空へ戻れない風
本来の緊急排気孔が開いても、旧第三風圧実験場の異常は終わらなかった。
アトカが水でつないだ一本の経路を通り、蓄積していた風は南西側の旧排風塔へ抜け始めている。
それでも、半ば砕けた屋根からは青白い風が何度も噴き出した。
原因は中央にある。
非正規に増設された風圧蓄積器へ、今も三本の供給線から風属性魔力が送り込まれていた。
逃がしているのに、また作られる。
それでは終わらない。
救助された生徒二人と、救助の際に足首を痛めた教師一人は、すでに外周の外へ運ばれている。
現場に残った成人職員は、設備の停止と結界の維持へ移っていた。
「救助は終わった。ここからは設備を止める」
フレデリックの声が飛ぶ。
「結界班は南西の排風を維持。設備班は主供給の遮断準備。エルマ君は模造装置と既存設備を分けて見なさい。ギルベルト君は、人へ向かう風だけを遅らせる。外へ抜ける風には触れないこと」
「承知しましたわ」
「分かった」
最後にアトカを見る。
「アトカ君は、今ある排風経路を崩さないこと。新しい道を増やす必要はない」
「はい」
役割が決まった。
その直後、耐圧室の内側で新しい風圧が膨れた。
屋根の裂け目から細い風の刃が走り、解除盤へ向かっていた設備技師を狙うように伸びる。
「南西、一本ですわ!」
エルマの声。
ギルベルトの指が動いた。
風の裂け目が完成する、その時刻だけが三秒後ろへずれる。
消えたわけではない。
ただ、設備技師が身を引く時間が生まれた。
三秒後、遅れて風が噴き出す。
そこへアトカが薄い水膜を斜めに差し込んだ。
正面から受け止めない。
風は水膜の表面を滑り、誰もいない上空へ逸れた。
「操作を続けます!」
設備技師が再び解除盤へ向かう。
アトカは返事をせず、霧の向こうを見ていた。
風がどこから生まれ、どこへ戻され、どこから外へ抜けているか。
ただし、それを一人で全部調べようとはしない。
設備の中身を見るのはエルマだ。
「エルマ先輩。まだ中央へ戻っている風はありますか?」
「ありますわ。北側の偽排気口へ入った後、導風板で中央へ返されています。ですが、南西の本来の排気孔へ入った風は戻っていません」
「なら、南西だけ残します」
アトカは北側へ伸ばしていた霧を薄くし、南西へつながる一本を見失わない程度に残した。
蒼風高原で見た道とは違う。
あの古い排風路は、風が通った後の場所を空けて、次の風を外へ返していた。
ここに作られた偽物は、出口の形だけを真似ている。
風を狭い場所へ誘い、途中で中央へ戻し、また圧力を上げる。
道ではない。
袋小路だ。
「……やっぱり、閉じ込めています」
アトカが呟く。
「ええ」
エルマも観測眼鏡越しに模造装置を睨んだ。
「蒼風高原の形を真似たつもりでしょうけれど、肝心なところがありませんわ。外へ返す場所がない」
その時、エルマの視線が止まった。
「待ってくださいまし」
観測眼鏡の角度を変える。
中央の風圧蓄積器。
そこから伸びる三本の供給線。
さらに、その周囲。
屋根の裏に二枚。
導風板の陰に二枚。
既存設備の図面にはない、小さな板が埋め込まれている。
「四枚……」
「何だ?」
ギルベルトが尋ねる。
「観測板ですわ」
エルマの声が硬くなった。
「二枚は装置内部の圧力変化を取っています。残り二枚は……水属性魔力がどこへ触れたかを拾う構造です」
アトカが顔を向けた。
フレデリックはすぐに確認する。
「外への通信は?」
結界班長が答えた。
「未登録回線は遮断済みです。学園の緊急回線以外、外へは通していません」
「なら、今は内部記録だけだね」
フレデリックの視線が観測板へ移る。
「壊さない。外さない。後で設置者と目的を調べるための証拠だ」
「承知しましたわ」
エルマは観測板へ水を近づけなかった。
水属性を拾う板なら、自分の介入まで混ざる可能性がある。
代わりに石床から土をせり上げ、風が直接当たる側へだけ低い庇を作った。
板にも接続部にも触れない。
「観測板四枚、直接接触なし。土で風上側のみ保護」
ギルベルトが懐中時計へ目を落とす。
「時刻、記録した」
「ありがとうございます」
エルマはすぐに視線を中央へ戻した。
証拠を見つけても、今は止めるべき設備がある。
「三本の供給線が生きていますわ。排風量は上がりましたけれど、このままではまた中央の圧力が増えます」
アトカも供給線へ視線を向けた。
