最終話 「これでも?」
毎朝会う穂高先輩はいつも通りで、変わらずその美貌を振り撒いてくれている。文ちゃん、おはよ。呼びかける声は最初から最後まで優しい響きで、笑顔の割合が前より高い。
熱でもあるんですか。思わず心配してそう聞くと、あるように見える? と微笑まれる。分かりません。直視出来なくて慌てて俯くと、ふふ、と小さく笑う声がした。
何だかずっと楽しそうだ。穂高先輩はどうしてしまったというのだろうか。ちらりと様子を窺うと、やはりばっちりと目が合う。
文ちゃん最初の頃そうやって見てたね。目を泳がせる私を見て、面白そうに先輩が呟いた。
先輩が怖い。学校で泣き付いた私をつまらなそうにさきちゃんが見下ろしている。
「何、喧嘩でもしたん」
「してない! 先輩はいっつも優しい!」
「良いじゃん」
「良くない!」
さきちゃんがため息をついた。あたし今彼氏と喧嘩中だから幸せな話聞きたくねーんだけど。ごめんね。机に突っ伏したまま呟いた。
頭上を朝の挨拶が飛び交っている。非常にだるそうな声でさきちゃんがおはよー、と他の友達に言っているのが聞こえた。
「あやどしたの? 風邪?」
「なんかー。センパイがー。優しくてー。怖いんだってえー」
「えうざ。またセンパイかよ。朝から惚気やめよ」
「ね」
「みんながつめたい」
「いい加減告白でもしてきなって。仲良いんでしょ?」
穂高先輩はそんなんじゃない。なんか最高の相手と最大級の幸せを得るべきひとだ、至上の存在なのだから。私のような一般市民を視界に入れるはずがない。
ぐりぐりとさきちゃんの腕に頭を押し付けると、やめろやと笑いながら頭を軽く叩かれた。
最近の穂高先輩が何だかあまりにもあんまりだったから。やり返そうと言うか、半分ふざけてと言うか、喜ぶのかなあとか、これ言ったらどんなリアクションをするのかなあとか。私にもよく分からない感情になって、口が滑ってというか。
色んな感情がないまぜになる中で、電車に乗り合わせた先輩に唐突に投げかけてみた。
週末遊びませんか。
恐る恐る見上げた先輩は見惚れるほどの笑顔で。うん、遊ぼう。どこ行こうか。オーバーキルをされた気がした。
目的地も言ってないのに簡単に頷いたら危ないですよ。どうにか絞り出したその言葉に、文ちゃんなら良いよと笑っている。
早急に何とかしなければと思った。帰宅して先輩のために防犯ブザーを検索した私の判断は誤りではないと、思う。
「降ってきちゃいましたね」
「結構降ってんね」
週末、午後。集合はしたものの生憎の天気となった。
朝から怪しい予感はしていたがとうとう降り出した雨に、どうしようかなあと空を見上げる。
分厚い雲はすぐに晴れそうには思えなかった。
雨だから今日はやめておこうか。そんな連絡が来るかもしれないと少し考えてはいたが、結局来なかったそれに胸を撫で下ろす。
最近心臓に悪いから動揺こそしているが、私はいつだって穂高先輩を眺めるチャンスを窺い続けているのだ。
「今日はどこ行く予定だったの?」
「公園でも行きたいなあって思ってたんですけど」
「うん」
「外歩くの大変そうだし、映画でも観ますか?」
そこのビルに入ってますよね。看板を見上げながらそう問いかけると、何か観たいのあるの、と返される。
「ここの映画館のラインナップ知ってる?」
「来たことないから分かんないです。変わってるんですか?」
「マイナーなやつと、B級ホラーばっかりだよここ」
スプラッタ系多め、と先輩が笑っている。
少し先にある大きめの映画館ならメジャーどころばかりとの事だったが、雨に濡れてまで無理矢理映画を観たい訳ではない。
「文ちゃんが観たいなら付き合うけど」
「やです! グロは!」
「ふふふ」
グロ以外も多分あるよ、と言われて上映スケジュールを調べてみると、なるほど知らない名前の映画ばかりだった。夜っぽいポスターばかりが並んでいる。
なんかここの偉い人の趣味とかそんな感じなのだろうか。マイルドそうなものもあったが、既に上映時間が過ぎていた。
「完全にノープランでした。すみません」
「全然。文ちゃん怖いの駄目なの?」
「ばーんて来てぐわーってなるのが苦手です。びっくりするじゃないですか」
「っふ、そうなんだ」
ばーんて来てぐわーね。先輩が復唱している。気に入ったのか言いながら少し笑っていた。
