第9話 リリアはあなたにとって何なのですか
第9話 リリアはあなたにとって何なのですか
リリアがヴァリエ侯爵家へ逃げ込んだ翌朝、グラント伯爵邸では盗まれた品の確認が始まった。侍女たちは客室の戸棚や引き出しを一つずつ開け、なくなった物をハロルドへ報告した。化粧台には空の香油瓶と食べかけの砂糖菓子が残され、甘い薔薇の匂いに混じって、放置された牛乳の酸っぱい匂いが漂っていた。
「真珠の首飾りが一本、金の腕輪が二本、銀の置き時計が一つでございます」
若い侍女は紙に書かれた一覧を読み上げた。昨夜から何度も部屋を出入りしているため、茶色い仕事着の裾には白い埃がついている。暖炉の上へ目を向けると、銀の燭台があった場所だけ、壁紙の色が濃く残っていた。
「銀の燭台もございません。奥様のお輿入れ道具と一緒に運ばれた、蔓薔薇の彫刻があるものです」
ハロルドの羽根ペンが止まった。あの燭台はエステルの母が使っていた品で、彼女がグラント家へ嫁ぐ際に持たせてくれたものだった。左右一対のうち一つだけが盗まれ、残った燭台は蝋の跡をつけたまま食器棚の端へ置かれている。
「それは、伯爵家の備品ではありません」
マーサが低い声で言った。黒いドレスの腰に下げた鍵束が、歩くたびに硬い音を立てる。彼女は残された燭台を白い布で包み、両手で大切に持ち上げた。
「奥様個人のお品です。亡くなられたお母様の形見でございます」
「リリア様は、治療先で明かりが必要だからとお持ちになりました」
侍女が答えると、マーサは布を巻く手へ力を込めた。夜道を照らすなら普通のランタンで足り、重い銀の燭台を鞄へ入れる理由などない。けれども、目の前にいる侍女を責めても品物は戻らないため、息を整えてからハロルドへ向き直った。
「必ず取り戻してください。奥様には、まだ申し上げないでくださいませ」
「何を申し上げないのだ?」
開いた扉の向こうに、レイモンドが立っていた。昨夜もほとんど眠れず、白いシャツの襟は片側だけ立ち上がっている。手には王宮から届いた監査の通告書を持ち、青い封蝋を何度も親指でこすった跡があった。
ハロルドは盗品の一覧を主人へ渡した。レイモンドは上から順に読み、銀の燭台のところで眉を寄せる。リリアへ金貨十枚を渡したことまで思い出し、紙を握る指に力を込めた。
「金を渡したうえに、これだけ盗まれたのか?」
「そのようでございます」
「なぜ出発前に止めなかった!」
「旦那様が、リリア様をお客人ではなく、ご家族同然に扱うよう命じておられました」
「家族でも盗みは許されない」
「おっしゃるとおりでございます」
ハロルドは静かに頭を下げたが、謝罪はしなかった。使用人がリリアの荷物を調べようとすれば、レイモンド自身が病弱な女性を疑うのかと叱っただろう。部屋にいた侍女たちも視線を落とし、誰一人として主人へ近づかなかった。
「馬車を用意しろ。ヴァリエ侯爵家へ行く」
レイモンドは盗品の一覧を上着の内側へ入れた。昨日は厩舎の人手が足りずに出せなかったが、今日は荷運びに出ていた御者が戻っている。彼はリリアを連れ戻し、盗品を返させ、社交界へ広めた嘘を撤回させるつもりだった。
「旦那様、朝食はいかがなさいますか」
若い侍女が尋ねた。廊下の小卓には、冷めた豆のスープと黒パンが置かれている。表面には薄い膜が張り、パンの端は乾いて固くなっていた。
「いらない。すぐに出る」
「どの馬車をお使いになりますか」
「一番速いものだ」
「それは昨日、車輪の修理が必要だとご報告いたしました」
レイモンドは舌打ちし、別の馬車を用意するよう命じた。侍女は一礼したものの、動き出す前にハロルドを見た。主人の指示だけで動けば、壊れた馬車を出した責任まで自分が負わされると考えたのである。
その騒ぎを聞き、エステルが廊下の向こうから現れた。白い寝間着の上へ紺色の部屋着を重ね、肩には灰色の毛布を掛けている。マーサが駆け寄って支えようとしたが、エステルは残された銀の燭台を見つけ、その場で足を止めた。
「もう一つは、どうしたのです?」
誰もすぐには答えなかった。エステルはマーサの手から燭台を受け取り、蔓薔薇の彫刻を親指でなぞった。子どもの頃、母が夕食後に蝋を取り替えながら、溶けた蝋へ触れてはいけないと教えてくれたことを思い出す。
「リリア様がお持ちになったようでございます」
ハロルドが答えた。エステルは燭台を胸へ抱えたまま、レイモンドを見る。夫は目をそらし、これから取り戻しに行くところだと説明した。
