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第十三章 街に影

 異変に気づいたのは、シグが正体の一部を打ち明けた、その三日後の朝だった。

 いつものように、私は朝の市場に、卵と野菜を買いに行った。マレナの店の朝食用の仕入れを、たまに私が手伝うようになっていた。買い物の道順は決まっていた。市場の南端から始めて、卵屋、野菜屋、香草屋、と、時計回りに回る。最後に、果物屋のヘルダのところで、おまけの林檎をひとつもらって、宿に戻る。

 その朝、私が市場の南端を曲がったとき、視界の端に、見慣れない男が立っていた。

 男は卵屋の少し離れた場所に、肩を壁に預けて立っていた。

 何も買っていなかった。

 何も買っていないのに、市場の入り口に立っていた。


 絵描きの目は、こういうとき、便利だ。

 私は男を横目で観察した。

 年齢、三十前後。中肉中背。茶色の上着。腰に剣の佩く位置の盛り上がりがある。武装しているが、隠している。視線はふわりと市場全体を眺めているように見せて、実はある一点をずっと捉えている。

 あ、私だ。

 私は買い物をしながら、心の中でつぶやいた。

 男の視線の先は、ずっと私だった。

 私が卵屋に立ち寄ったとき、男もそちらの方角に姿勢を変えた。私が野菜屋に動いたとき、男もわずかに位置を変えた。

 尾行ではない。観察だ。

 尾行なら、もっと追ってくる。観察は、距離を保ったまま、対象の動きを記憶する。

 なんで、私を観察するんだ。

 私は香草屋で、麝香草を買いながら、頭の中で答えを並べた。

 可能性一、王立裁判所の生活確認の使者。けれど、彼らは週に一度、決まった日時に来る。今日はその日ではない。

 可能性二、シグの仕事関係の人間。けれど、シグは私について、シグルド殿下個人として調べているのであって、仕事として追跡させるとは考えにくい。

 可能性三、それ以外。

 三が嫌な気配だ。

 私は麝香草の代金を銅貨で払った。


 果物屋のヘルダのところで、私はすこし声をかけた。

 「ヘルダ」

 「カレンちゃん」

 「あの男、見える?卵屋の向こうの、壁にもたれてる、茶色の上着の」

 ヘルダは林檎を選ぶふりをしながら、ちらりとその方向を見た。

 「見えた」

 「あの男、知ってる?」

 「知らないね。三日前くらいから、市場にぼちぼち見かけるようになった」

 「三日前」

 シグが、正体の一部を打ち明けた日と同じだ。

 私は心の中で、絵を一枚、額縁に入れた。

 タイミングが、合いすぎている。

 「ヘルダ、何か聞いてる?」

 「あんたを、見てるね、あれは」

 ヘルダの目は、商売人の鋭さで男を見ていた。

 「カレンちゃん、何か、心当たりはあるかい」

 「ないけど、嫌な感じはする」

 「あたしも、そう思った」

 ヘルダは林檎をひとつ、私の鞄に入れた。

 「気をつけな。城下町の街路は、夜、特に暗くなる」

 「ありがとう、ヘルダ」

 「気をつけな、を、もう一度、言っとくよ」

 ヘルダの声は、いつもより太かった。

 私は頷いた。


 * * *


 午後、運河沿い。

 私はいつもの石壁にもたれて、絵を描いていた。

 シグが来た。いつもの時刻、いつもの距離。

 けれど、今日は銅貨を私の手のひらに置いたあと、彼はいつもよりすこし長く、私のそばにいた。

 「シグ」

 「ん」

 「最近、変な奴が、街をうろついてる」

 シグの目線がほんのわずか鋭くなった。

 いつもの「内側の影」とは別の鋭さだった。武人の鋭さだった。

 「具体的に」

 「茶色の上着の、武装した男。三十前後。市場で私を観察してた」

 「三日前から?」

 「うん」

 シグはすこし考えた。

 「他にいるか」

 「他、というのは」

 「同じような男」

 「……」

 私は絵筆を止めた。

 そういえば、と心の中で思い出した。

 昨日の昼、運河沿いで絵を描いていたとき、対岸の倉庫の影に誰かが立っているのを、視界の端で捉えた覚えがあった。そのときは気にしなかった。けれど、いまになって思い返すと、あれも私を見ていた気がする。

