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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
封じた記録の行方
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記録係の不満

ルトが特等枠ラウンジを去ってから、しばらくの間、室内にはいつもより柔らかな静けさが残っていた。


アトカは、買ったばかりの灰色の小箱を窓際の棚から円卓へ移していた。


蓋を開けば、柔らかな青い布の上に、薄緑の筋が入った小さな石片が収まっている。


蒼風高原の旧式排風路近くで、修繕のため取り外された石の一部だった。

危険な成長結晶も残留魔力もないことは、成人技師と学園側の双方が確認している。


窓際の棚には、カインが選んだ白い風車の模型が置かれていた。


先ほどまでは二つとも並んでいた。


今は石片の箱だけ円卓へ移され、少し離れている。

それでも同じラウンジの中に二つがあるだけで、遠い高原の風が僅かに残っているように見えた。


アトカは石片が布の中央に収まっていることを確認し、蓋を閉じた。


「兄さん、カイン先輩にきちんとお礼を言えてよかったです」


声は嬉しそうだった。


カインは窓際の椅子に座っている。


白い風車を気にしていないような顔をしていたが、暗い赤紫の瞳は何度か棚の方へ寄っていた。


「……俺は、礼を言われるようなことはしていない」


「でも、兄さんは嬉しそうでした」


「そうか」


カインはそれ以上言わなかった。


以前なら、その沈黙は拒絶のように見えたかもしれない。


今は違う。


受け取った言葉を、自分の中のどこへ置けばよいのか考えているような沈黙だった。


ギルベルトは一人掛け椅子へ深く腰掛け、古い銀色の懐中時計を片手にしている。


バルトロは退屈そうに魔石を噛み、リリシアはアトカの小箱を覗き込みながら、青い布が端で少し浮いていることを気にしていた。


その中で、ただ一人。


エルマだけが明らかに不機嫌だった。


円卓の端には、薄い冊子が一冊置かれている。


表紙には整った文字で、


蒼風高原中継塔設備異常――学外公開用事故概要案


と記されていた。


その下には、事実確認用という朱印がある。


魔導局広報部が、学園側の通常事故記録と現地管理部の完了報告をもとに作成した学外向けの概要案だった。


表紙裏には注意書きもある。


設備の具体的な弱点、個人の身体・装具情報、閲覧制限付きの観測事項は公開対象としない。


ただし、公開可能な事実について誤りや誤解を招く表現があれば、修正意見を添えること。


確認後は学園長執務室へ返却すること。


エルマは一枚目をめくった。


そして、眉間へ深い皺を寄せた。


「納得できませんわ」


バルトロが魔石を噛む音を止める。


「今度は何に怒ってんだよ」


「私は、怒るべき時にしか怒りませんわ」


「だいたい怒ってんじゃねぇか」


「黙りなさい、魔石噛み砕き機」


「誰が機械だ」


エルマは相手にせず、冊子を持ち上げた。


「記録を分けることには異論ありませんのよ」


ギルベルトが懐中時計から目を上げる。


エルマは続けた。


「通常事故記録と設備検証記録を分けることも、アトカ君やカインさんの身体・装具に関する情報を別の閲覧区分へ置くことも理解しています。未確認の仮説を事故原因へ混ぜないことも当然ですわ」


「なら、何が問題なんだ」


「分けた後なら、外へ出す文章を雑にしてよいわけではありませんでしょう」


エルマは冊子の一文を指した。


「ここですわ」


そこには、こう記されていた。


蒼風高原中継塔において、旧式設備の老朽化、風結晶の異常増殖、魔導弁等の不調が重なり、複合的な魔力乱流が発生。


エルマの指が、最初の部分で止まる。


「まず、旧式設備の老朽化が事故原因だったように読めます」


アトカも冊子を覗き込んだ。


エルマは言葉を続ける。


「成人側の調査で整理された直接原因は、点検範囲から外れていた古い設備周辺へ微細な風結晶が入り込み、長い時間をかけて成長していたことです。そこへ強い季節風で中継塔の処理負荷が上がり、異常な拍を増幅する二次異常核が形成された」


