第十章 初めての食事
シグが私を食事に誘ったのは、似顔絵の取引から十日ほど経った日の午後だった。
その日は雨が降っていた。城下町の屋根の瓦が雨を受けて、低い音をたてていた。私は外で絵を描けない日だったので、画材屋の二階の小さな雛壇に、画材屋の老人の許可をもらって、椅子を借りて座っていた。窓から、雨の運河をぼんやり眺めていた。雨の運河は、晴れた運河とまったく違う色をしていた。鉛色の水面に雨粒が落ちて、無数の同心円が広がっては消えていた。
階段を上がってくる足音がした。
画材屋の老人ではなかった。重さが違う。階段の踏み込みの強さが違う。
シグだった。
「ここに、いると聞いた」
「下の老人に?」
「ああ」
老人にも、シグの存在はすでに認知されていた。私のところに毎日来る、無愛想な背の高い男。雨の日まで来るのか、と私は内心ちょっと笑った。
シグは私の横に立った。隣の椅子は空いていた。けれどシグは座らなかった。座らずに、しばらく雨の運河を見ていた。
「カレン」
「ん?」
「飯、行かないか」
私は雨の運河から、シグに目を移した。
シグの目は相変わらず、表情がなかった。けれど、声にいつもより、ほんのわずか力が入っていた。
絵描きの目には、それはよく分かる種類の、わずかな緊張だった。
「飯、いつ?」
「いまから」
「いまから」
「ああ」
私はすこし考えた。
いまは午後三時。金鹿亭の夜の仕事まで、まだ時間がある。雨だから、絵も描けない。シグは、毎日銅貨を払う、お得意様だ。
「行く。おごり?」
「おごる」
即答だった。
「じゃあ、行く」
私は立ち上がった。
シグは相変わらず、表情を変えなかった。けれど、私の「行く」を聞いた瞬間、肩の力がほんのわずか抜けた気がした。
私はその肩の動きも、心の中の額縁にしまった。
* * *
シグが私を連れていったのは、城下町の中でも、私が行ったことのない区画だった。
一区。城下町と貴族街の境界に近い、上品な区画。
大通りから一本入った静かな小路の奥に、店があった。看板には青い鳥の意匠。「青羽亭」と読めた。
「ここ」
「ここ」
「私、こんな店に入ったこと、ない」
「ある。君の所作なら、ある」
「いや、そうじゃなくて、いまの私が、こんな店に入ったこと、ないってこと」
シグはすこし考えた。
それから、答えた。
「俺と入るならいい」
そう言って、シグは扉を押した。
もう、論破とかしないんだ、この人。
私は心の中でぼやきながら、店に入った。
店内は思っていたよりも、こぢんまりしていた。テーブルが六つ。木目の落ち着いた色合い。窓辺には小さな鉢植え。給仕の女性が一人、奥のカウンターから出てきて、軽く頭を下げた。
「シグ様、いらっしゃいませ」
シグ「様」だ。
給仕の頭の下げ方も、城下町の店のそれではなかった。貴族街の食堂の所作。
うん、はっきりした。シグ、ここの常連だ。
私は心の中で、新しい絵をまた額縁に入れた。
シグが「シグ様」と呼ばれている店。彼が常連だと、店の人間に認知されている店。
そういう店に、彼は私を連れてきた。
席は奥のテーブル。シグが先に椅子を引き、私を座らせた。座らせた、というのは、シグが私の椅子を引いて、座る動作の補助をした、ということだ。貴族街の所作。城下町の食堂では、誰もしない。
「あの、シグ」
「ん」
「いま、椅子、引きましたよね」
「ああ」
「貴族の所作ですよ、それ」
「……そうか」
シグはすこし顔をしかめた。やってしまった、という顔だった。
「気にしないで。私の前では、いいよ。慣れてる」
「すまない」
謝った。
シグが「すまない」と言ったのは、私と知り合ってから初めてだった。私はその「すまない」も額縁にしまった。
給仕がメニューを持ってきた。
私が見ると、思ったよりは値段が手頃だった。城下町の標準の食堂より、二割ほど高い、くらい。貴族街の食堂とはまるで違う。
「シグ、ここ、城下町の店だね?」
「そうだ」
「給仕の所作は、貴族街風だけど、値段は城下町だ」
「そういう店だ。城下町の客と上の客と、両方を相手にしている」
「ふうん」
私はメニューを見ながら、心の中で笑った。
シグは私を、ちゃんと城下町の店に連れてきた。けれど、城下町の中でも、私の所作が浮かない店を選んだ。気遣いだ。無愛想な顔と、訓練された動きの裏で、シグは私のことをちゃんと考えている。
絵描きの目には、こういうのは、すぐ分かる。
「何、注文する?」
「君が好きなものを」
「シグの好きなものは?」
「俺は何でもいい」
「じゃあ、私が決める」
「決めてくれ」
私はメニューをもう一度見た。
