第10話 離婚届にもご署名を
第10話 離婚届にもご署名を
リリアの盗みを衛兵へ届け出た翌日、王宮の監査官から書面が届いた。過去六年間の帳簿を調べた結果、グラント伯爵家の債務整理、農地改良、商会との契約は、すべてエステルの管理によって行われていたと認められたのである。伯爵家の財産とエステル個人の財産を分ける作業も始まり、母の形見である銀の燭台については、リリアへ返還を求めることになった。
レイモンドは監査結果を、冷えた朝食の前で読んだ。食卓には薄い豆のスープ、固くなった黒パン、殻の割れた茹で卵が並んでいる。以前ならエステルが料理長へ献立を相談し、忙しい朝でも温かい食事を用意させていたが、今は誰も主人の好みを尋ねなかった。
「伯爵家の業務は、妻の管理によって維持されていた……」
レイモンドは書面の一文を声に出した。自分の功績だと思っていたことが、王宮の記録によって妻の働きだったと証明されている。スープを口へ運んだものの、表面に浮いた脂が唇へつき、匙を皿へ戻した。
食後、レイモンドは町へ出た。まず花屋へ寄り、店で最も高価な花束を用意するよう求める。店主は白い薔薇、青い矢車菊、香りの強い百合を選び、銀色の紐で束ねた。
「奥様のお好きな花を中心にいたしました」
店主が告げると、レイモンドは白い薔薇を見つめた。エステルの好きな花が何だったか、六年間一緒に暮らしながら思い出せない。店主が好みを知っている理由を尋ねると、毎年エステル本人が屋敷へ飾る花を買いに来ていたと答えた。
「奥様は、香りの強すぎる百合を寝室へ置かれません。こちらは抜きましょうか」
「いや、そのままでいい。豪華なほうが喜ぶだろう」
「承知いたしました」
店主は何も言わず、花束を包み直した。レイモンドは百合の強い香りにむせながら、次に宝石商へ向かった。そこで淡い青色の石を使った首飾りを選び、赤い天鵞絨の箱へ入れさせた。
「この石は、グラント伯爵夫人が当店との契約を結んでくださった鉱山から仕入れたものでございます」
宝石商の言葉を聞き、レイモンドの手が止まった。花屋も宝石商も、妻が築いた取引先だった。彼は金貨を払い、花束と宝石箱を抱えて屋敷へ戻った。
エステルの寝室では、荷造りが進められていた。窓辺には木箱が三つ並び、畳んだドレス、書物、母から譲られた食器が収められている。マーサは薄茶色の外出着を着て、刺繍の入った布を一枚ずつ確認しながら箱へ入れていた。
エステルは寝間着ではなく、深緑色のドレスを着ていた。栗色の髪をきちんとまとめ、結婚三周年にレイモンドから贈られた真珠の耳飾りは外している。小卓には林檎の焼き菓子と温かい紅茶が置かれ、肉桂と溶かしたバターの匂いが部屋へ広がっていた。
「その荷物は何だ」
レイモンドは花束を抱えたまま、入口で足を止めた。エステルは紅茶の杯を受け皿へ戻し、夫へ椅子を勧める。彼女の動きには、病弱な妻を演じていたときの震えも、わざとらしい息切れもなかった。
「自分の物をまとめておりますの」
「なぜ今、荷造りをする」
「今日で、この屋敷を出るからですわ」
レイモンドの腕から花束がずり落ちそうになった。強い百合の香りが近づき、エステルはわずかに顔をそむける。昔、寝室には香りの強い花を置かないでほしいと伝えたことがあったが、夫は覚えていなかった。
「待ってくれ。今日は君と話すために来た」
レイモンドは花束と宝石箱を小卓へ置いた。紅茶の隣に百合が置かれ、林檎と肉桂の香りが消えていく。エステルは花束へ触れず、赤い箱だけを見た。
「花と宝石で、何をお話しになるのですか?」
「これまでのことを謝りたい」
「どのことでしょう」
「リリアを君より優先したことだ。君が屋敷を支えていると気づかず、すべて任せていたことも悪かった」
「ほかには?」
「結婚記念日の約束を破った。君なら我慢できると、勝手に決めつけた」
レイモンドは椅子から立ち上がり、エステルの前へ膝をついた。きれいに磨いた靴の先が、荷造り中に落ちた糸巻きへ当たる。糸巻きは床を転がり、マーサの足元で止まった。
「愛している。これからは君を大切にする。もう一度、やり直してほしい」
エステルは夫の顔を見つめた。目の下には濃い隈があり、頬も一週間前よりこけている。けれども、その手には妻が何を好きで、何を嫌うかを知ろうとした跡はなく、花も宝石も金を払って選んだだけだった。
「あなた様が愛しているのは、わたくしでしょうか。それとも、屋敷を元どおりにしてくれる有能な妻でしょうか?」
「違う。仕事などしなくてもいい。ただ、ここにいてくれればいい」
