第二章 称号という檻
翌朝、私は学院に行く前に、グレイファン家の朝食の席に座った。
長い樫の食卓。父が上座、二人の兄が両脇、私は末席。母が生きていた頃、母の席だった場所はいまも空いている。誰もそこに座らない。誰も片づけない。八年、そういう状態が続いている。
父は私の顔を見なかった。
兄たちも見なかった。
給仕がパンを置く。スープが置かれる。誰も口をきかない。窓から朝の光が差して、銀のスプーンの腹に、横長の白い線を引いている。
いまから話すぞ。私は心の中で自分に言った。
「お父様」
声は思ったよりまっすぐ出た。
「昨日、学院で、魔女申請の話をいただきました」
父のスプーンが皿の縁でこつりと音を立てた。
兄たちがちらりとこちらを見た。すぐに視線を戻した。
父は咀嚼を続けた。咀嚼を続けながら、視線を窓の方へ向けた。
「そうか」
それだけだった。
「明日、王立裁判所で契約を結びます。学院は卒業まで続けます」
「ああ」
父はそれきり何も言わなかった。
私は自分のスープを淡々と飲んだ。塩味が舌の奥でほどけた。
予想通りだった。予想通りすぎていっそ笑えた。
あの人は息子の話しかしない。私の魔女認定も、息子の縁談ほどの重さはない。たぶん家門の名誉として、あとで誰かに自慢する程度のことだ。「うちの末娘が、魔女になった」と。それを言うときの父の顔も、私は絵にできる。誇らしげで、でもどこか、私の顔は思い浮かべていない顔だ。
ま、いっか。
私はパンを千切って口に運んだ。
席を立つとき、私は母の席をちらりと見た。
誰も座らない椅子。
その椅子の背に、朝の光が薄く乗っていた。
お母さん、行ってきます。
心の中で言った。
誰にも聞こえない声で。
* * *
王立裁判所は王宮の南端にあった。
石造りの古い建物で、屋根は緑青の銅板。正面の柱には天秤と剣の意匠が彫られている。剣のほうが天秤よりもいつも目立つ位置に置かれているのは、この国の裁きの順序をよく表していると思う。剣が先で、秤はあと。
通された部屋は思っていたより小さかった。
窓のない、四角い、石の部屋。中央に樫の机。机の上に、書類と、羽ペンと、銀の小皿。それだけだ。
壁際に立ち会いの者が三人いた。
ひとりは、王立魔術学院の学院長。
ひとりは、王立裁判所の書記官。痩せた、無表情の男。
もうひとりは――
「カレン・グレイファン」
書記官が紙を一枚、机の上で動かした。
「以下、王立裁判所にて、魔女として国家管理契約を締結する」
淡々とした声。
「魔女、とは、術士の規格を逸する出力を持つ者を指す。称号に段階はない。認定された時点で、魔女である。以後、君は『魔女・カレン・グレイファン』として登録される」
そうですか、と私は心の中で答えた。
学院の階段をふたつ飛ばして、てっぺんに着いた感じだ。
誇らしくはなかった。むしろ、足元の段が消えているような、奇妙な浮遊感があった。
「契約内容を読み上げる」
書記官が書類を読み始める。
「第一条。魔女・カレン・グレイファンは、国家の許可なく、術理を行使してはならない。許可は、案件ごとに、王立裁判所が発行する。違反は、国家への背反と見做され、重罪として処断される」
第二条。第三条。第四条。
言葉が淡々と落ちてくる。
学院での一般教育、王命に対する従属、国境外への移動制限、術理研究の報告義務。
第七条で、ようやく、こちらの利益が出てきた。
「魔女として登録された者は、王家による生活保障を受ける。住居、衣食、移動、護衛、必要に応じて支給される」
ふうん。
羊皮紙の手当が出るのか、と私は思った。
「最後に、第十二条」
書記官の声が、ほんのわずか低くなった。
「契約書は、王立裁判所秘術によって認証される。署名された契約書は、署名者と同期する。契約違反の認知が生じた瞬間、契約書を媒介として、署名者の身に、相応の異変が及ぶ」
「……異変」
私はようやく口を開いた。
「具体的に、どんな異変ですか」
書記官は少しだけ間を置いた。
「それは、私には、分からない」
……は?
