第十二章 ドルグの焦り
王立裁判所の代理執務室は、王宮の西翼、三階の最奥にあった。
窓は二つ。北向きの窓からは、王宮の中庭が見下ろせる。中庭には、剣の意匠を彫った噴水があって、晩夏の日差しの中で、絶え間なく水を吐き続けていた。水音は、執務室の中まで薄く届いていた。
ドルグ・アルデインは、その窓辺に立っていた。
手には報告書を一通。
報告書は彼の私的な手の者、ファルケンが、城下町に放っている密偵から上がってきたものだった。
報告書の内容を、ドルグはすでに三度読み返していた。
三度読んでも、書かれている事実は変わらなかった。
『カレン・グレイファンに関する報告書。
城下町第七区、宿『金鹿亭』に在住。
昼間は街路で絵を描き、近隣住民との交流が活発化。子供たち、商人、近隣店主との関係良好。
夜間は『金鹿亭』にて給仕の仕事に従事。客との応対、酒類の運搬、勘定の補佐。労働実績、勤勉。
絵画作品を商品として販売。一枚銅貨一~数枚、似顔絵は銀貨単位での取引も成立。生活資金は王家の手当に加え、絵画売上で安定。
術理の行使は、見聞の範囲では、ない。
居住地、勤務先、ともに巡回確認済み、逃亡の兆候なし。』
ドルグは報告書を、机の上に軽く放った。
紙が机の木目の上で、すこし滑った。
「……順応しすぎだ」
彼は低く呟いた。
* * *
追放から、ひと月が経っていた。
ドルグの計算では、これくらいの時期に、カレン・グレイファンは心が折れているはずだった。
貴族街育ちの十六歳の娘が、いきなり城下町に放り出される。家族は誰も助けに来ない。生活保障は最低限。術理の行使は禁じられ、唯一の武器を奪われている。普通であれば、心を病み、酒と男に溺れ、転落していく。あるいは、王家に泣きつき、再審請願を繰り返す。
どちらの未来も、ドルグの計算に入っていた。
どちらの未来であっても、彼にとって不都合はなかった。
転落するなら、放っておけばいずれ消える。再審請願をするなら、王立裁判所代理職の権限で握りつぶせる。
どちらにせよ、彼女は彼の手のひらの上だった。
しかし、報告書の中の彼女は、転落もしていなければ、再審請願もしていなかった。
彼女は城下町に馴染んでいた。
絵を描き、子供に教え、酒を運び、近隣の店主と交流していた。
それは、想定外だ。
ドルグは椅子に腰を下ろした。
椅子の背に深くもたれた。
天井の漆喰の模様を見上げた。
彼女が城下町に馴染むということ自体が、想定外だった。けれど、想定外、というだけなら、まだ扱える。
問題は、もうひとつの報告だった。
* * *
ドルグは机の引き出しから、もう一通の報告書を取り出した。
別の密偵からの、別の報告。
そちらの報告書は、内容がより具体的だった。
『追加報告。
カレン・グレイファン、毎日午後、街路において絵画制作。
同じ時刻、同一の人物が、彼女の傍に出現する。
人物は男性。年齢二十代後半。身長、肩幅、髪型、特徴的。
服装は平民の簡素な衣類だが、所作は貴族のそれ。腰の剣、訓練された結び方。
顔貌の特徴より、推定候補は王弟シグルド殿下。』
ドルグはその一行で、引き出しを勢いよく閉めた。
閉めた音が執務室の壁に跳ね返った。
シグルド。
彼の中で、その名前が嫌な響きで転がった。
シグルド・アルデイン。現国王マグナス陛下の弟。騎士団長。本流アルデイン家の、男子のうちの一人。
そして、ドルグにとっては、傍系から本流を見上げる際の、最も象徴的な存在だった。
マグナス陛下は王座にいる。距離が遠い。直接的な比較対象にはなりにくい。
けれど、シグルド殿下は、騎士団長として王宮で日常的に動き回っている。傍系のドルグ・アルデインの目の前に、ほぼ毎日現れる。同じ「アルデイン」の苗字を持ちながら、生まれの順序ひとつで、扱いがこれほど違う。
気に食わない。
彼はもう何度目かわからない、その言葉を心の中で転がした。
* * *
ドルグは立ち上がった。
執務室をひと回り歩いた。
歩きながら、頭の中で計算を組み直した。
シグルド殿下が、カレン・グレイファンに毎日会っている。
可能性はいくつか考えられる。
可能性一、偶然。
シグルド殿下は、お忍びで城下町に降りる癖がある。城下町でたまたま、絵を描いている彼女を見かけ、興味を持った。継続的に通っているのは、絵に対する純粋な趣味。
可能性二、意図。
