知りたがる来訪者
限定説明票を閲覧した翌朝、エルマは特等枠ラウンジの円卓で羽根ペンを走らせていた。
机の上にあるのは、蒼風高原任務の判断記録原案と、公開を許された範囲の資料だけだ。
昨日見た青灰色の封筒も、旧式排風路に残っていた風の拍についての記録も、ここにはない。
エルマは一行を書き、すぐに消した。
「……違いますわね」
向かいのソファで魔石を噛んでいたバルトロが片目を開ける。
「朝から何と喧嘩してんだ」
「文章ですわ」
「勝てそうか?」
「勝つまで終わりません」
エルマは苛立たしげに羽根ペンを持ち直した。
残したいのは、珍しい現象ではない。
アトカが最後に見る道を一本へ絞ったこと。
カインが壊せるものを全部壊さず、残すべき場所を見て止まったこと。二人が緊急状態の後を現地の成人へ渡したこと。
昨日知った、古い風路の拍とアトカの水の周期一致、そしてキルウェスタの私的判断を加えれば、文章は目を引くだろう。
だが、それはここへ書くために見せられた情報ではない。
エルマは原案の余白へ、短く記した。
本記録には、任務中の判断と役割移譲のみを記載する。閲覧制限情報を根拠とした推測を補足しない。
そこでようやく、羽根ペンが止まらず進んだ。
「……これなら、いいですわ」
「何がだ?」
「知らなくても書けることを、知っているからという理由で増やさないことです」
「やっぱ面倒くせぇな、記録」
「貴方は昨日も同じことを言っていましたわね」
「今日も面倒だからな」
円卓の反対側では、ギルベルトが古い銀色の懐中時計を開いていた。口元だけが少し笑っている。
そこへアトカが、深い受け皿に載せた香草茶を運んできた。
「エルマ先輩、ここなら大丈夫ですか?」
「もう少し右ですわ。資料から離して」
「はい」
アトカは真剣な顔で受け皿を動かした。
エルマは、その手元を一瞬だけ見た。
昨日、自分はアトカに関係する限定情報を読んだ。
アトカ自身は中身をまだ知らない。記録整理のためエルマだけに見せることを了承しただけだ。
だから、ここで確かめるつもりはなかった。
「アトカ君」
「はい?」
「昨日の件について、私から質問することはありませんわ」
アトカは少し目を丸くした後、頷いた。
「はい」
「必要な時に、説明するべき方から説明があります。それまでは、それで構いません」
「分かりました」
それだけで会話は終わった。
エルマは香草茶へ手を伸ばす。
自分でも少し驚いた。
昨日までなら、知った直後に聞きたいことが十は浮かんでいたはずだ。
今も浮かんでいる。消えたわけではない。
ただ、聞いてよい理由がない。
その時、ラウンジの扉が叩かれた。
入ってきた事務官が一礼する。
「失礼いたします。学園長より伝言です。本日午後、魔導局の記録監査官が来校されます。蒼風高原の学外公開記録について確認を行うとのことです」
エルマの羽根ペンが止まった。
「本日?」
「はい。ルガン・フェルナー殿です」
ギルベルトの灰色の瞳が僅かに細くなる。
「知っていますの?」
「名前だけな。細かい監査をすることで有名だ」
バルトロが顔をしかめる。
「面倒な奴か」
「有能な監査官だ」
ギルベルトは懐中時計を閉じた。
「たぶん、その方が面倒だ」
午後、学園長執務室には穏やかな緊張があった。
ルガン・フェルナーは、拍子抜けするほど礼儀正しい男だった。
淡い灰茶色の髪を整え、細い銀縁の眼鏡をかけている。魔導局の紋章入りの外套にも乱れはない。
「短い予告での訪問となり、失礼いたしました。フレデリック学園長」
「構いません。公開記録の確認なら、こちらにも必要なことです」
室内にいるのは、フレデリック、ルガン、エルマ、ギルベルトの四人だった。
アトカとカインは最初から同席していない。
本人への確認が必要になった時だけ、一人ずつ呼ぶことになっている。
質問の範囲も公開記録の事実確認までだ。
ルガンは机の上に置かれた修正版へ目を落とした。
視線が止まったのは、旧式排風路についての一文だった。
「現在設備とは独立した旧式排風路を再開通し、蓄積した風圧が上空へ抜ける経路を確保した……」
静かに読み上げ、顔を上げる。
「ここを確認させてください。長期間使われていなかった経路が、入口の閉塞を取り除いただけで、あの規模の風圧を安全に逃がせたのですか?」
