第三章 王書庫
王書庫の地下三層は、ドルグ・アルデインを除いて、ほぼ誰も足を踏み入れない場所だった。
石の階段は螺旋に下りていく。下りるごとに空気が冷えて、灯りの油の匂いが濃くなる。地上の王宮では朝の支度が始まっている刻限。回廊では給仕の足音が響き、厨房では銅鍋が打ち鳴らされ、衛兵が交代の挨拶を交わしている。だが、地下三層は別の時刻を生きていた。ここは、夜の終わらない地層だった。
ドルグはランプを手に、最奥の書架に向かって歩いていた。
書架は彼の身長の三倍ほどある。革表紙の書物がびっしりと並んでいた。背表紙には、もはや読めない古い文字が刻まれている。彼のような若い王族が、本来触れることを許されない代物だった。
しかし、王立裁判所長代理の鍵は、ここまで通じる。
たかが代理職と侮る者がいる。だが、その代理職にはこうした「裏の鍵」がついてくる。それを知っているのは王立裁判所の上層部と、ドルグ自身を含めて、ごく数人だった。
ドルグが手に取ったのは、革表紙が黒く色褪せた一冊の書物だった。
書名はない。背表紙にも、表紙にも、何も刻まれていない。ただ、表紙の中央に、小さな銀の印が押されている。それが、この書物の唯一の識別だった。
禁術書。
古い時代に、ある術士が書き残したとされる、術理の極限の試論。
書庫の管理上、閲覧禁止扱い。閲覧の許可を出せるのは、現国王陛下マグナス本人と、王立裁判所長のみ。代理職である自分は、本来、許可を出す権限がない。
だが、鍵は、開く。
鍵が開く以上、それは「開けてはいけない」のではなく、「開けてもいい者がいる」ということだ、と、ドルグは自分に言い聞かせてきた。
彼は書物を石の机に運び、ランプの光の下で開いた。
羊皮紙のページがぱらぱらと、乾いた音を立てた。
目当ての章は巻末近くにあった。
〈八重の閉環〉。
古代の術理研究者が遺した、と伝えられる詠唱の組み立て方。詠唱を八つ重ねて、互いに干渉させ、出力を増幅する方法だという。本来、術士一人が扱える詠唱は、せいぜい二重まで。三重以上は、心象が崩壊して暴発する、というのが現代術理の常識である。
だが、この書物には、八重を扱う方法が書かれているという。
ドルグはすでに何度もここに通っていた。
最初は好奇心。次は研究。三度目からは、「もしも自分にこれが扱えたら」という、ささやかな夢想。そして今朝、彼はとうとうその夢想を実地で試そうとしている。
四重まではいけるはずだ、と彼は踏んでいた。
四重の心象を、自分の体内アニムスで支える。それをここで成功させれば、自分は王立裁判所長代理ではなく、術理研究者として、別の地位を得られる。傍系の血筋という、生まれながらの蓋を、自分の力で押し上げられる。
マグナスは現国王だ。本流のアルデイン家は揺るぎない。
だが、傍系のドルグ家には何の力もない。
昨日、王立裁判所で見たあの娘、カレン・グレイファンのような、何の苦労もなく規格を超えていく才能の前では、自分のような凡庸な傍系王族は、いっそう惨めに見える。
惨めに見える。
ドルグはその言葉を、心の中でもう一度転がした。
惨めに見られる、というほうが正確だろう。
昨日、あの娘は、自分の顔を絵を描く人間の目で見ていた。間違いない。あれはこちらを観察していた。値踏みしていた。あの娘は、自分の中身まで描く目をしている。
気に食わない。
ドルグは書物の上に、両手をついた。
* * *
彼は深く息を吸って、詠唱を組み始めた。
「我が手に宿るアニムスよ、火の術理に従え――」
第一の心象を結ぶ。
炎の球。直径、拳ひとつ分。色は、橙。
「水の術理に従え――」
第二の心象。
水の球。同じ大きさ。色は、青。
「風の術理に従え――」
第三の心象。
風の渦。中央が空洞。色は、無。
ここまでが、彼が普段研究のために組める限度だった。三重。三つの心象を、頭の中で同時に維持する。額に汗が浮いた。彼はそれでも唇を続けて動かした。
「大地の術理に従え――」
第四の心象。
大地の塊。重く、暗い。色は、褐色。
四重。
四重の心象が、彼の頭の中でぐらりと揺れた。
維持しろ、と彼は自分に命じた。
維持する。維持する。維持する。
額の汗が頬を伝って、書物の上に落ちた。落ちた一滴が、羊皮紙の文字をにじませた。
〈八重の閉環〉の、第五式の冒頭。すなわち、禁術。
