第十四章 火と水
扉が、三度目の打撃で、外側から、内側に撓んだ。
扉は、城下町の宿屋の扉らしく、厚い樫材だった。けれど、樫材であっても、人が三人、本気で叩けば、撓む。閂が軋んだ音を立てた。あと一撃か、二撃で、閂は折れる。
マレナの剣が、扉の方を向いていた。
マレナの構えは、傭兵の構えだった。腰を、低く落とす。剣の切っ先は、相手の喉の高さに合わせる。彼女は店の若い頃、こうやって、何人もの相手と殺し合いをしてきたはずだった。
けれど、向こうは複数。
いま、外で、何人いるのか、私には分からなかった。
シグの見張りの男が、二人とも倒されたとすれば、向こうは最低でも三人。
私はマレナの後ろに立っていた。
心の中で、絵を組み立てていた。
* * *
絵を組み立てる、というのは、私にとって、心象を結ぶ、ということだった。
八年間、私は自分の心象に手を抜いてきた。
学院では、最低限の絵にとどめた。試験ではぎりぎりまで抑えた。
唯一、本気を出した試験で、私は外壁にひびを入れた。
そして、その本気が、私をここまで運んできた。
いま、私はもう一度、本気を出そうとしていた。
契約書の第十二条が、頭の中をよぎった。
――契約違反の認知が生じた瞬間、契約書を媒介として、署名者の身に、相応の異変が及ぶ。
書記官の声まで、よみがえった。
「原理は、誰も知らない」
誰も知らないものが、私の中で、これから、何かを起こす。
何が起きるか、私には分からない。
眩暈で済むかもしれない。意識を失うかもしれない。あるいは、もっと悪いことが起きるかもしれない。
でも、いま、私が術理を行使しないと、マレナが死ぬ。
私が死ぬ。
シグの見張りの男が、たぶん、もう死んでいる。
禁術書の事件以来、ひと月。
私は自分が、もう術理を使えない、と信じていた。
契約書が私の中で術理を封じている、と思っていた。
でも、いま、心象は結べる。
結べる、ということは、まだ、術理は私の中にある。
眠っているだけだ。
お母さん。
私は心の中で呼んだ。
色、出します。
いま、出します。
* * *
四度目の打撃で、扉の閂が折れた。
樫材の扉が、外側から強く押された。
マレナの剣が、扉の隙間に向かって構えられた。
扉が開いた。
最初に入ってきた男は、長い剣を両手で構えていた。茶色の上着。市場で、私を観察していた男だった。
男の後ろに、もう二人いた。
灰色の外套の男。それから、もう一人、見覚えのない、黒い髭の男。
三人。
三人か。
私は心の中で頷いた。
絵描きの目で、三人を捉えた。三人の立ち位置、剣の長さ、構えの角度、息の速度、全部、視界の中に置いた。
マレナが最初の男に剣で合わせた。
剣と剣がぶつかる金属音が、店の中に響いた。
マレナの剣の腕は、私が思っていたよりも、ずっと確かだった。最初の男を押し返して、二の太刀を相手の肩に入れた。男が呻いた。
けれど、二人目と三人目が、左右から迫っていた。
マレナは一人を押さえるので精一杯だった。
時間がない。
私は心象を結び始めた。
* * *
心象を結ぶ。
白いキャンバスを、頭の中に置く。
横、店の幅。縦、店の高さ。奥行きは、扉から、カウンターまで。実際の寸法に、ぴったり合わせる。
次に、空気を描く。湿度、温度、空気の流れ。今夜の店の空気。客が帰った後の、すこし酒の匂いが残る空気。
次に、人を置く。
マレナの位置。私の位置。三人の刺客の位置。一人ずつ、頭の中の絵に配置する。
最後に、術理を置く。
水。
私はまず、水の術理を心象した。
水の心象は簡単だった。私の周りに、いま、水はたくさんあった。マレナの厨房の洗い場。私が皿を運んだ後、洗い場にジョッキを並べた。ジョッキの中に、まだ、水が残っている。
