表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/19

第八章 値段交渉

 翌日、午後二時半に私は市場の裏の路地に出た。

 路地の奥に、白い石壁の家がある。その家の壁が、午後三時前後だけちょうどいい角度で陽を受けて、淡い反射光を路地に流す。私はその壁の前に画材一式を広げた。

 紙、木炭、絵筆、絵の具、水を入れた小さな陶器の壺。

 あと、椅子を二脚。一脚はマレナから借りた。客に座ってもらうための椅子。

 準備が整った頃、シグが約束通り現れた。


 「来た」

 短く言って、椅子を見た。

 「座ってください」

 「ああ」

 シグは椅子に座った。座る動作にも無駄がなかった。腰を落とす速度。背筋を伸ばす角度。両手を膝の上に置く位置。全部、訓練された人間の動きだった。

 ますます、ただの平民じゃないな。

 私は心の中で頷いた。

 私はシグの正面に、自分の椅子を置いた。距離は二歩分。シグの顔の輪郭が、私の視界にちょうど入る距離。

 絵筆を握った。


 「動かないでください」

 「わかった」

 「目線も固定で。私の右肩のあたりを見ててください」

 「ああ」

 シグは言われた通りに、私の右肩を見た。

 動かなかった。

 本当にぴくりとも動かなかった。

 ……すごい。

 私はちょっと感心した。

 モデルとして、これほど扱いやすい人間はいない。


 * * *


 絵を描き始めた。

 最初の一線で、私はシグの顔の輪郭をなぞった。額、こめかみ、頬骨、顎の線。

 次の線で髪の流れ。金髪。前髪は額の真ん中で、二つに分かれていた。きれいに切られた毛先。後頭部は短く整えられている。床屋の腕がいい。たぶん、街の床屋ではない。

 次の線で目。

 切れ長。瞼の上の線が、外側に向かってすこし鋭くなる。瞳は碧。光が当たると、青の中にわずかに緑が入る。

 ……目がいい。

 絵描きとして率直に思った。

 人の顔の中でいちばん描き応えがあるのは目だ。目の表情で、人の絵は生きるか死ぬかが決まる。シグの目は生きていた。表情がないのに生きていた。表情の代わりに、視線の強さがあった。


