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第五章 城下町

 馬車を降りたとき、私の頭に最初に飛び込んできたのは、匂いだった。

 貴族街の朝が磨かれた石と切り花の匂いだったとすれば、城下町の昼前は、焼きたてのパンと魚と、あと正体不明の何かが混ざった匂いだった。何かというのは、たぶん、人間の汗とか、家畜の毛とか、夜のあいだに排水溝に溜まった泥水の匂いとか、そういう類のもの。

 貴族街にはなかった匂いだ。

 悪くない、と私は思った。

 絵にできる匂い、というのが世の中にはある。これはたぶん、その類だ。


 馬車を停めたのは、橋を渡ってすぐの大通り。城下町の入り口だった。衛兵が私の鞄を地面に下ろし、目の前の建物を指差した。

 「『金鹿亭』。一階が居酒屋、二階が貸し部屋。あなたの部屋は二階の奥」

 建物は思ったより大きかった。三階建ての石造り。一階の入り口の上に、鹿の頭の意匠を金で塗った看板がぶらりと下がっていた。風に少し揺れている。看板の鹿は片方の角が欠けていた。

 欠けた角を、私は心の中で額縁にしまった。


 衛兵がもう一人、書類を私に差し出した。

 「生活保障の書類です。週に一度、王立裁判所の使者が、手当を持って訪ねてきます。同時に、あなたの居住確認も行います」

 居住確認、ね。

 ようは監視だ。

 「術理の行使は、いかなる規模であれ、禁止です。違反した場合、契約書の効果が発動します」

 「はい」

 「以上です」

 衛兵は短く頭を下げて、馬車に戻った。馬車は来た道を戻っていった。蹄の音が遠ざかる。

 残されたのは、私一人と、鞄一つ。

 あと、欠けた角の鹿。


 お母さん。

 心の中で呼んだ。

 着いたよ。

 返事はなかった。返事のない朝に、私はもう慣れている。


 * * *


 居酒屋の扉を押すと、ぐらりと木の音が鳴った。

 昼前の店内は思ったより明るかった。木のテーブルが八つほど、磨き込まれた床に並んでいる。窓は大きく、外の通りの光がよく入ってくる。奥に長いカウンターがあって、その向こうに、女が一人立っていた。