水の心象を組む。
けれど、洗い場の水だけでは足りない。
私は心象を広げた。
店の外の運河。
城下町をぐるりと囲んでいる、大きな水の流れ。
運河の水が、私の心象の中に流れ込んできた。
水の流れに、形を与える。
水を、マレナの周りに、薄い殻のように配置する。
マレナと、刺客の剣のあいだに、水の壁を立てる。
厚さ、五センチ。高さ、人の頭ふたつ分。形、円柱。マレナの周囲をぐるりと包む円柱。
水の壁は、マレナを守る。
水の壁は、刺客の剣を止めない。けれど、剣の勢いを殺す。
殻の絵を、紙に描いたら、こうなる。
私の頭の中で、絵ができあがった。
次。
火。
* * *
火の術理は、八年前、私が母の手のひらの上で、初めて出した、あの炎の粒の進化形だった。
学院の試験で、私が外壁にひびを入れた、あの火。
私は火を心象した。
けれど、ここで、私はすこし迷った。
火を刺客の体に直接当てると、刺客はたぶん死ぬ。
人を殺すのは、私の絵描きの仕事じゃ、ない、と私は思った。
殺さない火を組む。
私は心象を調整した。
火を、刺客の足元に配置する。
足元の床に、火を走らせる。
火は刺客の足を軽く焦がす。
焦がして、刺客の動きを止める。
殺さない。
でも、戦闘不能にはする。
絵が二枚できた。
私は心の中で頷いた。
水の絵と、火の絵。
二枚を、同時に、現実になぞる。
そして、その二枚を、ひとつの大きな絵として心象する。
私の頭の中で、二枚の絵がひとつに組み合わさった。
組み合わさった瞬間、頭の中の風景が変わった。
私は自分の心象の、いちばん深い場所に入っていた。
私の心象は、たぶん、ほかの術士と違う。
ほかの術士は、心象を「思い浮かべる」。私は、心象を「住む」。
私の心象は、私の中で、絵というより、世界そのものだ。
学院でも、誰も、私のような心象を結ばない。
――超心象、と、名づけよう。
私だけの、心象の呼び方。
そこに、私は巨大な風景画を見ていた。
* * *
風景画の中には、火山と海がぶつかっていた。
火山は左から、海は右から、互いに向かって押し寄せていた。
火山の溶岩が、海の水面に触れた瞬間、白い湯気が空高く立ち上がった。
海の波が、溶岩の壁にぶつかって、塩の結晶を飛ばした。
湯気と塩の結晶が、空中でぶつかって、虹を作った。
赤と、青と、白と、橙の、原初の風景。
火と水が、互いを否定せずに、互いの存在を強調し合う風景。
私はその風景を、頭の中で保持した。
保持しながら、二枚の絵――マレナを守る水の殻と、刺客の足元の火――を、現実になぞる準備をした。
絵描きの仕事は、見ることから始まる。
そして、最後の一筆を置くのは、絵描きの手だ。
私は口を開いた。
詠唱を組み立てる。
いままでの、私の人生で、いちばん長い詠唱を。
「水の術理、第二式」
私の声は、店の喧騒の中で、ふっと立ち上がった。
「マレナを、水の殻で包む。厚さ、五センチ、高さ、人頭ふたつ分、円柱形、刺客の剣の勢いを殺し、彼女の体には、触れさせない」
「同時、火の術理、第三式」
続けて声を出した。
「刺客三人の足元に、火を走らせる。皮膚を焦がすに留める。殺さない。動きを止める」
「両式、同時、発動」
私の声が、最後の音節で、すこし震えた。
けれど、震えは、震えのまま、声を出した。
「点せ」
* * *
次の瞬間、私は自分の絵の中にいた。
マレナの周りに、水の円柱が立ち上がった。
薄く、青く、ほとんど見えないくらいの透明な殻。けれど、絵描きの目には、はっきり見えた。水の壁が、マレナを優しく囲んだ。
同じ瞬間、刺客三人の足元の床に、火が走った。
火は、床板を線で焦がしながら、刺客の足の周りを輪のように囲んだ。
刺客たちが悲鳴を上げた。