先輩は映画好きなんですか。サブスクならよく観るよ。そんな話をしながらとりあえず歩き出す。週末の駅は人が多くて賑やかだ。見るともなしに駅構内をぶらぶらと歩き回る。
「ここの映画館は来たことあるんですか?」
「友達と何回か。B級ホラー好きな奴がいて」
「前会ったあの元気な……?」
「陽太? 陽太はホラー全然駄目」
昔怪異がやってるお化け屋敷行ってからトラウマらしいよ、と先輩が少し笑った。
「俺も怪異なんだけどね」
「穂高先輩は麗しいので……ていうか怪異がやってるお化け屋敷なんてあるんですか」
「知らない? 隣の県の。たまにCMやってる」
知らなかった。極力そういったものを視界に入れずに生きてきたからかもしれない。
本格的なんですかね。そう聞くと、凄いらしいよ、と先輩が頷いた。
さっき出てきたばかりの改札の前を通る。立ち食いそばって食べたことないな。横目で見ながら取り留めもないことを考えた。
「本物に驚かされたい人間がお金払って来るから、結果相互利益だって」
「やばい」
怪異のひとってやっぱり怖がらせるの好きなんですか。そう言いながら見上げた先輩は、何とも言えない表情をしていた。
都市伝説みたいなのがあって。唐突にそう返される。
「紛れすぎると消えちゃうんだって」
そう呟いた先輩は前を向いていて顔がよく見えない。
消えちゃうって、どこにですか。思わず早口で問いかけた私の言葉には、さあ、としか返ってこなかった。歩く速度は変わらない。何度呼びかけても先輩はこちらを見てはくれなかった。
穂高先輩。止まってほしくて服を掴んだ。地下鉄に繋がる階段が見える。人気が少なくなってきていた。
「文ちゃんはさ」
穂高先輩がようやく振り向いた。
やっと見られたその顔は、電車で声をかけられる前に幾度も見かけていたような温度のない瞳だった。何の感情もないみたいな切れ長の目が私を見下ろしている。
先輩の右腕がすっと上がる。
長い指がマスクの紐を摘んでいた。
「俺の見た目凄く褒めてくれるけど」
これでも? って聞いてもいい?
一瞬体が固まった。何を言われているのかさっぱり意味が分からなかった。
先輩がマスクを外そうとしている。
意味を理解するより前に私は先輩に駆け寄っていた。黒いマスクを両手で上から抑え込む。
先輩が息を呑んだのが分かった。
「あは。やっぱり怖いよね」
「先輩。あの」
薄い布一枚隔てたそこで穂高先輩の唇が動くのを感じた。
指が震えている。
「ぬ、脱いじゃうんですか」
耳が熱い。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。
恥ずかしい。最悪だ。とても顔を上げることができなかった。
あれだけ優しくて穏やかな穂高先輩が、いたずらに私を怖がらせるはずがない。人間だろうと怪異だろうと、関係なくそう思えた。だって私は『仲良しの後輩』だ。
だからこれは、何だ。
ぐるぐると考える。浮かぶのは先輩の声とか柔らかい目元とか。そんなものばかりだった。文ちゃん。これまで何度も反芻した、世界一好きな声が私の名前を呼んでいる声。すっかり耳に染み付いていた。
試し行為、とかそういうやつだろうか。
何でそんなものを先輩が。
先輩が、私に? 穂高先輩が? 試し行為を?
意味が分からなかった。
試す必要なんてないのに。私は先輩だったらたぶん、それが何であろうとも。
先輩に対する恐怖なんて微塵もなかった。ただ、今まで決して見せられることのなかった『それ』を許されたという事に脳の許容を超えてしまっていた。
違う、恐怖と言うのならば、今この激しく動く心臓にこそ覚えているのかもしれない。指先を伝って先輩にまで聞こえてしまいそうだった。
いま、何かを踏み越えた気がする。
堪えきれないように先輩が笑った。
「文ちゃん」
「何ですか」
「えっち」
マスクを抑えていた私の指を、布越しにかぷりと噛まれる。
思わず勢いよく顔を上げた私に先輩が、やっと見れたと蕩けるような顔で微笑んだ。
「文ちゃんに言いたいことがあるんだけど」
聞いてもらっても良いかな。
少し屈んだ先輩からいつもの香水の匂いがする。おんなじにおいだ、と思った。
真っ赤な顔でぶんぶんと頷くしか出来ない私の頭を、笑顔の先輩がくしゃりと撫でた。
お付き合いいただきありがとうございました!




