兄と壊す少年
中層の雑貨屋は、傾斜街道を下りきる少し手前にあった。
白い石壁の間に挟まれた小さな店で、扉の上には木彫りの鳥が吊るされている。
風が吹くたびに鳥の翼がかすかに揺れ、店先に並べられた小箱や筆入れ、飾り布が陽を受けて柔らかく光っていた。
ルトは店の前で足を止めた。
「ここだ。戦技科の先輩に教えてもらった。武具屋じゃないから、俺はあまり入らないけどな」
「綺麗なお店ですね」
アトカは店先の小箱を眺める。
木製の箱、布張りの箱、金具のついた箱、硝子窓のある箱。
どれも手のひらに収まる大きさで、石片をしまうにはちょうどよさそうだった。
店内へ入ると、乾いた木と香草の匂いがした。
棚には細工物が並び、奥では年配の店主が眼鏡をかけて帳簿をつけている。
ルトが軽く会釈すると、店主も穏やかに頷いた。
「記念品をしまう箱が欲しいんです」
アトカが丁寧に言うと、店主は漆黒のローブと胸元の翡翠色のブローチを一度だけ見た。
それ以上、アトカの姿や身体について尋ねることはなかった。
「石かい、紙かい。それとも、小さな魔導具かい」
「石です。薄緑の石片です」
「それなら、内側に布を張ったものがいい。硬い箱へそのまま入れると、持ち運んだ時に角が欠けることがあるからね」
店主は棚からいくつかの小箱を取り出し、台の上へ並べた。
赤茶色の木箱。黒い布張りの箱。淡い灰色の箱。蓋に花模様が彫られたもの。どれも悪くない。
アトカは一つずつ見比べた。
箱を台へ置き、義手の指で蓋を持ち上げる。
留め具の固さを確かめ、片手でも開けやすいか、布包みごと石を入れられるか、空の左袖が箱へ引っ掛からず、机の上で安定して扱えるかを試していく。
ルトは黙って、その様子を見守った。
昔なら、自分が先に選んでいただろう。
これなら開けやすい。これなら落としにくい。そう言って、弟の前へ箱を差し出していた。
けれど今、アトカは自分で迷い、自分の身体に合うものを自分で確かめている。
「これにします」
アトカが選んだのは、淡い灰色の木箱だった。
表面に目立った飾りはないが、内側には柔らかな青い布が張られている。
留め具は義手の親指でも押しやすく、蓋を開ける時にも強い力を必要としなかった。
ルトは頷いた。
「いいんじゃないか。石の色も見えやすそうだ」
「はい」
アトカはローブの内側から小さな硬貨袋を取り出した。
袋を台へ置き、義手で口金を開く。必要な硬貨を一枚ずつ取り出し、店主の前へ滑らせていった。
蒼風高原の任務で受け取った報酬の一部だった。
動きは慎重だったが、ルトが手を貸す必要はなかった。
店主は硬貨を受け取り、小箱を薄い紙で包んだ。片手でも開けやすいよう、紐ではなく幅の広い紙帯を巻いて留めてくれる。
「中の布へ湿気がこもらないよう、時々蓋を開けて風を通すといい。大切な物なら、しまったままにせず、たまには見てやることだ」
アトカは少しだけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「はい。見るたびに、高原の風を思い出せると思います」
店を出ると、街路には夕方の光が差していた。
アトカは紙包みを義手の前腕へ載せ、胸元へ軽く押し当てて支えている。
「持てるか」
ルトが尋ねる。
「はい」
「落としそうになったら言えよ」
「大丈夫です」
「それも信用ならないな」
「これは本当に大丈夫です」
アトカが少し真剣に答えたため、ルトは笑った。
二人は傾斜街道を上り、学園へ戻った。
紙包みは、ただの荷物ではない。蒼風高原で得たものを、これから守っていくための場所だった。
アトカは歩いている間も、義手の前腕と胸の間で大切そうに支え続けていた。
学園の門をくぐったところで、ルトが足を止める。
「今から特等枠のラウンジへ行くのか」
「はい。石を箱に入れて、棚へ戻そうと思います」
「俺も行っていいか」
アトカは顔を上げた。
「少し待ってください。特等枠の担当の先生と、カイン先輩にも確認します」
アトカは門衛所へ向かい、備え付けの連絡板を借りた。
特等枠ラウンジへの来訪を希望していること。
来訪者が戦技科四年のルト・アッシュフォードであること。
目的は短時間の面会であり、カイン本人へ蒼風高原での礼を伝えたいこと。
必要な内容を記し、担当教師へ送る。
返事が届くまでの間、ルトは門衛所の脇で木剣を背負い直した。
自分の訓練用として持っている木剣だったが、ラウンジへ入る前には門衛所へ預けた方がよいだろうと考えているらしい。
