第十五章 共闘宣言
翌朝、目が覚めたとき、空はすこし白んでいた。
私は金鹿亭の二階の自分の部屋で、ベッドに横になっていた。シグが私を二階まで運んで、寝かせてくれた、らしい。らしい、というのは、私が覚えていないからだ。
昨夜、術理を行使したあとの眩暈と、口の中の血の味で、私はたぶん、椅子に座ったまま、意識を半分くらい落としていた。マレナがシグに、私を二階に運ぶことを勧めたらしい。シグが私を抱え上げた。階段を上らせた。私の部屋のベッドに横たえた。それから、毛布を私の体にかけた。
私が覚えているのは、毛布の温度だけだった。
毛布は、いつもより温かかった。
寝る前にシグが、自分の体温で毛布を温めてくれたのかもしれなかった。
私はベッドの中で、しばらく天井を見ていた。
梁の影が、薄い灰色で、横に走っていた。
術理、使ったな、私。
昨日の夜の出来事を、頭の中でもう一度、絵に起こした。
マレナの剣。三人の刺客。水の殻。火の輪。風の壁。火山と海がぶつかる、原初の風景画。それから、シグルド・アルデインの、自分の口で言った名前。
全部、覚えていた。
絵描きの目は、どんなときも、覚える癖が抜けない。
* * *
部屋の扉が、軽く叩かれた。
「お嬢様、起きてるかい」
マレナの声だった。
「起きてます」
「シグが、下で、待ってる」
朝から。
私はベッドからゆっくり起き上がった。
起き上がった瞬間、まだ、頭の奥に薄い眩暈が残っていた。けれど、昨夜よりずっと軽い。
「いま、降りる」
私は答えた。
服を着替えた。顔を洗いに、水場へ降りた。鏡の前で、口元を確認した。鼻血の跡は、もうなかった。口の中の鉄の味も消えていた。
案外、平気だな。
私は自分の顔を、絵描きの目で観察した。
肌の色も悪くない。目の下に薄い隈はある。けれど、青ざめているというほどでもない。
契約違反の反動、というのは、私の体には思っていたよりも、軽い形で残ったらしい。
いや、もっと悪い反動が、後から来るかもしれない。
私は心の中ですこし警戒した。
けれど、この瞬間は生きていた。
生きている瞬間に、生きているなりの仕事をする。
それが絵描きの仕事だ。
* * *
階段を下りると、店の中はすでに片付けが終わっていた。
昨夜の戦闘の痕跡は、ほとんど消えていた。
床の焦げ目だけが、輪のように残っていた。マレナはたぶん、それをわざと消さなかった。
「思い出として、残しておくよ」と、彼女は言いそうだった。
シグはテーブルのひとつに座っていた。
平民の格好では、なかった。
騎士団の、深い青の制服。胸に銀の徽章。腰に長剣。徽章には、王家の紋章の、本流の意匠。隠していない、本来の、シグルド・アルデイン殿下の姿だった。
私は階段の途中で、すこし立ち止まった。
うん、別人だ。
絵描きの目で見ても、別人。
けれど、目の中の橙色は、昨日の夕方、私が描いた絵の中の橙色と、ぴったり同じだった。
シグはシグだった。
衣装を変えただけだった。
「シグルド様」
私は階段の最後の段で言った。
「カレン」
シグは私の名前を呼んだ。
呼びながら、すこし立ち上がった。
「いまは、シグでいい、と昨夜言った。けれど、いまから、俺はシグルドだ」
「公の場、ということ?」
「これから、公の仕事をする。君と一緒に」
私はテーブルに近づいた。
シグは私の対面に座り直した。
マレナがカウンターから、お茶を二つ運んできた。
「お嬢様、シグルド様。話、聞かせてもらうよ」
マレナは自分も、近くの椅子に座った。
シグは頷いた。
「マレナには、ぜんぶ聞いてもらう。あんたは昨夜、剣を振った。共犯者ではなく、共闘者として聞いてくれ」
「あいよ」
マレナは目を細めて笑った。
* * *
シグはお茶をひと口飲んだ。
それから、口を開いた。
