第八章 値段交渉
翌日、午後二時半に私は市場の裏の路地に出た。
路地の奥に、白い石壁の家がある。その家の壁が、午後三時前後だけちょうどいい角度で陽を受けて、淡い反射光を路地に流す。私はその壁の前に画材一式を広げた。
紙、木炭、絵筆、絵の具、水を入れた小さな陶器の壺。
あと、椅子を二脚。一脚はマレナから借りた。客に座ってもらうための椅子。
準備が整った頃、シグが約束通り現れた。
「来た」
短く言って、椅子を見た。
「座ってください」
「ああ」
シグは椅子に座った。座る動作にも無駄がなかった。腰を落とす速度。背筋を伸ばす角度。両手を膝の上に置く位置。全部、訓練された人間の動きだった。
ますます、ただの平民じゃないな。
私は心の中で頷いた。
私はシグの正面に、自分の椅子を置いた。距離は二歩分。シグの顔の輪郭が、私の視界にちょうど入る距離。
絵筆を握った。
「動かないでください」
「わかった」
「目線も固定で。私の右肩のあたりを見ててください」
「ああ」
シグは言われた通りに、私の右肩を見た。
動かなかった。
本当にぴくりとも動かなかった。
……すごい。
私はちょっと感心した。
モデルとして、これほど扱いやすい人間はいない。
* * *
絵を描き始めた。
最初の一線で、私はシグの顔の輪郭をなぞった。額、こめかみ、頬骨、顎の線。
次の線で髪の流れ。金髪。前髪は額の真ん中で、二つに分かれていた。きれいに切られた毛先。後頭部は短く整えられている。床屋の腕がいい。たぶん、街の床屋ではない。
次の線で目。
切れ長。瞼の上の線が、外側に向かってすこし鋭くなる。瞳は碧。光が当たると、青の中にわずかに緑が入る。
……目がいい。
絵描きとして率直に思った。
人の顔の中でいちばん描き応えがあるのは目だ。目の表情で、人の絵は生きるか死ぬかが決まる。シグの目は生きていた。表情がないのに生きていた。表情の代わりに、視線の強さがあった。
「シグ」
私は絵を描きながら声をかけた。
「あんた、何してる人?」
動揺を期待して聞いた。動揺すると、目にわずかな揺らぎが出る。それを描きたかった。
シグは動揺しなかった。
「言えない仕事をしてる」
そうだ、というように、静かに答えた。
……動揺しないか。さすが。
「言えない仕事って、悪いこと?」
「悪くない仕事だ」
「悪くない仕事で、苗字を隠す人?」
「……そうだな」
シグはすこし考えた。それから、同じ目線のまま続けた。
「事情がある」
「ふうん」
私はそれ以上聞かなかった。
動揺の代わりに、シグの目にわずかな影が落ちた。光の落ちる角度ではなく、内側からの影。
あ、これは描く。
私はその影を絵に入れた。
瞳の中に、ほんの一筆、青に紫を混ぜた色をすうっと入れた。
* * *
描いている途中、シグが唐突に口を開いた。
「君も、苗字を言わない」
「私?」
「ああ」
「私の苗字、聞いた?」
「聞いてない」
「だったら、隠してない。聞かれてないだけ」
「……なるほど」
シグはそれ以上聞かなかった。
私は絵を描きながら、すこし笑った。
この人、あれだ。会話のキャッチボールが、すごく短い人だ。
でも、嫌な短さじゃない。会話の上澄みだけを、ぴゅっぴゅっと交換する感じ。これはこれで、絵描きにはありがたい相手だ。長く喋る相手だと、絵を描く集中が何度も切れる。
シグは絵を描く時間を邪魔しない。
「シグ」
「ん」
「あんた、なんで、私の絵を、買うの?」
「気に入ったから」
「気に入った、って、私の絵の何が」
シグはしばらく考えた。
考えながら、シグの目線がほんのわずかゆれた。
お、ゆれた。
私はゆれを絵に入れた。
「絵の中の人が、生きてる」
シグはようやく言った。
「生きてる、って、当たり前ですよ。私は生きてる人を描いてるんだから」
「絵に描かれた人が、生きてるとは限らない。たいていの絵の中の人間は、絵の中で止まっている。君の絵の人間は、いまにも、紙から出てきそうな顔をしている」
……。
私は絵筆をすこし止めた。
シグの言葉は無愛想なまま、ものすごく的確だった。
絵描きとして、その言葉は、心臓をふっと握られた感じだった。
「……ありがとう」
私は答えた。
声がちょっと上ずった。
シグは私の右肩のあたりを見たまま、すこしだけ口の端を上げた。
あ、笑った。この人いま、笑った。
私は慌てて、絵に、その口の端の角度を入れた。
* * *
一時間ほどで、絵は完成した。
紙の中に、シグが立っていた。
