書きたい令嬢
ルガン・フェルナーが学園を去った翌朝、特等枠ラウンジへ一通の照会書が届いた。
差出人は魔導局記録監査課。
件名は、蒼風高原魔導水路異常に関する追加資料提出依頼。
エルマは円卓で最後まで読み、眉間へ皺を寄せた。
「……嫌なところを突いてきますわね」
ソファで魔石を噛んでいたバルトロが顔を上げる。
「またあの監査官か?」
「本人からではありません。昨日の監査所見を受けた、記録監査課からの正式な追加照会ですわ」
「正規なら答えりゃいいだろ」
「一つずつなら、です」
エルマは照会書を円卓へ置いた。
求められているのは、旧式排風路の機能を示す資料、風結晶の概略分布、任務前後の水路圧変化、生徒二名の対応経緯、水制御の機能分類、そして標準様式の術式展開記録が存在しない理由。
どれも、事故記録を確認する項目としてはおかしくない。
けれど、並べれば話が変わる。
ギルベルトが古い銀色の懐中時計を開いた。
「旧式排風路の位置。水路圧が変わった時刻。アトカがいた場所。何をしたか」
「ええ。それぞれ別なら設備事故の記録ですわ」
エルマは指先で項目を一つずつ追う。
「ですが、重ねれば、現地で水を使った者がどの範囲を捉え、どの時点で何へ作用したのかを推定できます」
アトカは円卓の向かい側で、静かに照会書を見ていた。
「僕のことを直接聞いていなくても、分かることが増えるんですね」
「そうですわ」
エルマは即答した。
「封じた記録を見なくても、その周りにある正しい記録を集めれば、形だけ見えることがあります」
リリシアが心配そうにアトカを見る。
「また直接のお話を求められるんでしょうか」
「今回は書面だけです」
エルマは末尾を示した。
「直接確認が必要になった場合は、質問項目と目的を改めて提出するとあります」
アトカは少し考えた。
「その時は、先に質問を見せてもらいます」
ギルベルトが頷く。
「それでいい。聞かれたその場で全部答える必要はない」
「分からないことは、分からないと言います。どこまで答えていいか分からなければ、フレデリック先生に確認します」
「答えたくないものも断っていい」
「はい。覚えています」
窓際にいたカインが低く言った。
「俺も、すぐには答えない」
アトカが顔を向ける。
「カイン先輩も?」
「一度持ち帰る」
その短い返事に、アトカは少し嬉しそうに頷いた。
エルマは羽根ペンを取った。
「では、こちらから余計なものを渡さないよう、必要な事実だけ整理しますわ」
最初の項目は、旧式排風路の機能。
エルマは数行書き、読み返す。
現在設備とは独立して上空へ続き、塔内部に蓄積した風圧を逃がした安全経路である。
それだけ残し、入口の正確な位置や内部の詳細構造は書かなかった。
「細かい構造が再発防止に必要だと言うなら、記録監査の照会とは別です」
ギルベルトが言う。
「設備検証として目的と閲覧範囲を出させる」
「ええ」
次は、風結晶の分布。
中継塔内部の複数箇所で長期成長した結晶が確認されたこと。
二次異常核の形成と、現行の魔導弁・排風口の閉塞へつながったこと。
そこまで。
具体的な破断位置や、設備防護に関わる細部は書かない。
エルマが対応経緯へ進んだところで、窓際から声が飛んだ。
「違う」
「何がですの?」
カインは、エルマの草案を見ていた。
そこには、
異常結晶を破壊。
と書かれている。
「全部じゃない」
エルマの羽根ペンが止まった。
「俺が壊したのは、必要なところだけだ。残したものもある」
アトカも頷く。
「制御晶も、全部壊していません」
エルマはすぐにその一文へ二重線を引いた。
「……そうでしたわね。簡単にしようとして、意味まで削るところでした」
書き直す。
派遣生徒は、既存設備への損傷を避け、成人側が許可した危険箇所のみを選択的に処置した。
カインが読む。