だが、水で断とうとはしなかった。
「壊したら、どうなりますか?」
設備技師が答える。
「今の状態で無理に切れば、蓄積器側へ逆流する可能性がある。正規の遮断具なら一本ずつ止められるが、一つにつき三秒は必要だ」
ギルベルトが懐中時計を握り直す。
「三本なら、三回だな」
フレデリックが頷く。
「設備班が遮断する。ギルベルト君は、その間に来る供給脈動を遅らせなさい」
次にアトカを見る。
「供給線そのものは切らない。君には過熱を抑えてもらう。排風経路の維持が最優先だ」
「はい」
アトカは水を細くした。
一本目の供給線へ薄い水膜を添える。
線を砕かない。
内部の魔力へ無理に触れない。
表面へ溜まった熱を水へ逃がし、遮断具が焼き付かないようにする。
「準備できました!」
設備技師が叫ぶ。
中央で次の風圧が膨らんだ。
「来ますわ!」
エルマが位置を示す。
ギルベルトが指を動かした。
次の脈動が三秒遅れる。
「今だ」
設備技師が一つ目の遮断具を回す。
重い金属音。
一本目の供給線から青白い光が消えた。
遅らされていた脈動が来る時刻を過ぎる。
ギルベルトは時計から目を離さない。
「一本目、再供給なし」
二本目。
アトカが過熱を抑える。
エルマが中央の圧力を読む。
ギルベルトが次の三秒を作る。
設備技師が遮断する。
二本目の光も消えた。
「二本目も戻らない」
残る一本。
三本目だけは、すでに不安定に震えていた。
線の表面を青白い光が走り、中央の蓄積器が大きく脈打つ。
屋根の残骸が浮いた。
「東側、裂けますわ!」
三本の風が同時に噴き出した。
一つは結界班が外へ流す。
もう一つはギルベルトが発現を遅らせる。
最後の一本だけが、遮断具へ手を掛けた設備技師へ向かった。
アトカの水が動く。
風全部ではない。
人へ届こうとしている、その先端だけ。
青白い刃へ水が触れる。
風属性魔力の危険な先端が透明な水へ変わり、勢いを失った。
その水を、アトカは地面へ落とさない。
細い流れへ変え、すでに開いている南西の排風経路へ合流させる。
同時に、三本目の供給線へ薄い水膜を添えた。
「今です!」
ギルベルトが最後の供給脈動を遅らせる。
「三秒作る」
設備技師が遮断具を回した。
一秒。
中央の蓄積器が震える。
二秒。
屋根の残骸が軋む。
三秒。
金属が噛み合う重い音とともに、最後の供給線から光が消えた。
「主供給、遮断!」
設備技師の声が響く。
ギルベルトはまだ時計を見ていた。
遅らせた脈動が戻る時刻を越える。
一拍。
二拍。
新しい光は生まれない。
「再供給なし。止まった」
エルマも観測眼鏡で確認する。
中央の圧力は、もう増えていなかった。
「新規供給、確認できませんわ。残っているのは耐圧室の中の風だけです」
フレデリックがすぐに次を決める。
「なら、最後まで外へ返す。アトカ君、新しい経路は作らず、今の一本だけを維持しなさい」
「はい」
ここから先は、急ぐ必要がなかった。
増えないなら、残っているものを順番に抜けばいい。
アトカは水を増やさなかった。
南西の排気孔へ続く細い水。
曲がった排風管の内側を滑らかにする水膜。
半壊した旧排風塔で、風が壁へぶつからないよう添えた薄い曲面。
出口に残した水の輪。
全部が一本の道としてつながっている。
青白い風がそこを通る。
最初はまだ荒い。
曲がり角へぶつかろうとするたび、アトカは水膜の角度をほんの少しだけ変えた。
押さえつけない。
引っ張らない。
外へ出ようとする流れだけを邪魔しない。
「旧排風塔、中段の反射が減りましたわ」
エルマが告げる。
「そのままで大丈夫です」
風が上がる。
旧排風塔の上から噴き出し、結界班の広い誘導膜へ渡る。
そこから先は、アトカの仕事ではない。
結界班が、人のいない上空へ流していく。
一本。
また一本。
青白い柱が次第に細くなった。
屋根を震わせていた音が低くなる。
石壁を削っていた裂け目も消えていく。
エルマが圧力計と観測眼鏡を交互に見た。
「安全域へ入りますわ」
少しして、もう一度。
「再上昇なし。大丈夫です」
フレデリックが頷いた。
「アトカ君。内側から順に終わらせなさい。出口は最後だ」
「はい」
アトカは役目を終えた水から消していった。
供給線の水膜。
外周へ向かう裂け目を逸らしていた膜。
排風管の曲面。
旧排風塔の内側。