 「対岸の倉庫の影に、もう一人、いた、かもしれない。昨日」

 「服装、覚えてる?」

 「灰色の外套」

 シグは頷いた。頷きながら、表情がすこし引き締まっていた。

 「カレン」

 「ん」

 「明日から、夜、店から宿まで、俺が送る」

 「えっ」

 私の声がすこし上ずった。

 「店から、宿まで、というのは、金鹿亭から、私の部屋まで、ということだよね?私の部屋、金鹿亭の二階だよ」

 「店じまいの後、店の前から、二階の入り口まで、俺が見届ける」

 「シグ、それ、ストーカーじゃない?」

 「違う。護衛だ」

 「護衛、雇った覚え、ない」

 「無償、護衛だ」

 シグの言い方が、無愛想なまま、絶対に譲らない、という温度だった。

 私は絵筆を握り直した。

 譲らないつもりなら、譲らせる方法を考えるしかない。

 「シグ」

 「ん」

 「あんたが、私を護衛するのは、いいよ。でも、それで、シグが、危険に巻き込まれたら、どうするの」

 「俺は自分の身を守れる」

 「相手が、複数だったら?」

 シグはしばらく黙った。

 それから、答えた。

 「俺は騎士団長として、複数を相手にする訓練を受けている」

 騎士団長、と、シグは自分の口で言った。

 初めて、シグの口から。

 私は絵筆をもう一度止めた。

 「騎士団長」

 「ああ」

 「シグ、それ、私に、言っていいの」

 「言うつもりだった。今日でなくても、近いうちに」

 シグの目は私をまっすぐ見ていた。

 「君を、危ない目に合わせたくない。だから、いま言った」

 君を、危ない目に合わせたくない。

 シグの言葉は相変わらず、無愛想なまま、まっすぐに私の中に入ってきた。

 私は絵筆を置いた。

 置いて、シグの方に椅子の向きを変えた。

 「シグ」

 「ん」

 「私、あんたが、騎士団長だって、もう、ぜんぶは聞かないでいいよ。あんたが自分から、ぜんぶ言いたくなるまで、待つ」

 「ああ」

 「でも、護衛は、受け入れる」

 「ありがとう」

 シグは頭をすこし下げた。

 私はその頭を、心の中の額縁にしまった。

 下げた頭の、髪の、つむじの位置まで覚えた。


 * * *


 夜、金鹿亭で皿を運びながら、私はマレナに、市場の男のことを話した。

 マレナの目は、聞きながら、すこしずつ鋭くなっていった。

 「お嬢様」

 マレナの声が急に低くなった。

 「あんた、心当たりは」

 「あります」

 「誰」

 「言えない、けど、いる」

 マレナは頷いた。

 「あたしの店も、夜は客のうちの誰かが、知ってるかもしれない。傭兵崩れの客が何人か、来てる」

 「マレナ」

 「ん」

 「私、外、あまり出ないほうが、いい?」

 「いや」

 マレナは首を振った。

 「外に出ないと、相手の動きが見えない。ただし、夜は一人で出ない。シグが、送ると言ったんだろ」

 「うん」

 「だったら、シグに送ってもらいな。それから、夜の街路で、走らないこと。走ると、追われていることに気づかれる。普通の歩幅で、普通の速度で、歩く。何もないふり、ができるうちは、それを続ける」

