兄に見せる薄緑の石
蒼風高原の任務が正式に完了してから、数日が経っていた。
帰還後に残っていた義手の感覚遅延と接続部の熱は、もう消えている。
細かな魔力操作も普段通りに戻してよいと確認され、アトカは久しぶりに身体のどこにも重さを残さず歩いていた。
黒いローブの裾を揺らしながら向かったのは、戦技科校舎の近くにある中庭だった。
昼の授業が終わったばかりで、周囲には木剣を肩へ担ぐ生徒や、汗を拭きながら模擬戦の話をする生徒が多い。
乾いた打撃音と笑い声が飛び交う中でも、ルト・アッシュフォードはすぐに見つかった。
黒髪に赤い瞳。訓練後らしく額にはまだ汗が残っている。
同級生と話していたルトは、アトカを見つけた途端に表情を変えた。
「アトカ!」
木剣を近くの生徒へ預け、駆け寄ってくる。
「兄さん」
アトカが笑うと、ルトはまず顔を見て、それから義手の接続部へ視線を落とした。
「身体は?」
「もう普段通りで大丈夫です。義手の感覚も戻っています」
「無理をしなければ、だろ」
アトカは一瞬だけ黙った。
「……はい」
「そこを省くな」
「すみません」
ルトはため息をついたが、声には安堵が混じっていた。
「蒼風高原のこと、戦技科にも少し噂が来てる。風車で大きな異常があって、特等枠が二人行ったって」
「はい」
「一人はお前。もう一人は、黒い拘束具をつけた先輩だったって聞いた」
「カイン・デイスター先輩です」
「そう、その人だ」
ルトは眉を寄せる。
「また大変なところに行ったんだな」
「少しだけ大変でした」
「お前の『少しだけ』は信用できない」
「でも、風車はまた回っています。水路も戻りました」
その返事に、ルトは少し黙った。
大変だったことより、戻ったものを先に話す。昔から変わらない弟の癖だった。
誇らしい。
それと同じくらい、心配にもなる。
「座るか」
「はい」
二人は中庭の端にある石造りのベンチへ向かった。
腰を下ろすと、アトカはローブの内側から小さな布包みを取り出した。
淡い灰色の布を義手の指で開くと、薄緑の筋が走る小さな石片が現れる。
ルトが覗き込んだ。
「綺麗だな」
「高原から届いた贈り物です。白い風車とこの石が届いて、カイン先輩と一つずつ選びました」
「お前が石で、カインが風車か」
「はい」
ルトは触れる前に指を止めた。
「触って平気か?」
「大丈夫です」
指先でそっと触れる。
「冷たいな」
「はい。でも、見ているとあの日の風を少し思い出します」
ルトは石ではなく、アトカの横顔を見た。
「怖かったか」
アトカはすぐには答えなかった。
少し前なら、「大丈夫でした」と先に言っていたかもしれない。
「……怖かったです」
ルトの目が細くなる。
「中継塔で、僕が動かしていない拍が水へ返ってきた時は、少し怖かったです。でも、水は最後まで僕のものでした。自分で止められました」
「今は?」
「大丈夫です。同じことを試したりもしません」
「ならいい」
短い返事だったが、ルトの肩から少しだけ力が抜けた。
「それで、そのカインって先輩とはどうだった?」
その問いに、アトカの表情がわずかに明るくなった。
「何度も助けてもらいました」
ルトは黙って続きを待つ。
アトカは石片を布の上で見つめながら、どこから話そうか少し考えた。
「中継塔へ向かう途中、いろいろな方向から魔獣が集まってきたんです。僕は前も上も水路も、左側も退路も見ようとしていました」
ルトの眉が動いた。
「また全部やろうとしたのか」
「……はい」
「お前な」
「その時、カイン先輩が言ってくれたんです。『今の左は、俺が見る』って」
ルトが少し意外そうな顔をした。
「任せたのか?」
「はい」
「本当に?」
「本当にです」
「振り返って確認したりは」
「しませんでした」
ルトが目を丸くする。
「お前が?」
「兄さんまでそんなに驚かなくてもいいと思います」
「いや、驚くだろ」
アトカは少しむっとしたが、すぐに自分でもおかしくなって笑った。
「僕にも左側は見えていました。でも、カイン先輩が見ると言ってくれたので、僕は前と水路を見ました。『左は終わった』って聞いた時も、振り返りませんでした」
「……そっか」
ルトの返事が少しだけ柔らかくなる。
「カインは、ただ前に立っただけじゃないんだな」
「はい」
カインの黒い魔力は強い。
だからこそ、何でも壊したわけではなかった。
アトカはそのことを長く説明する代わりに、あの日に一番覚えている光景を口にした。