やがて、連絡板へ新しい文字が浮かんだ。
担当教師から、短時間の来訪を許可するとの返答だった。
続いて、ラウンジにいるカイン本人からも、会ってよいという意思が確認されている。
「許可をもらえました」
アトカが言う。
ルトは少しだけ視線を逸らした。
「その、カインって人がいるなら、直接礼を言いたい」
アトカは嬉しそうに頷いた。
「カイン先輩も、会ってよいと言ってくれました」
「そうか」
ルトは木剣を門衛所へ預け、来訪者用の札を受け取った。
特等枠ラウンジの前には、小さな記名台が置かれている。
ルトは来訪札へ自分の名と所属を書き、担当教師の許可印が入っていることを確かめてから、札を表へ返した。
扉の前に立つと、ルトは無意識に背筋を伸ばしていた。
戦技科の訓練場や試合場なら緊張しない。だが、ここは弟の場所だ。
自分の知らない仲間たちがいる。アトカが帰る場所の一つだった。
アトカが扉を開ける。
ラウンジの中には、いつものように奇妙な静けさがあった。
ギルベルトはソファへ腰掛け、古い懐中時計を眺めている。
エルマは机へ紙束を広げ、何かを書いていた。
リリシアは香草茶を淹れていて、バルトロは魔石を噛みながら棚の近くに立っている。
そして、カインは窓際にいた。
右手首を覆う黒い拘束具を膝の上へ載せ、暗い赤紫の瞳で窓の外を見ている。
アトカが入ってきた瞬間、その視線が僅かに動いた。
続いて、ルトを見る。
ラウンジの空気が少しだけ硬くなった。
ルトも、カインを見返した。
噂に聞いていた、黒い拘束具をつけた特等枠の生徒。
近づいてはいけないと、戦技科の一部で遠巻きに囁かれていた存在だった。
カインの力そのものは見えない。
だが、拘束具を載せた右手を膝から動かさず、ルトとの距離を確かめるように視線だけを向けている。
身体のどこにも余計な力を入れていないように見えて、右肩だけが僅かに硬い。
自分が動けば何が起きるのかを、常に警戒している者の姿勢だとルトには分かった。
扱いを誤れば危険な力を持つという噂は、おそらく本当なのだろう。
それでも、ルトは目を逸らさなかった。
カインも逸らさない。
「カイン先輩。こちらが兄のルトです」
アトカが二人の間に立って紹介した。
ルトは一歩前へ出る。
「ルト・アッシュフォードです。戦技科四年です」
「カイン・デイスター」
カインの返事は短かった。
ルトは僅かに笑う。
「弟から聞きました。蒼風高原で、アトカを守ってくれたって」
カインの表情が固まった。
「俺は、危ないものを壊しただけだ」
予想していた通りの返事だった。
ルトはすぐに頷く。
「そう聞いてます。アトカに届く風や欠片を壊したって」
カインは眉を寄せた。
「最後に倒れそうだったから支えただけだ。それも、魔力が止まってるのを確かめてからだ」
「そこまで聞いてます」
「俺は必要なことをしただけだ」
ルトは少しだけ考えた。
「怖くないと言ったら嘘になる。あんたの力は、俺には分からない。たぶん、剣でどうにかできるものでもない」
ラウンジが静かになった。
カインの目が僅かに細くなる。
ルトはそのまま続ける。
「でも、危ない時にはアトカへ届くものを壊して、もう安全だと確かめた後には、倒れないよう支えてくれたんだろ」
カインは口を閉じた。
ルトはまっすぐ頭を下げる。
「それで弟が無事に帰ってきたなら、俺にとっては十分です。アトカを守ってくれて、ありがとうございました」
カインは動かなかった。
動かなかったというより、どう動けばよいのか分からなくなったように見えた。
リリシアが息を呑み、エルマの羽根ペンが止まる。
バルトロでさえ、魔石を噛む音を止めた。
ギルベルトは懐中時計の蓋を閉じ、静かに二人を見ている。
カインは、ようやく低く答えた。
「礼を言われるようなことじゃない」
ルトは頭を上げる。
「俺にとっては、礼を言うことです」
「俺じゃなくても、あの場にいたら同じことをした」
「でも、あの場にいたのはあんただ。アトカが頼ったのも、あんただった」
カインは視線を逸らした。
その横顔に浮かんでいたのは、怒りではなく戸惑いだった。
礼を受け取る場所が、まだ自分の中にない。ルトには、そう見えた。
横を見ると、アトカは兄とカインを交互に見つめていた。
青い瞳が、どこか嬉しそうに細められている。
ルトは棚へ目を向ける。
そこには、蒼風高原から届いた白い風車の模型が置かれていた。
その隣には、薄緑の石片を置くための空き場所が残されている。
