第11話 丈夫な女性にも休む権利があります
第11話 丈夫な女性にも休む権利があります
離婚から三か月後、エステルは隣国の港町リュネールで暮らしていた。海に近い借家はグラント伯爵邸の寝室より狭かったが、南向きの窓から朝日が入り、白い壁にはマーサが選んだ青い皿が三枚並んでいる。台所では豆と玉葱のスープが煮え、焼いたパンと潮風の匂いが開いた窓から入る海の香りに混じっていた。
「奥様、パンが焼けましたよ」
薄茶色の仕事着を着たマーサが、丸パンを籠へ移した。離婚して伯爵夫人ではなくなったのだから、奥様と呼ばなくてもよいとエステルは何度も伝えている。しかしマーサは長年の癖だから直らないと言い、今日も平然と同じ呼び方をした。
「今日は商会へ来客が多いので、少し早く出ます」
エステルは深緑色のドレスへ着替え、栗色の髪を簡単にまとめた。首元には宝石をつけず、母の形見である銀の燭台から削り出した小さな薔薇の飾りを胸元へ留めている。盗まれた燭台は衛兵によって取り戻されたが、傷が深く一対では使えなくなったため、職人へ頼んで飾りへ作り直してもらったのだ。
「朝食を召し上がってからになさってください」
「商会で食べます。昨日の書類も残っていますから」
「昨日も同じことをおっしゃって、昼まで何も召し上がりませんでした」
「今日は忘れません」
「忘れる方は、皆さんそうおっしゃいます」
マーサは丸パンへチーズと薄切りの燻製肉を挟み、白い布で包んだ。エステルは仕方なく受け取り、鞄の一番上へ入れる。以前なら朝食を取る時間まで仕事へ回していたが、マーサの視線に負け、温かいスープだけは座って飲んだ。
エステルが働いているのは、セドリック・ローレンスが経営する商会だった。グラント伯爵家との取引で彼女の手腕を知っていたセドリックは、離婚の話を聞くと、経営顧問として隣国へ来ないかと誘ったのである。彼は三十二歳で、焦げ茶色の髪と灰色の目を持ち、倉庫へ行く日は高価な上着ではなく、汚れてもよい紺色の仕事着を選んでいた。
「おはようございます、エステル。今日はお昼を持ってきましたか?」
商会へ入るなり尋ねられ、エステルは鞄から白い包みを少しだけ見せた。セドリックの机には朝食の林檎と、殻をむきかけた茹で卵が置かれている。商会主であっても食事をしながら働くことがあり、床には昨夜まとめた帳簿が三冊積まれていた。
「マーサが持たせてくれました」
「それなら安心です。昼になっても食べなければ、私がマーサへ報告します」
「雇い主が使用人と組んで、経営顧問を監視するのですか?」
「倒れられるよりは安上がりです」
セドリックは笑い、今月の収支表を差し出した。エステルが働き始めてから、倉庫ごとにばらばらだった帳簿が一つにまとめられ、船の到着日と荷物の受け入れ日時も一覧になった。以前は港へ着いた香辛料が倉庫の外で雨に濡れることもあったが、今では荷運びの人数まで前日に決められている。
半年後、商会の利益は前年より三割増えた。セドリックは約束していた報酬へ上乗せし、成果に応じた利益も支払った。エステルはその金を使って小さな事務所を借り、商会や領地の経営を助ける仕事を始めた。
「自分の商会を持ちたいのです」
港の食堂で昼食を取りながら、エステルはセドリックへ告げた。卓上には白身魚の香草焼き、じゃがいものスープ、黒パンが並び、開いた窓から船乗りたちの歌が聞こえている。セドリックは魚の小骨を皿の端へよけ、驚く代わりにうなずいた。
「いつ始めますか?」
「引き止めないのですか?」
「引き止めて、あなたが諦めると思いますか?」
「思いません」
「でしたら、良い取引先を三つ紹介します。代わりに、私の商会との契約を最初に結んでください」
エステルは差し出された手を握った。夫から離れると決めたとき、もう誰かへ頼る必要はないと思っていた。しかし、助けを受けることと、自分の人生を渡すことは違うのだと、セドリックとの仕事で少しずつ分かるようになっていた。
一年後、港に近い石造りの建物へ、エステルの商会の看板が掲げられた。事務所には四人の使用人が働き、壁には取引先ごとの予定表が並んでいる。彼女は働く時間と休む時間を規則として決め、昼食を机で取ることも、病気の者へ無理をさせることも禁じた。
「所長、今日はもうお帰りください」
