第六章 夜の怒り
目が覚めたのは、まだ夜のうちだった。
階下の店の喧騒はすでに止んでいた。最後の客が帰ったあとのしんとした空気が、階段を上って、私の部屋まで届いていた。窓の外も静かだ。城下町の夜更けは、貴族街の夜とまた違う種類の静けさだった。貴族街の夜は最初から人がいない静けさ。城下町の夜は、騒いでいた人たちがようやく寝静まった静けさ。
その違いは絵にできる、と私は思った。
でも今夜は、絵にしたくない種類の絵が、私の中にあった。
ベッドの中で、私は目を開けたまま天井を見ていた。
屋根の梁が月の光でぼんやり浮かんでいた。
ぼんやりした梁を見ているうちに、私の中で急に、何かがふつ、と沸いた。
なんで、私が。
声に出していなかったけれど、頭の中の声がはっきりとそう言った。
なんで私が、こんなところで寝ているんだろう。
昨日まで私は貴族街の自分の部屋にいた。母の絵が壁に並んでいる、あの部屋に。今朝起きて王宮に行って、糾問されて追放されて、馬車に乗せられて城下町に着いた。一日でぜんぶ起きた。早すぎる。
あまりにも早すぎて、頭が追いついていなかった。
ようやくいま、追いついてきた。
追いついてきた頭が最初に出した感情は、怒りだった。
ベッドから起き上がった。
窓を開けた。
夜の空気がひやりと私の頬に当たった。
月は半分。空に薄い雲がかかっていた。
私は月に向かって、心の中でぶつぶつと言い始めた。
お父様。
あの場で、何か言いませんか。何かひとつでも、言いませんか。
「私の娘は、そんなことをする子ではない」と。一言。それだけ。それで何かが変わったとは思わないけれど、でも、せめて一言。
何か言ってくださいよ。
父の絵を、私は頭の中で、何枚目になるかもう数えていない、もう一枚、額縁にしまった。視線を逸らした父の絵。今日、何度も思い出した絵。
お父様、私、今日から城下町の人間ですよ。
それで、いいんですか。
返事はもちろんない。城下町の夜は、父の声をここまで届けない。
次は、ドルグだ。
ドルグ・アルデイン。
白い式服の男。あの細い目。あの芝居がかった「賢明だ」。
あんた、本当に、よくも、ここまで組んだもんだね。
私は呟いた。
王立裁判所長代理職の鍵で書庫に降りて、禁術書を読んで、暴発させて、私のせいにした。私を「規格を超えた、不在証明のない、唯一の人間」として絞り込めるように、たぶん何日もかけて組み立てた。家門は罰しない、という付帯条件まで計算して。
見事だ。
見事だけど、見事すぎて、いっそ笑える。
私は月に向かってふっと笑った。
笑いが漏れた。
漏れた笑いの中に、半分、怒りが混じっていた。
――いいよ、ドルグ・アルデイン。
私は月に向かって宣告した。
――あんたの絵、私、もう、描いてる。
描いてる。
地下三層に降りていく絵も、書物を抱えて上がってくる絵も、執務室で証拠隠滅をしている絵も、私の頭の中でもう構図ができている。
構図ができている、というのは、いずれ、紙の上で完成させられる、ということだ。
紙の上で完成させた絵は、いつか、誰かの目の前に出せる。
――いつか、ぜんぶ、絵にする。
私は月に、もう一度宣告した。
――絵にして、あんたの口に、ぜんぶ、突っ込んでやる。
そう言って、私はすこしすっとした。
すっとして、それから、自分が「すっとした」ことに、なぜか、もう一度笑った。
私、けっこう、性格悪いな。
お母さんに、見られてないかな。
お母さん、いま、見てなかったよね?
