で繰り返した。


腹が減っている土地に、もっと働けと言う。


もしそうなら、とても苦しいことだと思った。


馬車は街道を進む。


帝都の壁はもう遠い。左右に広がる畑はまだ穏やかに見える。

けれど、進むにつれて、アトカの鼻先に湿った土と、微かな鉄のような匂いが混じり始めた。


遠くの畑の一部が、不自然に黒ずんで見える。


バルトロが低く呟く。


「近いな」


エルマが測定器具を取り出す。


針が、かすかに震えていた。


アトカは窓の外に広がる畑を見つめ、静かに息を吸った。


帝都の外の風は、少しだけ土の味がした。

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