 マレナの口調は傭兵時代の口調だった。

 「マレナ、傭兵時代に、こういうこと、あった?」

 「あったよ。たくさん」

 「死にかけた回数、二回って、言ってたよね」

 「言った。一回目は、追われたんだ。二回目は、追ってる側だった」

 「……」

 「お嬢様、人生、いろいろあるんだ。ま、覚悟しときな」

 マレナは私の頭をぐしゃっと撫でた。


 * * *


 翌日の夜、店じまいのあと、シグは店の前に立っていた。

 シグはいつもの平民の格好だったけれど、剣を腰にしっかり差していた。柄の革紐が、いつもより念入りに結ばれていた。

 「カレン」

 「シグ」

 「行こう」

 私の宿は、金鹿亭の二階だった。だから、店の前から、二階の入り口までの距離は、十歩もない。

 けれど、シグはその十歩を、私の隣を歩いて確認した。

 「夜、外で絵を描く予定はあるか」

 「夜は、絵を描かない。明かりが足りない」

 「では、夜の外出はしないか」

 「しない。基本、夜は店の中、寝るときは部屋の中」

 「ああ」

 シグは頷いた。

 「それでも、もし夜、何か外に用事ができたら、俺を呼んでくれ」

 「呼ぶ、って、どうやって」

 「店の前の街灯の下に、白い布をかけてくれ。俺の手の者が見つけて、俺に伝える」

 「シグ、いつから、街灯に、見張り、置いてたの」

 「昨日から」

 「……」

 シグの仕事の早さに、私はちょっと笑いそうになった。

 騎士団長、というのは、こういうものなのか。


 シグは二階の入り口の前で、立ち止まった。

 「ここまで来たから、戻る」

 「ありがとう」

 「明日も、店じまいの後、来る」

 「うん」

 シグは頷いて、立ち去った。

 私はしばらくシグの背中を見ていた。

 いつもより、すこし緊張した背中だった。

 あんた、本当に、私のこと、好きなんだね。

 私は心の中でつぶやいた。

 好き、というだけで、毎晩、護衛に来る男。

 貴族街の私の知っている貴族の中に、こんなことをする男はいなかった。


 * * *


 シグの護衛が、三日続いた。

 三日のあいだ、何も起きなかった。

 けれど、街中の、変な奴の数が、減った気もしなかった。

 茶色の上着の男。灰色の外套の男。それから、市場の北端で、子供のふりをしているけれど、明らかに大人の体格の少年。

 彼らは、私を見ていた。

 見ているだけで、近づいてこなかった。

 いつ、来る気だ。

 私は心の中で思った。

 向こうは、シグの護衛の存在を、たぶん把握している。シグが店の前に来る時間、二階の入り口までの十歩、ぜんぶ、観察されている。

 彼らが動くとしたら、シグがいない時間。

 シグが、来られない夜。


 * * *


 四日目の夕方、シグから、伝言が来た。

 マレナが伝えてくれた。

 「お嬢様、今夜、シグは、来られないってさ」

 「えっ」

 「王宮で、急な仕事が入ったらしい。代わりに、見張りの男を、二人、店の前に置く、って言ってきた」

 私はちょっと考えた。

 見張りが二人。

 向こうの動きを抑えるためには、十分なはずだった。けれど、向こうもシグが来ないことを、たぶん把握している。

 いまの私は、絵描きの目で見れば、はっきりと、餌だった。

 向こうが動くなら、今夜だ。


 「マレナ」

 「ん」

 「今夜、店の中に、いさせてもらえる?仕事が終わっても、すぐ二階に戻らずに、しばらく、店の片付けを、手伝う」

 「いいよ」

 マレナは頷いた。

 「ただし、お嬢様、覚悟は、しときな。向こうが、本気で来るなら、店の中まで、来る」

 「うん」

 「あたしは、傭兵だった。剣は、まだ、振れる。でも、傭兵崩れが三人で来たら、あたし一人じゃ、きついね」

 「ごめん、巻き込んで」

 「謝るな。あたしの店は、あたしの城だ。城を守るのは、当主の仕事だよ」

 マレナは笑った。

 私はちょっとだけ、泣きそうになった。

 泣かなかった。

 私は泣かないキャラだ。八年、泣いてこなかった。

 でも、ちょっと、泣きそうになった。


 * * *


 夜の店は、いつも通り混んでいた。

 けれど、私の頭の中はいつも通りでは、なかった。

 皿を運びながら、エールを注ぎながら、客の注文を取りながら、私は店の入り口を、ずっと、視界の端で見ていた。

 午後十時。

 午後十時半。

 午後十一時。

 午後十一時半。

 常連の客が、ぽつぽつと、勘定を済ませて帰っていった。

 シグの見張りの男が、店の前の街灯の下に、確かに立っているのを、私は客の出入りのときに確認した。二人。一人は左の街灯の下。もう一人は右の街灯の下。シグが言ったとおりの配置だった。


 午前零時。

 最後の客が勘定を済ませた。

 マレナが扉を内側から閉めた。

 閉めたあと、扉の閂を、しっかりかけた。

 「お嬢様」

 マレナの声が低かった。

 「ありがとうございます、マレナ」

 「礼はいいから、店の片付け、手伝いな」

 私は頷いた。

 椅子をテーブルに上げた。床を箒で掃いた。空のジョッキを洗い場に運んだ。


 片付けが、半分くらい進んだとき。

 店の外で、何か音がした。

 にぶい音。

 人の体が、何かにぶつかる音。

 マレナの目がぴたっと扉に向いた。


 「マレナ」

 「お嬢様」

 「いま、外で」

 「聞いた」

 マレナはカウンターの裏から、剣を取り出した。

 古い、長い、傭兵の剣。

 剣を自分の腰に、すばやく結んだ。

 「お嬢様、二階に上がんな」

 「マレナは」

 「あたしは、ここで、扉を見張る」

 私は頷きかけた。

 けれど、頷く前に、もう一度、外で音がした。

 今度は、はっきりと、人の声だった。

 「ぐっ」

 呻き声。

 シグの見張りの男のうちの、一人。倒れたかもしれない。


 私は立ち止まった。

 心の中で絵が、いっぺんにいくつも動いた。

 シグの見張りが倒された。

 向こうは、たぶん、複数。三人とは限らない。

 シグは王宮で、いない。

 マレナは剣を取った。

 私は術理の行使を、禁じられている。


 ――禁じられている、けれど。

 私は心の中でつぶやいた。

 ――契約違反でも、かまわない。

 私の中で、何かが決まった。

 決まった瞬間、扉が外側から強く叩かれた。


 マレナが剣を抜いた。

 私は画材の鞄をしっかり握り直した。

 画材の中に、絵筆と、木炭と、紙が入っている。

 武器には、ならない。

 ――でも、私の体には、まだ、心象がある。

 ――術理を止めてひと月以上経った、私の体に。


 扉がもう一度、強く叩かれた。

 マレナが扉に向かって構えた。

 私はマレナの後ろに立った。

 立ちながら、心の中で、絵をひとつ組み立て始めた。

 描いたことのない、絵を。

 八年間、描かなかった、種類の絵を。

 これから、描く絵を。

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