返事はなかった。
返事のない夜は、こういうとき、便利だ。
見てなかったことにしておこう。
* * *
怒りをひととおり吐き出すと、不思議なことに、お腹が空いた。
人間は怒るとお腹が空く。
はじめて知った、自分のことだ。
けれど、夜更けの居酒屋でご飯を出してもらえるとは思えなかった。私は水を飲もうと思って、部屋を出た。
階段を下りると、一階の店内にはまだ灯りがついていた。
マレナがカウンターの中で、自分用らしいパンを千切って、ワインを飲んでいた。
「あ」
私を見つけて、ちょっと驚いた顔をした。
「お嬢様、まだ起きてたのかい」
「水を、いただこうと」
「水だけかい」
マレナは私を上から下までまた見た。それから、ふっと笑った。
「腹、減ってんじゃないの」
……読まれてる。
「すこし」
私は素直に答えた。
マレナは黙って、自分のパンの残りを半分、皿にのせた。それから、ワインの瓶の隣にあった小さなチーズを、ひとかけ、皿に追加した。
「持ってきな」
「あの、お代は」
「夜中の、わけあり客への、ご奉仕。お嬢様、覚えとくといい。ここの店は、夜中に腹を空かせて降りてきたら、何か出てくる」
「ありがとうございます」
私は皿を受け取った。
受け取って、しばらくその場に立っていた。
マレナが私の顔を見ていた。
「お嬢様」
マレナの声が急に、すこし低くなった。
「あんた、何があったんだい」
私は皿を両手で持ったまま答えなかった。
「いや、無理に話さなくていい。詮索しない街、って言ったろ。あたしは、ただ、ちょっと聞いてみただけだよ」
マレナは自分のワインをひと口飲んだ。
「ただ、ひとつだけ言っとくよ。あたしは若いころ、傭兵をやっててね。死にかけたことが二度ある」
傭兵。
マレナの腕の筋肉と、欠けた角の鹿の看板の意匠が、私の中で繋がった。
なるほど、そりゃ強いわけだ。
「死にかけたあと、あたしは思った。人生、どうにかなる、って。どうにかならんことは、わりとない。死ななきゃ、どうにかなる」
マレナは笑った。
「あんた、死んでないんだろ?」
「はい」
「だったら、どうにかなる」
そう言って、マレナは自分の皿に視線を戻した。私の話を、もう、それ以上聞こうとしなかった。
私は自分の皿を持って、部屋に戻った。
戻って、机の上で、パンとチーズを食べた。
味はよくわからなかった。
でも、お腹に温かいものが入っていく感覚だけは、しっかり感じた。
* * *
部屋の窓辺に椅子を置き直して、私は外を見た。
もう夜明けが近かった。
空の東のほうがほんのわずか、灰色がかっていた。
お母さん。
私は心の中で呼んだ。
お母さん。
全力、出したらね、お母さん。
こうなりました。
全力出して、魔女になって、追放されて、城下町に来ました。
お母さんの言いつけ、結局、最初から最後まで、守れませんでした。
ごめんね。
そして、ここから先は、もう、ずるく生きるって、言いました。
昨日、お母さんに約束しました。
だから、ずるく、生きます。
私の言う「ずるく」は、たぶん、お母さんの想像とは違う「ずるく」かもしれません。
でも、私は絵描きだから。
絵描きの「ずるく」を、やります。
――絵にぜんぶ、覚えさせて。
――いつか、ぜんぶ、出して。
――あの男の口に、ぜんぶ、突っ込んでやる。
返事はなかった。
返事のない夜明けが、東からゆっくり白んできた。
でも、私の中では、母がまた、すこし笑った気がした。
怒っていない笑い方だった。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方だった。
今夜の母は、すこしだけ、いつもよりも長く笑ってくれた気がした。
* * *
朝になった。
私はほとんど寝ていなかった。けれど、不思議と頭は重くなかった。怒りをひととおり吐き出したからだろうか。それとも、月に向かって宣告したことが何かの儀式みたいに、私の中で機能したからだろうか。
よくわからない。
けれど、私は起きて顔を洗って、髪を整えて階下に降りた。
マレナはもう店を開ける支度をしていた。テーブルを拭き、椅子を並べ、カウンターの中に瓶を整えていた。
「おはよう、お嬢様」
「おはようございます、マレナさん」
「マレナで、いい」
「マレナ」
私は呼び方を直した。
マレナはちょっと目を細めた。
「あんた、適応、早いね」
「絵描きですから」
「絵描き?」
「はい」
マレナはほんの一瞬、何かを考える顔をした。それから私をもう一度見た。