「昨夜、君が降参させた刺客のうちの一人――ファルケンの名前を口にした男――を、俺の手の者が、王宮の地下牢に移送した。残りの二人も、別の場所に収容してある」
「……はやっ」
私は思わず声を出した。
「夜のうちに、動いたの」
「ああ」
「私が、寝てるあいだに」
「君を寝かせてから、すぐ動いた」
シグの仕事の早さは、騎士団長として当然のことだったらしい。
「ファルケン、というのは、王立裁判所代理職、ドルグ・アルデインの私的な側近だ」
シグは続けた。
「俺の手の者がすでに確認した。ドルグの執務室に頻繁に出入りしている男だ」
「ドルグ・アルデイン」
私はその名前を繰り返した。
繰り返した瞬間、頭の中で絵がいっぺんに、何枚も動いた。
王立裁判所の、あの石の部屋で、初めて出会った男。芝居がかった「賢明だ」。王宮大広間での糾問。私を罪人にした、計算された論法。
ぜんぶ、繋がった。
「シグ、いや、シグルド様」
「シグでいい。マレナの店の中だ」
「シグ。ファルケンが、ドルグの側近、ということは、刺客はドルグが送ってきた、ということだよね」
「ほぼ確実だ」
「ほぼ、というのは」
「ファルケンの口から、ドルグの名前を引き出す必要がある。それまでは状況証拠だ」
私は頷いた。
「シグ、ファルケンを尋問できる?」
「できる。ただし、王立裁判所の管轄を超える必要がある」
「超える、というのは」
「ドルグの代理職権を外す。マグナス陛下の、直接の許可で調査を進める」
「マグナス陛下、つまり、シグの兄」
「ああ」
* * *
シグはお茶をもう一口飲んだ。
「カレン」
「ん」
「君に確認したい。君はこれから、どうしたい」
どうしたい。
私はすこし考えた。
昨夜、私は術理を使った。契約違反だけれど、反動は眩暈と血の味で済んだ。けれど、王立裁判所の上層部に、それが報告されるかどうかは、別の問題だ。
いま、私の選択肢は、たぶん二つあった。
選択肢一、城下町に隠れて暮らし続ける。
刺客は撃退した。けれど、ドルグはまだ、王立裁判所代理職にいる。彼はもう一度、刺客を送ってくる。あるいは、もっと巧妙な手で、私を消そうとする。私は隠れ続ける。逃げ続ける。シグの護衛のもとで。
選択肢二、攻める。
ドルグの罪を暴く。王書庫の事件を、自分で調査する。証拠を集める。マグナス陛下の前で、ドルグを断罪する。私の冤罪を晴らす。
選択肢二の方が難しい。けれど、選択肢二の方が、私の絵描きとしての性に合っていた。
私はお茶をひと口飲んだ。
それから、シグの目を見た。
「シグ、私、攻めたい」
「攻める、というのは」
「ドルグを追放したい」
シグはすこし目を細めた。
「私を追放した、王立裁判所の代理職を追放する」
「うん」
「家名も剥奪したい」
「家名」
「ドルグ・アルデイン、傍系のドルグ家。家名を剥奪する。本流アルデインは無傷でいい。私はシグの兄や、シグの家門を巻き込む気はない。ただ、ドルグ・アルデインという男一人と、彼の家門だけ、消したい」
「……」
シグはしばらく私を見ていた。
見て、それから、ひとつ頷いた。
「わかった」
* * *
シグの即答に、私はすこし面食らった。
「シグ、本当にいいの?」
「いい」
「ドルグは、シグの遠縁だよ」
「アルデイン家の本流から見れば、ドルグ家は傍系の傍系だ。本流に傷はつかない。むしろ、ドルグ家を切り捨てることで、本流の名は清められる」
「そういうもの?」
「そういうものだ。それに――」
シグはすこし口を止めた。
止めて、それから、続けた。
「あいつは、俺の家門を汚した。君を罪人にして、俺の手の届かない場所に追放した。さらに、俺が君に近づいたら、君を消そうとした。これは俺個人の問題でもある」
シグの目の中に、橙色のほかに、もうひとつ色が混ざっていた。
