第七章 覗き込む男
城下町に来て、十日が経った。
昼は街を歩き、絵を描き、夜は金鹿亭で働く。そういう生活が、思ったより早く私の体に馴染んでいた。
マレナの店は客が雑多だった。商人、職人、傭兵崩れ、たまに冒険者。冒険者ギルドの入り口がこの街の三区にあるらしくて、討伐の帰りに金鹿亭に立ち寄る組がいくつもあった。彼らは魔石を見せ合いながら酒を飲み、自分の獲物の自慢をした。
私は彼らの皿を運んだ。
注文を取った。
「ねえちゃん、おかわり!」と呼ばれて、エールの瓶を片手で持って走った。
最初の三日は、トレーを傾けて皿を落とした。マレナに「お嬢様、慣れだよ慣れ」と笑われた。四日目から、落とさなくなった。
私は思ったより、要領のいい体をしていた。
貴族街では、こういう体の使い方を教わらなかったから、知らなかっただけだ。
夜の店が終わると、深夜になる。私は二階に上がって、机の前に座る。
そこから、絵を描き始める。
その日見た客の顔。マレナの背中。同僚の女の子の手の動き。皿の上に残ったソースの形。窓の外の月。何でもいい。覚えたものを、ぜんぶ、紙に出す。
出さないと、私の中で絵があふれて、寝られない気がした。
絵が毎日増えていった。
部屋の壁に留めきれなくなって、机の引き出しに紙を重ねるようになった。
貴族街の私の部屋の壁に並んでいた絵は、母の絵がほとんどだった。
城下町の私の部屋には、いろんな人の絵が増え続けていた。
* * *
昼間、私は街の路地で絵を描くことが多かった。
部屋の中だと、記憶から描くことになる。けれど、外で描くと、目の前のものをそのまま描ける。空気の動き、光の角度、人の歩く速度。記憶からだと拾えない情報が、目の前の現実にはたくさんあった。
私は画材を布の鞄に入れて、毎日違う通りに行った。
大通り。横道。市場の裏。冒険者ギルドの前の広場。運河沿い。
どこに行っても、私の絵はよく描けた。
描きながら、私はすこし、自分でも驚いていた。
私、こんなに描けたっけ。
何度も思った。
貴族街で「うまい」と言われていた頃の絵と、いまの私の絵は、別物だった。いまの絵は、対象の中身まで、紙の上に出てくる気がした。中身、というのが何かは、自分でもうまく説明できない。けれど、絵の中の人がちゃんと、その人の感じで立っていた。
お母さんの言いつけって、こんなに自分にブレーキをかけるものだったのか。
そう思った。
八年間、私は自分の絵に八割の力で蓋をしていた。蓋を外したら、絵はこうなった。
街の人たちが私の絵にちらちら興味を示し始めたのは、十日目あたりだった。
絵を描いていると、後ろから、誰かが覗き込む。
「すげえ」
子供の声。
「ねえちゃん、それ、誰?」
振り返ると、五歳くらいの男の子が私の紙を覗き込んでいた。
「向こうの、革職人の老人」
私は答えた。
「ほんとだ! 顔、おんなじだ!」
男の子は目を丸くした。
そのうち、彼の友達らしい子が三人やってきて、私の紙を覗き込んだ。子供たちは、絵の中の人物が自分たちの知っている街の人だと気づいた瞬間、大騒ぎになった。
「すげえ! ねえちゃん、おれも描いて!」
「あたしも! あたしも!」
……えっ。
私はちょっと面食らった。
「順番にね」
そう言って、私は子供たちの似顔絵を描き始めた。
十分くらいで、一枚。子供たちは似顔絵をもらうたびに、笑った。私はちょっとだけお代として、銅貨を一枚もらうことにした。子供たちは自分のおこづかいから、銅貨をちゃんと払った。
絵がお金になった。
私はその瞬間、なぜか、すこし誇らしかった。
貴族街の私だったら、絵を売るなんてはしたない、と言われたかもしれない。
でも、いまの私は、絵を銅貨一枚で売っている。
