土の匂いがする課題
旧第三風圧実験場の不正模造風路実験に関する記録が、学園最奥の保管庫へ封じられたのは、夏の終わりだった。
それから数日が過ぎ、暦は初秋へ入っていた。
帝都を覆っていた夏の熱は、まだ石造りの建物や舗装路の奥に残っている。
それでも朝夕には涼しい風が吹くようになり、王立エルシオン学園の中庭でも、木々の葉先に僅かな色の変化が見え始めていた。
特等枠ラウンジには、夏の頃より柔らかくなった午後の光が差し込んでいた。
円卓の上には、焼き菓子の皿と数冊の魔導書、それからエルマが広げたままにしている記録紙が置かれている。
ただし、今日の記録紙には封印文字も、魔導局の照会印もない。
エルマが個人的に整理している、特等枠六人の課題履歴だった。
アトカは円卓の端に座り、小さな紙袋の中を覗いていた。
中に入っているのは、薄く切って乾かした果物だ。表面は淡い褐色で、縁だけが少し縮れている。
リリシアが、初秋に出回り始めた果物を扱う露店で見つけ、「柔らかくて食べやすいそうです」と持ってきたものだった。
「これ、林檎ですか?」
「えっと……乾燥させた梨だそうです。わたしも初めて見ました」
リリシアは少し緊張したように答えた。
アトカは一枚摘まもうとして、右義手の指先で干し梨を軽く押しすぎた。
薄く乾いた果肉が、割れずにくにゃりと曲がる。
「あ」
「大丈夫です。割れていません」
リリシアが慌てて袋の口を広げた。
「端の方でしたら、摘まみやすいと思います」
アトカは義手の親指と人差し指の位置を少し変え、今度は力を入れすぎないように一枚を持ち上げた。
「取れました」
「はい」
「ありがとうございます、リリシア先輩」
「い、いえ。わたしは袋を持っただけですから」
それでもリリシアは、少し安心したように笑った。
その向かいでは、バルトロが椅子にだらしなく沈み込んでいた。
頬杖をつき、机の上に置かれた補給用の魔石を眺めている。
管理された小箱の蓋は、まだ閉じられたままだ。
定期補給の時刻には少し早く、本人も勝手に開けようとはしていない。
「腹減った」
「先ほど焼き菓子を召し上がったでしょう」
エルマが記録紙から顔も上げずに答えた。
「菓子じゃ足りねぇ」
「あなたの基準で足りる量を常備しましたら、ラウンジが食料庫になりますわ」
「食料庫でいいだろ」
「よくありません」
「置く場所ならある」
「用途が違いますの」
窓際の椅子では、ギルベルトが時計盤を開き、針の動きを確かめながら二人のやり取りを聞き流していた。
カインは円卓から少し離れた席に座っている。
右腕と胸元には、細い黒帯を組み合わせた新しい拘束具が巻かれていた。
蒼風高原での任務後も調整が続けられており、現在は出力を抑えるだけでなく、本人の身体へ負担が集中しない締め方を探している段階だった。
以前より、椅子の位置は円卓に近い。
それでも、まだ完全に輪の内側へ入ろうとはしない。
だが、誰もそれを急かさなかった。
アトカは干し梨を一枚、口へ入れた。
最初は少し硬く感じたが、噛むほどに柔らかくなり、控えめな甘さと香りが広がる。
アルン平原の家で、ステラが夏の果物を乾かして保存していたことを思い出した。
使っていた果物も作り方も少し違う。それでも、日に当てて乾かしたものに残る暖かな匂いは似ていた。
夏の光を中へ閉じ込め、寒い時期まで残そうとしているような匂いだった。
その時、ラウンジの扉が静かに開いた。
「皆、揃っているようだね」
フレデリックが入ってきた。
白を基調とした上質なローブの袖口には、細い金糸で編まれた結界術式が淡く光っている。
長い銀髪はいつものように整えられ、琥珀色の瞳も穏やかだった。
ただし、その手には一束の書類がある。
ギルベルトが時計盤の蓋を閉じた。
「任務ですか」
「そうだね。定期任務だ」
その一言で、ラウンジの空気が僅かに引き締まった。
アトカも干し梨の袋を円卓へ置く。
旧第三風圧実験場の記録が封じられた後も、あの場所で覚えた不快さは完全には消えていなかった。
誰かがアトカの反応を観測するために、古い風路を模した危険な設備を作った。
巻き込まれたのはアトカだけではない。近くにいた生徒たちも、装置の異常へ晒された。
だから任務という言葉を聞いた瞬間、アトカの胸の奥は僅かに硬くなった。
今回もまた、自分の反応を調べるためのものではないか。
そう考えたことを、以前のように自分の中だけで押し込めはしなかった。
「フレデリック先生」
「何だい」
「今回の課題は、僕の力を調べるためのものですか?」
フレデリックはすぐに答えた。
「違う。君の反応を試すことを目的とした課題ではないよ」