 四十がらみ。背は私より頭ひとつ高い。髪は赤茶色で、後ろで雑に束ねている。腕まくりをした白い布の袖から、しっかりと筋肉のついた腕が出ていた。

 女が私を見た。

 見た瞬間に、目がすこし細くなった。

 「あんた」

 声が太かった。

 「魔女様だね」

 はい、と答えるべきか迷った。

 貴族街でなら「魔女様」は丁寧な敬称だ。けれど、この女の口調はまったく丁寧じゃなかった。市場で「魚は新しいかい」と聞くのと、同じ温度。

 「はい」

 とだけ返した。

 女はカウンターから出てきて、私の前に立った。私の頭から足の先まで、ざっと一度見た。それからもう一度、頭から足の先まで、ゆっくり見た。

 「ふん」

 何かを見定めた、という顔をした。

 「あんた、どっかのお嬢様だね?」

 いきなり来た。

 「……どうして、わかるんですか」

 「立ち姿。それから、鞄の持ち方。あと、靴」

 女は私の靴を指差した。私の足元には、貴族街で買った革のブーツがぴかぴかの状態で立っていた。城下町ではだいぶ浮く。

 「あと、首の角度ね。あんた、人と話すとき、すこし顎が上がる癖がある。あれは、屋敷の女中や使用人を相手にしてきた人間の癖だよ」

 ……鋭い。

 私はそのまま黙った。否定する根拠が何もなかった。

 女はふっと笑った。

 「まあ、いいさ。詮索はしない。ここは詮索しない街だ。あたしはマレナ。この店のおかみだよ」

 「カレン・グレイファンです」

 「グレイファン家の」

 「はい」

 「ふうん」

 マレナはそれ以上何も聞かなかった。

 詮索しない街。

 いい言葉だ、と私は思った。

 ここでは、絵にしないでいい絵が、たくさんありそうな気がする。


 「あんたの部屋、案内するよ。ついておいで」

 マレナは私の鞄を、片手で軽々と持ち上げた。私の方が驚いた。あの鞄、私が両手で持っても重かったのに。

 「重くないんですか」

 「あんたの鞄ぐらい、片手で持てなきゃ、おかみは務まらないよ」

 マレナはそのまま階段を上っていった。階段の手すりは、長年触られて、てらてらと光っていた。


 * * *


 部屋は二階のいちばん奥だった。

 狭い。

 入った瞬間、心の中で「狭い」と言ってしまった。貴族街の私の部屋の、四分の一ほどの広さ。窓は一つ。ベッド、机、椅子、簡素な棚。それだけ。壁は白く塗られているが、ところどころ染みがある。床板はきしむ。

 でも、清潔だった。

 シーツは新しい。机の上には埃が一粒もない。窓ガラスは曇っていない。

 マレナが鞄を床に置いた。

 「気に入らないかい」

 「いえ」

 私は首を横に振った。

 「悪くないです」

 「悪くない、ね」

 マレナはまた笑った。

 「お嬢様の口から、悪くない、が出れば、上等だよ。普通のお嬢様なら、いやとか狭いとかしか言わない」

 お嬢様お嬢様、と何度も言ってくる。

 私は黙ってうなずいた。否定するのも面倒だった。

 「水場と便所は階段下の右奥。食事は一階の店で出す。あんたの分は、王家からの手当に含まれてるそうだから、毎日普通に食べに降りてくればいい。朝、昼、夜」

 「はい」

 「あと」

 マレナは部屋を出ようとして、振り返った。

 「あんた、今日着いたばかりで、まだ何も知らないだろう。一階で軽く食べていきな。話なら、ついでに聞かせてやる。聞きたいことがあれば」

 「ありがとうございます」

 マレナはうなずいて、階段を下りていった。


 私は部屋に残された。

 鞄を床に置いたまま、しばらく窓辺に立った。

 窓の外には城下町の屋根が見えた。茶色の瓦と、藁の屋根と、煉瓦の煙突。煙が三本ほど、ゆっくりと空に上がっていた。

 昨日まで、橋の上から見下ろしていた絵だ。

 いまは、その絵の中に、私が立っている。

 お母さん。絵の中に、入ったよ。

 返事はない。

 返事はないけれど、私の中の母が、今日もすこしだけ笑った気がした。


 * * *


 一階に下りると、店はまだ開店前だった。

 マレナがカウンターの中で、野菜を刻んでいた。私を見ると、軽く顎で、向かいのテーブルを指した。

 「そこに座んな」

 私は座った。

 しばらくして、マレナが皿を運んできた。黒パン半分。チーズ。豆と肉のごった煮。それから、薄いスープ。

 ……うわ。

 量が多い。

 「食え」

 マレナは私の対面に座って、自分の腕を組んだ。

 「食え、って、これ、全部ですか」

 「全部だよ。お嬢様、あんた今日、朝から何も食べてないだろう」

 「……まあ、はい」

 「魔女様だかなんだか知らないけど、空きっ腹で街は歩けないよ。食いな」

 私はスプーンを取った。

 豆と肉のごった煮を、ひとくち、口に入れた。

 ……あ。

 おいしい。

 貴族街の食事よりもずっと味が濃かった。塩と、何かの香草と、肉の脂と、豆のほくほくが、口の中で同時にぶつかってきた。私の頭の中で、味の絵がたぶん十色くらい、いっぺんに描かれた。