「それでいい」
「具体的な破断位置は書きませんわよ」
「書くな」
迷いのない返事だった。
エルマは次の項目へ進んだ。
水制御の機能分類。
監査課が求めている欄には、既存術式分類を記すための細かな枠が並んでいる。
エルマは少し考え、そこを埋めなかった。
代わりに、機能だけを書く。
避難経路の確保。
局所的な危険の緩和。
排風経路の確認と維持。
アトカが僅かに首を傾げた。
「エルマ先輩」
「何ですの?」
「『風圧を分散した』とは書かないんですか?」
「前の案では書こうと思っていましたわ」
エルマはアトカを見る。
「でも、貴方は違うと感じたのでしょう?」
「はい。僕が風を細かく分けて動かしたわけではないです」
アトカは少し考えながら言葉を選ぶ。
「人や水路へ向かう危ない風を水膜で受けたところはあります。でも、最後の大きな風は、排風路が開いたからそっちへ抜けました。僕が押し込んだわけではありません」
「なら、その二つを分けますわ」
エルマは書き直した。
水制御は、避難経路の確保、局所的な風圧危険の緩和、排風経路の確認および維持に使用された。
旧式排風路への風圧移行は、水による直接的な圧送ではなく、既存の低抵抗経路が再び使用可能となったことで生じた。
エルマは紙をアトカの方へ向ける。
「これなら?」
アトカは読んでから頷いた。
「はい。僕がしたことに近いです」
「近い、では困りますわ。違うところがあれば言いなさい」
「今は大丈夫です」
「なら結構です」
次は、標準様式の術式展開記録が存在しない理由。
ここでエルマの羽根ペンは止まらなかった。
当該任務は、専用観測器材を事前配置して実施する検証任務ではなく、進行中の設備事故への緊急対応であった。
そのため、実験用の標準様式による連続観測記録は取得していない。
設備側の観測値、現地管理部の記録、任務当事者の報告を事故検証資料として保存している。
ギルベルトが読み、頷く。
「『記録が不足している』とは書かないんだな」
「不足しているのではありません。目的が違いますもの」
エルマは羽根ペンを置いた。
「事故を止めるために行った任務へ、後から『なぜ実験用の測定をしていない』と言われても困りますわ」
「それはそうだ」
バルトロが頷き、また魔石を噛んだ。
そこまでで、照会への回答はほとんど埋まった。
エルマは一度、全体を読み返す。
そして、手を止めた。
答えていない欄が二つある。
制御作用範囲。
既存術式との比較分類。
書こうと思えば書ける。
公開可能な地図と水路圧の時刻、アトカの証言を重ねれば、おおよその作用範囲を推測できる。
既存の水属性術式と比較して、似ている点と違う点を並べることもできる。
だが、今回の照会は、学外公開版の事故記録を確定するためのものだ。
そこまで必要ではない。
エルマは二つの欄へ二重線を引いた。
その横に書く。
本照会目的外。回答しない。
アトカがその手元を見ていた。
「そこは、分からないから書かなかったんですか?」
エルマは顔を上げる。
「いいえ」
「分かるけど、書かない?」
「正確には、調べればもっと書けるかもしれない。でも、今回それを調べる理由がありません」
アトカは二重線を見つめた。
「書かなかった理由も、残すんですね」
エルマの手が止まる。
昨日、自分が考えたことと同じだった。
「……ええ」
今度は、その理由まで正式な注記へ変える。
作用範囲の推定および既存術式との比較は、本照会の目的である事故記録の事実確認に必要ではなく、個人能力の推定へつながるため回答対象外とする。
ギルベルトが紙を覗き込む。
「名前を消して出せば安全か?」
「いいえ」
エルマはすぐ答えた。
「名前を消しても、別の記録と照らせば戻せます」
アトカが首を傾げる。
「戻せる?」