アトカは小さく息を吐いた。
「そうですか」
「質問してくれてありがとう。今回の目的は、初めから全員へ説明しよう」
フレデリックは円卓のそばまで来ると、書類束を中央へ置いた。
「今回は、土地を診る課題だよ」
「土地を、診る?」
アトカが首を傾げる。
一番上の表紙には、帝都近郊農村地帯リーヴェル村地脈異常調査と書かれていた。
エルマの目がすぐに細くなる。
「リーヴェル村。帝都へ小麦と薬草を納めている農村ですわね」
「そのとおり。帝都から馬車で半日ほどの距離にある。大きな村ではないが、帝都南東部への食料供給を支えている土地の一つだ」
フレデリックが書類を開く。
中には村の地図と畑の区画、井戸や水路の位置が記されていた。
「数週間ほど前から、井戸水の濁り、畑のひび割れ、一部作物の異常成長、夜間の地鳴りが報告されている。加えて、地脈魔力へ引き寄せられたと思われる魔獣の目撃も増えている」
エルマが資料へ視線を走らせる。
「地脈異常ですの?」
「現時点では、その可能性が高いと見られている」
「地方管理部は何をしていますの。地脈観測柱の設置記録は?井戸と水脈の位置図はありますけれど、更新日はいつですの?畑の区画ごとの魔力濃度差は測られておりますの?」
「提出されている記録だけでは、現状と一致しているか分からない」
フレデリックは、エルマの前へ資料の一部を移した。
「それを確認するための調査でもある。君には現地の記録を整理してもらいたい。ただし、観測数値だけでは足りない」
「と、おっしゃいますと?」
「村人の証言、井戸ごとの使われ方、畑に植えられている作物、地形、異変が始まった順番。記録へ残っていない暮らしの情報も必要だ」
エルマは一瞬、言葉を止めた。
彼女は記録することの意味を改めて考えていた。
知りたいから書くのではない。
書けることを全て集めるのでもない。
何を守るために必要なのかを決め、必要ではない情報を分け、本人が関わる記録には本人の意思を残す。
今回扱うのは、封印される記録ではない。
村人たちがこれからも同じ土地で暮らしていくための記録だった。
「承知しましたわ」
声には静かな力があった。
フレデリックは次に、バルトロへ向き直る。
「バルトロ君」
「あ?」
「君にも同行してもらう」
バルトロは露骨に嫌そうな顔をした。
「畑仕事かよ」
「畑仕事を命じるわけではないよ。地脈から漏れ出している魔力の確認だ」
「漏れてるなら、喰えばいいのか」
その言葉に、エルマが即座に反応する。
「地脈魔力を勝手に喰らうなど論外ですわ。土地が本来必要としている魔力まで失わせる可能性があります」
「まだ何もしてねぇだろ」
「先に条件を確認しておりますの」
バルトロは舌打ちした。
しかし、視線はフレデリックから逸らさない。
「地脈そのものへ固定されている魔力を、君が直接処理することは想定していない」
フレデリックが言った。
「対象となり得るのは、土地の外へ異常に漏れ出し、ほかの経路から物理的にも魔力的にも切り離されたものだけだ。それも、現地の成人技官が必要性を確認し、対象と範囲を説明した後、君が引き受けた場合に限る」
「喰わなくてもいいのか」
「もちろんだよ」
「俺が断ったら、調査が止まる形にはなってねぇだろうな」
「ならない。君の処理能力を前提としなければ停止できない設備ではないし、土地全体の異常を君へ喰わせる計画でもない」
バルトロは数秒黙った。
何とつながっているのか。
喰った後に何が失われるのか。
自分が止まった時に、ほかの者が困る構造になっていないか。
そこまで確かめてからでなければ、口を開けない。
「行く」
短く答えた。
フレデリックは頷き、最後にアトカへ向き直った。
「アトカ君」
「はい」
「君には、水脈と地脈の関係を見てもらいたい。井戸水の濁りが報告されている以上、水の流れも異常と無関係ではないだろう」
アトカは背筋を伸ばした。
「分かりました。濁った水を綺麗にすればいいんですか?」
「まだ決めない」
フレデリックは静かに首を振る。
「水が濁っている原因が、水そのものにあるとは限らないからだよ」
「土が混ざっているだけではないんですか?」
「その可能性もある。けれど、地脈の圧力が地下の水路を押し上げているのかもしれない。井戸の内壁が崩れ始めているのかもしれない。畑へ水を流すことで、別の区画へ異常を運んでしまう可能性もある」
アトカは資料に描かれた井戸と水路を見た。
濁った水を外へ出せば、一時的には澄むかもしれない。
だが、流し方を誤れば井戸を壊し、畑の土を削り、異常な魔力を別の場所まで運んでしまう。
水は、助けるためだけに存在するものではない。