書物には第五式の起こし方が、図と詠唱で記されていた。彼はそれを目で追いながら声に出した。
「光の術理に従え――」
本来は祈りの力であるとされるそれを、術理で行使する。
光の点。針の先ほどの、白い、鋭い、点。
彼の頭の中で、四つの心象に、五つ目が無理やり押し込まれた。
その瞬間、すべてが崩れた。
最初に崩れたのは、火の心象だった。
炎の球が彼の制御を離れた。
離れた炎は彼の意志に関わらず、書架に向かって走った。
次に水が崩れた。水は炎を打ち消すどころか、炎の周囲で、爆発的に蒸発した。
風が崩れた。蒸発した水蒸気を、風の渦が加速して撒き散らした。
大地が崩れた。書庫の床の石が隆起した。
光が崩れた。崩れた光の点は空気中に拡散して、書庫全体を一瞬、白く染めた。
――逃げろ。
ドルグは考えるより先に、書物を抱え、階段に走った。
背後で、書架が燃えながら倒れた。
倒れた書架が、別の書架を巻き込んだ。火が走った。
* * *
地上に這い出たとき、ドルグの頬には煤がついていた。
白い式服も汚れていた。
彼は王宮の外廊で、しばらく息を整えた。
書物はしっかり抱えていた。これだけは絶対に手放せない。手放したら、自分が首謀者であることが証拠として残る。
幸い、地下三層への入り口は、外見上、変わっていなかった。火はまだ地下にこもっている。地上に上がってくるのは、煙の方が早い。
彼は衛兵に気づかれない位置で、煤を払った。それから平静を装って、自分の執務室に向かった。
歩きながら、頭の中で計算を始める。
書架が燃えた。書庫の地下三層は、いずれ崩落する。煙は地上に漏れる。誰かが気づく。火元の調査が始まる。
火元の調査が始まれば、地下三層の出入り記録が照会される。代理職の鍵で開けられた記録は、王立裁判所の管理印で残っている。
どうする。
ドルグは執務室に着くと、ドアを閉め、机に書物を置いた。机の上で書物はまだ、わずかに熱を持っていた。
どうする。
彼は机の引き出しから便箋を取り出した。それから、もう一度、引き出しを閉めた。便箋は無関係だ。いま必要なのは便箋ではない。
いま必要なのは、人間だ。
彼は執務室の呼び鈴を、二度、鳴らした。
しばらくして、一人の男が、扉の外に控えた。
「お呼びですか」
声は低い。年は四十がらみ。ドルグの直属の側近の一人、ファルケン。元諜報官で、いまはドルグの私的な仕事を引き受けている男だった。
ドルグは扉を内側から開け、ファルケンを招き入れた。扉を閉めた。鍵をかけた。
「ファルケン」
ドルグの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「王書庫の地下三層が、まもなく、燃え崩れる」
ファルケンの眉がほんのわずか動いた。それだけだった。彼は何も問い返さなかった。
「火元は、地下三層の最奥書架。原因は、術理の暴発」
ドルグは机の上の書物を、軽く指で叩いた。
「私が、やった」
ファルケンは相変わらず何も言わなかった。
「私が、やった、と知られるわけにはいかない」
「承知しました」
ファルケンはそれだけ答えた。彼の顔には驚きも咎めも、何もなかった。「承知しました」だけだった。
ああ、この男は、本当に、便利な男だ。
ドルグは心の底で安堵した。
「魔術痕跡の偽造を、頼みたい」
ドルグは書物を、机の引き出しの最奥にしまいながら言った。
「現場には、私の心象が、残っている。火、水、風、大地、四種の術理の痕跡だ。これを、私の痕跡から、別の人間の痕跡に書き換える」
光の痕跡については、考慮する必要はない。光は祈りの領分であり、空気中に拡散して、術士の鑑識でも捉えられない。これは、書物に手を出す前から、調べてあった。
ファルケンがようやく口を開いた。
「術理の痕跡偽造には、術士の協力が要ります。それも、相当の腕の」
「心当たりはあるか」
「……二人ほど」
「金で動く者か」
「ええ。ただ、口は固い者です」
ドルグはうなずいた。
「使え。費用はこちらで持つ。記録はすべて消せ」
「承知しました」
「それから、もう一つ」
ドルグは書架のほうへ歩いて、窓の外の空を見た。空はまだ朝で、青かった。地下の煙はまだ、地上に上がってきていなかった。
「この件の犯人として、立てる人間が要る」
