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第十一章 対等

 翌朝、目が覚めると、雨は上がっていた。

 窓の外の空はまだ薄く曇っていたけれど、雲のあいだから、淡い青が覗いていた。私はシグの傘を、机の脇に立てかけたまま、しばらく見ていた。黒い長傘。柄は革。柄の先端に、小さな金の意匠。よく見ると、王家の紋章を、簡略化したものに似ていた。

 似ているけれど、よく見ないとわからない。

 よく見る癖が、絵描きの私にはある。

 シグ、こういうところに、出すんだ。

 私は心の中でつぶやいた。

 紋章をまったく持たない平民の傘ではない。けれど、はっきりと家紋を出す貴族の傘でもない。中間。意匠を簡略化して、あえて、ぼかしている。ただ、見抜く目で見れば、見抜ける。

 シグは見抜かれることを、たぶん、許している。

 私になら、見抜かれていい、と思っている。

 私は傘を布で包んだ。返すときに、雨で汚れた跡を、できるだけ目立たせないように。


 * * *


 午後、運河沿い。

 私はいつもの石壁にもたれて、絵を描いていた。

 子供たちはその日、別の遊びをしているようで、私のところには来なかった。レオが「カレン姉ちゃん、今日はかくれんぼ!」と叫んで、横を駆け抜けていった。私は手を振った。子供たちは走り去った。