 私は無言で食べた。

 黒パンを千切ってごった煮に浸して食べた。チーズも食べた。スープも飲んだ。

 マレナはずっと私を見ていた。


 私が皿を空にしたとき、マレナがぼそりと言った。

 「あんた、食い方が綺麗だね」

 「えっ」

 「散らかさない。音もたてない。でも、ちゃんと食ってる」

 マレナは笑った。

 「やっぱりお嬢様だね」

 直す気あるかなこの呼び方。

 私は内心ぼやいたが、マレナの笑い方が嫌な感じじゃなかったので、黙っていた。

 「ごちそうさまでした」

 「お粗末さん」

 マレナは皿を片付けた。


 * * *


 午後、私は街に出た。

 マレナが「散歩してきな」と背中を押した。「今日はもう、用事もないだろう。どうせ部屋にいても、することがない」と。

 その通りだった。

 私は鞄から財布だけを取り、薄い上着を羽織って、店を出た。


 城下町の昼下がりは、とにかく賑やかだった。

 大通りには露店が並んでいた。野菜、魚、布、革、金物、香辛料。売り手が声を張り上げ、買い手が値段を交渉し、子供が露店のあいだを走り抜け、犬が骨を咥えて駆けていく。私はゆっくり歩きながら、すれ違う人たちの顔をひとつずつ額縁にしまっていった。

 赤い頬の魚売りの女。皺の深い、革職人の老人。布を畳む手の早い少女。籠を背負った荷運びの男の太い首。

 絵が、絵が、絵が、増えていく。

 貴族街の絵は整っていた。整いすぎていた。一枚一枚が、額縁に入れる前から、すでに額縁の中に納まっていた。

 けれど、城下町の絵は額縁の外に飛び出していた。

 皺、汗、笑い声、怒声、子供の泣き声、犬の唸り、鍋を叩く音、誰かが歌う鼻歌。

 私は無意識のうちに、すこし笑っていた。

 たぶん、笑っていた。


 大通りを抜けて、横道に入ったとき、私の足はある一軒の店の前で止まった。

 画材屋だった。

 看板に、絵筆と絵の具壺の意匠。窓の中には、束になった絵筆、油紙、木炭、絵の具の小瓶、それから、白い紙の束が、いくつも並んでいた。

 私はしばらく窓の前に立っていた。

 画材を、自分のお金で買う。

 そんな経験は、私にはなかった。屋敷では画材は使用人が用意してくれていた。私は欲しい紙の質を口で言うだけで、手のひらに紙が来た。

 いま、私の手のひらに紙はない。

 財布に入っているのは、王家からの手当のうちのほんの一部。マレナに渡した宿代と、食事代の残り。

 よし。

 私は店の扉を押した。


 画材屋の主人は、痩せた、目の鋭い老人だった。私が入るとちらりと見て、それきり自分の作業に戻った。詮索しない目だった。マレナと同じ種類の目。

 私は店内を歩いた。

 紙の束の前で、しばらく立った。

 いい紙だ。

 厚みがあって、表面のざらつきが、私の好みに近い。木炭がよくのる紙だ。

 紙を一束、手に取った。それから木炭を一箱。絵筆はまだいい。絵の具もまだいい。今日はまず、線で描く。

 会計に持っていくと、老人が値段を言った。

 私は財布を開けて、銀貨を一枚、銅貨を数枚、出した。

 貴族街での画材の値段とは桁が違った。

 安かった。

 安いのに、紙の質は屋敷で使っていたものとほとんど変わらない。

 ……えっ。これでいいの。

 私はすこし驚いた。

 貴族の画材屋は、きっと、いろいろなものを上乗せしていたんだな、といまさら思い至った。


 老人が、紙と木炭を、布で包んでくれた。

 「あんた、絵描きかね」

 老人がはじめて口をきいた。

 「これから、なります」

 私は答えた。

 老人はふっと、片方の口の端だけ上げた。

 「いい返事だ」

 それだけ言って、老人はまた自分の作業に戻った。


 * * *


 部屋に戻ったのは、夕方近くだった。

 窓辺に椅子を引き寄せて、机の上に紙を広げた。木炭の箱を開けた。一本、取り出した。指の腹で、軽く削った。粉がすこし、机に落ちた。

 私は目を閉じた。

 今日の絵を、頭の中に呼び出す。

 いちばん最初に呼び出したのは、マレナの顔だった。

 四十がらみ。赤茶色の髪。後ろで雑に束ねた束。腕まくりをした白い袖。筋肉のついた腕。私を見定めた、目の細さ。「ふん」と言ったときの口の角度。それから、笑った瞬間の目尻の皺の入り方。