指が次の文字へ移る。


「その結果として増殖した結晶が、現在使われている魔導弁や排風口を塞いだのですわ。古かったから壊れた、魔導弁が勝手に不調を起こした、ではありません」


ギルベルトが冊子へ目を落とす。


「原因と結果を一行に詰めすぎたな」


「ええ。それだけなら書き方の問題で済みます。しかし、もっと悪いところがありますわ」


エルマは次の段落を示した。


王立エルシオン学園から派遣された生徒二名により、異常結晶の除去および旧式設備を含む流路の復旧・安定化を実施。


「これです」


カインの視線も冊子へ向いた。


エルマの声が一段低くなる。


「旧式排風路は、事故を起こした壊れた流路ではありません」


アトカは薄緑の石片が入った箱へ目を落とした。


あの石は、その道の近くにあった。


現在の図面には載っていなかった。


けれど、壊れていたから使えなかった道ではない。


入口が結晶に塞がれ、増築された設備の中へ埋もれていただけだった。


「源核を処理する前に、風の逃げ先として開いた道ですわ。現在設備とは別に上空へ続き、内部へ溜まった風を水路や設備へ押し返さず空へ抜いた。任務後も塞がず、独立した安全経路として保存されています」


エルマは冊子を円卓へ置いた。


「それを『旧式設備を含む流路の復旧』と書けば、古い設備が壊れていて、生徒が修理したように読めます」


アトカは頷いた。


「僕たちが、あの道を作ったわけでもありません」


「ええ」


「僕の水だけで見つけたわけでもないです。水滴が石の方へ伸びて、霧が継ぎ目へ入って……外へ抜けているところは、管理人さんたちが確認してくれました」


カインが短く続ける。


「壁も壊してない」


アトカがカインを見る。


「はい」


向こう側が分からなかったから。


壊せる力があっても、壊して確かめることを選ばなかった。


それも、あの任務で残したものだった。


エルマは頷く。


「そこも重要ですわ」


今度はカインへ顔を向ける。


「それから、カインさんがしたことを『異常結晶の除去』だけにするのも違います」


「別にいい」


即答だった。


エルマの眉が上がる。


「よくありませんわ」


「外へ出すなら、それくらいでいい」


「細部を全部出せとは言っていません」


カインが黙る。


エルマは少し声を落とした。


「制御晶を全部砕いたわけではないでしょう」


アトカの脳裏に、巨大な結晶と七本の糸が浮かぶ。


太い三本。


細い四本。


カインが切ったのは、固定していた三本だけだった。


現在設備へ繋がる四本は残した。


何を壊せるかではなく、何を壊してよいかを確かめてから撃った。


「その後も、高密度の出力を際限なく使ったわけではありません。使う回数を自分で止めた。旧式排風路を開く時も、必要な場所だけを処置した」


カインの指が椅子の肘掛けへ僅かに沈む。


エルマはそこで言葉を切った。


「もちろん、固定箇所の数や具体的な破断位置、拘束具の状態まで学外へ書く必要はありませんわ」


「なら、何を書く」


「全部壊して解決したのではない、という事実です」


カインが顔を上げる。


「例えば――既存設備への損傷を避けながら、閉塞と危険箇所を選択的に処置した。これで十分です」


ギルベルトが小さく頷いた。


「具体的な壊し方は伏せる。何を残すための処置だったかは残す」


「そういうことですわ」


エルマはさらに下へ目を移した。


そこには、


現地管理見習い一名に軽傷。重傷者なし。


と書かれている。


今度は、アトカが先に首を傾げた。


「ニルスさん、怪我をしたとは聞いていません」


エルマの目が細くなる。