「昨日は、屋敷を元に戻してくれとおっしゃいましたわ」
「それは追い詰められていたからだ」
「今日も追い詰められているから、愛しているとおっしゃるのではありませんか?」
レイモンドの口が閉じた。エステルは机へ移り、用意していた三枚の書類を取り出す。白い紙の端はきれいにそろえられ、署名欄には小さな赤い印がついていた。
「こちらも追い詰められておりますので、ご署名をお願いいたします」
エステルは一枚目を夫の前へ置いた。滞っていた食材の発注書で、小麦、肉、卵、野菜の数量と金額が記されている。二枚目は使用人の給与支払書であり、辞職する者へ渡す未払い分も含まれていた。
「これは必要な書類だ。すぐ署名する」
レイモンドは羽根ペンを取り、一枚目と二枚目へ名前を書いた。以前なら内容を見ずに署名したが、今回は金額と支払日を確かめている。二枚を書き終えると、エステルは三枚目を差し出した。
「こちらにもお願いいたします」
「これは……離婚届ではないか」
「ええ。王宮の監査官にも確認していただき、財産分与の内容も決まっております」
レイモンドの指から羽根ペンが落ちた。黒いインクが机へ一滴落ち、離婚届の端へ小さな染みを作る。エステルはすぐに吸い取り紙を重ね、書類が汚れないよう押さえた。
「署名できるはずがない。私はやり直したいと言っているのだ」
「わたくしは、やり直したくございません」
「これから変わる。今度こそ君を大切にする」
「リリアに裏切られ、王宮から監査され、使用人に辞められたから、変わろうと思ったのでしょう?」
「きっかけなど、何でもいいではないか」
「わたくしが何度訴えても変わらなかったことが、あなた様ご自身の不利益になった途端に変わるのですね」
レイモンドは離婚届を押し返した。顔は赤くなり、呼吸も荒くなっている。エステルは病弱な妻を演じていた頃と同じように、優しく微笑んだ。
「まあ、お顔が真っ赤ですわ。お医者様を呼んで差し上げますね。その前に、こちらへご署名をお願いします」
「冗談を言っている場合ではない」
「わたくしは一度も、冗談で離婚を望んでおりません」
「丈夫な君なら、私の過ちを乗り越えられるはずだ」
その言葉が出た瞬間、部屋から音が消えた。マーサは荷物を畳む手を止め、レイモンドを見た。エステルはしばらく夫の顔を眺めた後、真珠の耳飾りが入った小箱を机へ置いた。
「最後まで、それなのですね」
「違う。今のは言葉の綾だ」
「丈夫だから我慢しろ。丈夫だから働け。丈夫だから許せ。あなた様は、わたくしの丈夫さを、ご自分が何をしても許される理由にしてきました」
「そんなつもりはなかった」
「つもりがなければ、妻を傷つけてもよいのですか?」
エステルは離婚届を夫の前へ戻した。署名がなくても王宮へ離婚を申し立てる準備は整っていたが、最後くらいは自分の責任を認めてほしかった。レイモンドは花束、宝石箱、荷造りされた木箱を順に見た後、震える手で羽根ペンを拾った。
「本当に、もう戻らないのか」
「はい」
「私が何をしても?」
「わたくしが戻るために変わるのではなく、ご自分のために変わってくださいませ」
レイモンドは離婚届へ名前を書いた。最後の一文字が大きく揺れ、インクが紙へにじむ。エステルは書類が乾くのを待ち、三枚を別々の封筒へ入れた。
昼過ぎ、玄関前にはエステルの馬車が用意された。木箱と衣装鞄が積まれ、マーサも自分の小さな旅行鞄を足元へ置いている。空は薄く曇り、雨上がりの庭から土と若い草の匂いがした。
料理長のバートンは、旅の途中で食べるよう、焼きたての丸パンとチーズを籠へ入れて持ってきた。若い侍女は温かい茶の入った水筒を渡し、辞職を考えていた使用人たちも玄関へ並んだ。エステルは一人ずつ名前を呼び、これまで支えてくれたことへ礼を伝えた。
レイモンドは階段の上から、その様子を見ていた。腕には、受け取ってもらえなかった花束を抱えている。百合の花粉が紺色の上着へ黄色くついていたが、誰も教えなかった。
「エステル」
呼ばれたエステルは、馬車へ乗る前に振り返った。レイモンドは何か言おうとしたが、謝罪も引き止める言葉も見つからない。結局、花束を抱える腕へ力を込めただけだった。
「どうか、お元気で」
エステルはそれだけ告げ、馬車へ乗った。扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き始める。使用人たちは馬車が門を出るまで頭を下げ、レイモンドだけが、離婚届に署名した手を握ったまま玄関へ立ち尽くしていた。