エルマは、来た、と思った。
質問そのものはおかしくない。
むしろ監査官なら確認して当然だ。
フレデリックも表情を変えなかった。
「旧式排風路には、現在の魔導弁とは別に上空へ抜ける低抵抗の石組みが残っていました。学生たちだけの判断ではなく、現地管理側が外部の開口も確認しています。その経路を先に開いたことで、内部の風が現在設備や水路へ戻ることを避けられました」
「なるほど。では、生徒が風そのものを押し出したわけではない?」
「そのような記録にはなっていません」
ルガンの視線が、今度はエルマへ向く。
「修正意見を作成されたのは、ガトランド嬢ですね」
「魔導科四年、特等枠のエルマ・ガトランドです」
「旧式排風路を『復旧された旧式設備』ではなく、『再び使える状態になった独立経路』と直すよう求めている。理由は今のお話で理解しました」
「それなら結構ですわ」
ルガンは僅かに笑った。
「率直ですね」
「遠回しに言う必要がございませんもの」
次に彼が指したのは、学生二人の対応部分だった。
「既存設備への損傷を避けながら危険箇所を選択的に処置し、緊急状態終了後は現地成人へ引き継いだ。こちらも、以前の原案より慎重な表現です」
「慎重なのではありません。実際にそうしたのですわ」
「では、カイン・デイスター君の破断位置について、公開可能な記録はありますか?」
「具体的な位置と深度は公開対象外です」
エルマは即答した。
「公開できるのは、現在設備へ必要な接続を残し、許可された危険箇所だけを処置したという事実までです」
「設備保護のため?」
「設備保護だけではありません。壊した後に何が起きるかまで含めて安全を確認するためです」
ルガンは一度だけ頷き、それ以上カインの破断箇所を追わなかった。
代わりに、別の行へ指を移す。
「アトカ・アッシュフォード君は、流れの確認と安全経路の確保を担当した、と」
エルマの背筋が僅かに硬くなる。
「ええ」
「魔導科一年ですね」
「特等枠ですわ。通常課程の一年生と同じ実習内容ではありません」
「杖は?」
「使用していません」
「任務のために持ち込まれた特別な外部装置は?」
一つずつなら、妙な質問ではない。
だが、エルマは答える前にルガンを見た。
「任務専用の外部装置はありません。ただし、個人の装具が魔術へどう関与するかという質問であれば、今回の監査範囲外です」
ルガンはすぐに頷いた。
「承知しました。では、術式の展開過程を連続して記録した観測資料は?」
「ありません」
「取得できなかった?」
「取得するための任務ではありませんでした」
エルマの声が少し強くなる。
「進行中の設備事故への緊急対応です。設備側の観測値、現地管理部の記録、当事者の報告は残っています。しかし、生徒を観測対象として配置した検証任務ではありません」
ルガンは眼鏡の奥で目を細めた。
「なるほど。不足ではなく、目的が違う」
「そうですわ」
「失礼しました」
謝罪まで淀みがない。
それがエルマを警戒させた。
乱暴に踏み越えてくる相手なら止めやすい。
この男は、境界へ触れるたびに、境界だと示せばきちんと手を引く。
その代わり、次の正当な質問へ進む。
ルガンは資料を閉じた。
「当事者へ一つだけ確認をお願いできますか。アッシュフォード君が、自分の行った処置を公開記録の表現でどう捉えているか伺いたい」
フレデリックがエルマを見る。
問題のない範囲だった。
「本人へ確認します」
しばらくして、アトカが入室した。
「アトカ・アッシュフォードです」
丁寧に一礼する。
ルガンも座ったまま軽く頭を下げた。
「初めまして、アッシュフォード君。今日は公開する事故記録の言葉が、君の経験と違っていないか確認したいだけです。答えにくいものは答えなくて構いません」
「はい」
アトカはフレデリックの近くへ座った。
ルガンは最初に、カインについて尋ねた。
「記録には、カイン君が危険箇所を選択的に処置したとあります。君から見ても合っていますか?」
アトカはすぐに頷く。
「はい。カイン先輩は、壊せるものを全部壊したわけじゃありません。壊していいところを見て、残すところは残してくれました」
「なるほど」
ルガンのペンが動く。