豚と林檎の煮込み、白身魚の香草焼き、季節の野菜のスープ、それから、黒パンと、白ワインを一本。
「これで」
「ああ」
シグは給仕に注文を伝えた。給仕は頷いて、奥へ下がった。
* * *
料理が来るまでのあいだ、私たちはしばらく無言だった。
無言が、嫌な無言ではなかった。雨の音が窓の外から、ずっと聞こえていた。雨の音が、私たちのあいだに、ちょうどいい音量で流れていた。
シグがふと口を開いた。
「カレン」
「ん」
「君の絵、毎日見てる」
「銅貨を、毎日、払ってるからね」
「違う。買って持って帰った絵を、毎日見てる」
私はシグの顔を見た。
シグの目は相変わらず、表情がなかった。けれど、瞳の中に、また、ほんのわずかな揺らぎがあった。
「そうですか」
「自分の絵を毎日見ている。あれが自分の顔だ、と毎日確認している」
「シグ、自分の顔、忘れる人?」
「忘れる、というか、自分の顔を自分で見ることはない。鏡の中の顔は、自分の顔ではない。鏡は左右が反対だ」
シグの言葉は相変わらず、無愛想なまま、変なところに、論理的だった。
「君の絵の中の俺は、左右がちゃんと、本物の方向で写っている。だから、あれが俺の本当の顔だと思っている」
「絵描きとしては、嬉しい言葉です」
「言いたかったから言った」
シグはそれだけ言って、また、雨の音を聞いていた。
この人、いま、けっこう、気持ちを、出してきたな。
私は心の中でつぶやいた。
出してきた、というほどの、大きな表現ではなかった。けれど、シグの基準では、これはたぶん、思いきった発言だった。
* * *
料理が来た。
豚と林檎の煮込み。白身魚の香草焼き。野菜のスープ。黒パン。白ワイン。
私はまず、スープをひとくち飲んだ。
おいしい。
香草の香りが、すこし上品だった。城下町の食堂よりは繊細。けれど、貴族街の食堂よりは素朴。ちょうどいい場所に調理されていた。
シグもスープを飲んだ。
シグは相変わらず、音をたてず、散らかさず、けれどしっかり食べた。私は彼の食べ方を改めて観察した。
所作の隅々が、貴族街の食事の作法にぴったりそろっていた。スプーンの傾け方、パンの千切り方、ワイングラスの持ち方。子供の頃から繰り返し、誰かに直された動きだった。たぶん、母親、または、家庭教師。
私はふと思った。
シグがいま、私の前で、貴族の所作で、食事をしている。
私の前で、シグは所作を隠していない。
隠していない、ということは、隠す必要がない、と思っている、ということ。
私が彼の所作をすでに見抜いていることを、シグはたぶんわかっている。マレナの店でも、シグは所作を隠さなかった。それを私が観察していることを、彼は感じていたはずだ。
私は笑った。
「シグ」
「ん」
「あんた、私の前で、所作、隠さなくなったね」
シグはスプーンをすこし止めた。
それから、答えた。
「君は見抜く目を持っている。隠しても無駄だ」
「ふうん」
「それに、隠したくない、という気持ちもある」
きた。
絵描きの目はその瞬間、シグの瞳の奥に、もうひとつ、揺らぎを捉えた。
いつもの、内側の影ではなく、もう少し、温度のある揺らぎ。
絵描きとしては、貴重な瞬間だった。
女としては、ちょっと、面食らう瞬間だった。
私はワインをひと口飲んだ。
ワインは辛口で、雨の音とよく合った。
* * *
食事のあいだ、会話は長くは続かなかった。
シグは相変わらず、口数が少なかった。私も、貴族街の社交場のような会話術を持っていなかった。
けれど、二人のあいだの沈黙は、嫌な沈黙ではなかった。
シグは私が話したいときには、ちゃんと聞いていた。私が黙っていたいときには、ちゃんと黙っていてくれた。会話の、間合いの取り方が上手かった。
この人、聞き上手なんだな。
私は新しい発見を額縁にしまった。
シグはたぶん、人を観察する仕事の中で、聞くことを覚えてきた。聞くことが、自分の仕事の根幹だったのかもしれない。
食事が半分くらい進んだとき、私はふと、シグに聞いた。
「シグ、家族、いる?」
「いる」
「何人?」
「兄が一人」
「ふうん」
「両親はすでに亡くなった」
「両方とも?」
「ああ」
私はワインのグラスをすこし止めた。
「シグ」
「ん」
「私も、母は、死んだ。父はいる。兄は、二人、いる」
「そうか」
「父と兄たちとは、まあ、あまり、仲、よくない」
「うん」
「お母さんのことは、覚えてる」
「うん」
「うん」しか言わない。
でも、その「うん」は、聞いてくれている「うん」だった。
私は何年ぶりに、自分の家族の話を人にしたんだろうか。
