偽の風路実験
一般記録保管室から情報が流出した件は、その日のうちに特等枠全員へ共有された。
翌朝のラウンジでは、いつもの円卓を囲んでいるのに、誰も普段ほど気楽にはしていなかった。
机の中央にあるのは、侵入者が落とした記録板そのものではない。
あれは証拠として警備側が保全している。
代わりにフレデリックが持ってきたのは、何が外へ送られた可能性があるのかを整理した確認票だった。
改修前の中継塔測量図。
事故後に結晶の欠損が確認された区域。
水路圧が変化した時刻。
任務班の到着時刻。
水膜が目撃された区域。
エルマはその紙を睨むように見つめていた。
封印された個人記録そのものは盗まれていない。
昨日、自分だけが閲覧を許された情報へも届いていない。
それでも、安心はできなかった。
「一つずつなら、ただの事故記録ですわ」
バルトロが魔石を噛みながら眉を寄せる。
「でも、まとめるとまずいんだろ?」
「ええ」
エルマは簡略図へ指を置いた。
「中継塔がどんな形だったか。どこで結晶が失われたか。いつ水路圧が変わったか。どの辺りで水が目撃されたか。全部重ねれば、蒼風高原で水を使った者が、どこまで届き、どの方向へ動いたのかをある程度まで推測できます」
アトカは円卓の向かいから確認票を見る。
自分の名前は、流出した資料には書かれていない。
「僕の名前がなくてもですか?」
「任務の日付と参加者は、別の公開記録から分かりますもの」
エルマは苦々しく答えた。
「秘密そのものを盗まなくても、その周りを集めれば形が見える。昨日まで考えていた危険が、そのまま起きましたわ」
ギルベルトが古い銀色の懐中時計を開く。
「で、その情報で何ができる?」
エルマは少し黙った。
ここから先は事実ではない。
だから、そう分かるように話す。
「蒼風高原そのものを再現することはできません」
「理由は?」
「土地も設備も違います。それに、相手が手に入れたのは外側の情報だけですから」
エルマは紙から目を上げる。
「ですが、似た状況を作ることはできます。風圧を閉じ込め、逃げ道らしいものを作る。そこへ水を使う者が来た時、どこを見るか、どちらへ近づくか、どの範囲へ水を届かせるかを見る」
リリシアの表情が曇った。
「アトカ君を試すために?」
「その可能性がある、というだけですわ」
エルマはすぐに線を引く。
「情報を盗んだ目的はまだ分かっていません。設備の弱点を探しているだけかもしれない。事故の再検証が目的かもしれない。最初からアトカ君を狙っていたと決めることはできません」
カインが低く言った。
「でも、できる」
「ええ」
その短いやり取りで、ラウンジが静かになる。
フレデリックが口を開いた。
「だから、昨夜から学園内の閉鎖施設と未使用設備を成人職員が確認している。外部から任務や設備確認の依頼が来ても、発信元を別経路で確かめるまでは特等枠を動かさない」
アトカは少し考えた。
「もし、本当に誰かが困っている時は?」
「確認してから助ける」
フレデリックは穏やかに答えた。
「疑うから助けない、にはしないよ。けれど、助けたいという君の気持ちを利用して危険な場所へ呼び出す者がいる可能性も考える」
アトカは静かに頷いた。
ギルベルトが確認票へ視線を落とす。
「もし先に装置を仕込んでいたなら、昨夜から確認を始めても間に合わない場所がある」
エルマも同じことを考えていた。
「……旧第三風圧実験場」
フレデリックが顔を向ける。
「理由は?」
「閉鎖中ですが、風圧試験に使われていた耐圧室が残っています。人目も少ない。古い排気設備もある」
「現在の管理状況は確認中だ」
「もし蒼風高原に似せたものを作るなら、最初から設備を組むより早いですわ」
その時だった。
壁に埋め込まれた連絡水晶が赤く光った。
フレデリックが立ち上がり、触れる。
『学園長!外縁区画、旧第三風圧実験場で異常です!』
若い教師の切迫した声が響いた。
『内部で風属性魔力が急上昇しています。隣接する巡回路にいた生徒四名が巻き込まれました。二名は退避しましたが、二名が南側外壁付近から動けません!』
エルマが息を呑む。
「……まさか」
フレデリックの声が一変した。
「結界班と設備担当を現地へ。風下の通路を閉鎖し、周辺の生徒を退避させなさい。取り残された二名の救助を最優先。内部への無理な進入は禁止する」
『了解しました!』
通信が切れる。
アトカは立ち上がった。
「フレデリック先生。僕も行きたいです」
「理由を聞こう」