踊るように、後ろに跳ねた。剣を構えていた腕が、火を払うために降りた。
マレナが最初の刺客に剣を振った。
水の殻の中から振った。
水の殻はマレナの剣の動きを邪魔しなかった。マレナの体の周りだけ、薄く流れた。
最初の刺客は、火に焦がされた足を慌てて引きながら、マレナの剣を受けた。
受けきれなかった。
剣が刺客の腕を深く切った。
刺客が剣を落とした。
二人目と三人目は、火の輪から脱出するのに必死だった。
焦がされた足で後ずさりしながら、扉の方に向かおうとしていた。
逃げる気か。
私は絵描きの目で、彼らの動きを捉えた。
逃がしてはならない。
逃がしたら、また来る。
私はもう一段、心象を組んだ。
「風の術理、第一式」
私の声がもう一度立ち上がった。
「店の中の空気を、扉の方向に押す。刺客三人の退路を塞ぐ」
「点せ」
次の瞬間、店の中の空気が、扉の方向に流れた。
薄い、けれど、強い、風の壁。
刺客三人は、扉の前で、空気の壁に押し戻された。
彼らの体が、後ろにたたらを踏んだ。
体勢が、完全に崩れた。
マレナがその隙を見逃さなかった。
彼女は二人目に、剣の柄で頭を強く打った。
二人目が崩れ落ちた。
三人目は剣を捨てて、両手を上げた。
「降参! 降参だ!」
三人目の声が、店の天井に響いた。
最初の刺客は、すでに腕の傷で動けなかった。
二人目は気絶していた。
三人目は降参していた。
戦闘は終わった。
たぶん、十秒くらいの出来事だった。
* * *
私は心象をゆっくり解いた。
水の殻が、マレナの周りでふっとほどけた。水は店の床に、ぼとぼとと落ちた。
火の輪が、刺客の足元で消えた。床板に焦げ目が、輪の形で残った。
風の壁が、扉の方向で消えた。空気が、再び、店の中で循環した。
店の中が急に、しんと静かになった。
マレナが剣を降ろした。
私を振り返った。
マレナの目は、いつもの傭兵時代の鋭さで私を見ていた。
見て、それから、ゆっくりと目を細めた。
「お嬢様」
マレナの声が、いつもより低かった。
「あんた、魔女、だね」
「……うん」
私は頷いた。
「マレナ、ごめん。黙ってた」
「謝るな」
マレナは剣を鞘に戻した。
「あたしの店を、守ってくれた。それで十分だ」
「マレナ」
「ん」
「契約違反だから、私、これから、たぶん、何か起きる」
「何か、というのは」
「分からない。眩暈で済むかもしれないし、もっと悪いことかもしれない」
マレナは頷いた。
「お嬢様、椅子に座んな」
私は座った。
座った瞬間、頭の奥でぐらりと、何かが揺れた。
* * *
眩暈、だった。
強い眩暈。
視界がすこし白くなった。
耳の奥で、低い音が響いていた。
それから、口の中に鉄の味がした。
私は口元を、手の甲で拭った。
手の甲に、わずかに赤いものがついた。
血。
私は自分の血を見た。
量は多くない。鼻血の半分くらいの量。
でも、口の中から出た。
契約違反の代償。
私は心の中でつぶやいた。
眩暈と、鼻血と口の中の、わずかな出血。
これくらいで済むなら、ま、安いものだ、と思った。
私は笑いそうになった。
笑える状況じゃ、ないけれど、ちょっと笑った。
――お母さん、色、出しましたよ。
――出して、こうなりましたよ。
――でも、生きてます。
マレナが、私に水を持ってきた。
「お嬢様、飲みな」
「ありがとう」
私は水を飲んだ。
水の冷たさが、口の中の鉄の味を、すこし薄めた。
* * *
そのとき、店の扉の方から、誰かが走り込んできた。
シグだった。
シグは剣を抜いていた。
走り込んできて、店の中の状況をぱっと見た。
倒れている刺客、降参している刺客、マレナの剣、それから、椅子に座っている、私。
シグの目が、私で止まった。