「例えば、この紙に名前がなくても、任務の日付と場所と担当を書けば、誰が行ったかを別の任務記録から探せますでしょう?」
「あ……」
「匿名にしただけでは、十分ではありませんわ」
エルマは新しい用紙を引き寄せた。
「学園長へ一つ提案します」
「何を?」
「目的の違う記録を横に並べる時にも、許可を必要とすることです」
ギルベルトの目が僅かに細くなる。
「横断照合か」
「ええ」
エルマは書き始める。
技術記録と個人別任務記録を横断して照合する場合は、利用目的、対象記録、閲覧者を明示し、別途許可を要する。
バルトロが顔をしかめた。
「名前消して、別の紙と見比べるのも駄目ってことか」
「目的もなくやるなら、ですわ」
「ますます面倒だな」
「人一人を資料の寄せ集めで丸裸にできるよりはましです」
その言葉に、ラウンジが少し静かになる。
エルマは言ってから、自分でも重さを感じた。
昨日ルガンがしたのは、規則違反ではなかった。
今日届いた照会も、どれか一つだけならおかしくない。
だからこそ、怖い。
正しい資料を正しい手続きで集めても、目的を広げ続ければ、やがて本人が渡していない情報まで見えてしまう。
窓際から、カインが低く言った。
「エルマ」
「何ですの?」
カインは完成しかけた回答案を見ていた。
「俺のことも、そこまででいい」
「具体的な破断位置や拘束具の情報は出しませんわ」
「……助かる」
エルマは一瞬だけ目を見開いた。
「当然ですわ。必要のない情報を渡していないだけです」
「それで助かる」
「二度言わなくても聞こえています!」
声が少し上ずった。
バルトロが笑いかけたが、ギルベルトに見られて口を閉じる。
アトカは、回答案の一番下を見ていた。
「僕たちは、これに同意するんですか?」
エルマはすぐには答えなかった。
言葉を選ぶ。
「まず、学園側が回答範囲を決めます。その後で、貴方とカインさんには、自分がしたことについて書かれた部分だけを確認してもらいます」
「確認したら、ほかのことにも使っていいことになりますか?」
「なりません」
エルマははっきり答えた。
「事実確認は、書かれていることが正しいか確かめるだけです。別の研究や別の照会へ使う許可ではありません」
アトカはほっとしたように頷く。
「分かりました」
「それから、今は追加面談を求められていません。ですから、当事者だからという理由だけで、貴方が説明役を続ける必要もありませんわ」
「ここにいていいんですね」
「当然でしょう」
アトカが小さく笑った。
エルマは書類を揃える。
追加照会への回答案。
回答しなかった項目と、その理由。
そして、横断照合を制限するための提案書。
朝に比べれば、紙は三枚増えただけだった。
けれど、昨日まで見えていなかった問題が一つ、形になっている。
扉を開く前に、エルマは円卓を振り返った。
アトカは香草茶へ口をつけている。
カインは窓際へ戻った。
ギルベルトは懐中時計を開き、リリシアは静かにアトカの隣へ座っている。
バルトロはまた魔石を噛んでいた。
この時間は、どの事故記録にも書かれない。
だからといって、存在しないわけではない。
エルマは胸の書類を抱え直した。
「行ってきますわ」
「おう。今度は怒鳴り込むなよ」
バルトロの声が飛ぶ。
エルマは振り返らない。
「必要なら怒鳴りますわ!」
「やっぱ怒るんじゃねぇか!」
ラウンジに笑い声が残った。
エルマは少しだけ口元を緩め、廊下へ出る。
書かなかった二つの欄が頭に浮かぶ。
空白ではない。
書き忘れでもない。
誰かの能力を、事故記録のついでに測らせないために閉じた場所だ。
そして今度は、その紙を別の紙と勝手につなげさせない。
記録すること。
伏せること。
照らし合わせること。
そのどれにも、目的が要る。
エルマは三枚の書類を抱え、学園長執務室へ向かった。




