↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
封じた記録の行方
PR
107/137

兄に見せる薄緑の石

蒼風高原の任務が正式に完了してから、数日が経っていた。


帰還後に残っていた義手の感覚遅延と接続部の熱は、もう消えている。

細かな魔力操作も普段通りに戻してよいと確認され、アトカは久しぶりに身体のどこにも重さを残さず歩いていた。


黒いローブの裾を揺らしながら向かったのは、戦技科校舎の近くにある中庭だった。


昼の授業が終わったばかりで、周囲には木剣を肩へ担ぐ生徒や、汗を拭きながら模擬戦の話をする生徒が多い。

乾いた打撃音と笑い声が飛び交う中でも、ルト・アッシュフォードはすぐに見つかった。


黒髪に赤い瞳。訓練後らしく額にはまだ汗が残っている。

同級生と話していたルトは、アトカを見つけた途端に表情を変えた。


「アトカ!」


木剣を近くの生徒へ預け、駆け寄ってくる。


「兄さん」


アトカが笑うと、ルトはまず顔を見て、それから義手の接続部へ視線を落とした。


「身体は?」


「もう普段通りで大丈夫です。義手の感覚も戻っています」


「無理をしなければ、だろ」


アトカは一瞬だけ黙った。


「……はい」


「そこを省くな」


「すみません」


ルトはため息をついたが、声には安堵が混じっていた。


「蒼風高原のこと、戦技科にも少し噂が来てる。風車で大きな異常があって、特等枠が二人行ったって」


「はい」


「一人はお前。もう一人は、黒い拘束具をつけた先輩だったって聞いた」


「カイン・デイスター先輩です」


「そう、その人だ」


ルトは眉を寄せる。


「また大変なところに行ったんだな」


「少しだけ大変でした」


「お前の『少しだけ』は信用できない」


「でも、風車はまた回っています。水路も戻りました」


その返事に、ルトは少し黙った。


大変だったことより、戻ったものを先に話す。昔から変わらない弟の癖だった。


誇らしい。


それと同じくらい、心配にもなる。


「座るか」


「はい」


二人は中庭の端にある石造りのベンチへ向かった。


腰を下ろすと、アトカはローブの内側から小さな布包みを取り出した。

淡い灰色の布を義手の指で開くと、薄緑の筋が走る小さな石片が現れる。


ルトが覗き込んだ。


「綺麗だな」


「高原から届いた贈り物です。白い風車とこの石が届いて、カイン先輩と一つずつ選びました」


「お前が石で、カインが風車か」


「はい」


ルトは触れる前に指を止めた。


「触って平気か?」


「大丈夫です」


指先でそっと触れる。


「冷たいな」


「はい。でも、見ているとあの日の風を少し思い出します」


ルトは石ではなく、アトカの横顔を見た。


「怖かったか」


アトカはすぐには答えなかった。


少し前なら、「大丈夫でした」と先に言っていたかもしれない。


「……怖かったです」


ルトの目が細くなる。


「中継塔で、僕が動かしていない拍が水へ返ってきた時は、少し怖かったです。でも、水は最後まで僕のものでした。自分で止められました」


「今は?」


「大丈夫です。同じことを試したりもしません」


「ならいい」


短い返事だったが、ルトの肩から少しだけ力が抜けた。


「それで、そのカインって先輩とはどうだった?」


その問いに、アトカの表情がわずかに明るくなった。


「何度も助けてもらいました」


ルトは黙って続きを待つ。


アトカは石片を布の上で見つめながら、どこから話そうか少し考えた。


「中継塔へ向かう途中、いろいろな方向から魔獣が集まってきたんです。僕は前も上も水路も、左側も退路も見ようとしていました」


ルトの眉が動いた。


「また全部やろうとしたのか」


「……はい」


「お前な」


「その時、カイン先輩が言ってくれたんです。『今の左は、俺が見る』って」


ルトが少し意外そうな顔をした。


「任せたのか?」


「はい」


「本当に?」


「本当にです」


「振り返って確認したりは」


「しませんでした」


ルトが目を丸くする。


「お前が?」


「兄さんまでそんなに驚かなくてもいいと思います」


「いや、驚くだろ」


アトカは少しむっとしたが、すぐに自分でもおかしくなって笑った。


「僕にも左側は見えていました。でも、カイン先輩が見ると言ってくれたので、僕は前と水路を見ました。『左は終わった』って聞いた時も、振り返りませんでした」


「……そっか」


ルトの返事が少しだけ柔らかくなる。


「カインは、ただ前に立っただけじゃないんだな」


「はい」


カインの黒い魔力は強い。


だからこそ、何でも壊したわけではなかった。


アトカはそのことを長く説明する代わりに、あの日に一番覚えている光景を口にした。


「魔獣へ直接撃てない時には、足場だけを壊して進む向きを変えていました。撃てる時はちゃんと撃っていました。僕が見ていない左側で、先輩が自分で決めてくれていたんです」