「秘術は、王立裁判所の口伝で継承されてきたもの。原理は誰も知らない。ただ、効果があることだけは、伝わっている」
誰も知らない。
じゃあ、いま、私の目の前にあるこの羊皮紙は、誰も原理を知らない呪いを、これから私に刻もうとしている、ということか。
なんだそれ。
なんだそれ、を私はもう一度、心の中で言った。
「契約書を、ご覧いただく」
書記官が書類を私のほうに向けた。
羊皮紙は薄い灰色だった。普通の羊皮紙より、ほんの少し重い。光に透かすと、繊維の中に、細かい黒い粒がいくつも見えた。
「魔石を砕いた粉を、漉き込んでいる」
書記官は説明を続けた。
「署名は、羽ペンで、ご自身のアニムスを微量乗せて行う。そうすれば、契約は成立する」
羽ペンは銀の小皿の上に置かれていた。
黒い羽。重そうな軸。
私はそれをしばらく見ていた。
断る選択肢はない。
昨日の学院長の声が頭の中で再生される。
申請は、本人の意思に関わらず、自動で行われる。
でも、署名するかしないかは私が選べる。署名しなければ、私はこの羊皮紙とは同期しない。原理不明の呪いが、私の体に刻まれることはない。
そのかわり私は強制連行される。私の意思に関わらず、別の方法で、私は管理下に置かれる。たぶん、もっと不自由な形で。
……うん。
わかってる。
わかってるよ、お母さん。
全力を出した代償は、自分で払う。
私は羽ペンを取った。
軸の重さが指に伝わった。思ったより、ずっしりしていた。
羊皮紙の署名欄にペン先を置く。
書記官が静かに言った。
「署名と同時に、ご自身のアニムスを、微量、乗せてください。意識的に、ほんの一滴で結構です」
ほんの一滴、ね。
私は心象を結んだ。
燃え立つ炎ではなく、揺らぐ水でもなく、ただ自分の指の先に、薄い光が乗っている絵。それだけ。
ペンを動かし、自身の名を、筆記体で綴った。
書き終えた瞬間、ペン先から、ごく薄い、青い光が、羊皮紙に染みた。
光はすぐに消えた。
羊皮紙はふっと、ほんのわずかに、温かくなった気がした。
「成立しました」
書記官が淡々と宣言した。
「魔女・カレン・グレイファン。本日より、王家の管理下に入る」
私はペンを銀の小皿に戻した。
手のひらが、すこし汗ばんでいた。
お母さん。
私は心の中でもう一度呼んだ。
いまの、絵になった気がするよ。
返事はなかった。
もうひとり、壁際に立っていた人物が、ようやく口を開いた。
「カレン・グレイファン」
低い、抑えた声。
顔を上げると、その人は白い式服を着た、若い男だった。歳は二十代半ばだろうか。背が高く、肩幅が広い。腰には細身の剣を一振り。騎士の佩刀ではない。儀礼用の細剣だ。
「王立裁判所長代理として、貴女の契約成立を、王家の名のもとに承認する」
承認、と彼は言った。
承認しに来たのか、見届けに来たのか、私には判別がつかなかった。
ただ、この人の白い式服は襟元に、王家の紋章が刺繍されていた。傍系。傍流。それでも王家の血筋。
「ドルグ・アルデインだ」
彼は自分の名を、自分から言った。
覚えておいてくれ、と言わんばかりの間合いで。
私は軽く頭を下げた。
「カレン・グレイファンです」
「うむ」
彼はそれきり何も言わなかった。
ただ、私の顔をちらりと見た。
ちらりと、というには長すぎる視線だった。
「……グレイファン家のご令嬢が、魔女に」
ドルグは独り言のように呟いた。けれど、声の量は、私に届くように計算されていた。
「武門の家に、ようやく一人、術理に長けた者が出たか。これは、家門の誉れだろうな」