椅子に座っているのではなく、立っているように見えた。背景の白い石壁を背負って、まっすぐこちらを見据える、無愛想な男。瞳の中に、青と紫の光。口の端がほんのわずか上がっている。
生きていた。
紙の中でちゃんと生きていた。
私は絵をシグに渡した。
シグは両手で受け取った。受け取り方が、何か貴重なものを扱うときのそれだった。指の使い方。紙の縁の触り方。両手の角度。
絵の扱い、慣れてるな。
私は心の中でつぶやいた。
貴族街で絵画を扱い慣れている人間の、手の使い方だった。
シグはしばらく自分の絵を見ていた。
見て、それから口を開いた。
「……これ、本当に銀貨一枚でいいのか」
「いいですよ」
「足りないと思うんだが」
「絵の値段は、絵描きが決めるものだろう、って、シグが、昨日、言ったんですよ」
「言った」
「だから、私が決めた。銀貨一枚」
シグはすこし考えた。
それから、自分の財布をもう一度開けた。
「鑑賞料込みで、銀貨二枚にしたい」
「鑑賞料?」
「これから先しばらく、この絵を毎日、自分で見ることになる。毎日見るなら、鑑賞料が要る」
……。
私は銀貨二枚目を受け取った。
受け取りながら、頭の中で絵を一枚描いた。
シグが自分の部屋で、私の描いた絵を毎日見ている絵。
どんな部屋に飾るのか、わからない。けれど、その絵の中でシグの部屋は貴族街のどこかの、立派な書斎みたいになっていた。たぶん、私の想像が勝手にそう描いた。
いや、こっち、勝手に絵を描いちゃだめだろう。
私は自分の頭の中の絵を、いったんしまった。
ま、そのうちわかる。
絵描きの勘は、わりと当たる。
* * *
シグが帰ったあと、私は画材を片付けた。
片付けながら、財布の中の銀貨二枚をちらりと見た。
これで、私の財布はいきなり、ちょっと豊かになった。
城下町に来て十一日目で、銀貨二枚。
絵描き、けっこう、いい商売じゃん。
私はにやりとした。
絵筆を布に巻いて、鞄に入れた。
路地を出て、大通りに戻ると、果物を売っている婆さんが、私を見て手を振った。
「カレンちゃん、ちょっと!」
「はい?」
近寄ると、婆さんは私の耳に口を近づけた。
「あんたの、毎日来る、あの背の高いお兄さんね」
……ぴくっ。
「あれ、ただ者じゃないよ」
「……はあ」
「いやね、わたしも、長く商売してるからね、いろんな人を見てきた。あの目つき、衛兵の隊長さんとは違う。文官でもない。冒険者でもない。けど、絶対に、上の人だよ」
「上、というのは」
「上は、上だよ」
婆さんはそれ以上、明言しなかった。
けれど、目尻に、商売人の鋭さがあった。
マレナの目と似ていた。城下町で長く生きている人間の目だ。
……マレナだけじゃないんだな。
私は心の中で認めた。
シグの正体に、街の人たちがすでに、うっすら気づき始めている。
城下町の人たちは、私が思っていたよりもずっと、目が肥えていた。
「カレンちゃん、近寄っていい男かどうかは、わからないけどね」
婆さんは笑った。
「まあ、あんたが、いいって思うなら、いいよ。あたしらは、口出しはしない。詮索しない街、だからね」
詮索しないと言いつつ、十秒もしないうちに、わりと詮索してきたな。
私は心の中でつぶやいた。
けれど、嫌な感じじゃなかった。
婆さんの「詮索」は心配の延長だった。私のことをすこしだけ、気にかけてくれている。それが、貴族街にはなかった種類の温度だった。
「ありがとう、ばあさん」
「ばあさんじゃない。ヘルダだよ」
「ヘルダさん、ありがとう」
「ばあさんでもいいけどね」
婆さんは笑って、林檎を一個、私の鞄に入れた。
おまけ、だそうだ。
私はまた、街の絵を一枚増やした。
おまけの林檎を入れる、皺の多い手の絵。
* * *
次の日、シグはまた来た。
いつもの場所、運河沿い。
私はその日、別の絵を描いていた。
シグは私の後ろに立った。何も言わずに、銅貨を一枚、私の手のひらに置いた。
「鑑賞料、続行ってこと?」
「ああ」
「昨日、あんなに払ったのに?」
「鑑賞料は、別だ」
この人、本当に、銅貨と銀貨の使い分け、まじめにやってるな。
私は銅貨を財布に入れた。
シグは私の絵を見た。
しばらく、何も言わなかった。
私も、何も言わずに絵を描き続けた。
しばらくして、シグがぼそっと言った。
「君」
「ん」
「夜、何してる」
……。
私は絵筆をすこし止めた。
夜、何してる。
返答に、いくつかの選択肢があった。
「夜、近所で、酒運びしてます」と、ぶっちゃけて答える。
「夜は、寝てます」と、はぐらかす。
「夜、何してるか聞いたあんたは、何の用ですか」と、切り返す。