 「シグ」

 私は絵を描きながら声をかけた。

 「あんた、何してる人?」

 動揺を期待して聞いた。動揺すると、目にわずかな揺らぎが出る。それを描きたかった。

 シグは動揺しなかった。

 「言えない仕事をしてる」

 そうだ、というように、静かに答えた。

 ……動揺しないか。さすが。

 「言えない仕事って、悪いこと?」

 「悪くない仕事だ」

 「悪くない仕事で、苗字を隠す人?」

 「……そうだな」

 シグはすこし考えた。それから、同じ目線のまま続けた。

 「事情がある」

 「ふうん」

 私はそれ以上聞かなかった。

 動揺の代わりに、シグの目にわずかな影が落ちた。光の落ちる角度ではなく、内側からの影。

 あ、これは描く。

 私はその影を絵に入れた。

 瞳の中に、ほんの一筆、青に紫を混ぜた色をすうっと入れた。


 * * *


 描いている途中、シグが唐突に口を開いた。

 「君も、苗字を言わない」

 「私?」

 「ああ」

 「私の苗字、聞いた?」

 「聞いてない」

 「だったら、隠してない。聞かれてないだけ」

 「……なるほど」

 シグはそれ以上聞かなかった。

 私は絵を描きながら、すこし笑った。

 この人、あれだ。会話のキャッチボールが、すごく短い人だ。

 でも、嫌な短さじゃない。会話の上澄みだけを、ぴゅっぴゅっと交換する感じ。これはこれで、絵描きにはありがたい相手だ。長く喋る相手だと、絵を描く集中が何度も切れる。

 シグは絵を描く時間を邪魔しない。


 「シグ」

 「ん」

 「あんた、なんで、私の絵を、買うの?」

 「気に入ったから」

 「気に入った、って、私の絵の何が」

 シグはしばらく考えた。

 考えながら、シグの目線がほんのわずかゆれた。

 お、ゆれた。

 私はゆれを絵に入れた。

 「絵の中の人が、生きてる」

 シグはようやく言った。

 「生きてる、って、当たり前ですよ。私は生きてる人を描いてるんだから」

 「絵に描かれた人が、生きてるとは限らない。たいていの絵の中の人間は、絵の中で止まっている。君の絵の人間は、いまにも、紙から出てきそうな顔をしている」

 ……。

 私は絵筆をすこし止めた。

 シグの言葉は無愛想なまま、ものすごく的確だった。

 絵描きとして、その言葉は、心臓をふっと握られた感じだった。

 「……ありがとう」

 私は答えた。

 声がちょっと上ずった。

 シグは私の右肩のあたりを見たまま、すこしだけ口の端を上げた。

 あ、笑った。この人いま、笑った。

 私は慌てて、絵に、その口の端の角度を入れた。


 * * *


 一時間ほどで、絵は完成した。

 紙の中に、シグが立っていた。

 椅子に座っているのではなく、立っているように見えた。背景の白い石壁を背負って、まっすぐこちらを見据える、無愛想な男。瞳の中に、青と紫の光。口の端がほんのわずか上がっている。