 シグが来たのは、午後三時をすこし回った頃だった。

 私の隣に立った。私は傘を、立てかけてあった鞄から取り出して、シグに差し出した。

 「ありがと」

 「ああ」

 シグは傘を受け取って、布の包みを解いた。柄を、軽く撫でた。

 「綺麗にしてくれたな」

 「シグの傘だから」

 「俺の傘だから、何だ」

 「大事に、扱う」

 シグはすこし私を見た。

 見て、それから、何も言わずに、いつもの定位置、私の右後ろに立った。

 いつも通り、銅貨を一枚、私の手のひらに置いた。

 いつも通り、私の絵を見た。

 いつも通り、しばらく無言だった。


 けれど、今日のシグはいつもと、すこし違った。

 違いは、絵描きの目にしかわからない種類のものだった。

 シグの肩がいつもより、すこし、私の方に近かった。半歩、というほどでもない。手の幅、ふたつぶん、くらい。それだけ。

 けれど、ふたつぶん、近かった。

 半歩でもない、手の幅ふたつぶんの距離を、シグが意図して詰めているのか、無意識に詰めているのか、私には判別がつかなかった。

 たぶん、無意識。

 私は絵を描きながら、心の中でつぶやいた。

 シグはたぶん、自分が、私との距離をすこし詰めたことに、気づいていない。

 気づいていないところが、面白い。


 * * *


 しばらくして、シグがぼそっと口を開いた。

 「カレン」

 「ん」

 「もう一枚、絵を頼みたい」

 「似顔絵?」

 「ああ」

 「銀貨一枚?」

 「銀貨二枚で」

 「鑑賞料、込み?」

 「先払いで」

 シグは財布から、銀貨を二枚、私の手のひらに置いた。

 私は絵筆を止めずに、銀貨を財布に入れた。

 「いつ描く」

 「いまから」

 「いまから、ですか」

 「ああ」

 私は絵筆を止めた。

 シグはいつもより、すこし性急だった。

 いつもなら、「明日、お願いします」と、私が日取りを決めるパターンだった。

 シグは今日、いまから、と言った。

 「わかりました。場所、変える。市場の裏の路地でいい?」

 「いい」

 「行きましょう」


 * * *


 市場の裏の路地に、また、椅子を二脚、用意した。

 マレナから借りた椅子は、私が画材屋の二階に置かせてもらっていた。シグが先に椅子を運んだ。私が画材を広げた。シグが椅子を引いて、私を座らせた。

 「あ、また、椅子、引いた」

 「すまない」

 「いいよ。慣れた」

 シグはすこし口の端を上げた。

 私はその口の端の角度を、心の中で額縁にしまった。

 ふと、気づいた。

 シグの「すまない」は、いつもの彼の口調とすこし違う温度だった。今日のシグは、何か、心の中で決めてきている。

 何を決めてきているのかは、まだ私にはわからない。


 「シグ、座ってください」

 「ああ」

 「目線は、いつも通り、私の右肩」

 「ああ」

 「動かないで」

 「動かない」

 私は絵筆を握った。

 シグの顔を見た。

 いつも通りの無愛想。けれど、いつもと、ほんのわずか違う。

 どこが違うのか、私は絵を描き始めながら、観察した。

 最初の一線で、輪郭。

 次の一線で、髪。

 次の一線で、目。

 あ、瞳。

 瞳が違う。

 シグの瞳の中に、いつもの「内側の影」がない。

 代わりに、ほんのわずかに温かい色が浮かんでいた。

 絵描きの目で見れば、それは、ほんのり橙色の、灯りのような色だった。

 私は絵筆をすこし止めた。


 「シグ」

 「ん」

 「今日、何かいい事あった?」

 シグはしばらく考えた。

 「……あった」

 「何が」

 「……君が、傘を綺麗にして、返してくれた」

 私は絵筆をもう一度止めた。

 そんなことで、シグの瞳に橙色が灯るのか。

 そんなことで。

 「シグ、それ、本気で言ってる?」

 「ああ」

 「冗談で、言ってない?」

 「俺は、冗談など言わない」

 「……」

 たしかに、シグが冗談を言うのを、私はまだ一度も聞いていない。

 私は絵筆を握り直した。

 瞳の中の橙色を、絵に入れた。

 入れたあと、私はすこしだけ息を深く吐いた。


 * * *


 絵を描いている途中で、シグがまた、口を開いた。

 「カレン」

 「ん」

 「君は、なぜ城下町に来た」

 きた。

 私は絵筆を止めずに答えた。

 「事情があって」

 「事情、というのは」

 「言えない事情」

 「俺と同じだな」

 「うん。シグと、同じ」

 シグはすこし考えた。

 それから、続けた。

 「俺の事情、聞きたいか」

 私は絵筆を止めた。

 シグの目を見た。

 シグは私をまっすぐ見ていた。動かないで、と私が言った姿勢のまま、目だけが私を見ていた。

 「聞きたい」

 「俺の事情を聞いたら、君の事情も聞かせてくれるか」

 「……」

 私はすこし考えた。

 「シグ、それ、取引?」

 「取引」

 シグは頷いた。

 「対等に交換したい」

 対等に。

 シグは対等、という言葉を、選んで使った。

 私はその言葉に、すこし、ぐっと来た。

 シグは私を、対等だと思っている。武人と絵描き。素性を隠した男と、追放された魔女。世間的な肩書きで言えば、たぶん、釣り合わない関係。

 けれど、シグは私と、対等に事情を交換したい、と言っている。


 「シグ」

 「ん」

 「私、考える時間、欲しい」

 「考えてくれ」

 「いますぐ、答えなくていい?」

 「いますぐじゃない」

 「ありがとう」

 私は絵筆を握り直した。

 シグの絵を、続けて描いた。

 描きながら、心の中で自分に聞いた。

 シグに、私の事情、話す?