「私も、通常事故記録では確認していませんわ」


ニルスは高所へ取り残された。


足場を失った。


怖いと言った。


五枚の水膜を順番に通り、自分で最後の指を離して地上へ降りた。


その後、成人の診察を受け、担架で運ばれた。


けれど、それをそのまま負傷と書くのは別の話だった。


ギルベルトが言う。


「診察と担架搬送を、負傷と取り違えた可能性があるな」


「でしょうね。これは削除ですわ」


エルマは迷わず余白へ印を付けた。


「高所で一時的に取り残された管理見習いを救助し、成人医療担当へ引き継いだ。公開する必要があるなら、確認できる事実はそこまでです」


リリシアがほっとしたように小さく頷く。


エルマはさらに最後の行を読む。


現地管理部および修繕班による応急復旧後、順次通常運転へ移行中。


「これも古いですわね」


アトカも気づいた。


「もう、任務完了報告が届いています」


「ええ。中継塔の安全確認も終わり、水路圧も安定し、風車群は通常運転へ戻っています。残留結晶は成人技師が除去し、壊れた保守足場と魔導弁も修繕班が交換済みです」


カインが窓際の白い風車へ一瞬目を向けた。


あの模型を受け取ったのも、正式な任務完了が告げられた後だった。


エルマは赤い修正筆を置いた。


「つまり、この冊子は秘密を守りすぎているのではありません」


バルトロが首を傾げる。


「じゃあ何なんだよ」


「縮め方が下手なのですわ」


「言い切ったな」


「公開しない情報があることと、公開する事実まで曖昧にすることは別問題です」


ラウンジが少し静かになる。


カインが低く言った。


「詳しく書けば、アトカが目立つ」


「分かっています」


エルマはすぐに答えた。


「だから、アトカ君の水がどの範囲まで届いたか、何を感じたか、義手に何が起きたかは書きません。古い排風路で観測された未確認の反応も、この冊子へ入れるべきではありません」


アトカはエルマを見る。


そこには、まだ自分が詳しく説明を受けていないものもある。


フレデリックからは、任務の事実、設備に関する記録、身体や個人に関わる情報、まだ確定していないものを分けて扱うと説明されている。


すぐに自分を使って再現を試すこともない。


分からないものを、分かったことにして外へ出すこともしない。


それはもう、第六章の終わりで決められていた。


アトカは小箱の上へ義手を置いた。


「僕も、全部知られるのは少し怖いです」


カインの視線が向く。


「でも、僕たちがしていないことを書かれるのも嫌です」


エルマの表情が僅かに和らいだ。


アトカは続ける。


「僕たちが高原の全部を直したわけではありません。最後は管理人さんや技師さんたちへ渡しました」


「ええ」


「カイン先輩も、全部壊したわけじゃないです」


カインは何も言わない。


「僕も、風を全部動かしたわけではありません。最後は一本だけ見て、風が自分で古い道へ抜けたから、水を止めました」


それが、アトカ自身が任務完了報告を確認した時に残してもらった事実だった。


エルマはしばらく考えた後、冊子を自分の前へ引き寄せた。


「でしたら、公開案へ出す修正はこうですわね」


新しい紙を一枚取り出す。


そして、ゆっくり書き始めた。


点検範囲外の設備周辺で長期成長した風結晶が二次異常核を形成し、現行の魔導弁・排風口を閉塞。中継塔内の風圧上昇、風車群の停止・逆回転、水路流量低下を引き起こした。


学園から派遣された生徒二名は、現地成人の管理下で危険箇所を選択的に処置し、既存設備への損傷を避けながら、現在設備とは独立した旧式排風路の再開通を補助。緊急状態終了後、現地管理部・成人技師・修繕班へ引き継いだ。