ファルケンは黙っていた。
「規格外の出力を持つ術士。書庫の地下三層に、痕跡を残しても不自然ではない者。動機があれば、なお良い」
「……心当たりは」
ドルグは振り向いた。
ゆっくりと。
ゆっくりと振り向きながら、彼は唇の端をわずかに上げた。
「昨日王立裁判所で、契約を交わしたばかりの魔女がいる」
ファルケンの目がすこしだけ細くなった。
「グレイファン家の、ご令嬢ですか」
「そうだ」
ドルグは机に戻り、椅子に腰を下ろした。
「カレン・グレイファン。十六歳。武門の家の末娘。昨日、術士の規格を逸する出力で、魔女として登録された。動機は、後付けで作ればいい。武門の家の娘が、術理の極限に挑んで暴発した。そういう物語にしてやれば、宮廷の連中は、喜んで信じる」
「彼女の家門の処分は」
「家門は罰せられない。あくまで、本人の暴走、としておく。家門を巻き込むと、グレイファン家の派閥が動く。それは、私にとっても、得にならない」
ファルケンはわずかに頭を下げた。
「賢明な判断です」
賢明、という言葉に、ドルグは一瞬、昨日の自分の声を思い出した。
そうか。賢明だ。
昨日、自分があの娘に皮肉のつもりで投げた言葉。
あの娘は、それを皮肉として受け取らなかった。
受け取ったのか、受け取らなかったのか、表情からは読めなかった。あの娘はこちらを、絵描きの目で見ていた。観察していた。
気に食わない。
もう一度、彼は心の中で、その言葉を転がした。
絵を描く目というのは、つまりこちらの中身を覗き込む目、ということだ。あの娘はたぶん、私の式服の襟元の刺繍まで絵にしていた。私の目の細さ、口の薄さ、剣の角度。それから、私の中身、何かを隠している中身を、たぶん感じていた。
だから、ちょうどいい。
ドルグはもう一度、唇の端を上げた。
絵を描く目を持つ娘なら、こちらの偽造痕跡もいずれは見抜くかもしれない。だから、見抜く前に、そちらの方を罪人にしてしまえばいい。罪人になった娘の言葉は、誰も聞かない。
絵を描く目は、その時にはもう、誰にも届かない目になっている。
「ファルケン」
ドルグは椅子の背にもたれた。
「動け。痕跡の偽造、目撃者の手配、そして、グレイファン家への召喚状の準備。すべて、最速で」
「召喚状は、王立裁判所の名で出すのですか」
「出す。代理職の権限で、出せる。罪状は、無許可の大規模術理行使、ならびに王書庫における禁術閲覧の疑い」
「禁術閲覧、まで含めますか」
「含める」
ドルグは机の引き出しの最奥に向かって、目を細めた。引き出しの中で、まだ、わずかに熱を持っているはずの、あの黒い革表紙の書物に向かって。
「禁術閲覧の罪は、重い。重ければ重いほど、彼女の声は、誰にも届かなくなる」
ファルケンは頭を下げた。
「承知しました」
ファルケンが部屋を出て、扉が閉まった瞬間、ドルグはようやく、椅子の背に深くもたれた。
耐えた。
彼は自分の声で自分に言った。
四重の心象の暴発を、なんとか耐えた。逃げた。書物を抱えて、上がってきた。
ここから先は、火を別の人間に押し付けるだけの仕事だ。
それは術理よりも、ずっと、自分の得意分野だった。
* * *
その日の昼下がり、王宮の中庭に、煙が一筋、立ち上った。
煙は王書庫の方角から、ゆっくりと空に伸びた。
衛兵が走った。給仕が騒いだ。文官が走り回った。
夕刻には、王宮の中の貴族たちは、ひとつの噂を、共有していた。
――王書庫の地下で、爆発があったらしい。
――術理の暴発らしい。
――犯人は、まだ、わかっていないらしい。
その夜、グレイファン家の門前に、王立裁判所の使者が、馬を駆けつけた。
使者の鞄の中には、一通の書状が入っていた。
封蝋の紋章は、王立裁判所のもの。
宛名は、カレン・グレイファン。
書状の中身は、召喚状だった。
その頃、グレイファン家の自室で、カレンはベッドに横になり、契約書の温度がまだ自分の体のどこかに残っているのを感じていた。
窓の外で何か、馬の蹄の音がした。
いつもの夜とは違う、急いだ蹄の音だった。
カレンは目を閉じたまま、心の中で、絵をひとつ、額縁に入れた。
夜の蹄の音、という絵を。
まだ、誰にも、見せていない絵を。
お母さん。
カレンは心の中で、静かに呼んだ。
何かが来る、気がする。
わからないけど、何かが来る、気がする。




