第九章 街の子供たち
子供たちが、私の周りに群がるようになった。
最初は、革職人の老人を描いたあの日、私の紙を覗き込んだ五歳の男の子。彼の名前はレオというらしい。レオが友達を連れてきた。友達がまた友達を連れてきた。気づいたら、私が街角で絵を描いていると、子供が三、四人、必ず私の後ろに集まるようになっていた。
「カレン姉ちゃん、今日も描く?」
「描く」
「おれも描いて!」
「順番ね」
私の語尾は、城下町に来てから目に見えて雑になっていた。貴族街の私が聞いたら、きっと卒倒する。卒倒しないかもしれない。すでに何度か、私は心の中で、貴族街の私を卒倒させている。
子供たちは似顔絵をもらうたびに、銅貨一枚をちゃんと払った。
最初の頃、私は「子供から銅貨を取るのも、なあ」と思っていた。けれどマレナに言われた。
「お嬢様、子供から金を取らないってのは、子供を客として認めてないってことだよ。あの子たちは、銅貨一枚をちゃんと貯めて、あんたのところに来てる。あの一枚は、あの子たちにとって、けっこうな額だ。あんたが受け取らないと、あの子たちは、客として認めてもらえなかったって、傷つくよ」
なるほど。
私は納得した。
それ以降、銅貨はちゃんと受け取った。受け取って、子供たちにしっかり頭を下げた。「ありがとうございます、お客様」と。
子供たちは、きゃっきゃと笑った。「お客様」と呼ばれるのが、嬉しいらしかった。
* * *
ある日、レオが、私の絵筆を持つ手元をぐっとのぞき込んだ。
「カレン姉ちゃん」
「ん」
「おれにも、描けるかな」
お。
「教えてほしい?」
「うん」
「いいよ」
私はレオに、紙の端をすこし譲った。
木炭を、彼の小さな手のひらに乗せた。
「描きたいものを、ひとつ決める。何を描く?」
「えーっと。あの、向こうの、犬」
レオは通りの向こうで、丸まって寝ている茶色い犬を指差した。
「いいね。じゃあ、まず、犬の輪郭を、ぼんやりと、頭の中に描く。鼻の先、頭、背中、しっぽ。一筆で、ぐるっと」
「一筆で、ぐるっと」
レオは繰り返した。
「描く前に、頭の中でもう一回、ぐるっとして。何回も、ぐるっとして。十回でも、二十回でも。それから紙の上に、置く」
レオは目を閉じた。
真剣な顔で、しばらく、頭の中で「ぐるっと」を繰り返していた。
それから、目を開けて、紙の上に木炭を置いた。
最初の一線がすっと走った。
……。
私はその線を見た。
悪くない。
子供の手の線にしては、しっかりしている。
何より、線に「迷い」が少なかった。
「うまい。続けて」
レオは頷いて、線を続けた。
犬は紙の上に現れた。
完璧ではない。
尾が短すぎたし、足の付き方もすこし変だった。けれど、犬であることがわかった。丸まって寝ている犬であることがわかった。
「できた」
レオは自分の絵を見て、目を丸くしていた。
「おれ、描けた」
「描けたね」
「すげえ」
「すごいんじゃなくて、ちゃんと、頭の中で見たから、描けたの。絵描きの最初の仕事は、見ることだよ。手じゃなくて、頭」
レオは私の顔を見上げた。
あ、この目。
絵描きの目だ。
いま、レオは絵描きの目で私を見ている。
絵描きの目を、自分の中に見つけたばかりの目だ。
私はその目を心の中で額縁にしまった。
いつかレオが大きくなったとき、あらためて絵にする。
* * *
子供たちに絵を教える時間は、私の生活の新しい一部になった。
午後、街角で自分の絵を描く。
子供たちが集まる。
私の絵を見る。
描いてもらいたい子は、銅貨を払って、似顔絵をもらう。
描きたい子は、私の隣で、紙の端をもらって、自分の絵を描く。
教えるとき、私は自分の口から出る言葉にすこし驚くことがあった。
「絵は、見ることから始まる」
「迷いは、絵に出る。だから、迷う前に、頭の中で、ぐるっとを、何度もやる」