誉れ、と彼は言った。
言いながら、彼の唇は笑っていなかった。目だけがすこし笑っていた。目の細さ、口の薄さ。表情と感情がばらばらに張り付いている顔。
「卒業後の配属は、まだ決まっていないのだろう?」
「はい」
「私が何か、口添えをすることもできる。王立裁判所は、各方面と繋がりがある」
ご親切に。
私は目を伏せて答えた。
「お申し出はありがたく。ただ、私のことは、規定通りでお願いいたします」
「……規定通り、か」
ドルグはほんのすこしだけ首を傾げた。
「そうか。賢明だ」
賢明、という言葉が皮肉なのか本心なのか、私には判別がつかなかった。
彼はそれきり、もう何も言わなかった。私が部屋を出るまで、視線だけは私の背中についてきていた。
なんだ、この人。
私は絵を一枚、額縁に入れた。
白い式服の、若い男。背の高さ、肩の張り、剣の角度、目の細さ、口の薄さ。全部、覚えた。理由はない。ただ、覚えておいたほうがいい気がした。
絵を描く者の勘、というやつかもしれない。
* * *
その日のうちに、私はグレイファン家に戻った。
馬車を使った。王立裁判所からの帰りは、徒歩で帰ると、注目を集めすぎる。私はもう私だけのものではなくなった。王家の管理下にある、ということは、そういうことだ。
馬車の中で、私は契約書の写しをもう一度開いた。
第十二条。
原理は誰も知らない。ただ、効果があることだけは、伝わっている。
……はあ。
ため息が思わず出た。
馬車の窓の外を、王宮の庭の樹木が、ゆっくりと流れていく。木漏れ日が私の膝の上に、まだら模様を作る。
まだら模様の絵を、私はぼんやりと見ていた。
屋敷に着いた。
父も兄も私を出迎えなかった。給仕が一人、頭を下げただけだ。
「お疲れ様でございました、お嬢様」
「ありがとう」
私は自分の部屋に上がった。
部屋は私が朝出たときのままだった。
ベッドの白いシーツ。机の上の、画材一式。窓辺の小さな鉢植え。壁には、私が描きためた絵が十数枚、留めてある。風景、人物、静物、それから、何枚かの、母の絵。
絵の中の母は、八歳のカレンが見たままの母だった。
歳をとらない母。記憶の中に閉じ込めた母。
私は上着を脱いで椅子の背にかけた。それから、壁の絵の前を一枚ずつゆっくりと歩いた。
いちばん右の絵は、母が芝に膝をついている、あの庭の場面。萌黄の上着。白木蓮の花弁。
その隣は、母が縫い物をしている横顔。光が左から差していて、頬の輪郭がやわらかい。
その隣は、母が私の髪を結んでくれている場面。私の目線から、母の指だけを描いた絵。
その隣は、母の手のひら。手相も、爪の形も、皺の入り方も、全部覚えている。
その隣は、母が笑っている顔。歯を見せない、口の端だけを上げる、あの笑い方。
最後の一枚は、隔離小屋の窓越しの母。曇った硝子。にじむ輪郭。
ぜんぶ、私が描いた。母が死んでから、何年もかけて、少しずつ。
お母さん、また、絵が増えそうだよ。
私は心の中で言った。
今日、新しい絵がいくつ、額縁に入っただろう。書記官の指。羊皮紙の繊維の黒い粒。羽ペンの軸の重み。ドルグ・アルデインの細い目。木漏れ日のまだら模様。それから、母の席の朝日。
絵描きはこうやって生きていくのだろう。
絵が、増えていく。
絵が、私のかわりに、世界を覚えていてくれる。
私は机の引き出しを開けた。
いちばん奥に、小さな桐の箱がある。
箱の蓋を開けると、中に、布に包まれた、小さなかたまりが入っていた。
布を解く。
手のひらに乗るくらいの、淡い青の魔石。
母の魔石だった。