「魔獣へ直接撃てない時には、足場だけを壊して進む向きを変えていました。撃てる時はちゃんと撃っていました。僕が見ていない左側で、先輩が自分で決めてくれていたんです」
「なるほどな」
ルトは腕を組んだ。
剣士である自分には分かりやすい。
強い一撃を持っているからといって、毎回それを振ればいいわけではない。
届かせる場所を間違えれば、守るものまで巻き込む。
だが、カインの場合は、その一撃そのものが常人とは比べものにならないのだろう。
「それだけじゃありません」
アトカが続ける。
「中継塔の中で、僕がまた全部へ水を増やそうとした時も止めてくれました」
「また全部か」
「……はい」
「反省してる顔で二回目言うな」
「でも、その時は増やしていません」
「先にそれを言え」
ルトの返しに、アトカは小さく笑った。
「カイン先輩が、『水は一本に絞れ』って言ってくれたんです。僕にしか残せない道を見ろって。ほかは自分たちが見るからって」
「それで一本にした」
「はい」
「怖くなかったか? 任せるの」
アトカは少し考える。
「怖くなかった、とは言えません。でも、先輩が見ると言ってくれたので」
ルトはその言葉を聞いて、ほんの少し目を細めた。
アトカは人を疑う子ではない。
けれど危険な場所では、自分が見えるもの、自分が届くものまで抱え込もうとする。
誰かを信用していないからではなく、自分がやれば助けられるかもしれないと思ってしまうからだ。
そんな弟が、自分の手を一つ減らして誰かへ任せた。
それはルトが思っていた以上に大きなことだった。
「最後は?」
ルトが尋ねる。
アトカの義手の指が、石片を包む布の端へ触れた。
「最後の結晶が外れた後、奥にあった核が自分で壊れて、風と結晶片が一気に広がりました」
ルトの表情から笑みが消える。
「その時も、僕は水を増やそうとしました。でもカイン先輩が、『前は俺が見る。道だけ見ろ』って」
アトカはその声を思い出すように、一度目を伏せた。
「僕は旧式排風路へ通した水だけを残しました。カイン先輩は、僕や水路へ届く大きな破片と風圧を見てくれました」
「……それで、風を抜いたのか」
「はい。水がなくても風が自分でその道へ乗るのを確認して、僕の水を止めました」
「その後に倒れた」
アトカが顔を上げる。
「どうして分かったんですか」
「お前の身体の話を先に聞いたからだよ」
ルトの声が少し低くなった。
「膝が崩れました。でも、カイン先輩が支えてくれました」
「魔力は?」
「自分の魔力が止まっているのを確認してから来てくれました。義手の接続部にも触れないようにして」
ルトはしばらく黙った。
危ない間は触れずに守る。
弟が抱え込みそうになれば、自分から役割を取る。
そして触れていい状態になった後で、初めて身体を支える。
自分とは違う守り方だった。
ルトなら、弟へ何か飛んでくれば剣で払う。倒れそうなら腕を伸ばす。
必要なら引きずってでも安全な方へ連れていく。
カインには、それがそのまま使えない。
自分の力そのものを警戒しながら、距離を取る時と近づく時を選ばなければならない。
それでも、弟を一人にしなかった。
「……すごい人だな」
ルトが言うと、アトカの顔がぱっと明るくなった。
「はい。すごいです」
その表情を見て、ルトの胸に小さな痛みが走った。
嫌な痛みではない。
弟が誰かを信頼している。その誰かも、弟を任せられる相手として見ている。
嬉しい。
けれど、自分の知らない場所で出来上がったものを目の前にすると、ほんの少しだけ寂しい。
アトカはその変化を感じ取ったのか、首を傾げた。
「兄さん?」
「いや」
ルトは笑った。
「俺の知らないところで、お前、ちゃんと助けてもらえるようになったんだなと思って」
アトカは瞬きをした。
「兄さんにも、ずっと助けてもらっています」
「分かってる」
「本当です」
「分かってるって」
ルトは笑いながら、アトカの白い髪へ手を伸ばした。昔からそうしていたように、頭を軽く撫でる。
「別に、俺がいらなくなったとか思ってるわけじゃない。ただ、お前の周りが広くなったんだなって」
アトカは少し考えた。
「広くなったら、兄さんから遠くなりますか」
ルトの手が止まった。
まっすぐな問いだった。
学園へ来てから、二人にはそれぞれ別の場所ができた。
ルトには戦技科がある。
アトカには魔導科と特等枠がある。
一日のすべてを一緒に過ごすことはもうない。
ルトの知らない任務へアトカが行き、アトカの知らない訓練をルトがする。
離れた時間は、確かに増えた。
けれど。