「なるほどな」


ルトは腕を組んだ。


剣士である自分には分かりやすい。

強い一撃を持っているからといって、毎回それを振ればいいわけではない。

届かせる場所を間違えれば、守るものまで巻き込む。


だが、カインの場合は、その一撃そのものが常人とは比べものにならないのだろう。


「それだけじゃありません」


アトカが続ける。


「中継塔の中で、僕がまた全部へ水を増やそうとした時も止めてくれました」


「また全部か」


「……はい」


「反省してる顔で二回目言うな」


「でも、その時は増やしていません」


「先にそれを言え」


ルトの返しに、アトカは小さく笑った。


「カイン先輩が、『水は一本に絞れ』って言ってくれたんです。僕にしか残せない道を見ろって。ほかは自分たちが見るからって」


「それで一本にした」


「はい」


「怖くなかったか? 任せるの」


アトカは少し考える。


「怖くなかった、とは言えません。でも、先輩が見ると言ってくれたので」


ルトはその言葉を聞いて、ほんの少し目を細めた。


アトカは人を疑う子ではない。


けれど危険な場所では、自分が見えるもの、自分が届くものまで抱え込もうとする。

誰かを信用していないからではなく、自分がやれば助けられるかもしれないと思ってしまうからだ。


そんな弟が、自分の手を一つ減らして誰かへ任せた。


それはルトが思っていた以上に大きなことだった。


「最後は?」


ルトが尋ねる。


アトカの義手の指が、石片を包む布の端へ触れた。


「最後の結晶が外れた後、奥にあった核が自分で壊れて、風と結晶片が一気に広がりました」


ルトの表情から笑みが消える。


「その時も、僕は水を増やそうとしました。でもカイン先輩が、『前は俺が見る。道だけ見ろ』って」


アトカはその声を思い出すように、一度目を伏せた。


「僕は旧式排風路へ通した水だけを残しました。カイン先輩は、僕や水路へ届く大きな破片と風圧を見てくれました」


「……それで、風を抜いたのか」


「はい。水がなくても風が自分でその道へ乗るのを確認して、僕の水を止めました」


「その後に倒れた」


アトカが顔を上げる。


「どうして分かったんですか」


「お前の身体の話を先に聞いたからだよ」


ルトの声が少し低くなった。


「膝が崩れました。でも、カイン先輩が支えてくれました」


「魔力は?」


「自分の魔力が止まっているのを確認してから来てくれました。義手の接続部にも触れないようにして」


ルトはしばらく黙った。


危ない間は触れずに守る。


弟が抱え込みそうになれば、自分から役割を取る。


そして触れていい状態になった後で、初めて身体を支える。


自分とは違う守り方だった。


ルトなら、弟へ何か飛んでくれば剣で払う。倒れそうなら腕を伸ばす。

必要なら引きずってでも安全な方へ連れていく。


カインには、それがそのまま使えない。


自分の力そのものを警戒しながら、距離を取る時と近づく時を選ばなければならない。


それでも、弟を一人にしなかった。


「……すごい人だな」


ルトが言うと、アトカの顔がぱっと明るくなった。


「はい。すごいです」


その表情を見て、ルトの胸に小さな痛みが走った。


嫌な痛みではない。


弟が誰かを信頼している。その誰かも、弟を任せられる相手として見ている。


嬉しい。


けれど、自分の知らない場所で出来上がったものを目の前にすると、ほんの少しだけ寂しい。


アトカはその変化を感じ取ったのか、首を傾げた。


「兄さん?」


「いや」


ルトは笑った。


「俺の知らないところで、お前、ちゃんと助けてもらえるようになったんだなと思って」


アトカは瞬きをした。


「兄さんにも、ずっと助けてもらっています」


「分かってる」


「本当です」


「分かってるって」


ルトは笑いながら、アトカの白い髪へ手を伸ばした。昔からそうしていたように、頭を軽く撫でる。


「別に、俺がいらなくなったとか思ってるわけじゃない。ただ、お前の周りが広くなったんだなって」


アトカは少し考えた。


「広くなったら、兄さんから遠くなりますか」


ルトの手が止まった。


まっすぐな問いだった。


学園へ来てから、二人にはそれぞれ別の場所ができた。


ルトには戦技科がある。


アトカには魔導科と特等枠がある。


一日のすべてを一緒に過ごすことはもうない。

ルトの知らない任務へアトカが行き、アトカの知らない訓練をルトがする。


離れた時間は、確かに増えた。


けれど。


ルトはもう一度、白い髪をくしゃりと撫でた。


「遠くなるんじゃない」


「はい」