「これか」
「はい。カイン先輩が受け取った風車です」
アトカは紙包みを机へ置いた。
義手の親指で紙帯の端を押し広げ、箱を横へゆっくり滑らせて取り出す。
選んだばかりの淡い灰色の小箱が、机の上へ現れた。
カインは少しだけ居心地悪そうにしていた。
ルトは白い風車へ近づく。
指を伸ばす前に、一度カインを見た。
「触ってもいいか」
カインは短く答えた。
「……いい」
「ありがとう」
ルトは指先で羽根を押す。
白い羽根が、音もなくゆっくり回った。その動きには軋みも、危うさもない。
「壊さなかった証ってわけか」
カインは黙っていたが、しばらくして小さく答えた。
「……そうらしい」
「いい証だな」
「俺には、まだ変な感じがする」
「そういうのは、少しずつ慣れていいと思う」
カインがルトを見る。
ルトは風車から手を離した。
「俺も、最初から自分が兄だと思えてたわけじゃない。家族になったばかりの頃は、アトカへどう接すればいいのか分からなかった」
アトカが驚いたようにルトを見る。
ルトは少し照れたように、鼻の頭を指で掻いた。
「でも、何度も兄さんって呼ばれてるうちに、俺が兄でいいんだって思えるようになった」
カインは何も言わない。
ルトは続けた。
「だから、すぐには信じられなくても、何度も言われてるうちに慣れるかもしれない。守ったって言われることにも」
カインは返事をしなかった。
けれど、ルトの言葉を拒みもしなかった。
アトカは灰色の小箱を開き、布包みから薄緑の石片を取り出す。
柔らかな青い布の上へ置くと、石の内側に残った緑の筋が静かに光を返した。
箱を白い風車の隣へ置く。
壊れずに残った風車。高原の風を思い出す石。
蒼風高原から持ち帰った二つの証が、同じ棚へ収まった。
「綺麗ですね」
リリシアが小さく呟く。
「ええ。配置としても悪くありませんわ」
エルマが頷いた。
バルトロは肩をすくめる。
「腹にはたまんねぇけどな」
「記念品を食べ物の基準で見ないでくださいまし」
「食えねぇ記念品って、どう扱えばいいんだよ」
「飾るんですわ」
「面倒だな」
そのやり取りに、硬くなっていた空気が少し緩む。
ルトは棚から一歩下がり、もう一度カインへ向き直った。
「会って、直接言えてよかったです」
カインは今度、目を逸らさなかった。
少しだけ沈黙した後、ぎこちなく頷く。
「……ああ」
それは、先ほどの礼を受け取った返事だった。
アトカが嬉しそうに微笑む。
ギルベルトが静かに言った。
「今度は受け取れたな、カイン」
「受け取ってない」
「頷いただろ」
バルトロが笑う。
「次は、どういたしましてだな」
「言わない」
「練習しとけよ」
「黙れ」
「いつもの返事に戻ったな」
リリシアは呆れたように二人を見たが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
ルトも、そのやり取りを見て少しだけ安心した。
カインが危険な力を持つことは変わらない。
けれど、ここで一人だけ危険物のように遠ざけられているわけではなかった。
周囲の者たちは、怖さや危険を無視せず、それでもどう近づけばよいかを覚えようとしている。
カイン自身も、全てを拒絶してはいない。
アトカは、そういう場所にいる。
「アトカ」
「はい」
「いい場所だな、ここ」
アトカは少し驚いた後、嬉しそうに頷いた。
「はい。僕の大切な場所です」
ルトは笑う。
「なら、安心した」
アトカは小さく目を伏せた。
ルトは弟の頭を撫でようとして、ここが特等枠ラウンジであることを思い出し、一度だけ手を止める。
だが、アトカが不思議そうに見上げてきたため、結局いつものように白い髪を軽くくしゃりと撫でた。
「また来てもいいか」
「事前に知らせてくれれば、担当の先生と皆へ確認します」
アトカが答えると、カインが窓際から低く言った。
「頻繁には来るな。騒がしい」
ルトは笑う。
「じゃあ、たまに来ます」
カインは返事をしなかった。
けれど、拒絶もしなかった。
棚の上で、白い風車が静かに止まっている。
その隣では、薄緑の石片が灰色の小箱へ収まっていた。
ルトには、そこへ並んだものが風車と石だけではないように思えた。
自分の知らない場所で、アトカを守った者。
その事実を知り、礼を伝えに来た自分。
アトカが大切にしている家族と仲間の場所が、今日、ほんの少しだけつながった。
弟が蒼風高原から持ち帰ったものの中には、きっとそれも含まれているのだろう。




