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第8話 愛人は沈む船に乗らない

第8話 愛人は沈む船に乗らない


翌朝、リリアはまだ鐘が五つしか鳴っていないうちに起きた。窓の外には薄い霧がかかり、庭師が水をまく音も、厨房で鍋を動かす音も聞こえない。彼女は桃色の寝間着に毛布を巻いたまま、寝台の下から宝石箱を引き出した。


「首飾りが四本、指輪が七つ、耳飾りが五組……」


リリアは一つずつ布の上へ並べ、値打ちのありそうなものを選んだ。レイモンドから贈られた真珠の首飾り、伯爵家の紋章が入った金の腕輪、来客用の棚から持ち出した銀の燭台まで鞄へ詰める。燭台は重かったため一度は戻したが、王都で売れば当面の宿代になると思い直した。


着替えを取りに来た侍女は、床に並んだ品を見て足を止めた。リリアは淡い黄色の外出着へ着替えながら、医者に診てもらうため実家へ戻るのだと説明する。侍女は、伯爵家の紋章が入った腕輪まで治療に必要なのかと尋ねた。


「旅先で具合が悪くなったら、売って薬代にするのです」


「銀の燭台もでございますか」


「夜に発作が起きれば、明かりが必要でしょう?」


「蝋燭だけではいけませんか」


リリアは返事をせず、侍女へ朝食を持ってくるよう命じた。やがて運ばれた盆には、薄い麦粥、固茹での卵、昨日の残りの黒パンが載っていた。リリアは卵の黄身が固すぎると文句を言ったが、逃げた先で朝食を選べるとは限らないと思い、塩を振って全部食べた。


食後、リリアはレイモンドの執務室へ向かった。廊下には乾いた洗濯物の籠が残り、その上で灰色の猫が丸くなって眠っている。彼女は猫を起こさないよう籠をまたぎ、扉を軽く叩いた。


レイモンドは机へ突っ伏したまま眠っていた。頬には帳簿の角が当たった赤い跡がつき、右手には羽根ペンを握っている。机の隅には冷めた珈琲と、ひとかじりしただけのパンが置かれていた。


「レイモンド様、起きてくださいませ」


リリアが肩を揺すると、レイモンドは顔を上げた。彼女が静養のため実家へ戻ると告げても、しばらく意味を理解できないようだった。やがて椅子へ座り直し、額についたインクを袖で拭った。


「このような時に帰るのか?」


「このような時だからですわ。王宮の監査官が来るのでしょう? 大勢の知らない男性を見たら、わたくし、発作を起こしてしまいます」


「医者ならこちらへ呼ぶ」


「王都の名医でなければ治せないと言われましたの」


「誰に言われたのだ」


「夢の中のお医者様ですわ」


レイモンドは眉を寄せたが、言い争う気力も残っていなかった。リリアは治療費として金貨五十枚が必要だと訴え、胸を押さえて浅い呼吸を繰り返す。金庫には使用人の給与として残してある金しかなかったが、レイモンドは黙らせるため十枚だけ渡した。


「これ以上は出せない。治療が終わったら、すぐ戻れ」


「ええ。もちろんですわ」


リリアは金貨の袋を胸へ抱き、レイモンドの頬へ口づけた。薔薇の香油が強く匂い、彼の上着へ薄い紅がつく。彼女は部屋を出ると、戻るという言葉を忘れたように足を速めた。


午前七時、リリアは裏門から小さな馬車へ乗った。実家へ向かうと御者に告げたが、街道へ出るとすぐに行き先を変更する。目的地は、王都の西側に屋敷を構えるヴァリエ侯爵家だった。


「侯爵家へ行ってちょうだい。次男のアルベルト様を訪ねます」


「先ほどは、ご実家へ戻るとおっしゃいましたが」


「女には、途中で行き先を変えたくなる日もあるのです」


「馬にも休みが必要なので、これ以上は変えないでください」


御者はため息をつき、馬車を西へ向けた。リリアは座席へ深く腰を下ろし、鞄の中の宝石が触れ合う音を確かめる。小窓から見えるグラント伯爵邸は、朝霧の中へ少しずつ沈んでいった。


レイモンドが書き置きを見つけたのは、昼近くになってからだった。リリアの部屋には薔薇の香油の空瓶、食べかけの砂糖菓子、片方だけの手袋が残されている。化粧台には、『静養のため、しばらく実家へ戻ります』と書かれた紙が置かれていた。


「金貨まで渡したのに、挨拶もせず出ていったのか」


レイモンドは紙を握り、侍女へ馬車を追わせるよう命じた。しかし御者の名前も、馬車の色も、出発した門さえ知らない。廊下にいた使用人たちは顔を見合わせたが、誰も自分から手を貸そうとはしなかった。


その頃、リリアはヴァリエ侯爵家の客間で温かい紅茶を飲んでいた。白い磁器の皿には杏の焼き菓子が三つ並び、窓辺には新しく摘まれた百合が飾られている。向かいに座るアルベルトは、栗色の上着を着た二十六歳の青年で、社交界の夜会でリリアと何度か踊ったことがあった。