マレナに、ありがとうと言いたくなった。
マレナのおかげで、私は絵描きとして、現実の世界で機能し始めていた。
* * *
その日も、私は運河沿いの石壁にもたれて、絵を描いていた。
午後の早い時間。陽は西の方に傾きかけていて、運河の水面に長い金色の帯が走っていた。私はその金色の帯と、対岸の煉瓦の倉庫の壁の組み合わせを、紙の上で再現しようとしていた。木炭ではなく、絵筆と、薄い水彩の絵の具を使っていた。最近、画材屋の老人に勧められて、絵の具にも手を出していた。
夢中になっていた。
人の気配を感じなかった。
たぶん、十分くらい、近くに人が立っていたはずだ。
私はふと、紙から目を上げた。
右後ろから、私の手元を覗き込んでいる男がいた。
げっ。
心の中で私は声を出した。
男は背が高かった。
背の高さに、まず気づいた。それから、肩の張り。それから、腰の細さ。
……あれ、これ。
私の頭の中で、絵が一枚するっと引き出された。
十日前、城下町に着いた最初の日、夜寝る前に頭の中に勝手に入ってきた絵。
背の高い男の背中。
これか。
絵が合った。
紙の中の背中と、いま、私の右後ろに立っている男の背中が、同じだった。
男は私の絵をじっと見ていた。
服装は、簡素な平民の格好。茶色の上着。黒のズボン。腰に短い剣。けれど、剣の鞘に巻かれた革紐の縛り方が、ふつうの平民のものではなかった。きっちり、訓練された結び目。
絵描きの目は、こういうとき、便利だ。
私は男の顔を見上げた。
金髪。碧眼。切れ長の瞳。眉は太め。鼻筋がまっすぐで、唇は薄い。表情はない。
無愛想、という言葉が、そのまま人間の形をしていた。
……完成度の高い、無愛想だ。
そう思ってしまった。
絵描きとしては、うっとりするレベルの素材だ。
絵描きとしては。
けれど、いま私は街角で絵を描いているただの女で、後ろに立たれているのはいい気分ではなかった。
私は口を開いた。
「見るなら、お金払って」
私の声は思ったよりぶっきらぼうに出た。
男の眉がほんのわずか上がった。
動きがほとんどなかった。眉だけが上にすこし。それだけ。
「……金?」
男がようやく声を出した。
低い声。短い声。感情を表に出さない声。
「絵、勝手に覗き見してるんでしょ。鑑賞料、銅貨一枚」
掌を差し出して私は言った。
「……鑑賞料」
男はその単語を声に出して繰り返した。
繰り返した瞬間、男は面食らった顔をした。
いや、面食らった、というほどの大きな表情ではなかった。けれど絵描きの目で見れば、その顔は面食らっていた。男の中の何かが明らかに、私の言葉に対して想定外、という反応をしていた。
あ。この人、こういうこと言われ慣れてない人だ。
私は絵を、額縁に一枚しまった。
「銅貨一枚を払うか、立ち去るか、どっちにしますか」
私はもう一度言った。
男はしばらく私を見ていた。
それから、無言で自分の財布から銅貨を一枚取り出した。
地面ではなく、私の絵筆を持っていない方の手のひらにちゃんと置いた。
「鑑賞、料」
男はもう一度その単語を、噛みしめるように言った。
そして、そのまま立ち去った。
背中が運河沿いの道を、ゆっくりと遠ざかっていった。
私の頭の中の絵と、ぴったり同じ背中だった。
私は銅貨を握ったまま、しばらく男の背中を見ていた。
見ながら、頭の中で絵を整理した。
革紐の結び方。剣の佩き方。歩幅。歩くときの肩の動き。視線を周囲に向ける速度と頻度。
……あれ、絶対、ただの平民じゃない。
たぶん、武人。
たぶん、それなりの地位の。
平民の格好をしているけれど、骨格と挙動は、貴族街の士官学校で見た連中と、同じ系統だった。
お忍び、ってやつ?