殿下は、王書庫の事件について、何らかの疑念を抱いている。彼女に接触し、情報を集めている。
可能性三、私情。
殿下は彼女に、個人的な関心を持っている。
ドルグは椅子に戻った。
もう一度、報告書を机の上に広げた。
可能性一なら、放置でいい。趣味はいずれ冷める。
可能性二は最も危険。シグルド殿下は、騎士団長として独自の調査権を持っている。本格的に動き始めたら、王立裁判所の管轄を超える。
可能性三は、可能性二に転化する場合、危険。男が女に肩入れしたとき、男はその女のために調査を始める。
ドルグの指が机の上で、こつこつと音を立てた。
どの可能性でも、あの女がシグルド殿下とこれ以上近づくことを、許してはならない。
彼は結論を下した。
下しながら、もう一段、深い計算を始めた。
彼女を消す。
いま消す。
王書庫の事件の余波が、まだ宮廷内で完全に消えていない時期に、彼女が「事故で死んだ」となれば、二つの効果が見込める。
一つ目。彼女の口を永久に封じる。彼女がシグルド殿下に、何かを話す前に。
二つ目。彼女の死を「魔女としての禁術行使の反動による事故」と、後付けで宣伝する。これは、王書庫の事件の犯人説を補強する効果を持つ。事件の真犯人探しを、世論の中で終わらせる。
一石、二鳥だ。
ドルグはそう結論した。
* * *
彼は執務室の呼び鈴を、二度、鳴らした。
しばらくして、扉の外に人影が立った。
ファルケンだった。
ドルグは扉を内側から開け、ファルケンを招き入れた。扉を閉め、鍵をかけた。
ファルケンが無言で頭を下げた。
「ファルケン」
「はい」
「カレン・グレイファンを、消す」
ファルケンはしばらく無言だった。
それから、答えた。
「……承知しました」
ファルケンの「承知しました」は、王書庫の朝のときと同じ温度だった。
驚きも、咎めも、何もない。仕事を引き受ける、という意思だけ。
「方法は、事故に見せかけたい。具体的には、夜間の襲撃。彼女が宿に戻る経路上、人通りの少ない場所で、複数人による襲撃。死後、現場の術理痕跡を偽造する」
「痕跡偽造は、王書庫のときと同じ手法ですか」
「同じだ。痕跡偽造の術士は、前回と同じ二人を使え。口は固い」
「金額は」
「相場の倍を出せ。秘密保持代込みだ」
「承知しました」
ファルケンが頷いた。
「実行人数は、何人を見込みますか」
ドルグはすこし考えた。
「相手は、無許可の術理行使を禁じられている、追放魔女だ。武装しているとは考えにくい。三人で十分だろう。傭兵崩れから選定しろ」
「シグルド殿下の動向は」
シグルド。
その名前がまた、彼の中で嫌な響きで転がった。
「殿下が、彼女と接触する時間帯は、午後だ。襲撃は、夜の宿への帰路で実施する。殿下が彼女の宿まで送るような夜があれば、その日は決行を見送れ」
「もしも、殿下が襲撃の現場に居合わせた場合は」
「居合わせた場合は」
ドルグはしばらく黙った。
それから、答えた。
「殿下を傷つけるな。傷つけたら、すべてが終わる。彼女だけを殺せ」
「承知しました」
* * *
ファルケンが退出した。
扉が閉まった。
ドルグはようやく、椅子の背に深くもたれた。
彼は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、ひとつの絵が浮かんだ。
ひと月ほど前、王立裁判所の、あの石の部屋で、彼が初めて出会った娘の顔。
十六歳。栗色の髪。すっきりした顔立ち。目が、こちらを観察するように見ていた。
絵を描く目で。
気に食わない。
彼はもう何度目になるか分からない、その言葉を転がした。
彼女の絵を描く目を、彼は警戒し続けてきた。
警戒していた目を、彼の傍系王族としての立場で潰すことに、彼は決めた。
王書庫の事件で、彼女を罪人にした。
城下町に追放した。
彼の手のひらの上、だったはずだった。
けれど、彼女は手のひらの上で馴染んだ。あろうことか、シグルド殿下と、毎日、会うようになった。
あの目を、潰す。
ドルグは目を開けた。
窓の外で、噴水の水音が相変わらず続いていた。
彼は立ち上がって、窓辺に戻った。
下を見下ろした。
中庭の噴水の周りで、王宮の使用人たちが洗濯物を干していた。布が晩夏の風に揺れていた。
日常の絵だった。
ドルグはその日常の絵の中に、自分の姿がぴったりはまっていない、と感じていた。