 全部、覚えている。

 私は目を開けて、紙に木炭を置いた。

 描き始めた。

 最初の一線が、紙の上にすっと走った。

 マレナの輪郭。肩。首。顎。

 次の一線。

 髪の束。後ろで結ばれた紐の角度。

 次の一線。

 目。眉。口。

 木炭が紙の上で走り続けた。

 私はほとんど考えていなかった。

 考えなくても、手が動いた。


 紙の上にマレナが現れた。

 完全に現れた。

 四十がらみの、赤茶色の髪の女が、私の机の上の白い紙の中に立っていた。

 「ふん」と言ったときの口の角度まで一致していた。

 私はしばらくその絵を見ていた。

 見ていて、ふっと思った。

 これ、私、こんなに描けたっけ。

 描けた。

 たぶん、描けたんじゃない。

 いままで、描いていなかっただけだ。

 貴族街では、私はいつも、母の言いつけ通り、すこし手を抜いていた。絵にも手を抜いていた。母の絵を描くときだけ、本気を出していた。それ以外の絵は「うまいね」と言われる程度の、手加減した絵だった。

 いま、私、手を抜いていないんだ。

 そう気づいた。

 気づいて、すこし笑った。

 絵の中のマレナも、すこし笑っているように見えた。


 私はもう一枚、紙を出した。

 次は画材屋の老人を描いた。

 次は欠けた角の金鹿の看板を描いた。

 次は城下町の大通りを描いた。

 夕方の光が窓から斜めに入って、紙の上に、私の手の影を伸ばしていた。

 手の影が、絵の上を走っていた。

 絵の中の人物たちが、影の動きに合わせて、すこし表情を変えるような気がした。

 たぶん気のせいだ。

 でも、気のせいでいい。


 * * *


 夜になった。

 階下から店の喧騒が聞こえてきた。マレナの店が夜の営業を始めた音だ。皿の鳴る音、客の笑い声、椅子を引く音、誰かが歌う声。

 私は机の上に、今日描いた絵を、五枚並べた。

 マレナ。画材屋の老人。金鹿の看板。大通りの全景。それから、最後の一枚。

 最後の一枚は、橋の上から見下ろしていた、城下町の煙の絵だった。

 昨日、いや、おとといだったか。私が貴族街からの帰路の途中で、橋の上から見下ろした、あの絵。

 私はそれを今日、紙の上に描いた。

 紙の中の煙は、私が記憶した通りの色をしていた。茶色い瓦、藁の屋根、煉瓦の煙突、夕餉の煙の三本。

 絵の中の城下町を、私は見ていた。

 そして、思った。

 この絵の中に、私は、いま、住んでいる。


 お母さん。

 心の中で呼んだ。

 絵の中に、住むことに、なったよ。

 返事はなかった。

 でも、私の中の母は、笑った気がした。

 怒っていない笑い方だった。

 ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方だった。


 私は紙を片付けた。

 画材を棚にしまった。

 窓を閉めた。

 ベッドに横になった。

 階下の喧騒はまだ続いていた。

 喧騒の中に、マレナの太い声がときどき混じった。「はいよ!」とか「もう一杯かい!」とか。

 貴族街の夜の静けさとは、まったく違う夜だった。

 悪くない。

 私はつぶやいた。

 悪くないどころか、たぶん、私はこの夜が、すこし好きだ。

 絵がたくさん増えそうな夜だ。


 目を閉じる前に、もう一度、心の中で言った。

 ――お母さん、ずるく生きるって言ったの、覚えてる?

 ――いま、私、ずるく、生きてる気がする。

 ――ずるく、楽しく、生きてる気がする。

 返事はなかった。

 なかったけれど、今夜は、それで、よかった。


 私は目を閉じた。

 眠りに落ちる直前、私の頭の中で、一枚の絵がするっと入ってきた。

 昼間、街で見た誰かの背中の絵だった。

 背の高い、男の背中。すれ違っただけの男だ。顔は見ていない。

 でも、その背中を、私は絵にできる。

 ――なぜ私は、その背中を覚えたんだろう。

 そう思いながら、私は眠った。

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