 生きていた。

 紙の中でちゃんと生きていた。


 私は絵をシグに渡した。

 シグは両手で受け取った。受け取り方が、何か貴重なものを扱うときのそれだった。指の使い方。紙の縁の触り方。両手の角度。

 絵の扱い、慣れてるな。

 私は心の中でつぶやいた。

 貴族街で絵画を扱い慣れている人間の、手の使い方だった。


 シグはしばらく自分の絵を見ていた。

 見て、それから口を開いた。

 「……これ、本当に銀貨一枚でいいのか」

 「いいですよ」

 「足りないと思うんだが」

 「絵の値段は、絵描きが決めるものだろう、って、シグが、昨日、言ったんですよ」

 「言った」

 「だから、私が決めた。銀貨一枚」

 シグはすこし考えた。

 それから、自分の財布をもう一度開けた。

 「鑑賞料込みで、銀貨二枚にしたい」

 「鑑賞料?」

 「これから先しばらく、この絵を毎日、自分で見ることになる。毎日見るなら、鑑賞料が要る」

 ……。

 私は銀貨二枚目を受け取った。

 受け取りながら、頭の中で絵を一枚描いた。

 シグが自分の部屋で、私の描いた絵を毎日見ている絵。

 どんな部屋に飾るのか、わからない。けれど、その絵の中でシグの部屋は貴族街のどこかの、立派な書斎みたいになっていた。たぶん、私の想像が勝手にそう描いた。

 いや、こっち、勝手に絵を描いちゃだめだろう。

 私は自分の頭の中の絵を、いったんしまった。

 ま、そのうちわかる。

 絵描きの勘は、わりと当たる。


 * * *


 シグが帰ったあと、私は画材を片付けた。

 片付けながら、財布の中の銀貨二枚をちらりと見た。

 これで、私の財布はいきなり、ちょっと豊かになった。

 城下町に来て十一日目で、銀貨二枚。

 絵描き、けっこう、いい商売じゃん。

 私はにやりとした。

 絵筆を布に巻いて、鞄に入れた。


 路地を出て、大通りに戻ると、果物を売っている婆さんが、私を見て手を振った。

 「カレンちゃん、ちょっと!」

 「はい?」

 近寄ると、婆さんは私の耳に口を近づけた。

 「あんたの、毎日来る、あの背の高いお兄さんね」

 ……ぴくっ。

 「あれ、ただ者じゃないよ」

 「……はあ」

 「いやね、わたしも、長く商売してるからね、いろんな人を見てきた。あの目つき、衛兵の隊長さんとは違う。文官でもない。冒険者でもない。けど、絶対に、上の人だよ」

 「上、というのは」

 「上は、上だよ」

 婆さんはそれ以上、明言しなかった。

 けれど、目尻に、商売人の鋭さがあった。

 マレナの目と似ていた。城下町で長く生きている人間の目だ。

 ……マレナだけじゃないんだな。

 私は心の中で認めた。

 シグの正体に、街の人たちがすでに、うっすら気づき始めている。

 城下町の人たちは、私が思っていたよりもずっと、目が肥えていた。


 「カレンちゃん、近寄っていい男かどうかは、わからないけどね」

 婆さんは笑った。

 「まあ、あんたが、いいって思うなら、いいよ。あたしらは、口出しはしない。詮索しない街、だからね」

 詮索しないと言いつつ、十秒もしないうちに、わりと詮索してきたな。

 私は心の中でつぶやいた。

 けれど、嫌な感じじゃなかった。

 婆さんの「詮索」は心配の延長だった。私のことをすこしだけ、気にかけてくれている。それが、貴族街にはなかった種類の温度だった。

 「ありがとう、ばあさん」

 「ばあさんじゃない。ヘルダだよ」

 「ヘルダさん、ありがとう」

 「ばあさんでもいいけどね」

 婆さんは笑って、林檎を一個、私の鞄に入れた。

 おまけ、だそうだ。

 私はまた、街の絵を一枚増やした。

 おまけの林檎を入れる、皺の多い手の絵。


 * * *


 次の日、シグはまた来た。

 いつもの場所、運河沿い。

 私はその日、別の絵を描いていた。

 シグは私の後ろに立った。何も言わずに、銅貨を一枚、私の手のひらに置いた。

 「鑑賞料、続行ってこと?」

 「ああ」

 「昨日、あんなに払ったのに?」

 「鑑賞料は、別だ」

 この人、本当に、銅貨と銀貨の使い分け、まじめにやってるな。

 私は銅貨を財布に入れた。

 シグは私の絵を見た。

 しばらく、何も言わなかった。

 私も、何も言わずに絵を描き続けた。


 しばらくして、シグがぼそっと言った。

 「君」

 「ん」

 「夜、何してる」

 ……。

 私は絵筆をすこし止めた。

 夜、何してる。

 返答に、いくつかの選択肢があった。

 「夜、近所で、酒運びしてます」と、ぶっちゃけて答える。

 「夜は、寝てます」と、はぐらかす。

 「夜、何してるか聞いたあんたは、何の用ですか」と、切り返す。

 私はすこし迷った。


 迷って、結局、ぶっちゃけた。

 「夜は、近所の店で働いてます」

 「店?」

 「居酒屋」

 「……居酒屋」

 シグはその単語を繰り返した。

 繰り返したあと、しばらく沈黙した。

 「店の名前は」

 「金鹿亭」

 「……」

 シグはそれきり、何も言わなかった。

 しばらくして、彼は立ち去った。

 いつもより、立ち去る速度がすこしだけ速かった。

 ……あ。

 もしかして、行く気だな、これ。

 私は心の中でちょっと笑った。

 夜の店に、シグが現れる。

 たぶん、明日。あるいは、今夜。

 絵描きの勘は、わりと当たる。


 * * *


 その夜、私が金鹿亭で皿を運んでいると、扉が開いた。

 入ってきたのはシグだった。

 平民の格好。茶色の上着。けれど、剣は腰に差していない。たぶん店に入る前に、宿に置いてきた。律儀な人だな、と私は思った。武装で居酒屋に入るのは流儀じゃない、と思ったらしい。