彼は王宮に生まれた。傍系として。生まれた瞬間から、本流の影に入っていた。マグナス陛下の影。シグルド殿下の影。アルデイン家本流の影。
彼の人生は、影の中で、機会を待つ人生だった。
* * *
彼は机に戻り、引き出しの最奥を開けた。
そこには、王書庫から持ち帰った、あの黒い革表紙の書物がしまわれていた。
書物の表紙の銀の印が、ランプの光を薄く跳ね返した。
彼は書物を開いた。
開いた先は、〈八重の閉環〉の章。
彼が暴発した、第五式の冒頭。
ページに汗の染みが、まだ残っていた。
彼はページをめくった。
第六式。再生の祈り。傷を癒し、損なわれた身体を戻す祈り。
次のページ。
第七式。有機の祈り。対象の身体を強化する祈り。神の力を肉体に宿す祈り。
次のページ。
第八式。
彼はページの中央の言葉を、声に出さずに読み上げた。
囁きの祈り。
他者の心の中に、直接、声を届ける祈り。
八式は、信仰の最終形にして、禁忌中の禁忌だった。
教会では、口伝でさえ語られない。古い禁術書の、数行の断片として残っているだけ。
相手の精神に、こちらの言葉を直接書き込む。書き込まれた相手は、自分の意思で考えたと思い込む。
あの人に、王座を譲ってほしいと思わせる。
あの人に、剣を捨てさせる。
あの人に、私を認めさせる。
書物のページの上で、ドルグは自分の指先を軽く撫でた。
八式が扱える術士になれば、傍系の枠は消える。
彼の言葉は、相手の心に直接届く。
マグナス陛下の心にも。
シグルド殿下の心にも。
いままで、自分を「傍系」として軽く扱ってきた、すべての人間の心にも。
届いた瞬間に、彼らは私を軽く扱えなくなる。
ドルグは書物を閉じた。
閉じる動作が、ほんのわずか震えていた。
彼は今日、第五式で暴発した。
光の祈りで止まった。
けれど、いつか必ず、第八式まで組み上げる。
いまは、その前段階。
シグルド殿下の動きを止める。
カレン・グレイファンを消す。
王書庫の事件を、世論から消す。
そのうえで、もう一度、ここに戻る。
次は暴発させない。
次は、ちゃんと、第八式まで辿り着く。
ドルグは書物を、引き出しの最奥に戻した。
引き出しを閉めた。
* * *
夜になった。
王宮の窓に、灯りがひとつずつ点っていった。
ドルグの執務室の窓にも、灯りが点いた。
彼はランプの光の下で、もう一通、書状を書いた。
書状は、王立魔術学院の、学院長宛て。
「最近の、術理の研究動向について、御助言を賜りたい」と、表向きの文面で。
学院長は彼にとって、有用な情報源の一人だった。学院長は、近年の魔女・魔人候補の出現傾向をぜんぶ把握している。万一、シグルド殿下が、何らかの調査で学院長に近づいた場合、その情報はドルグに流れてくる仕組みだった。
書状を封蝋で閉じ、明朝、使者で送る、という指示を机の上に置いた。
彼はもう一度、椅子にもたれた。
彼の心の中で、複数の絵が同時に動いていた。
夜の城下町の路地。
刺客が、彼女に近づく。
彼女は画材を抱えて、宿に向かって歩いている。
刺客が、彼女を囲む。
彼女は術理を行使する権利を、奪われている。
抵抗の手段がない。
彼女はそこで終わる。
彼はその絵を、繰り返し心の中で再生した。
再生するたびに、心の片隅で、ほんのかすかな、何かがもぞもぞと動いた。
罪悪感、と呼ぶには薄い。
けれど、無、と呼ぶにはある。
彼はその「もぞもぞ」を無視した。
傍系王族として、生まれた以上、彼の人生に、もぞもぞは許されない。
彼の生まれは、もぞもぞを拒絶することで機会をつかむ生まれだった。
あの女は、絵を描く女だ。
彼は自分に言い聞かせた。
絵を描く女に消えてもらう。
絵を描く目に消えてもらう。
彼の中身を観察できる目に消えてもらう。
いずれ、私が八式を扱える日が来る。
その日に、私の言葉は誰の心にも届く。
その日が来るまで、誰にも、私の中身を覗かせない。
――シグルド殿下、あなたが彼女を守るには間に合わない。
――明日の夜、もしくは、その次の夜。
――いずれ必ず、彼女は消える。
灯りの下で、ドルグ・アルデインは、自分の手のひらをもう一度見た。
手のひらは、まだ、すこし汗ばんでいた。
彼はその汗を布で軽く拭った。
拭ったあと、自分の指先で、自分の唇を軽くなぞった。
唇は、八式の祈りを、まだ紡いだことがない唇だった。
いつか必ず、紡ぐ。
彼は自分の唇に約束した。