「では、君は何を選んだのですか?」
アトカが一瞬止まった。
「僕が、ですか?」
「ええ。カイン君が壊す場所を選んだ。なら、君にも何か選んだものがあったのでは?」
口調は柔らかい。
質問だけを聞けば、任務中の判断を確かめているようにも見える。
けれど範囲が広い。
何を観測したか。
何を感じたか。
何へ魔力を使ったか。
どこまで届いたか。
全部を含めて答えられてしまう。
アトカは少し考え、フレデリックを見た。
「フレデリック先生。これは、どこまで答えていい質問ですか?」
ルガンのペンが止まった。
エルマも、知らず息を止めていた。
フレデリックは穏やかに答える。
「公開記録へ載せる任務上の判断までだよ。身体の感覚や、公開していない観測について話す必要はない」
「分かりました」
アトカはルガンへ向き直った。
「最後に、僕が見る道を一つにしました」
「一つに?」
「はい。全部を僕が見ようとすると、カイン先輩が見てくれているところまで重なってしまうので。僕は、風が外へ抜ける道を見ることにしました」
エルマは僅かに目を細めた。
答えは正確だった。
昨日自分が知ったことへは触れていない。
ルガンも、それ以上そこを広げず、次の質問へ移った。
「公開案では、君が風圧の流れを安定させた、とあります。この表現はどうでしょう」
アトカは少し困った顔をした。
「僕が安定させた、だと少し違うと思います」
「どう違いますか?」
「風を僕の行きたい方へ動かしたわけじゃないです」
アトカは言葉を探した。
「閉じていた道を見つけて、通れるようになった後に、風がそっちへ抜けました。僕の水は、その道を見失わないように置いていました」
「水で風を押したのではない?」
「はい」
「風を水へ変えた?」
「いいえ」
ルガンのペン先が一瞬止まる。
エルマの視線が鋭くなった。
質問はまだ公開範囲から外れていない。
事故時に風をどう処理したかを確認しているだけだ。
それでも、問いの積み重ね方が気になった。
ルガンはさらに尋ねる。
「では、道が開いたと判断したのは、何を見たからですか?」
アトカはまた少し考えた。
今度は自分で答えを止めた。
「そこは、設備の観測記録と一緒に確認した方がいいと思います。僕の感じ方だけで答えると、違う意味になるかもしれません」
ルガンが顔を上げた。
ほんの僅かに、楽しそうな色が眼鏡の奥へ浮かぶ。
「なるほど。よい答えです」
エルマは、その言葉が好きではなかった。
正解を出した生徒を褒めているようでいて、何か面白いものを見つけた時の声にも聞こえた。
フレデリックが口を開く。
「公開記録についての本人確認は、ここまでで十分だろう」
「ええ。私もそう思います」
ルガンはあっさり引いた。
「ご協力ありがとうございます、アッシュフォード君」
「はい。失礼します」
アトカは一礼して部屋を出た。
扉が閉まる。
ルガンは記録帳を見直し、ゆっくり言った。
「修正案の方が適切でしょう。『生徒が風圧を安定化した』ではなく、『旧式排風路が再び使用可能となり、蓄積した風圧が上空へ抜けた』。学生の行動は、その経路確保を補助した、と分ける方が事実に近い」
「異論ありませんわ」
エルマは答えた。
ルガンはさらに一枚、確認票へ印を入れる。
「公開記録の範囲については以上です」
思ったより素直に終わった。
だからこそ、エルマは気を抜かなかった。
案の定、ルガンは書類を揃えながら、何気ない調子で続ける。
「ただ、個人的には興味深い事案でした。現在設備とは別の経路を見つけ、そこへ一年生が適切に水を置いた。完全な観測記録がないのが惜しい」
「ルガン殿」
フレデリックの声は穏やかだった。
だが、そこで空気が変わった。
「監査は終わりました」
一拍の沈黙。
ルガンは微笑んだ。
「失礼。職業柄、空白を見ると確かめたくなるもので」
「必要な確認は、正式な照会で」
「もちろんです」
ルガンは立ち上がった。
「本日はありがとうございました。追加資料が必要になった場合は、資料名、利用目的、希望範囲を明記して改めて申請します」
「そうしてください」
最後まで、手続き上の違反は何もなかった。
ルガンは丁寧に礼をし、執務室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も口を開かなかった。