扱い方を誤れば、誰かの暮らしを壊す。
「今回の任務は、危険なものを倒せば終わる任務ではない」
フレデリックは三人を見渡した。
「初秋に入り、リーヴェル村では間もなく本格的な収穫が始まる。井戸を止めれば生活用水が足りない。畑を封鎖すれば収穫を失う。異常な作物を全て刈り取れば、冬を越すための食料までなくなるかもしれない」
ラウンジへ差し込む午後の日差しが、村の地図の上をゆっくり横切っていた。
「土地には暮らしがある。井戸があり、畑があり、家畜がいて、収穫を待つ人がいる。守るとは、目の前の危険を消すことだけではない。その場所が、明日も息をできる形で残すことだ」
アトカは静かに頷いた。
胸の奥に、アルン平原の家が浮かぶ。
朝露に濡れた畑。
夏の終わりに実った作物。
ガイルが鍬を担いで歩く大きな背中。
ステラが井戸水を汲む音。
ルトが泥だらけになりながら、庭で剣を振っていた姿。
外から見れば、アルン平原の家も、小さな農地に建つ一軒の家にすぎない。
けれど、アトカにとっては帰る場所だった。
リーヴェル村にも、同じような家がいくつもある。
「僕、行きます」
アトカは言った。
「ちゃんと見てきます。水だけじゃなくて、土も、畑も、村の人たちも」
フレデリックは穏やかに頷いた。
「頼むよ」
カインが席から僅かに身を起こした。
「俺は?」
「君は拘束具の調整が残っている。今回は学園で待機だ」
カインの表情は変わらない。
だが、暗い赤紫の瞳がアトカへ向いた。
「一人で全部止めようとするな」
アトカはすぐに頷く。
「はい。エルマ先輩とバルトロ先輩と一緒に行きます」
「二人がいるから任せる、って意味じゃない」
カインは低い声で続けた。
「お前が無理なら、お前も止まれ」
アトカは一度瞬きをしてから、もう一度頷いた。
「はい。僕も、ちゃんと言います」
「ならいい」
短い言葉だった。
以前の「近づくな」とは、まるで違う。
リリシアも不安そうにアトカを見た。
「怪我をしましたら、戻ってきてください。わたしが診ます」
「はい。ありがとうございます、リリシア先輩」
「でも、できれば怪我をする前に戻ってきてください」
「はい。気をつけます」
「肩が重くなった時や、指が遅れた時もです」
「分かりました」
バルトロが鼻を鳴らす。
「怪我する前に終わらせりゃいいだろ」
エルマが腕を組む。
「あなたはまず、現地で勝手に魔力を喰らわないことですわ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「何度言わせるんだ」
「確認できるまでです」
ギルベルトが時計盤を閉じ、小さく笑った。
「調査へ着く前から賑やかだな」
フレデリックは資料を三つに分け、アトカ、エルマ、バルトロの前へ置いた。
「出発は明朝だ。帝都外門で学園の馬車が待つ。現地では村長、地方管理部の技官、村の案内人と合流してほしい」
「案内人?」
アトカが聞き返す。
「リーヴェル村で、長く畑を見てきた老人だ。正式な役職はないが、村人たちから頼りにされている人だよ」
「畑に詳しい方なんですね」
「そうだね。地脈の数値や魔導設備の図面だけでは分からないこともある。土の乾き方、作物の育ち方、虫や鳥の動き。長く同じ土地を見てきた人だから気づける変化もあるだろう」
アトカは素直に頷いた。
「はい。ちゃんとお話を聞いてきます」
説明が終わると、ラウンジの空気は少しずつ日常へ戻っていった。
エルマはすぐに資料を読み始め、記録上確認できる事実と、現地で確かめる項目を分けていく。
バルトロは面倒そうにしながらも、出発時刻と通常補給の時刻が重ならないことを確認した。
リリシアは旅用の応急布を用意すると言い、カインは何も言わずアトカを見ていた。
アトカは窓の外へ視線を向ける。
夏の白さを失った空は高く、風に動かされた雲の影が、帝都の屋根をゆっくり流れていく。
その先には、まだ見ぬ村がある。
濁った井戸。
ひび割れた畑。
異常な速さで育つ作物。
土の下で乱れているかもしれない地脈。
そして、初秋の収穫を待つ人たち。
ふと、鼻先に湿った土の匂いがした気がした。
もちろん、ここは帝都最上層にある学園のラウンジだ。
磨かれた床と高価な家具に囲まれた場所で、畑の匂いなどするはずがない。
それでもアトカは、確かに思い出していた。
アルン平原の初秋の朝。
夏の熱を僅かに残した土。
父の大きな手。
母が汲んだ冷たい井戸水。
兄と交わした約束。
水は流れる。
土は、その水を受け止める。
けれど、その先には、誰かの暮らしが根づいている。
アトカは膝の上で右義手の指をそっと閉じ、明日の課題へ向けて静かに息を吸った。