「突然どうしたのです。顔色がよくありませんね」


アルベルトが尋ねると、リリアは持っていた焼き菓子を皿へ戻した。白い布で目元を押さえ、何度か唇を震わせる。涙が出るまで少し時間がかかったため、その間は苦しそうに息を吸ってごまかした。


「レイモンド様に、無理やり屋敷へ置かれていたのです」


「グラント伯爵に?」


「わたくしは何度も実家へ帰りたいとお願いしました。でも、病弱なおまえは自分が守ると言って、外へ出してくださらなくて……」


「しかし、先日のお茶会では伯爵と親しそうにしていたでしょう」


「逆らえば何をされるか分かりませんでしたから、笑うしかなかったのです」


リリアは声を震わせ、袖口から伯爵家の紋章入りの腕輪をのぞかせた。贈り物を断れば怒鳴られたのだと説明し、今朝ようやく逃げ出したと訴える。アルベルトは完全には信じていない顔だったが、若い女性を門前へ追い返すわけにもいかず、しばらく客室を使うよう勧めた。


「ありがとうございます。アルベルト様だけが、わたくしを救ってくださるのですね」


リリアは彼の手へ自分の指を重ねた。次の瞬間には胸を押さえ、緊張が解けたら発作が起きたと訴える。アルベルトは侍女を呼び、柔らかな長椅子へ寝かせるよう命じた。


噂は、その日の夕方にはグラント伯爵邸へ届いた。ヴァリエ侯爵家へ出入りする商人が、厨房へ品物を届けたついでに話したのである。リリアは病弱な自分を屋敷へ囲い、妻より優先するよう強要したレイモンドから逃げてきたことになっていた。


「誰がそんな話を広めた!」


レイモンドは食堂の机を叩いた。今夜の食事は豆と塩漬け肉の煮込みで、強く叩いた拍子に器から汁が跳ね、白いクロスへ染みを作る。バートンは布を持ってきたが、レイモンドへは渡さず、自分で静かに拭き取った。


「リリア様ご本人が、ヴァリエ侯爵家でお話しになったそうです」


ハロルドは届いた手紙を読み上げた。王都ではすでに、妻が寝込んでいる間に遠縁の娘を囲っていた伯爵という噂が広がっている。先日のお茶会でリリアを隣へ座らせたことも、噂を裏づける証拠として語られていた。


「馬車を用意しろ。今すぐ連れ戻す」


レイモンドは椅子を蹴るように立ち上がった。しかし厩舎の若者はすでに辞職し、残った御者は朝から荷運びに出ている。誰もすぐには動かず、レイモンドだけが食堂の中央で拳を握っていた。


そこへエステルが、マーサに支えられて入ってきた。白い寝間着の上へ紺色の部屋着を重ね、肩には灰色の毛布を掛けている。病人らしく歩幅を小さくしていたが、途中で豆の煮込みの匂いを嗅ぎ、夕食をまだ食べていないとマーサへ小声で話した。


「エステル、リリアの居場所を知っているのか」


「ヴァリエ侯爵家にいらっしゃるそうですわね」


「知っていたなら、なぜ言わなかった」


「先ほど侍女から聞いたばかりですもの」


「彼女を連れ戻す。侯爵家へ使いを出してくれ」


エステルは食卓の椅子へ座り、胸元へ手を置いた。マーサが空いている器へ豆の煮込みをよそい、黒パンを一切れ添える。エステルは湯気の匂いを確かめてから、夫を見上げた。


「体の弱い女性に旅をさせてはいけないと、いつもおっしゃっていたでしょう。そっとしておいて差し上げてくださいな」


「彼女は私を陥れようとしているのだぞ」


「怖い思いをした病弱な女性が、ようやく安全な場所へ逃げたのでしょう?」


「その話は嘘だ!」


「では、リリアが嘘をついていると、社交界の皆様へ説明なさるのですか」


レイモンドは言葉を失った。リリアをか弱く純粋な女性だと称賛してきたのは、ほかならぬ自分だった。その彼女を嘘つきだと訴えれば、今まで自分が人を見る目のない男だったと認めることになる。


「馬車が戻り次第、私が行く」


レイモンドが命じても、使用人たちは返事をしなかった。ところがエステルが、煮込みにもう少し塩を足してほしいと頼むと、バートンはすぐに小皿を用意した。マーサはパンが固くないか確かめ、若い侍女は冷えないよう膝掛けを運んでくる。


レイモンドは食卓の向こうから、その様子を見ていた。自分が声を荒らげても誰も動かず、エステルが小さく頼めば、三人が同時に手を差し伸べる。屋敷の主人は自分であるはずなのに、この家で信頼されているのは妻だった。


「なぜ、誰も私の命令を聞かない」


誰に向けたのでもない声が、食堂へ落ちた。ハロルドは答えず、辞職した使用人の鍵を一つずつ箱へしまう。エステルは温かい豆を食べ、口元を布で拭ってから夫を見た。


「信頼は、命令して得るものではございませんわ」



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