貴族街では、家族のことを誰かに話す、という機会がなかった。みんな、お互いの家族をすでに知っていた。話す必要がなかった。
城下町に来てから、私は家族の話を誰にもしていなかった。マレナにも、ヘルダにも、子供たちにも。
シグに、初めて、口にした。
なんで、シグに話したんだろう。
自分でも、よくわからなかった。
たぶん、シグの「うん」が、聞きやすい「うん」だったから。
たぶん、雨の音が、ちょうどよかったから。
たぶん、シグも、自分の両親が死んだ、と言ったから。
「シグ、お母さん、いつ亡くなった?」
「俺が十のとき」
「私と、似てる。私は、八のとき」
「そうか」
シグはワインをひと口飲んだ。
「母の絵を、よく、描く」
私は言った。
「俺は絵を描けない」
シグは答えた。
「だから、君の絵が、好きだ」
私は心臓がすこし変な動きをしたのを感じた。
絵描きの目では見えない種類の、内側の動きだった。
私はワインをもう一口飲んだ。
シグはそれ以上、何も言わなかった。
* * *
食事が終わった。
シグが勘定を払った。
店を出ると、雨はまだ降っていた。けれど、勢いはすこし弱まっていた。
シグは私を宿まで送る、と言った。
「いい。一人で帰れる」
私は断った。
「雨だから」
「平気。傘、ここで借りるよ」
シグはしばらく考えた。
それから、頷いた。
「わかった」
そう言って、彼は自分の傘を私に差し出した。
「これを使え」
「シグの傘、借りたら、シグは?」
「俺は平気だ」
「いや、そういう問題じゃ」
「これは、譲らない」
シグの声に、めずらしく、はっきりとした強さがあった。
私は傘を受け取った。
「ありがとう」
「明日、運河沿いで返してくれ」
「明日、雨だったら?」
「明日が、晴れることを、祈る」
シグ、そういうこと、ちゃんと言うんだ。
私は心の中で笑った。
そして、その笑いを絵に入れる前に、自分の中で消した。
絵にしないでおきたい表情というのも、世の中にはある。今日のシグの「明日が晴れることを、祈る」は、そっちの種類だった。
絵にしないで、覚えておく。
絵描きの中の、絵にしない引き出し。
私は傘を差して、雨の城下町を歩いた。
シグは傘も差さずに、私とは反対方向に歩き去った。
背中を、私は見ていた。
十一日前、私の頭の中に勝手に入ってきた背中。
いまは紙の上にも、何枚もある背中。
雨にすこし濡れていく背中。
シグ。
心の中で呼んだ。
あんた、私のこと、ちゃんと、好きなんだね。
返事はもちろんなかった。
なかったけれど、私の中の絵描きが、すこしにやりとした。
絵描きの勘は、わりと当たる。
そして、今日のシグの「うん」は、ぜんぶ、聞いてくれている「うん」だったから。
* * *
夜、金鹿亭で皿を運びながら、私はぼんやり考えていた。
シグが、絵を描けない、と言ったこと。
お母さんが死んでいる、と言ったこと。
兄が一人いる、と言ったこと。
貴族の所作が染みついている、ということ。
苗字を隠していること。
シグ、あんた、誰なんだ。
絵描きの目には、もう、答えの輪郭がぼんやり見えていた。
けれど、私はまだ答えを声に出さないでいた。
シグが自分から言うのを、待つことにした。
マレナがカウンター越しに、私を見て聞いた。
「お嬢様、今日、雨の中、どこ行ってきたんだい」
「シグに、ご飯、誘われました」
「ご飯」
「青羽亭」
マレナがぴたっと手を止めた。
「青羽亭、って、一区の青羽亭?」
「そうです」
「お嬢様」
マレナの声が急に太くなった。
「あの店、ね、ちょっと、いい店だよ」
「いい店、というのは」
「貴族街のお偉いさんが、お忍びで、城下町に降りてきて、ご飯食べる店」
「あ、そう」
「あ、そう、じゃないよ。お嬢様、あんた、本気で、誘われたんだよ」
本気で。
私はその言葉を心の中で転がした。
本気で。
マレナの目は、わりと当たる。
そして、私の絵描きの目もたぶん、もう、答えを知っていた。
シグは私を、本気で、誘っていた。
――シグ。
心の中でもう一度呼んだ。
――次は、あんたの番だよ。
――次の動きは、あんたが、決める。
返事はなかった。
けれど、傘の柄を、私の手のひらが、まだ、ほんのり覚えていた。
シグの体温の名残のような、温度を。
私は皿を運びながら、すこし笑った。
マレナがカウンターの中から私を見て、にやりと笑った。
私たちのあいだに、言葉はなかった。
なかったけれど、わかっていた。
マレナの目は「お嬢様、馴染んだだけじゃ、なくなったね」と言っていた。
私の目はたぶん「そうですね、マレナ」と返した。
たぶん、これから、もうひとつ、何かが増える。