止まって、口元の血を見た。
「カレン」
シグの声が、いままで聞いた中で、いちばん太かった。
「俺の見張りが、二人とも倒されていた」
「うん」
「俺は王宮から急いで戻ってきた」
「うん」
「間に合わなかった」
「うん」
「君、無事か」
「無事」
シグは私の前に来た。
私の前で、片膝をついた。
私の口元を、自分の指で軽く拭った。
シグの指は温かかった。
拭った血を、シグは自分の指で確認するように見ていた。
「カレン」
「ん」
「これは何だ」
「契約違反の、反動」
「契約違反、というのは」
「術理を、使った」
シグはしばらく私を見ていた。
見て、それから、刺客たちを見た。
倒れている刺客、降参している刺客、床に残っている、火の輪の焦げ目、それから、まだ濡れている床。
シグは絵描きじゃなかった。けれど、彼の目は、武人の目で、ぜんぶ見ていた。
「君が、やったのか」
「うん」
「水と、火と、風」
「うん」
「同時、発動」
「うん」
シグは立ち上がった。
刺客の方を振り返った。
マレナとシグが、目を合わせた。
マレナがシグに頷いた。
シグも頷き返した。
二人のあいだで、何かがすでに共有されたようだった。
* * *
シグは降参した刺客の前に立った。
「お前たち、誰の指示で来た」
刺客は震えながら答えた。
「言えない」
「言わないと、ここで、お前を殺す」
シグの声は無愛想なまま、本気だった。
刺客はしばらく迷った。
迷って、それから、ぼそぼそと答えた。
「……ファルケン、という男が、雇った」
「ファルケン」
「身元は知らない。けれど、王宮の関係者、だと聞いた」
シグの目がすこし細くなった。
「ファルケンが、お前たちに何を頼んだ」
「カレン・グレイファンを消せ、と」
「依頼の元の依頼主は」
「知らない。ファルケンが知っているはずだ」
シグは頷いた。
頷いて、自分の腰の、もう一つの袋から麻縄を取り出した。
「縛れ」
シグがマレナに麻縄を渡した。
マレナは頷いて、降参した刺客と気絶した刺客を、麻縄で縛り始めた。
最初の刺客は、腕の傷で動けなかった。マレナが彼にも麻縄を回した。
シグは私の方に戻ってきた。
私の前に、もう一度、片膝をついた。
「カレン」
「ん」
「君を、護衛するのが、間に合わなかった。すまない」
「シグの責任じゃ、ないよ」
「俺の責任だ」
シグの声は譲らない温度だった。
「君は、俺にもとの名前を言わせる、と言った。俺も、近いうちに必ず言う、と言った」
「うん」
「いま、言う」
私はゆっくり顔を上げた。
シグの目が、私をまっすぐ見ていた。
瞳の中の橙色は、いつもより、すこし濃かった。
シグが自分の口で、自分の名前を言った。
「俺は、シグルド・アルデインだ」
* * *
私はしばらくシグの顔を見ていた。
シグルド・アルデイン。
王弟。シグルド殿下。マグナス陛下の弟。騎士団長。
アルデイン家、本流。
絵描きの勘は、わりと当たる。
私は心の中でつぶやいた。
私の中の答えと、シグの口から出た答えが、ぴったり合った。
「シグルド様」
私は初めて、その名前を呼んだ。
「いまは、シグで、いい」
「ん」
「ありがとう、シグ」
「いや」
シグは私の手を軽く握った。
シグの手は、剣を握ってきた手の固さだった。けれど、私の手を握る、その握り方は、不器用なほど優しかった。
――あんた、お母さんが、亡くなってるって、言ったよね。
私は心の中でつぶやいた。
――優しい握り方を、誰に、習ったの。
シグは答えなかった。
答えなくても、私には、なんとなくわかる気がした。
貴族街の母と子のあいだで、習った種類の握り方じゃ、ない。
たぶん、シグがいま、私のために、自分で考えて選んだ握り方だった。