 話したい、と私は思った。

 でも、話していい相手かどうか、まだわからない。

 シグの事情をまず聞いてからだ。聞いて、それでも私の事情を話していい、と思ったら、話す。

 絵描きの勘は、わりと当たる。

 いまの私の勘は、シグの事情を聞いてみたい、と言っていた。


 * * *


 絵ができあがった。

 紙の中に、今日のシグが立っていた。

 瞳の中に、ほんのり橙色の灯り。

 無愛想な顔のままだけれど、目だけが温かい男。

 シグは絵を両手で受け取った。

 受け取ってから、しばらく、自分の絵を見ていた。

 「カレン」

 「ん」

 「これは、誰だ」

 「シグ」

 「これは、シグなのか」

 「シグだよ。今日のシグ」

 シグは絵をもう一度見た。

 「俺は、こんな顔してたか」

 「してた」

 「橙色の、これは、何だ」

 「光。シグの目の中に、いま、灯ってる光」

 シグはすこし黙った。

 それから、絵を、丁寧に布で包んだ。

 包んでから、私を見た。

 「カレン」

 「ん」

 「俺の事情、いま話す」

 「いま」

 「ああ」

 私は絵筆を、洗う水の壺に浸した。

 画材の片付けは後回しにした。

 シグの事情を聞くことにした。


 * * *


 シグは椅子に座ったまま話し始めた。

 「俺の名前はシグだ。それは本当だ」

 「うん」

 「ただし、シグというのは短くした名前だ」

 「短くした」

 「もとの名前は、もう少し長い」

 「ふうん」

 「もとの名前を、いまここで言うことはしない」

 「うん」

 「ただ、もとの名前を言わないだけで、嘘はついていない」

 「そう」

 シグはしばらく間を置いた。

 それから、続けた。

 「俺の家は、王都のある家だ」

 「ある家」

 「俺の家には当主がいる。当主は俺の兄だ」

 私は絵筆を、洗う水の壺の中で止めた。

 「兄が、当主」

 「ああ」

 「シグは、当主の弟」

 「ああ」

 「ふうん」

 シグの「ある家」が、王都の中で「当主」を持つ家、というのは、つまり、貴族の家、ということだ。それも、たぶん、相当上の方の家。

 「俺は当主の弟として、ある仕事をしている。仕事の内容は言えない。けれど、悪い仕事ではない」

 「うん」

 「仕事のために、たまに城下町に降りてくる。降りてくるときは、苗字を隠す。それが決まりだ」

 「うん」

 「最近は、仕事のためじゃなく、降りてきている」

 「最近」

 「ああ」

 「最近、というのは」

 「君に、会った日から」

 私は絵筆を握り直した。

 絵筆を握り直したけれど、絵を描く対象は、もうない。私は、ただ、絵筆を握り直しただけだった。

 「シグ」

 「ん」

 「あんた、私のこと、好きなの?」

 シグはしばらく黙った。

 黙って、それから、答えた。

 「……ああ」

 肯定だった。

 否定の「うん」とは、ぜんぜん違う「ああ」だった。

 シグは私の目をまっすぐ見ていた。


 * * *


 私はしばらく、何も言えなかった。

 絵筆を握ったまま、自分の絵筆の毛先を見ていた。毛先には、青い絵の具が、すこし残っていた。

 シグが、私のこと、好き。

 そう、言葉にして、心の中で確認した。

 シグが、私のこと、好き。

 貴族の、それも、たぶん、相当上の家の、当主の弟が、私のこと、好き。

 無愛想で、貴族の所作が抜けていなくて、絵を描けない男が、私のこと、好き。

 ミラの「お兄さん、カレン姉ちゃんのこと、好きなの?」という質問の、答え。

 否定しなかった、無愛想な男の、答え。

 たぶん、私の絵描きの目は、もう、何日も前から、答えを知っていた。

 でも、答えをシグの口から聞くのは、別の話だった。


 「シグ」

 私はようやく口を開いた。

 「私、絵描きで、城下町の、一介の絵描きで、しかも、追放されてきた魔女だよ」

 「魔女」

 シグはその単語を繰り返した。

 驚いた、というほどの大きな反応ではなかった。

 けれど、絵描きの目で見れば、シグはほんのわずか反応していた。

 「魔女、というのは、王立裁判所の認定を受けた魔女、ということか」

 「うん」

 「カレン・グレイファン」

 シグは私の苗字を知っていた。

 私が口にしていない私の苗字を、シグは知っていた。

 「シグ、いつから知ってた?」

 「最初の日、銅貨を払って帰った夜、調べた」

 「……そう」

 「君が、王書庫の件で追放された魔女だということも、知っている」

 「……うん」

 「俺はその件の裁判の記録も、読んでいる」

 シグの仕事はやはり、観察と、調査と、その類の仕事だった。

 私の事情はもう、シグにはぜんぶ知られていた。


 「シグ」

 「ん」

 「あんた、私が、王書庫の事件の犯人だと、思ってる?」

 シグはすこし考えた。

 それから、答えた。

 「思っていない」

 「なんで」

 「君の絵を見れば、わかる。君は、書庫の地下三層に、誰にも見られずに降りるような人間ではない。君は、降りるとしたら、堂々と、王立裁判所に許可を取って降りる。君の絵には、そう書いてある」