エルマは、張っていた肩から力を抜く。
「……嫌いですわ」
ギルベルトが低く笑った。
「早かったな」
「十分です」
「俺も得意な相手じゃない」
フレデリックは机の上の確認票を見ていた。
「彼は監査官として間違ったことはしていない」
「分かっていますわ。それが余計に嫌なのです」
エルマは椅子へ背を預けた。
「一つずつなら、どれも答えてよい質問でした」
「でも、全部並べると違う」
ギルベルトが懐中時計を開く。
「輪郭ができるな」
エルマが彼を見る。
「ええ」
ルガンは、古い風路の拍も周期一致も、キルウェスタの私的判断も知らない。
それでも、公開された事実と答えられなかった場所を並べれば、何かが伏せられている輪郭までは見える。
フレデリックが静かに言った。
「だから、秘密の記録だけを厳重に閉じれば終わりではない」
エルマの視線が机上の公開記録へ落ちる。
「書かなかった場所まで、情報になる」
「そういうことだ」
ギルベルトが時計の蓋を閉じた。
「ただし、あいつが最初からアトカだけを狙って来た、とまでは決めるな」
エルマは眉を寄せる。
ギルベルトは続けた。
「カインへの確認を深くしなかったのは、設備側の記録で足りたからかもしれない。アトカへ質問が増えたのは、公開文の表現と本人の説明に差があったからかもしれない」
「可能性としては、ですわね」
「ああ。見たことと、考えたことは分けろ。お前の得意分野だろ」
「言われなくても分かっていますわ」
返しながらも、エルマは否定できなかった。
嫌いだと思った。
怪しいとも思った。
けれど、それを事実として記録してはいけない。
残せるのは、ルガンがどんな質問をしたか。どの質問で回答範囲を確認したか。
どこから先は正式照会を求めたか。そして、本人が手続きを破らなかったこと。
そこまでだ。
「エルマ君」
フレデリックが呼ぶ。
「はい」
「朝の原案を、少し変えた方がよさそうだね」
エルマも同じことを考えていた。
「非掲載理由だけでは足りませんわ」
「うん」
「公開できる情報同士でも、並べ方によって個人の能力を推定できる可能性があります」
昨日まで気にしていたのは、一つの記録の中で何を書くかだった。
今は違う。公開記録、設備記録、時刻、目撃証言。それぞれが正しくても、横に並べれば別のものが見える。
「横断して照合する時にも、目的が必要ですわね」
フレデリックが頷いた。
「その案を作ってみてくれ」
「承知しました」
ギルベルトが少し笑う。
「また仕事が増えたな」
「誰のせいだと思っていますの」
「少なくとも俺ではない」
「分かっています。それも腹立たしいですわ」
立ち上がったエルマは、任務判断記録の原案を抱え直した。
朝より紙の枚数は増えていない。
けれど、書くべきことは一つ増えた。
秘密を守るとは、秘密の紙だけを閉じることではない。
正しい公開情報でも、別の目的で重ねれば、誰かの輪郭を作れてしまう。
ならば、何を非公開にしたかだけでなく、何と何を照合してよいのかも決めなければならない。
廊下へ出る前に、エルマは一度だけ振り返った。
「学園長」
「何かな」
「アトカ君には、今日のことをどこまで伝えますの?」
フレデリックは少し考える。
「監査官が公開記録を確認したこと。アトカ君の返答に問題はなかったこと。今後、追加照会が来れば、その都度本人へ必要な範囲を説明する。それで十分だろう」
「昨日の限定情報については?」
「まだ私たちから広げない」
「分かりましたわ」
エルマは頷いた。
自分だけが知っている。
今日のルガンの質問へ、昨日の答えを一つ添えれば、綺麗に説明できたところもあった。
それをしなかった。
できなかったのではない。
しないと決めた。
エルマは扉を開けた。
朝、円卓で書いた一文を思い出す。
知っているからという理由で、増やさない。
今度は、その先だった。
書いてよいものだからという理由で、好きなように繋げない。
石造りの廊下を歩きながら、エルマは新しい確認欄の名前を考える。
横断照合制限。
少し硬い。
けれど、意味は正確だ。
エルマは小さく頷いた。
「それでいきますわ」
昨日まで見えていなかった境界が、今度は一本、はっきり見えていた。