「失敗した線は、消そうとしないで、活かす方法を考える。失敗は、絵の一部だよ」
なんで私、こんなことを言えるんだ。
自分が「絵描き」になっていく速度に、私自身がいちばん驚いていた。
八年間、私は母の言いつけ通り、絵に手を抜いてきた。
手を抜いていた頃の私は、絵について、こんなことを言葉にできなかった。
手を抜くのをやめてから、ようやく、私は自分が絵について何を思っていたか、言葉にできるようになった。
お母さん、抜いた手を、出してみたら、こうなったよ。
心の中で母に報告した。
返事はなかった。
けれど、私の中で、母がちょっと驚いた顔で、それから、笑った気がした。
* * *
シグは相変わらず、毎日、来た。
子供たちと私が一緒にいる時間にも来た。
最初、子供たちはシグを警戒した。
背の高い、無愛想な男。子供にとっては、警戒対象として、満点の見た目だ。
「カレン姉ちゃん」
レオが私の袖を、ちょいちょい、と引っ張った。
「あの人、誰」
「お客さん」
「怖い」
「怖くないよ。銅貨をちゃんと払う、お客さん」
「銅貨、払うの?」
「払う。だから、銅貨を払う人は、怖くない。覚えとくといい」
「覚えとく」
レオは納得したのか、納得していないのか、わからない顔で、シグをちらっと見た。
シグは相変わらず、私の絵を見ていた。子供たちには目もくれない。
けれど、子供たちがちらちらシグを見るのに、シグはたぶん気づいていた。気づいていて、無視していた。子供を相手にするのは、得意ではなさそうだった。
何日かして、子供たちはシグに慣れた。
慣れたのは、シグが彼らに何もしなかったからだ。怒鳴らない、笑わない、話しかけない。ただ、私の絵を見ているだけ。子供たちにとって、無害な大人。子供は、害のない大人を放置する技術を、よく知っている。
ある日、レオがシグの前を、ぴゅっと通り過ぎた。
シグの目線がほんのわずか、レオを追った。
あ、追った。
私は絵を描きながら、その視線を額縁にしまった。
シグは子供を見ている。
見ていて、それから、すぐに、私の絵に視線を戻した。
子供のうちの一人、女の子のミラが、ある日、私の隣に座って、シグをまじまじと見上げた。
「お兄さん」
お、行った。
「お兄さん、カレン姉ちゃんのこと、好きなの?」
……ぶっ。
私は絵筆をすこし持ち損ねかけた。
シグの方は表情を変えなかった。
けれど、絵描きの目で見れば、シグの瞳の奥にほんのわずか、揺らぎが走った。光の角度ではない。内側の揺らぎ。
あ、揺らいだ。
私は心の中で笑った。
大人の顔で、子供の質問に困っている男の絵。
いい題材だ。
「ミラ」
私は絵筆を止めずに声をかけた。
「お兄さんは、お絵描きを買うのが好きなの。だから、毎日来るの」
「あ、そうなの?」
「そう。カレン姉ちゃんのこと、じゃなくて、絵のこと、ね」
「ふうん」
ミラは納得した顔で頷いた。
子供は、納得が早い。
シグは私の方をちらりと見た。
絵描きの目で、私はその視線を捉えた。
ありがとう、と言わない感謝の視線だった。
そして、その視線の中に、ほんの一筆、まだ揺らぎが残っていた。
ミラの質問に、シグは答えなかった。
答えなかった、ということは、否定しなかった、ということでもある。
ふうん。
私は心の中で、絵をもう一枚、額縁にしまった。
否定しない、無愛想な男の絵。
絵描きとしては、興味深い題材だった。
絵描きとしては。
絵描きとしては、ね。
* * *
ある日の夕方、子供たちが帰ったあとの、運河沿いの石壁。
私は画材を片付けていた。
シグはいつもより、少し長く、私のそばに残っていた。
「カレン」
「ん?」
「君は、子供に絵を教えてるんだな」
「教えてる、というほどじゃないけど。聞かれたら、答えてる」
「教師としての才能が、ある」
……。
シグの言葉は相変わらず、唐突に的確だった。