残留結晶の除去、損傷設備の交換および安全確認を経て、現在は通常運転へ復帰。旧式排風路は安全経路として保存。


エルマは筆を止める。


バルトロが紙を覗いた。


「長くなってねぇか?」


「元よりは」


「一般向けなんだろ?」


「ですから、これをそのまま載せろとは言っていませんわ」


「じゃあ何なんだよ」


「ここから削るのです」


バルトロが露骨に嫌そうな顔をした。


エルマは気にしない。


「ただし、今度は削った理由を残します」


ギルベルトの目が僅かに細くなった。


「理由?」


「ええ」


エルマは別の紙の上部へ、


非掲載事項・理由確認


と書いた。


「例えば、制御晶の固定箇所や設備導線の本数は書かない。理由は、中継塔の具体的な破断点を推定できるから」


一行。


「カインさんの拘束具、高密度出力の回数、個人の制御限界は書かない。理由は個人の身体・装具情報だから」


もう一行。


「アトカ君の義手の状態、身体感覚、魔力へ触れた範囲は書かない。個人保護情報だから」


さらに一行。


そこで筆が止まる。


「旧式排風路で確認された、通常設備とは異なる反応については?」


アトカが尋ねた。


エルマはすぐには答えなかった。


「確定していないものを、事故原因や成果として公開しない」


そう書く。


「誰のものかも、何を意味するのかも、今は断定できないからです」


アトカは静かに頷いた。


蒼風高原で聞いた昔話を思い出す。


分からないままでも、残していい。


ただし、分からないと分かる形で。


あの時と少し似ていた。


ギルベルトが懐中時計の蓋を閉じる。


「そっちの方が、この話では大事かもしれないな」


エルマが顔を上げる。


「何がです?」


「書かなかったことにも、理由があると残すことだ」


「……ええ」


「何年か後に別の奴が読んだ時、抜けている情報を見つける。理由がなければ、記録漏れだと思って拾い直すかもしれない」


アトカはその言葉に、小さく息を止めた。


守るために伏せたものを。


知らない誰かが、欠けた記録だと思って集め直す。


それでは、分けた意味がない。


エルマも同じことへ気づいたらしい。


紫紺の瞳が鋭くなる。


「公開しないと決めた事実だけでは足りない。なぜ公開しなかったのかも、公開されない側へ残す必要がありますわね」


「そうなる」


「ですが、その理由表そのものを一般公開すれば、何が隠されているか教えることになります」


「だから、置く場所を間違えるな」


ギルベルトの返事は短かった。


エルマは頷いた。


「学園長へ確認しますわ」


そこでカインを見る。


「カインさん」


「何だ」


「今回、貴方の具体的な破断位置や拘束具情報を公開案から除く理由を、学園側の確認記録へ残すことになります。内容を勝手に広げるつもりはありません」


「……俺に何を聞く」


「必要なら、公開可能な範囲の事実確認だけです。質問項目は先に見せます」


カインは少し考える。


「それなら、見てから決める」


「それで構いませんわ」


次にアトカを見る。


「アトカ君も同じです。貴方が任務完了報告を確認したことを、他の利用目的への同意として扱いません」


アトカは一瞬考えた。


そして頷く。


「はい」


「今回確認していただくのは、公開案に書かれる事実だけです。設備検証記録や個人保護記録の閲覧許可とは別ですわ」


「分かりました」


リリシアが小さく微笑んだ。


「前より、はっきりしましたね」


エルマが首を傾げる。


「何がです?」


「隠すか、書くかの二つじゃないんだなって」


その言葉に、エルマは少し黙った。


「……そうですわね」


円卓には、三種類の紙が並んでいる。


魔導局から来た公開概要案。


エルマが書いた修正文。


そして、公開しない理由を確認するための草案。


けれど、それは新しく記録を三つへ分けたという意味ではない。


記録をどこへ置くかは、すでに決められている。


今考えているのは、その境界をどう守りながら、外へ渡す文章まで正確にするかだった。


エルマは申請用紙を一枚引き寄せた。


「通常事故記録については、私たちへ回された確認範囲だけで十分ですわ」


ギルベルトが見る。


「設備検証記録は?」


「公開文の修正根拠として必要な箇所だけ、非個人部分の限定閲覧を申請します」


「個人保護記録は」


「読みません」


即答だった。


アトカが僅かに目を丸くする。


エルマは彼を見る。


「そこに私が知りたいものがある可能性と、私が読む必要があるかどうかは別ですわ」