私は心の中でちょっと笑った。
お忍びで城下町を歩いている、無愛想で背の高い武人。
いったい、どこの誰だ。
絵描きとしては、いい素材を見つけたな、と思った。
見つけたな、と思って、しばらくしてから、もうひとつ思った。
銅貨一枚、ちゃんと払って帰ったぞ、あの人。
* * *
男は翌日も来た。
私はその日、画材屋の近くの石段に座って、別の絵を描いていた。市場の角で果物を売っている婆さんの絵。婆さんは、自分の絵だと気づいて、笑って、林檎を一個、おまけしてくれた。
描き終えて、紙を片付けようとしたとき、また、後ろから気配があった。
振り返らずに私は声を出した。
「銅貨一枚」
「……」
男は無言で、私の前に銅貨を一枚置いた。今度はもう地面ではなく、慣れた仕草で、私の絵筆を持っていない方の手のひらにちゃんと置いた。
「ありがとう」
私は銅貨を財布に入れた。
男は立ったまま、私が次の絵を描き始めるのを見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
私も、何も言わずに絵を描き続けた。
十分くらい経って、男がぼそっと口を開いた。
「君」
「私?」
「絵」
「絵が、なに?」
「……上手い」
……。
私は紙から目を上げて、男の顔を見た。
男は相変わらず、表情を変えていなかった。けれど、絵描きの目で見れば、その「上手い」は心からの言葉だった。
「ありがとう」
私は答えた。
男はそれだけ言って、また、しばらく黙った。
「君は、毎日、ここで描いてるのか」
「毎日、街のどこかで描いてる。こことは限らない」
「……ふむ」
男はそれだけ呟いた。
そして、その日も、銅貨一枚分の鑑賞時間を終えると、立ち去った。
私は見送りながら思った。
なんで、二日続けて来るんだ、この人。
* * *
男はそれから毎日来た。
どこで描いていても、見つけた。
私が運河沿いにいる日も、市場の裏にいる日も、画材屋の近くにいる日も、男は必ず私の後ろに立った。立って、銅貨を一枚払った。それから私の絵をしばらく見て、立ち去った。
話す内容は最低限だった。
「君、名前は」
三日目、男が唐突に聞いた。
「カレン」
「カレン」
男は繰り返した。
「……俺は、シグ」
「シグ?」
「ああ」
「シグ、何?」
「シグだけだ」
苗字なし、ということは、平民、ということになる。
けれど、私の絵描きの目はもう、結論を出していた。
苗字、隠してる。
平民の格好で、平民の名前で、城下町を歩く。何かの理由で、自分の素性を隠している。
別に、いい。
城下町は詮索しない街だ。マレナが最初に教えてくれた。
私もシグの素性を聞かない。私だって、自分が魔女・カレン・グレイファンであることを、街の人には言っていない。マレナは知っている、たぶん。けれどマレナも、客には言わない。
互いに隠し事のある人間が、街の路地で出会う。
それも、城下町の絵の一枚だ、と私は思った。
四日目、シグは、私が描いている途中の絵を覗き込みながら、ぼそっと言った。
「……俺の顔も、描けるか」
「描けるけど」
「描いてくれ」
「鑑賞料じゃなくて、注文料、になりますよ」
「いくらだ」
「銀貨一枚」
銀貨一枚は、ふっかけだ。
私は内心、ちょっと意地悪をした気持ちになった。
シグが無愛想な顔のまま、銀貨を一枚、私に差し出した。
……えっ、払うの?