「取り残されている人を助けたいです」
迷いはなかった。
フレデリックはアトカを見つめる。
「君を呼び出すことまで含めた仕掛けである可能性がある」
「はい」
「それでも?」
「それでも、今そこにいる二人は困っています」
フレデリックは頷いた。
「分かった。ただし、君一人でこの事故を解決する必要はない。現場を見て、君にしかできない部分があれば頼む。救助も設備停止も成人側が一緒に行う」
「はい」
カインも立ち上がる。
「俺も行く」
ギルベルトがカインを見る。
「今は待機だ」
カインの眉が寄る。
「なぜだ」
「耐圧室の中で高密度出力を使えば、閉塞だけじゃなく壁や排気設備まで持っていく可能性がある」
カインは黙った。
「壊す場所が確定して、お前が必要になれば呼ぶ」
数秒の沈黙。
やがてカインは椅子へ戻らず、その場で短く答えた。
「……分かった」
エルマも立ち上がる。
「私は必要ですわ。模造された部分と、本来の設備を分けて見ます」
「俺は時間を作れる」
ギルベルトも続く。
フレデリックは二人へ頷いた。
「エルマ君、ギルベルト君は同行。リリシア君は医務室へ連絡し、救助者の受け入れ準備を。バルトロ君とカイン君は待機だ」
バルトロが露骨に顔をしかめる。
「俺も駄目かよ」
「何へ触れてよいか、まだ分からない。設備を止める前に外周結界やアトカ君の水まで喰えば、状況を悪くする」
「……分かったよ」
アトカが扉へ向かう。
背後からカインの声が飛んだ。
「アトカ」
振り返る。
「一人で全部止めようとするな」
アトカは僅かに目を丸くした。
蒼風高原で、自分に一本へ絞れと言った時と同じ声だった。
今度はすぐに頷く。
「はい。僕が必要なところだけやります」
カインはそれ以上言わなかった。
フレデリック、アトカ、エルマ、ギルベルトの四人はラウンジを出た。
旧第三風圧実験場は、学園外縁にある低い石造りの建物だった。
今は正式な授業では使われていない。
だが、建物の上空では青白い風が渦を巻いていた。
内部から噴き上がる風が空へ抜けきれず、屋根と古い結界へ何度も叩きつけられている。
防風壁の外まで砂や小石が飛び、甲高い風音が途切れず響いていた。
現場の結界班長と設備技師が駆け寄る。
「取り残された二名は南側です。巡回路を通っていたところへ突然風圧が噴き出しました。閉鎖区域へ勝手に入ったわけではありません」
「内部は?」
フレデリックが尋ねる。
「遠隔停止線が切られています。それと、本来の設備にはない風圧蓄積器が耐圧室へ追加されています」
設備技師が顔を曇らせた。
「固定された跡を見る限り、今さっき持ち込まれたものではありません」
エルマが観測眼鏡を掛け、建物全体を見る。
風の流れ。
壁の震え。
魔力が集中している場所。
既存設備とは噛み合わない経路。
「盗まれた情報で、最後の調整だけ行った可能性はありますわね」
そしてすぐ付け加える。
「可能性です。設置時期も設置者も、今は決められません」
フレデリックが頷く。
「それでいい。まず救助だ」
役割がすぐに決まった。
結界班は外周を守る。
設備技師は遠隔停止線の復旧。
エルマは圧力の集中点を読む。
ギルベルトは、救助者へ向かう危険だけを遅らせる。
アトカは外周線を越えず、救助のために必要な風だけを見る。
「南です!」
エルマが声を上げた。
実験場の南側。
二人の魔導科生徒が、外壁と亀裂の入った結界柱の間に取り残されている。
一人は地面へ座り込み、もう一人がその前で身を低くしていた。
そこへ向かう教師たちの前を、青白い風の裂け目が横切る。
「次、結界柱の根元ですわ!」
ギルベルトの指が動いた。
遅延種が置かれる。
三秒。
結界柱の根元から新しい風が噴き出そうとする。
その発現が遅れた。
「今!」
結界班長の声と同時に、教師二人が走る。
一人が座り込んだ生徒を抱え、もう一人が残る生徒へ肩を貸した。
戻る。
だが、耐圧室の内側で風圧が膨れ上がった。
エルマが顔を上げる。
「屋根ですわ!」
屋根の継ぎ目が裂ける。
青白い風が刃のように噴き出し、救助中の四人へ向かった。
アトカの右手が上がる。
白い霧が先に広がった。
風の輪郭が浮かび上がる。
アトカは厚い水壁を正面へ立てなかった。
薄い水膜を斜めに差し込む。
風の刃が水へ触れ、膜の表面を滑った。
向きだけが変わる。
人のいない石畳へ風が抜け、浅い傷を刻んだ。
教師たちはその間に外周結界へ戻った。
「二名、救出!」
声が響く。