生き物が死ぬと、魔石が残る。動物でも、魔物でも、人間でも。魔石は故人の「最後の輝き」だと言われている。生前に強い心象を結んでいた者ほど、魔石は澄んだ色になる。母の魔石は、淡い青。空の高いところの、薄い水色。
母らしい色だ、と私は思った。
魔石を手のひらの上に、そっとのせる。
すべすべして、ほんのり、温かい。
「お母さん」
私は声に出して言った。
「魔女になっちゃった」
魔石は答えない。
答えるはずはない。これは母の遺品で、母そのものではない。それでも、私は続けた。
「お母さんの言いつけ、守れなくて、ごめんね」
言葉が口からこぼれていく。
「でもね、お母さん。ちょっとだけ、思うんだ」
私は魔石を頬に当てた。
「強い色を、しまっておけって言われて、八年、しまってきたけど。たぶん、しまいきれないよ、これは」
魔石は、温かい。
「色は、出しちゃうと、消せないんだ。私、知ってる。絵を描いてるから、知ってる。一度のせた絵の具は、削っても、跡が残る。私の色は、たぶん、お母さんが思ってたより、ずっと、濃いんだと思う」
言いながら、私は自分の声が、ふしぎなくらい落ち着いていることに気がついた。
怖かった。いまになって、怖くなってきた。
魔女として、これからどう生きるのか。
契約書の第十二条が、私の体の中で、いま、どうなっているのか。
原理不明の呪い。誰も知らない秘術。
わからないことは、怖い。
絵を描くときも、そうだ。何を描けばいいか分からないときが、いちばん怖い。
私は魔石を両手で包んだ。
手のひらの中で、淡い青がわずかに光った気がした。たぶん、気のせいだ。光ったのは、夕方の窓からの日差しだった。
でも、私は、光った、と思いたかった。
「お母さん」
もう一度、呼んだ。
「私、ちょっとだけ、ずるく生きるよ」
魔石は、温かい。
「お母さんの言葉、守るところは守る。まわりはよく見る。手は抜けるところでは抜く。でも、抜けないときは抜かない。今日のあれくらい、ぶっ放す」
言って、私は、すこし笑った。
「お母さん、それでいいよね」
返事はない。
返事はないけれど、私の中では、母がすこしだけ笑った気がした。
怒っていない笑い方だった。
ぜんぶ、見ていたよ、というあの笑い方だった。
私は魔石を布に戻した。
桐の箱に戻した。
引き出しを閉めた。
窓の外で、夕日が屋根の向こうに沈み始めていた。
城下町の方向だ。
昨日、橋から見た、煙の濃い色の方向。
私は窓辺に立って、しばらくその方を見ていた。
絵がまた、ひとつ、額縁の中にしまわれた。
明日からは、術士見習いの女子学生に戻る。
学院の制服を着て、教室に座って、講義を受け、実技をやる。心象を結び、詠唱を組み立てる。卒業まで、あと一年。それが終われば、私は正式な魔女として、国家のどこかに配属される。たぶん、戦地の支援か、王宮の警護か、どちらかだろう。
わからない。
わからないけれど、私は一歩ずつ歩く。
絵描きが、絵を一枚ずつ仕上げるみたいに。
ベッドに横になった。
天井の梁の影が、ランプの光でゆっくり揺れていた。
梁の影の絵を、私は見ていた。
見ていて、それから、目を閉じた。
お母さん、おやすみ。
返事はなかった。
返事のない夜は、もう何度も経験している。
でも、今夜は、すこしだけ違っていた。
契約書の温度がまだ、私の体のどこかに、残っている気がした。
原理不明の呪いが、私の中で寝息を立てているような、そんな気がした。
怖かった。
でも、寝た。
寝るしかなかった。
明日も、絵を描かないといけない、から。