「教師、って大げさだよ。私は、絵描きで、ぱっと出の絵描きだよ。子供たちに教えるのは、自己流」
「自己流でも、教えている時の説明が整理されている。君は絵をよく分かっている。分かっていることを、分かりやすく伝えられる」
「シグ」
「ん」
「あんた、誰かを観察するのが仕事?」
シグはしばらく黙った。
それから、答えた。
「……否定しない」
……。
否定しない、はやっぱり、否定しないだ。
私は絵筆を片付ける手を止めた。
「武人と、観察者は、違う仕事じゃないの」
「武人は、観察もする」
「ふうん」
「観察できなければ、生き残れない仕事だ」
……。
生き残れない仕事。
その単語に、私はちょっと、心の中で絵筆を止めた。
「シグ」
「ん」
「無事、生き残ってる?」
シグはすこし考えた。
それから、ふっと、口の端を上げた。
「いまのところは」
「それは、よかった」
「君も、無事に生き残れ」
……。
シグの言葉は無愛想なまま、なぜか、私の中にすっと入ってきた。
私が「魔女・カレン・グレイファン」だと、シグは知らない。私が追放されてここに来たことも、知らない。
でも、シグは「君も、無事に生き残れ」と言った。
絵描きの目には、その言葉の中に、私の事情をなんとなく察している気配があった。
城下町の人間は、目が肥えている。
シグも、たぶん、そうだ。
私が、何かを抱えてここに流れ着いた人間であることを、シグはたぶん最初から、感じていた。
「ありがとう、シグ」
私は答えた。
「あんたも、生き残ってね」
シグは頷いた。
そして、その日も立ち去った。
いつもより、すこしゆっくりと。
* * *
夜、金鹿亭で皿を運んでいると、マレナがカウンター越しに、私に声をかけた。
「お嬢様」
「はい」
「あんた、最近、笑ってるね」
「笑ってます?」
「笑ってる。客の前でも、子供の話をするとき、笑う」
「……気づきませんでした」
「気づかないうちに笑うのが、いちばん、いい笑いだよ」
マレナはにやりとした。
「お嬢様、城下町に、馴染んだね」
馴染んだ。
私はその言葉を心の中で転がした。
馴染んだ。
貴族街の私は、馴染むことを求められなかった。育ちと、家門と、所作で、すでに「枠」に入っていた。馴染む必要がなかった。
城下町の私は、馴染んだ。
一日、一日、皿を運んで、絵を描いて、子供に教えて、シグに銅貨をもらって、銀貨を一枚もらって、馴染んだ。
お母さん。
私は心の中で母に呼びかけた。
お母さん、私、街に馴染んだみたいです。
返事は、いつも通り、なかった。
でも、母がすこし笑った気がした。
うん、と頷いてくれた気がした。
* * *
その夜、店じまいのあと、私は二階の部屋に上がった。
机の上に、今日描いた絵を並べた。
レオが描いた犬の絵を、私が複写したもの。ミラの似顔絵。シグが私の絵を見ているときの横顔のスケッチ。子供たちと、シグが、同じ街角にいる構図のスケッチ。
最後の一枚を、私は長く見ていた。
子供たちと、シグ。
同じ街角に、居合わせている、不思議な構図。
シグ。
私は心の中で呼んだ。
あんた、私のこと、好きなの?
絵は答えなかった。
けれど、紙の中のシグの目線の角度が、ほんのわずか私のほうに傾いている気がした。
たぶん、気のせいだ。
たぶん、気のせいでいい。
ベッドに横になって、私は目を閉じた。
眠りに落ちる前、心の中で、ひとつ独り言を言った。
――もし、好きなんだったら、自分で、ちゃんと、言いに来な。
――絵にだけ、それを言わせるのは、絵描きとして、許さないからね。
返事はもちろん、なかった。
なかったけれど、私の中の絵描きが、すこしだけ、にやりとした。
――絵描きの勘は、わりと当たる。
――シグ、近いうちに、何か言うよ。たぶん。
そう思って、私は眠りに落ちた。