アトカは全員が結界の外へ出るまで水膜を残し、それから静かに解いた。
まず二人を助けた。
その事実を確認してから、フレデリックは建物へ向き直る。
「次は設備を止める」
その瞬間、耐圧室の屋根が大きく持ち上がった。
低い轟音。
結界柱の一本へ亀裂が走る。
風が内部で行き場を失っている。
エルマはすぐに四つの魔力を動かした。
土で亀裂の広がりを支え、水で飛び散る熱い破片を冷やす。
風を細く流して圧力の偏りを探り、火の小さな粒で魔力の境目を浮かせる。
「おかしいですわ」
「何が?」
ギルベルトが聞く。
「出口があるのに、抜けていません」
アトカも霧を建物の周囲へ伸ばした。
流れが見える。
北側に、排気路のような細い経路がある。
けれど風はそこへ入った後、途中で曲がり、もう一度中央へ戻されていた。
逃がしていない。
循環させている。
風圧を弱める形ではない。
強める形だ。
アトカの表情が変わった。
「これは、道ではありません」
エルマも観測眼鏡越しに同じものを見ていた。
「ええ。道の形だけを真似ていますわ」
蒼風高原の古い排風路は違った。
風を強く吸い込むのではない。
通った後の空間を空け、次の風が自然に外へ進める形だった。
目の前の装置には、それがない。
狭い出口を作りながら、その先で中央へ戻す。
袋小路だ。
設備技師が古い施設図を開く。
「本来の緊急排気孔なら、南西側にある」
エルマがすぐにそちらを見る。
確かに、風圧の薄い場所がある。
「使えませんの?」
「閉鎖時に封鎖板を下ろしている。開くには外部から三段階の解除が必要だ」
「時間は」
ギルベルトが尋ねる。
「一つ三秒ほど。全部で九秒は欲しい」
ギルベルトは懐中時計を握り直した。
「なら三秒を三回作る」
フレデリックが即座に決める。
「設備担当は緊急排気孔の解除へ。結界班は南西の風下を完全に空けなさい」
次にエルマを見る。
「エルマ君は、排気孔までの圧力が薄い場所を繋げて見つける」
「はい」
「ギルベルト君は、人や解除作業へ向かう風だけを遅らせる。外へ抜けようとしている風は止めない」
「分かった」
そしてアトカへ。
「アトカ君。君には、エルマ君が見つけた道を水で繋いでほしい」
アトカは霧の向こうを見る。
南西。
二つの薄い圧力帯。
その先に、本来の緊急排気孔。
「できます」
「排気孔が開くまでは、外へ裂ける危険だけを抑える。開いた後は、風が自分で抜けられるよう経路を維持する」
「はい」
青白い風が再び膨らんだ。
「東側に三本!」
エルマの声。
一本はギルベルトが遅らせる。
一本は結界班が受け流した。
最後の一本が、設備技師のいる南西側へ伸びる。
アトカが水を走らせる。
風の全部ではない。
人へ届こうとする鋭い先端だけへ触れ、水へ変える。
暴れていた一筋が透明な水となり、地面へ落ちる。
その間に設備技師が最初の解除具を回した。
一段目。
「中央、また来ますわ!」
ギルベルトが二度目の遅延を置く。
三秒。
二段目が外れる。
風圧が耐圧壁を叩く。
エルマが示した薄い帯へ、アトカが細い水を伸ばした。
一つ目の空間。
二つ目。
まだ出口は閉じている。
だから水を太くしない。
無理に風を流さない。
ただ、開いた時に途切れない道だけを先に繋ぐ。
「三段目です!」
設備技師が最後の解除へ手を掛ける。
耐圧室の中央で、大きな風圧が膨らんだ。
屋根の残った部分が軋む。
ギルベルトが三度目の種を置いた。
「三秒だ」
発現が遅れる。
設備技師が解除具を回し切った。
重い封鎖板が持ち上がる。
南西の向こうに、広い空が開いた。
アトカの青い瞳が、その出口を捉える。
「開きました」
水が一本、伸びる。
エルマが見つけた二つの薄い圧力帯を通り、本来の緊急排気孔まで繋がった。
アトカは風を引っ張らない。
押し込まない。
ただ、途中で裂れて人へ向かう危険だけを水へ変え、外へ続く経路を崩さず残す。
最初の風が、水の横を滑るように南西へ抜けた。
続いて二本目。
三本目。
中央へ押し戻されていた青白い風が、今度は戻ってこない。
開いた排気孔の向こうへ抜け、そのまま空へほどけていく。
「流れが変わりましたわ!」
エルマの声が響いた。
アトカは水を増やさなかった。
必要な一本だけを残す。
偽物の風路は、最後まで風を閉じ込めようとしていた。
けれど、その外側には本来の出口があった。
アトカが作ったのは、風を従わせる道ではない。
もともとそこにあった出口まで、もう一度届くための道だった。