深い青。怒りの色。
絵描きの目で見ても、はっきりと青かった。
「シグ」
「ん」
「あんた、怒ってるね」
「ああ」
「珍しい色だ」
「君を傷つけられた。怒っていない、わけがない」
シグの声は無愛想なまま、まっすぐだった。
私はすこし笑った。
絵描きとして、新しい色を見つけた瞬間が、こういうとき、嬉しい。
でも、笑ってる場合じゃないか。
私は笑いを引っ込めた。
引っ込めながら、その色も、ちゃんと額縁に入れた。
* * *
「シグ、握手しよう」
私はテーブルの上に手を出した。
「握手」
「うん。共闘の約束。あんたがドルグを追放して、家名を剥奪する。私が絵描きとして、証拠を集める。二人で組む」
シグはしばらく私の手を見ていた。
見て、それから、自分の手を伸ばした。
シグの手は、剣を握る手の固さだった。けれど、私の手を握る、その握り方は、不器用なほど優しかった。
昨夜の、私を抱えた腕の優しさと、同じ優しさだった。
私はシグの手を握り返した。
「これで、共闘成立」
「成立」
シグは頷いた。
マレナがカウンターの中から、私たちを見ていた。
マレナの目尻に、商売人と傭兵の両方の皺が、刻まれていた。
「お嬢様、シグルド様」
マレナが声を出した。
「あたしも入れてくれるかい」
「マレナ」
「あたしの城は、攻め込まれた。攻め込んだ奴の元締めを、追い出すまで、あたしは剣をしまわない」
マレナの剣は、すでに鞘の中に戻っていた。けれど、彼女の覚悟は、剣の柄にしっかり掛かっていた。
「マレナ、入って」
私は頷いた。
「お願いします」
「あいよ」
マレナはにやりと笑った。
三人の共闘が成立した。
* * *
シグは立ち上がった。
「俺は王宮に戻る。マグナス陛下に、昨夜の件を報告する。ファルケンの尋問の許可を取る」
「うん」
「カレン、君にはしばらく、城下町で待っていてほしい。俺の手の者を、店の前に増員する。今度は見張りを二人ではなく、五人置く。その上で、店の中にも、もう一人護衛を置く」
「過剰、じゃない?」
「過剰でいい」
シグの声は譲らなかった。
「君をもう一度、危ない目に合わせるくらいなら、過剰の方がましだ」
溺愛、というやつ。
私は心の中でつぶやいた。
マレナが、私のところで教えてくれた言葉だ。「お嬢様、男に惚れられたねぇ」と。
私はすこし笑った。
シグは私の笑いを見て、すこし面食らった顔をした。
「カレン、何がおかしい」
「いや、なんでもない。ありがとう、シグ」
「俺はシグルドだ、いまから」
「シグ、でいい。私の前では」
「……ああ」
シグは頷いた。
頷きながら、すこし、頬の筋肉をゆるめた。
絵描きの目には、それは、笑った、ということだった。
* * *
シグが店を出ていった。
店の中に、私とマレナが残った。
マレナはカウンターから出てきて、私の隣の椅子に座った。
「お嬢様」
「マレナ」
「あんたの男、いい男だね」
「私の男、って、決まったわけじゃ、ないよ」
「決まってる」
マレナは首を横に振った。
「あの目で、あんたを見る男は、もう決まってる」
「……」
私は答えなかった。
答えなくても、マレナの言うことは、たぶん当たっていた。
絵描きの勘は、わりと当たる。
けれど、マレナの勘は、絵描きの勘よりもたぶん、もっと当たる。
「ところでお嬢様」
マレナは急に声の温度を変えた。
「あんた、昨夜、術理を使ったあと、口から血、出したろ」
「うん」
「シグルド様、あれを見てたよ」
「うん」
「すごく、いやな顔してた」
「いやな顔」
「無愛想な顔のまま、目だけ、めちゃくちゃ、いやな顔。あの目を、覚えとくといい。あの目をしてる男は、あんたがちょっと血を流すだけで、世界を敵に回そうとする」
「マレナ、それ、おおげさじゃない」