「いいんですか」
「ああ」
「銅貨一枚だったのに、急に銀貨一枚は、釣り合わなくないですか」
「絵の値段は、絵描きが決めるものだろう」
……。
そうまっすぐ言われた。
私はしばらく銀貨を見ていた。それから、シグの顔を見た。シグの顔は相変わらず、表情がなかった。表情がないのに、その言葉だけはちゃんと、まっすぐだった。
この人、たぶん、本気で、私の絵をいいものだと思ってる。
そう思って、私は銀貨を財布に入れた。
「わかりました。じゃあ、明日、来てください。明日は、市場の裏の路地で、お顔をちゃんと描きます。陽の角度がいいのは、午後三時くらい」
「わかった」
シグはそれだけ言って、また立ち去った。
* * *
その日の夜、私は金鹿亭でエールを運びながら、考えていた。
シグ、という名前の男のことを。
背が高くて、無愛想で、絵を「上手い」と言って、絵の値段を「絵描きが決めるものだろう」とまっすぐ言う男のこと。
なんか、変な客、つかまえちゃったな。
心の中でちょっとぼやいた。
ぼやきながら、テーブルにエールを置いた。客が私に銅貨を握らせた。私は軽く頭を下げた。
貴族街の私の頭の下げ方とはもう、違う角度になっていた。
マレナがカウンターの中からちらりと私を見て、満足そうにうなずいた。
「お嬢様、馴染んできたねぇ」
「マレナ」
「ん?」
「ちょっと、相談、いい?」
「あいよ」
私は空いた席に座って、マレナにシグのことを話した。背の高い、無愛想な男。毎日、私の絵を覗き込んで、銅貨を払って帰る男。今日、銀貨を一枚、置いて行った男。明日、似顔絵を描くことになっている男。
話を聞き終わって、マレナはしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「お嬢様」
「はい」
「あんた、男に、惚れられたねぇ」
……はい?
「いや、まだ、惚れられたかどうかは、わからないけどさ。あたしの目は、わりと当たる。あの男、お嬢様の絵を、口実にしてる」
「口実?」
「絵を見るのは、本当だろう。ただ、絵を見たいだけなら、毎日来ない。あの種類の男は、興味があるものに、毎日通うほど、暇じゃない」
「……ふうん」
「お嬢様、気をつけな」
「気をつける、って、何を」
「あたしの目は、もうひとつ、教えてくれる。あの男、ただの男じゃないよ。城下町に通ってくる目立つ男ってのは、たいてい、何かの匂いがする」
「匂い」
「金の匂いか、血の匂いか、どっちかだ。お嬢様の客は、たぶん、両方持ってる」
マレナ、わかってんなあ。
私は心の中で感心した。
マレナの目は、私が一日かけて気づいた「お忍びの武人」を、ものの数分の話で見抜いていた。
「気をつける、って、近寄らない方がいい、ってこと?」
私は聞いた。
マレナは首を振った。
「いや、近寄っていい。あたしの勘では、あの男、悪い男じゃない」
「マレナ、矛盾してませんか」
「矛盾してないよ。気をつけて、近寄りな、って、言ってんだ。お嬢様、世の中の男には、気をつけて近寄ったほうがいい男と、近寄っちゃいけない男がいる。あの男は、前者」
マレナは笑った。
「あんた、絵描きだ。絵描きは、絵にしたいものを、絵にすればいい。絵にしたい男なら、絵にしな。それが、絵描きの仕事だよ」
絵にしたい男。
私はその言葉を頭の中で転がした。
確かに。
シグの顔は、絵にしたい顔ではある。
無愛想の完成度が高すぎて、絵にしておきたい。
絵にしておけば、いつか、その「無愛想」の中身が、何だったのか、わかる気がする。
絵描きの仕事、ね。
私はマレナにありがとうと言って、また、エールを運びに戻った。
その夜、店じまいのあと、私は二階の部屋で、明日の絵の準備をした。
紙を一枚。
木炭と、水彩の絵の具と、絵筆を揃えた。
そして、最後に、十日前から机に置いてある、あの一枚の絵を見た。
背の高い、男の背中の絵。
明日は、お前の顔を描くよ。
私はその絵につぶやいた。
背中の絵は答えなかった。
でも、私の中では、絵が、ちょっとだけ嬉しそうにしている気がした。
絵描きの勘は、わりと当たる。
そして、絵が「嬉しそう」に見えるとき、私の人生に、何かが起きる前触れだった気がする。
たぶん、明日、何かが起きる。
何かが起きないかもしれない。
でも、起きても、起きなくても、絵は描く。
それが、絵描きの仕事だから。
私はランプを消して、ベッドに入った。
眠りに落ちる前、心の中で、最後にひとつ、独り言を言った。
――シグ、ね。
――いい絵に、なりますように。