「なぜ、あなた様がお迎えに行くのですか?」
「迎えに行くのではない。盗品を返させ、嘘を訂正させる」
「盗品の返還なら、衛兵と弁護士へ任せられます」
「私が直接問いただす。リリアをここへ連れ戻し、皆の前で事情を話させる」
「連れ戻した後は、どうなさるのです?」
レイモンドは答えず、上着の釦を留めた。エステルは燭台をマーサへ渡し、廊下の長椅子へ腰を下ろす。誰かが置き忘れた洗濯籠から、乾いた石鹸と日なたに干した布の匂いがした。
「リリアは、あなたにとって何なのですか?」
「遠縁の娘だ。病弱だから、私が守っていただけだ」
「妻との結婚記念日を捨ててまで守る、遠縁の娘ですか?」
「具合が悪いと言ったからだ」
「夫人の席へ座らせ、宝石を贈り、毎晩抱き上げて部屋へ運んだのも、遠縁だからですか?」
「彼女が歩けないと言ったからだ」
「銀の燭台まで盗んで逃げた今も、ご自分で迎えに行きたいほど大切なのですね」
レイモンドは反論しようとしたが、廊下に並ぶ使用人の視線に気づいた。ハロルドも侍女たちも、主人の答えを待っている。リリアを愛人だと認めるつもりはなかったが、ただの遠縁の娘だったと言い切るには、彼女へ与えたものが多すぎた。
「私は、弱い女性を守るのが男の務めだと思っただけだ」
「そのために、妻を踏みつけてもよいと?」
「踏みつけたつもりはない」
「では、わたくしの燭台を盗んだ女性を、この屋敷へ戻して何をなさるのです。もう一度、わたくしに我慢しろとおっしゃるのですか?」
エステルの指は、紺色の部屋着の裾を固くつかんでいた。声を荒らげてはいなかったが、唇から色が消えている。マーサは温かい茶を持ってこさせ、冷えた手へ杯を包ませた。
「妻を傷つけても守りたい女性を、世間では愛人と呼ぶのではございませんか?」
「違う。私はリリアと、そのような関係ではない」
「関係の名前だけが問題なのではございません」
「ならば、何が問題なのだ」
「六年間、あなたが妻よりあの方を選び続けたことです」
廊下の柱時計が九時を告げた。厨房から焼いた黒パンと玉葱の匂いが流れ、灰色の猫が洗濯籠から顔を出す。誰も言葉を発しない中、猫だけが大きく欠伸をした。
「私は、盗まれた品を取り戻さなければならない」
「ええ。それは必要です。正式に盗難を届け、ヴァリエ侯爵家へ返還を求めてくださいませ」
「リリアの嘘も訂正させる」
「弁護士を通して、証言をお求めください」
「私が会って話したほうが早い」
「それでも会いたいのですね」
エステルの短い言葉に、レイモンドの手が止まった。盗品と名誉を取り戻すためだと言いながら、心のどこかでリリアが自分を裏切った理由を聞きたいと思っている。彼女が泣いて謝れば、また許すつもりだったのかもしれなかった。
「体の弱い女性に旅をさせてはいけないと、いつもおっしゃっていたでしょう。そっとしておいて差し上げてくださいな」
エステルは夫が何度も口にした言葉を、そのまま返した。レイモンドは拳を握ったが、反論できない。か弱い女性を疑うなと使用人を叱り、病弱なのだから何をしても仕方がないと許してきたのは自分だった。
「ハロルド、盗まれた品をすべて記録してください。母の燭台は、特徴が分かるよう絵も添えてくださいませ」
「かしこまりました、奥様」
「衛兵への届け出と、侯爵家へ送る返還請求もお願いします」
「本日中に手配いたします」
ハロルドはすぐに羽根ペンと紙を用意した。若い侍女はエステルの背へもう一枚の肩掛けを掛け、マーサは冷めた茶を温かいものへ取り替える。ところが、レイモンドが命じた馬車を用意しようとする者は一人もいなかった。
「なぜ、誰も私の命令には従わない」
レイモンドの声が、湿った廊下へ落ちた。使用人たちは手を止めたが、誰も答えようとはしない。エステルは温かい茶を一口飲み、燭台の包みを膝へ置いた。
「あなた様の命令に従えば、最後に責任を負わされるのは、いつも使用人たちでしたから」
レイモンドは周囲を見回した。屋敷の主人でありながら、自分のそばには誰も立っていない。エステルの後ろにはマーサとハロルドが控え、彼女が頼んだ仕事を一つずつ始めていた。
「信頼は、命令して得るものではございませんわ」
エステルは残された銀の燭台を白い布で包み直した。レイモンドは一人で玄関へ立ち、出されない馬車を待つ。リリアを守って失ったものは銀の燭台だけではないと、彼はようやく気づき始めていた。