「おおげさじゃない」
マレナは首を横に振った。
「あたしは傭兵をやっていたんだ。男の目は、たくさん見てきた。あの種類の目は、稀だよ。あんたを本気で守ろうとする男の目だ」
私はシグが、私の口元を、自分の指で軽く拭った瞬間を、思い出した。
シグの指は温かかった。
拭った血を、シグは自分の指で確認するように見ていた。
マレナの言う「いやな顔」は、たぶん、あの瞬間の、シグの目のことだった。
私はその目を、心の中でもう一度、額縁に入れた。
ちゃんと覚えておく。
絵描きの目で、ちゃんと覚えておく。
* * *
「マレナ」
「ん」
「私、けっこう、惚れられてるんだね」
「いまさら、気づいたのかい」
「いまさら、気づいた」
「お嬢様、あんた、絵描きとしてはよく見えるのに、自分のことになると、ちょっとにぶいね」
「うん、たぶん、にぶい」
マレナは笑った。
私も笑った。
笑いながら、私はテーブルの上に、自分の手を置いた。
シグが握ってくれた手だ。
いまも、すこし、シグの手の固さと温かさが、皮膚に残っている気がした。
「マレナ」
「ん」
「私、ドルグを絶対追放する」
「ああ」
「家名も剥奪する」
「ああ」
「そして、シグの隣に堂々と立てるようになる」
マレナはすこし目を細めた。
「お嬢様、それは、もう、自分から、シグルド様の隣に立つ気、満々じゃないか」
「……」
私はすこし口をつぐんだ。
つぐんで、それから、苦笑いをした。
「マレナ、口、滑ったかも」
「滑ったね」
「忘れて」
「忘れない」
マレナはにやりとした。
私は両手で顔をおおった。
おおって、それから、すぐに手を外した。
絵描きが、自分の感情を隠すのは、ダメだ。
絵描きは、感情を絵にぜんぶ出す。
いま、私の中にある感情を隠すのは、絵描きの仕事じゃない。
「マレナ」
「ん」
「滑ったのは、本心」
「だろうね」
「私、シグの隣に立ちたい」
「うん」
「立てるようになる」
「ああ」
マレナは頷いた。
頷きながら、私の頭をぐしゃっと撫でた。
「お嬢様、頑張んな」
「うん」
* * *
その日の午後、シグから伝言が来た。簡素な書面だった。
『陛下より、ファルケンの尋問の許可が下りた。
明朝、王宮地下牢にて、私の立会いのもとで実施する。君の同席は許可されない。結果は当日中に伝える。
降参した男は、すでにファルケンの存在を認めた。残る二人のうち、一人はまだ口を割らず、もう一人は意識を取り戻していない。
シグルド』
私は伝言を読みながら、自分の机の上で絵を描き始めた。
描いたのは、ドルグ・アルデインの絵だった。
王立裁判所の、あの石の部屋で、初めて出会った日の、ドルグ。芝居がかった「賢明だ」。
描きながら、私は彼の周りに、もう一枚絵を配置した。
禁術書の事件の現場の絵。
私は現場を見たことがない。
けれど、絵描きの目は構図を見抜く。
地下三層、樫材の本棚、ランプの光、一冊の禁術書、その上で詠唱する、ドルグの姿。
ぜんぶ、描いてやる。
私は心の中で言った。
絵で、ぜんぶ、描いてやる。
あの男の口に、ぜんぶ、突っ込んでやる。
絵描きの仕事は、見ることから始まる。
そして、最後の一筆を置くのは、絵描きの手だ。
私は絵筆を握った。
絵筆はまだ、私の手の中で、ぴったりと、形に合っていた。
昨夜の術理を使ったあとも、私の手は、絵描きの手のままだった。
――お母さん。
私は心の中で呼んだ。
――色、出します。
――いまから、ぜんぶ、出します。
返事はなかった。
けれど、私の中の母が、すこし笑った気がした。
いつもの、怒っていない笑い方で。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
今日の母は、いつもより、ちょっと、強く笑った気がした。