「お前が帰れる場所が増えたんだと思う」


アトカが瞬きをする。


「帰れる場所が」


「ああ。俺のところも、父さんと母さんのところも変わらない。その上で、特等枠のやつらのところにも帰れるようになった。そういうことだろ」


アトカはしばらく黙っていた。


そして、ゆっくり笑った。


「では、帰る場所は変わりません」


「そうだな」


ルトも笑う。


「変わらない」


布の上の石片が、午後の光を細く返した。


ルトがそれへ目を向ける。


「その石、ラウンジじゃそのまま置いてるのか?」


「はい。カイン先輩の風車の隣に」


「落としたら欠けそうだな」


「僕も少し心配です」


「箱でも買うか」


アトカが顔を上げた。


「箱?」


「棚に置ける小さいやつ。中層に雑貨屋がある」


「今からですか」


「俺の訓練は終わった。お前も授業終わりだろ」


「はい」


アトカは石片へ視線を落とした。


「でも、兄さんに買ってもらうのは……」


「それくらい別にいいだろ」


「自分で買いたいです」


ルトは口を閉じる。


アトカは石片を見つめたまま続けた。


「任務でもらった報酬があります。この石は、カイン先輩と一緒に任務を終えた後で、僕が自分で選んだものです。だから、入れる箱も自分で選んで買いたいです」


ルトは弟を見る。


幼い頃、アトカが何かを包んだり、しまったりする時には家族の手が必要だった。


けれど今は、義手の指で布を開き、自分の大切な物を持ち、自分で得た報酬をどう使うかまで決めている。


自分の知らない時間の中で、弟はできることを増やしていた。


そこにも、少しだけ寂しさはあった。


そしてそれ以上に、嬉しかった。


「分かった」


ルトは頷いた。


「じゃあ、俺は店まで案内する。選ぶのも買うのもお前だ」


アトカの顔が明るくなる。


「はい」


二人はベンチを立った。


アトカは石片を丁寧に布へ包み直し、ローブの内側へしまう。

ルトは預けていた木剣を取りに戻った。


「弟か?」


木剣を返した同級生が尋ねる。


「ああ」


ルトは迷わず答える。


「自慢の弟だ」


アトカは少し照れたように目を伏せた。


その生徒が黒いローブと胸元の黒蜘蛛紋章を見て、ふと表情を変える。


「もしかして、蒼風高原へ行った特等枠って」


アトカは顔を上げた。


「僕一人ではありません。カイン先輩と一緒でした」


言葉は穏やかだった。


自分の功績を否定するためではない。


同じ場所へ行き、同じ任務を終えた人の名前を、自然に自分の隣へ置いただけだった。


「そっか」


生徒は笑う。


「任務、お疲れ」


「ありがとうございます」


アトカも笑って頭を下げた。


ルトは横からその様子を見ていた。


弟は自分のしたことを消していない。


カインのしたことも消していない。


どちらか一人だけの話にせず、二人で終えた任務として口にしている。


それが妙に嬉しかった。


二人は門衛所で外出の手続きを済ませ、学園を出た。


傾斜街道を下りながら、ルトが言う。


「今度、そのカインって先輩にも会わせろよ」


アトカが顔を上げる。


「カイン先輩にですか?」


「ああ。礼くらい言わせろ」


「何のですか?」


ルトは一瞬だけアトカを見た。


「お前を助けてくれた礼だよ」


アトカは少し考え、それから笑った。


「たぶん、カイン先輩は困ると思います」


「何でだよ」


「『俺は自分の担当をやっただけだ』って言うと思います」


ルトは鼻で笑う。


「それでも俺が礼を言いたいんだからいいだろ」


その答えが、アトカにはとてもルトらしく思えた。


「はい」


「何だよ」


「いえ。兄さんらしいなと思って」


「どういう意味だ」


「そのままの意味です」


「お前、最近そういう言い方覚えたな」


ルトが少し不満そうに言う。


アトカは笑った。


「でも、きっと嬉しいと思います」


「なら、ちゃんと言う」


「はい」


ローブの内側で、薄緑の石片が歩調に合わせて小さく揺れる。


高原の異常を、自分たちだけですべて直したわけではない。


アトカとカインが危険を止め、残りを現地の人たちへ渡した。

その後も風車は回り、水路は流れ続けている。


そして学園には、白い風車と薄緑の石が残った。


アトカは少しだけ歩幅を合わせる。


ルトも気づいて、自然に歩調を緩めた。


どちらかが手を引くわけではない。


それでも同じ道を歩ける。


それが今の兄弟の距離だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。