「絵描き、ねえ」
「これから、絵描きになります。昨日、画材を買いました」
「昨日の今日で?」
「はい」
マレナはちょっと笑った。
「お嬢様、思ってたより、根性、ありそうだね」
そのあと、マレナは私に朝食を出してくれた。黒パンと、卵の焼いたのと、薄いお茶。私はゆっくり食べた。マレナは店の支度を続けながら、ちらちら、私を見ていた。
「お嬢様」
マレナが急に声を大きくした。
「あんた、夜、暇かい」
「夜?」
「夜の店だよ。八時から、深夜まで」
「暇です」
「働かないかい」
……えっ。
私は顔を上げた。
マレナはカウンターの中で腕を組んでいた。
「店の手伝い。皿運び、注文取り、酒の追加、客の話し相手。難しい仕事じゃない。あたしと、もう一人雇ってる女の子と、三人で夜は回してる。もう一人欲しいと、ずっと思ってた」
「私で、いいんですか」
「いいかどうかは、やってみないとわからない。けど、あたしの目は、わりと当たる」
マレナは笑った。
「お嬢様、人の顔をよく見るだろ。あれ、店の女には、いい才能だ。客の顔を見て、何が欲しいか先に当てる。それができる女は、店で重宝される」
絵描きの目を、店の女に使う。
私はしばらくマレナの顔を見ていた。
マレナの目尻の皺と、口の角度を見ていた。
マレナは私の絵をまだ見ていない。それなのに、私の絵描きの目に気づいている。気づいて、それをちゃんと活かせる場所を用意しようとしている。
この人、すごいな。
そう思った。
「あ、それからね」
マレナが付け加えた。
「賃金は、王家の手当とは別だよ。あたしから、店の利益から、ちゃんと払う。お嬢様、十六だね?」
「はい」
「うちの国じゃ、十六から酒を扱える。働いていい歳だ。法的に、問題ない」
……あ、そっか。
法的、という言葉が急にリアルだった。
「やります」
私は答えた。
「マレナ、お願いします。私、夜、ここで働きます」
「よし」
マレナは満足そうにうなずいた。
「今夜から来な。エプロンは、貸す」
* * *
部屋に戻って、私は椅子に座った。
椅子に座って、しばらく笑った。
声に出して笑った。
……すごい、なんか、いまの私の人生、急展開すぎ。
昨日、追放された。
一日経って、夜の居酒屋で働くことになった。
貴族街の私が、これを聞いたら、たぶん卒倒する。
いや、貴族街の私は、卒倒する前に、たぶん笑う。
絵描きの、夜のバイト。
響き、めっちゃ、いいじゃん。
私は自分の置かれた状況を、すこしおもしろがり始めていた。
机の上に、昨日描いた絵を並べ直した。
マレナの絵、画材屋の老人の絵、金鹿の看板の絵、大通りの絵、城下町の煙の絵。
全部、いまの私の絵だ。
貴族街の私だったら、たぶん描けなかった絵だ。
いいね。
私はつぶやいた。
これからも、ぜんぶ、覚えてやる。
絵をぜんぶ額縁にしまうのは、やめにした。
紙の上にぜんぶ出す。
出して、いつか、まとめて、突きつける。
夜のバイトをしながら、絵を描き続ける。
いつか、絵が武器になる日が来る。
たぶん、来る。
来なくても、来るまで描き続ける。
お母さん。
心の中で呼んだ。
――明日からは、夜、お酒を運びます。
――お嬢様、卒業します。
返事はなかった。
でも、私の中の母は、たぶん、今度こそちゃんと笑った。
怒っていない笑い方で。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
今度の母は、すこし、声を出して笑った気がした。
私は机の上の絵を、しばらく眺めていた。
眺めていて、ふと、最後の絵に目を留めた。
昨夜、寝る前に、私の頭の中にするっと入ってきた絵。
背の高い、男の背中の絵。
私はその絵を、まだ紙には描いていなかった。
なんで、覚えたんだろう。
もう一度、思った。
なんで、すれ違っただけの男の背中を、私の頭は、わざわざ覚えたんだろう。
……まあ、いいや。
そのうち、わかる。
絵を描く者の勘は、わりと当たる。
そのうち、その背中の主が、私の前にまた現れる気がする。
なんとなく、そう思った。
そう思って、私は紙に手を伸ばした。
昨日のまっさらな紙が、まだ何枚か残っていた。
私は紙を一枚、机に置いた。
木炭を取った。
そして、その「背中」を、紙の上に描き始めた。
なぜ覚えたのか、わからないまま、ただ絵にしておくことにした。
絵にしておけば、いつか、答えに出会える気がしたから。