私はすこし迷った。
迷って、結局、ぶっちゃけた。
「夜は、近所の店で働いてます」
「店?」
「居酒屋」
「……居酒屋」
シグはその単語を繰り返した。
繰り返したあと、しばらく沈黙した。
「店の名前は」
「金鹿亭」
「……」
シグはそれきり、何も言わなかった。
しばらくして、彼は立ち去った。
いつもより、立ち去る速度がすこしだけ速かった。
……あ。
もしかして、行く気だな、これ。
私は心の中でちょっと笑った。
夜の店に、シグが現れる。
たぶん、明日。あるいは、今夜。
絵描きの勘は、わりと当たる。
* * *
その夜、私が金鹿亭で皿を運んでいると、扉が開いた。
入ってきたのはシグだった。
平民の格好。茶色の上着。けれど、剣は腰に差していない。たぶん店に入る前に、宿に置いてきた。律儀な人だな、と私は思った。武装で居酒屋に入るのは流儀じゃない、と思ったらしい。
シグは店の入り口で、しばらく店内を見回した。私を見つけた。
私と目が合った。
シグはほんのわずかに頷いた。
私もほんのわずかに頷き返した。
シグは空いているテーブルに、一人で座った。
おかみ。
私はカウンターの中のマレナに、目で合図した。
マレナがちらりとシグを見た。
シグを見て、それから、私を見て、ふっと目を細めた。
「お嬢様」
マレナが私の耳元でぼそっと言った。
「お客さん、来たね?」
「来ました」
「いい男じゃないか」
「……まあ、無愛想ではあります」
「無愛想でも、いい男は、いい男だよ。注文、取っておいで」
マレナは私の背中をぽん、と叩いた。
私はシグのテーブルに行った。
「ご注文は」
「エール」
「他には」
「……何かあるか」
「今夜は、煮込みがいいです。豆と、ベーコンと、香草」
「それを」
「はい」
私は注文を厨房に通して、エールを運んだ。シグはエールをゆっくりと飲んだ。煮込みが来たあとも、ゆっくりと食べた。
食べ方が綺麗だった。
マレナが私に「食い方が綺麗だね」と言ったことを、思い出した。
シグの食べ方も、たぶん、同じ評価をされる種類のものだ。
音をたてず、散らかさず、しかし、ちゃんと食べる。
貴族の食卓で、繰り返し練習させられた人間の食べ方だった。
シグは二時間ほど店にいて、勘定を払って帰った。
帰り際に、私と目が合った。
何も言わなかった。
でも、頷いた。
私も、頷いた。
それで、その夜は終わった。
* * *
シグが帰ったあと、マレナがカウンターの中から、私をちょいちょいと手招きした。
「お嬢様」
「はい」
「あの男ね」
「はい」
「絶対、貴族だよ」
マレナ、確信してる。
「食い方、所作、酒の飲み方、勘定の払い方。ぜんぶ、貴族の癖が抜けてない。お嬢様の食い方と、同じ系統」
「マレナ、私のと、同じですか」
「同じだよ。きれいすぎる。あれは、子供の頃から繰り返し直された癖だ」
マレナは笑った。
「あんたの似た者の、お客さんが来たね」
似た者。
私はその言葉を頭の中で転がした。
似た者。
貴族街育ちの絵描きの私と、貴族街育ちの苗字を隠した武人。
城下町の路地で、似た者が出会った。
絵描きとしては、完璧な構図だ。
「マレナ」
「ん?」
「ありがとう」
「何が」
「いろいろ」
マレナは笑って、私の頭をぐしゃっと撫でた。
「お嬢様、あんた、いい絵を描きな。いい絵を描く女には、いい男が、寄ってくるもんだ」
「マレナ、それ、根拠ありますか」
「あたしの経験」
「経験で、いい男、寄ってきました?」
「いい男も、悪い男も、いっぱい寄ってきたよ。死にかけたのは、二回」
マレナは自分のワインをぐっと飲んだ。
私は笑った。
* * *
その夜、私は二階の部屋で机の前に座った。
昼間、シグの似顔絵を描いた紙の控え、つまり私が自分用に複写した一枚を、机の上に置いた。
シグの顔が、紙の上でこちらを見ていた。
無愛想で、けれど、口の端がほんのわずか上がっている顔。
シグ。
私は心の中で呼んでみた。
あんた、何してる人?
絵は答えなかった。
けれど、絵の中の口の端が、もうすこしだけ上がった気がした。
たぶん、気のせいだ。
私は絵を机の引き出しにしまった。
しまって、ベッドに横になった。
眠りに落ちる前、心の中で、ひとつだけ独り言を言った。
――シグ、ね。
――銀貨二枚と、夜の店と、似た者。
――絵が、また、増えそう。
返事はなかった。
でも、絵の中の口の端が、引き出しの中で、また、ちょっと上がった気がした。
たぶん、気のせいだ。
たぶん、気のせい、で、いい。