 絵に、書いてある。

 シグは私の絵を、毎日、見ていた。

 そして、絵から、私の人格を読み取っていた。

 絵描きの目で、私を観察してたのか、シグも。

 私は心の中で笑った。

 似た者、だ。

 マレナの言った通りだった。


 * * *


 私は絵筆をゆっくり置いた。

 シグの方に、椅子の向きをすこし変えた。

 「シグ」

 「ん」

 「私の事情、もう、ぜんぶ知ってるんでしょ」

 「ああ」

 「だったら、私が話すこと、ないね」

 「ある」

 「何」

 「君の口から聞きたい」

 「……あんた、ちゃんと、頼むんだね」

 「ああ」

 私は笑った。

 ちょっと、笑った。

 「いいよ。話す」

 私はシグに話した。

 私の母リーゼのこと。母の言いつけのこと。八年間、絵に手を抜いてきたこと。学院の試験で、全力を出してしまったこと。魔女に認定されたこと。次の日、王立裁判所で契約を結んだこと。その日の夕方、ドルグ・アルデインに初めて会ったこと。あの男の細い目を、絵にして覚えたこと。次の日の夜、召喚状が来たこと。次の朝、王宮で糾問されたこと。父が視線を逸らしたこと。城下町に追放されたこと。

 シグはぜんぶ聞いていた。

 「うん」と、ところどころで言いながら、聞いていた。

 シグの「うん」は、聞いてくれている「うん」だった。

 私は十数分、ずっと話した。

 話し終わったとき、私は自分が、これだけの話を人にできることに、すこし驚いていた。


 話し終わって、私はシグを見た。

 シグの目はいつもの無愛想だった。

 けれど、瞳の橙色が、また、少し強くなっていた。

 「カレン」

 「ん」

 「君が犯人ではないことの証拠を、俺はつかみたい」

 「シグ」

 「ああ」

 「あんた、それ、本気?」

 「俺は、冗談など言わない」

 たしかに、言わない人だ。

 私は心の中で頷いた。

 シグは立ち上がった。

 私の前で、すこし、頭を下げた。

 「カレン・グレイファン」

 「はい」

 「俺の、もとの名前を、いまはまだ言わない。けれど、そう遠くない日に必ず言う」

 「うん」

 「言ったときに、君がそれでも俺と付き合ってくれるなら、それを聞かせてほしい」

 私はシグの顔を見上げた。

 シグの顔は相変わらず、無愛想だった。

 けれど、瞳の中の橙色は、いまや、ちゃんと灯っていた。

 シグ。

 私は心の中で呼んだ。

 あんた、求愛、上手じゃないけど、嘘もないんだね。

 「わかった」

 私は答えた。

 「シグの、もとの名前、聞いてから答える」

 「ありがとう」

 シグは頷いた。


 * * *


 シグが、絵と傘の包みを抱えて立ち去ったあと、私はしばらく椅子に座っていた。

 画材を片付ける気になれなかった。

 心の中で、たくさんの絵がいっぺんに額縁に入りそうになって、整理が追いつかなかった。


 シグが、私を、好き。

 シグが、私の事情を、ぜんぶ知っていた。

 シグが、私の冤罪を、晴らそうとしている。

 シグの、もとの名前は、まだ知らない。

 けれど、たぶん私の絵描きの勘は、もう答えの輪郭を、ほぼつかんでいる。

 王都の、ある家の、当主の弟。

 王立裁判所の記録を、読める立場。

 貴族の所作が、抜けていない。

 王家の紋章を、簡略化した、傘の柄の意匠。


 たぶん、王家。

 私は心の中でつぶやいた。

 たぶん、王家の傍系か、本流か、どちらか。

 シグの「もとの名前」は、たぶん、私の知っている名前のうちの、どれか。


 でも、いいや。

 私は絵筆を、洗う水の壺から取り出した。

 シグが、自分から言うのを、待つ。

 シグは今日、私に、対等に、と言った。対等に、事情を交換しよう、と。

 私はシグの「もとの名前」を、自分から当てに行かない。

 シグが、自分の口で言うのを、待つ。

 それが、対等、ということだから。


 絵描きの勘は、わりと当たる。

 けれど、絵描きの誇りは、勘で人を決めつけないこと、だ。

 私はシグの絵の控えを、もう一枚、紙に起こした。

 瞳の中の橙色を、もう一度、入れた。

 入れて、紙を、机の上に立てかけた。

 ――シグ。

 心の中で呼んだ。

 ――次は、あんたの番だよ。

 ――もとの名前、言いに来な。

 返事はなかった。

 けれど、絵の中の、橙色の光が、すこしだけ、強くなった気がした。

 たぶん、気のせいだ。

 たぶん、気のせい、で、いい。

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