最後まで残ったのは、塔の上部にある水の輪だった。
残っていた風が一筋だけ、そこを通る。
夕暮れの空へ抜ける。
音が消えた。
アトカは水の輪をほどいた。
白い霧が風に散る。
実験場が、ようやく静かになった。
「停止完了」
設備技師が主供給盤を確認する。
結界班長も外周を見回した。
「外への新規流出なし」
供給核、三本の魔導線、四枚の観測板には、成人職員が証拠保全用の封を施していく。
模造装置の一部は壊れている。
それでも、調べるべきものは残った。
爆発も起きなかった。
停止作業で新しい負傷者も出ていない。
救助された生徒二人と、救助時に足首を痛めた教師一人はいずれも軽傷で、すでに医務室へ移っていると連絡が入った。
ギルベルトが実験場を見渡した。
「派手だった割に、ずいぶん残ったな」
エルマが観測板を見たまま答える。
「残したのですわ」
設備を止めたからといって、証拠まで壊しては意味がない。
アトカも、封を施されていく模造装置を見ていた。
「この装置は、風を外へ逃がすために作られていませんでした」
「そうですわね」
「誰かに何かを見せるために、風を閉じ込めていた」
アトカはそこで言葉を止めた。
誰を。
何のために。
そこまでは、まだ分からない。
だから決めつけない。
それでも、取り残された二人の姿は見た。
救助に入った教師も怪我をした。
「もし、誰かを試すために人を危なくしたのなら」
アトカは壊れた屋根を見上げた。
「僕は嫌です」
怒鳴り声ではなかった。
それでも、はっきりしていた。
エルマは何も言えなかった。
昨日、自分も考えた。
条件を変えれば何が分かるのか。
もう一度試せば、もっと近づけるのではないか。
知りたいという気持ちは、今もある。
だからこそ、目の前の装置が不快だった。
知りたい側が、知るための危険を他人へ払わせている。
「……残しますわ」
エルマが言った。
ギルベルトが顔を向ける。
「何を?」
「起きたことをです」
エルマは封を施された供給核と観測板を見る。
「ただし、一冊にはしません」
フレデリックが静かに続きを待つ。
「一般へ出すのは、閉鎖施設で非正規装置が作動し、三名が軽傷。学園側が救助と設備停止を行い、現在も警備調査中であることまで」
指を一つ立てる。
「装置の供給核、魔導線、導風板、未登録通信、設置痕跡は警備技術記録へ」
もう一つ。
「そして、観測板が水属性魔力の接触位置を記録していたこと。その記録から個人の行動や能力範囲を推定できる部分は、一般の警備記録から分離します」
アトカがエルマを見る。
「消すんじゃなくて?」
「消しません」
エルマは即答した。
「誰でも読める場所へ置かないだけです」
「犯人を調べる人は読めますか?」
「必要なら。ただし、何を調べるために読むのかを先に決めてもらいます。ほかの任務記録と勝手に重ねることもさせません」
フレデリックが頷く。
「その方針で進めよう」
エルマは一度、深く息を吸った。
昨日までなら、観測板に残った水の記録を自分でも見たかった。
どこへ触れたのか。
何秒だったのか。
どの範囲へ広がったのか。
けれど今、自分へ閲覧権限はない。
警備調査に必要な人間が、必要な目的で扱えばいい。
自分が知りたいからという理由では、開かない。
ギルベルトが封印された観測板へ目をやる。
「俺たちの現場での動きは?」
「学園内部の任務判断記録へ残しますわ」
エルマは答えた。
「私がどこを見たか。貴方がどの風を遅らせたか。設備技師へ三秒を何度作ったか。アトカ君が何を変え、何を変えなかったか。成人側へどこを渡したか」
そこでアトカを見る。
「ただし、確認してもらうのは貴方自身の行動について書いた部分です。今日ここで戦ったからといって、観測板の中身まで確認する役目はありませんわ」
アトカは少し考え、それから頷いた。
「はい」
夕暮れの空には、もう青白い風はなかった。
古い排風塔の上を、普通の風だけが通り抜けていく。
偽物の風路は止まった。
けれど、四枚の観測板は残った。
誰が置いたのか。
誰へ結果を渡そうとしていたのか。
本当にアトカを狙ったものだったのか。
まだ答えはない。
エルマは封印された装置を見つめた。
分からないものを、分かったことにはしない。
けれど、分からないからといって消しもしない。
そのための記録を、今度こそ残さなければならなかった。