 シグは店の入り口で、しばらく店内を見回した。私を見つけた。

 私と目が合った。

 シグはほんのわずかに頷いた。

 私もほんのわずかに頷き返した。

 シグは空いているテーブルに、一人で座った。


 おかみ。

 私はカウンターの中のマレナに、目で合図した。

 マレナがちらりとシグを見た。

 シグを見て、それから、私を見て、ふっと目を細めた。

 「お嬢様」

 マレナが私の耳元でぼそっと言った。

 「お客さん、来たね?」

 「来ました」

 「いい男じゃないか」

 「……まあ、無愛想ではあります」

 「無愛想でも、いい男は、いい男だよ。注文、取っておいで」

 マレナは私の背中をぽん、と叩いた。


 私はシグのテーブルに行った。

 「ご注文は」

 「エール」

 「他には」

 「……何かあるか」

 「今夜は、煮込みがいいです。豆と、ベーコンと、香草」

 「それを」

 「はい」

 私は注文を厨房に通して、エールを運んだ。シグはエールをゆっくりと飲んだ。煮込みが来たあとも、ゆっくりと食べた。

 食べ方が綺麗だった。

 マレナが私に「食い方が綺麗だね」と言ったことを、思い出した。

 シグの食べ方も、たぶん、同じ評価をされる種類のものだ。

 音をたてず、散らかさず、しかし、ちゃんと食べる。

 貴族の食卓で、繰り返し練習させられた人間の食べ方だった。


 シグは二時間ほど店にいて、勘定を払って帰った。

 帰り際に、私と目が合った。

 何も言わなかった。

 でも、頷いた。

 私も、頷いた。

 それで、その夜は終わった。


 * * *


 シグが帰ったあと、マレナがカウンターの中から、私をちょいちょいと手招きした。

 「お嬢様」

 「はい」

 「あの男ね」

 「はい」

 「絶対、貴族だよ」

 マレナ、確信してる。

 「食い方、所作、酒の飲み方、勘定の払い方。ぜんぶ、貴族の癖が抜けてない。お嬢様の食い方と、同じ系統」

 「マレナ、私のと、同じですか」

 「同じだよ。きれいすぎる。あれは、子供の頃から繰り返し直された癖だ」

 マレナは笑った。

 「あんたの似た者の、お客さんが来たね」

 似た者。

 私はその言葉を頭の中で転がした。

 似た者。

 貴族街育ちの絵描きの私と、貴族街育ちの苗字を隠した武人。

 城下町の路地で、似た者が出会った。

 絵描きとしては、完璧な構図だ。


 「マレナ」

 「ん?」

 「ありがとう」

 「何が」

 「いろいろ」

 マレナは笑って、私の頭をぐしゃっと撫でた。

 「お嬢様、あんた、いい絵を描きな。いい絵を描く女には、いい男が、寄ってくるもんだ」

 「マレナ、それ、根拠ありますか」

 「あたしの経験」

 「経験で、いい男、寄ってきました?」

 「いい男も、悪い男も、いっぱい寄ってきたよ。死にかけたのは、二回」

 マレナは自分のワインをぐっと飲んだ。

 私は笑った。


 * * *


 その夜、私は二階の部屋で机の前に座った。

 昼間、シグの似顔絵を描いた紙の控え、つまり私が自分用に複写した一枚を、机の上に置いた。

 シグの顔が、紙の上でこちらを見ていた。

 無愛想で、けれど、口の端がほんのわずか上がっている顔。

 シグ。

 私は心の中で呼んでみた。

 あんた、何してる人?

 絵は答えなかった。

 けれど、絵の中の口の端が、もうすこしだけ上がった気がした。

 たぶん、気のせいだ。


 私は絵を机の引き出しにしまった。

 しまって、ベッドに横になった。

 眠りに落ちる前、心の中で、ひとつだけ独り言を言った。

 ――シグ、ね。

 ――銀貨二枚と、夜の店と、似た者。

 ――絵が、また、増えそう。

 返事はなかった。

 でも、絵の中の口の端が、引き出しの中で、また、ちょっと上がった気がした。

 たぶん、気のせいだ。

 たぶん、気のせい、で、いい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