「……はい」


「私は貴方の魔術を知りたいです。理論として理解したい。その気持ちは今もあります」


エルマは一度だけ息を吸った。


「ですが、知りたいというだけで、目的の違う記録へ入る理由にはなりません」


アトカはゆっくり微笑んだ。


「ありがとうございます、エルマ先輩」


「礼を言われることではありません」


「でも、嬉しいです」


「……そういうところですわよ」


エルマは顔を背けた。


耳が僅かに赤い。


バルトロが口の端を上げる。


「お前、褒められると弱ぇよな」


「うるさいですわ!」


いつもの声がラウンジへ戻る。


エルマは咳払いを一つすると、申請用紙へ向き直った。


「まず、公開概要案の事実訂正。次に、非個人設備情報の限定照合。そして、非掲載理由をどの内部記録へ紐づけるべきか、学園長へ確認します」


ギルベルトが懐中時計を開いた。


「順番はそれでいい。決めるのはフレデリック先生だ」


「分かっていますわ」


エルマはすぐには立ち上がらなかった。


書いた内容を最初から読み返す。


事故原因。


旧式排風路。


学生二人の緊急対応。


成人への引き継ぎ。


通常運転への復帰。


公開しない設備詳細。


公開しない個人情報。


確定していない観測。


一つずつ、事実と理由を分けていく。


やがて筆を置いた。


「……これなら、持っていけますわ」


バルトロが笑う。


「最初からそれくらい落ち着いてやれよ」


「怒ったから見つかったのですわ」


「便利だな、その理屈」


エルマは冊子と申請用紙を揃えて立ち上がった。


扉へ向かう途中で、一度だけ足を止める。


窓際にある白い風車を見る。


次に、円卓の灰色の小箱へ目を向けた。


「アトカ君」


「はい」


「この二つが何を意味するかまで、学外公開記録へ書く必要はありませんわね」


アトカも二つを見る。


白い風車。


薄緑の石。


カインが壊さず残したもの。


自分たちが一から作ったのではなく、見つけ、開き、また風へ返した道の近くにあったもの。


「はい。これは僕たちが覚えていればいいと思います」


「そうですわね」


エルマは今度こそ歩き出した。


扉が閉まる。


しばらくして、バルトロが魔石を噛みながらぼそりと言った。


「やっぱ記録ってめんどくせぇな」


ギルベルトは懐中時計へ視線を落としたまま答える。


「面倒だから、適当にすると危ない」


「事故の紙一枚だろ?」


「その一枚を読んだ奴は、そこに書いてあるものしか知らない」


ギルベルトは蓋を閉じた。


「間違って書けば、間違ったことが残る。理由もなく抜けば、誰かが後から埋めようとする」


バルトロは嫌そうに眉を寄せる。


「ますますめんどくせぇ」


「そうだな」


カインが、窓際の白い風車を見た。


「でも、残ってる」


小さな声だった。


アトカが顔を上げる。


カインはそれ以上言わない。


けれど、何を指したのかは分かった。


風車も。


石も。


二人の名前が並んだ任務完了報告も。


撃たなかったことも。


壊さなかったことも。


成人へ渡して、自分たちが帰ったことも。


すでに残されている。


だから今度は、それを消さないために全部を外へ出すのではない。


どこまで渡すかを選ぶ。


渡さなかったものには、渡さなかった理由を残す。


アトカは小箱を持ち上げ、窓際へ戻した。


白い風車の隣へ置く。


二つがまた並ぶ。


少しだけ位置を調整してから、アトカは手を離した。


「なかったことには、したくないです」


誰かへ聞かせるための言葉ではなかった。


それでもギルベルトには聞こえていたらしい。


「もう、なってない」


アトカが振り返る。


「任務の記録は残ってる。お前たちも確認した」


「はい」


「今考えてるのは、残すか消すかじゃない」


ギルベルトは窓際の二つへ目を向けた。


「誰に、何を渡すかだ」


アトカももう一度、白い風車と薄緑の石を見る。


「渡さないものも」


「ああ」


「どうして渡さなかったのか、残すんですね」


ギルベルトは小さく頷いた。


夕方の光が窓から入り、白い羽根と薄緑の筋を静かに照らしている。


どちらも、ここにある。


全部を見せなくても。


なかったことにしなくても。


残したものを、誰へ渡すのか選ぶことはできる。


アトカは二つを見つめながら、その違いを少しだけ理解した。

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