ルトはもう一度、白い髪をくしゃりと撫でた。
「遠くなるんじゃない」
「はい」
「お前が帰れる場所が増えたんだと思う」
アトカが瞬きをする。
「帰れる場所が」
「ああ。俺のところも、父さんと母さんのところも変わらない。その上で、特等枠のやつらのところにも帰れるようになった。そういうことだろ」
アトカはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり笑った。
「では、帰る場所は変わりません」
「そうだな」
ルトも笑う。
「変わらない」
布の上の石片が、午後の光を細く返した。
ルトがそれへ目を向ける。
「その石、ラウンジじゃそのまま置いてるのか?」
「はい。カイン先輩の風車の隣に」
「落としたら欠けそうだな」
「僕も少し心配です」
「箱でも買うか」
アトカが顔を上げた。
「箱?」
「棚に置ける小さいやつ。中層に雑貨屋がある」
「今からですか」
「俺の訓練は終わった。お前も授業終わりだろ」
「はい」
アトカは石片へ視線を落とした。
「でも、兄さんに買ってもらうのは……」
「それくらい別にいいだろ」
「自分で買いたいです」
ルトは口を閉じる。
アトカは石片を見つめたまま続けた。
「任務でもらった報酬があります。この石は、カイン先輩と一緒に任務を終えた後で、僕が自分で選んだものです。だから、入れる箱も自分で選んで買いたいです」
ルトは弟を見る。
幼い頃、アトカが何かを包んだり、しまったりする時には家族の手が必要だった。
けれど今は、義手の指で布を開き、自分の大切な物を持ち、自分で得た報酬をどう使うかまで決めている。
自分の知らない時間の中で、弟はできることを増やしていた。
そこにも、少しだけ寂しさはあった。
そしてそれ以上に、嬉しかった。
「分かった」
ルトは頷いた。
「じゃあ、俺は店まで案内する。選ぶのも買うのもお前だ」
アトカの顔が明るくなる。
「はい」
二人はベンチを立った。
アトカは石片を丁寧に布へ包み直し、ローブの内側へしまう。
ルトは預けていた木剣を取りに戻った。
「弟か?」
木剣を返した同級生が尋ねる。
「ああ」
ルトは迷わず答える。
「自慢の弟だ」
アトカは少し照れたように目を伏せた。
その生徒が黒いローブと胸元の黒蜘蛛紋章を見て、ふと表情を変える。
「もしかして、蒼風高原へ行った特等枠って」
アトカは顔を上げた。
「僕一人ではありません。カイン先輩と一緒でした」
言葉は穏やかだった。
自分の功績を否定するためではない。
同じ場所へ行き、同じ任務を終えた人の名前を、自然に自分の隣へ置いただけだった。
「そっか」
生徒は笑う。
「任務、お疲れ」
「ありがとうございます」
アトカも笑って頭を下げた。
ルトは横からその様子を見ていた。
弟は自分のしたことを消していない。
カインのしたことも消していない。
どちらか一人だけの話にせず、二人で終えた任務として口にしている。
それが妙に嬉しかった。
二人は門衛所で外出の手続きを済ませ、学園を出た。
傾斜街道を下りながら、ルトが言う。
「今度、そのカインって先輩にも会わせろよ」
アトカが顔を上げる。
「カイン先輩にですか?」
「ああ。礼くらい言わせろ」
「何のですか?」
ルトは一瞬だけアトカを見た。
「お前を助けてくれた礼だよ」
アトカは少し考え、それから笑った。
「たぶん、カイン先輩は困ると思います」
「何でだよ」
「『俺は自分の担当をやっただけだ』って言うと思います」
ルトは鼻で笑う。
「それでも俺が礼を言いたいんだからいいだろ」
その答えが、アトカにはとてもルトらしく思えた。
「はい」
「何だよ」
「いえ。兄さんらしいなと思って」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「お前、最近そういう言い方覚えたな」
ルトが少し不満そうに言う。
アトカは笑った。
「でも、きっと嬉しいと思います」
「なら、ちゃんと言う」
「はい」
ローブの内側で、薄緑の石片が歩調に合わせて小さく揺れる。
高原の異常を、自分たちだけですべて直したわけではない。
アトカとカインが危険を止め、残りを現地の人たちへ渡した。
その後も風車は回り、水路は流れ続けている。
そして学園には、白い風車と薄緑の石が残った。
アトカは少しだけ歩幅を合わせる。
ルトも気づいて、自然に歩調を緩めた。
どちらかが手を引くわけではない。
それでも同じ道を歩ける。
それが今の兄弟の距離だった。