夕方、若い事務員が書類を抱えてエステルの机へ来た。エステルは白いブラウスに紺色の上着を重ね、朝から十二件の契約を確認している。窓辺に置いた紅茶はすっかり冷め、肉桂を入れた香りだけが残っていた。
「あと二枚です。これだけ確認したら帰ります」
「その言葉、昨日も聞きました」
「昨日は四枚でした。今日は二枚ですから、半分に減っています」
「そういう問題でしょうか」
事務員は首を傾げたが、それ以上は口を出さず、机の端へ焼き菓子を置いた。エステルは笑いながら一つ取り、林檎の甘い香りを確かめる。以前なら仕事を止められることへ腹を立てただろうが、今は心配されているのだと受け取ることができた。
その頃、グラント伯爵邸では、使われていない部屋の扉が閉ざされていた。王宮の監査によって領地の一部は管理官へ預けられ、融資を受けられなくなったレイモンドは、屋敷の半分を売却した。料理長のバートンをはじめ、多くの使用人もエステルが去った後に辞職し、残ったのは年老いた門番と掃除係だけだった。
レイモンドは町から買ってきた小麦袋を台所へ運んだ。かつて一袋の相場すら知らなかったが、今では店を三軒回り、値段を比べるようになっている。古い茶色の上着の肘には自分で縫った布が当てられ、右足の靴下には相変わらず同じ場所に穴が開いていた。
「小麦は先週より銀貨二枚も上がったのか」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、帳面へ金額を書き込んだ。字は以前より整ったが、インクをつけすぎて数字の端がにじんでいる。机の上には乾燥豆、石鹸、蝋燭の領収書が並び、食材を買うだけでも多くの金が必要だと、ようやく理解していた。
夕食には、豆のスープと焼いたじゃがいもを作った。塩を入れすぎたためスープは濃く、黒パンを浸して味を薄める。以前なら料理長を怒鳴りつけただろうが、自分で作ったものへ文句を言っても、別の料理は出てこなかった。
食後、レイモンドは流し台で皿を洗った。冷たい水に指を入れ、固くなった豆を布でこする。泡で滑った皿が手から抜け、石の床へ落ちて鋭い音を立てた。
「エステル!」
名前が口から出た後、台所は静まり返った。割れた皿の間へ豆が一粒落ち、暖炉の薪が小さくはぜる。誰も返事をせず、片づけるために走ってくる足音も聞こえなかった。
レイモンドは膝をつき、割れた破片を一つずつ拾った。六年前、同じ皿をエステルが選び、食器棚の高さまで使いやすいよう変えたことを思い出す。皿が割れたと告げれば、彼女は怒らず、けががないか確かめただろう。
しかし、その妻はもういなかった。リリアからは、盗品の返還後、一通の手紙も届いていない。レイモンドは破片を布へ包み、穴の開いた靴下のまま冷たい床を拭いた。
同じ夜、エステルの事務所では、セドリックが商談帰りに立ち寄っていた。彼は温かい紅茶と焼きたての胡桃パンを持ち、まだ机へ向かっているエステルの前へ置く。紅茶には蜂蜜が一匙入り、湯気と一緒に柑橘の香りが立った。
「顔色がよくありません。朝から休んでいないでしょう」
「大丈夫です。あと二枚だけですから」
いつもの言葉が口から出かけ、エステルは止まった。机には明日でも間に合う契約書が二枚あり、窓の外には港の灯りが並んでいる。肩は重く、指先も冷えていたが、以前の彼女なら体の訴えを無視して働き続けただろう。
「では、今日は早く帰らせていただきます」
エステルは羽根ペンを置き、書類を閉じた。セドリックは理由を尋ねず、胡桃パンを白い布へ包み直す。彼女は上着を羽織り、机の引き出しへ鍵をかけた。
「明日の仕事に差し支えますか?」
「いいえ。よい判断だと思います」
「働いた人間には、休む権利がありますもの」
エステルは照れたように笑い、温かい紅茶を飲んだ。誰かの庇護を得るために体調の悪いふりをする必要も、丈夫だと証明するために限界まで働く必要もない。疲れたときには疲れたと言い、助けが必要なら頼めばよかったのだ。
事務所を出ると、マーサが迎えに来ていた。籠には夕食用の鶏肉、葱、人参、白い豆が入り、その上へ小さな林檎が三つ載っている。今夜は温かい鍋にしようと話しながら、二人は港の明かりが続く道を歩いた。
エステルは立ち止まり、海から吹く風を胸いっぱいに吸い込んだ。潮と魚を焼く匂いが混じり、遠くで船の鐘が鳴っている。彼女は誰かに守られるためではなく、自分を守るために休むことを覚え、新しい家へ向かって歩き出した。




