第一章 全力の代償
庭に風が吹いた日のことを、私はいまも一枚の絵として持っている。
絵の中の母は薄い萌黄の上着を羽織って、芝の上に膝をついていた。背中の向こうに白木蓮の樹があって、花弁が三つ、母の肩のあたりを過ぎていく。ひとつは右、ふたつは左。落ちた地面にどんな影が伸びていたかも私は覚えている。日は西に傾きかけていて、影は薄紫だった。
母の手が私の手をすくいあげる。小さな、私の手だ。六つか七つの春のものだったと思う。
「カレン」
母は私の目をのぞき込んだ。リーゼ・グレイファン。優しいと人が言うとき思い浮かべる顔。眉のかたちまで、私はいまも絵にできる。
「あなたの中には、強い色があるの」
母の声は雪解けの川みたいに静かだった。怒っていたわけじゃない。叱るときの音とは違う。お祈りの言葉に近い。
「みんなより、ずっと、はっきりした色」
母は私の指を一本ずつ握り直した。
「強い色は、人をびっくりさせてしまうことがあるの。だからね、まわりのことをよく見てあげて。すこしだけ、手を抜いて」
私はわかったのか、わからなかったのか。ただ母の指が私の手のひらをひらいたとき、そこにのっていた小さな炎の粒をふっと吹き消したことだけ覚えている。炎は私が出したのだ。何も習わずに、ただ母に見せたくて。
「綺麗ね」
母は微笑んだ。
「綺麗なものは、しまっておきなさい。少しずつ、出すといいわ」
その夏が母と過ごした最後の夏だった。
翌年の冬の終わり、流行病が王都を呑んだ。母はボランティアとして救護院に入り、そこで感染した。隔離小屋の窓越しに私は最後の母を見た。
「カレン」
窓の硝子は曇っていた。母の声は硝子の向こうから、遠い水面の音みたいに届いた。
「まわりのことを、よく見てあげてね。あなたの色は、強すぎるから」
うん、と私は言った。
うん、お母さん。
母は微笑んで、それきり何も言わなくなった。
私が八つの春のことだ。
それから八年が過ぎた。
その八年のあいだ、私は母の言いつけを守ってきた。
学校でも家でも、いつもすこしだけ手を抜いてきた。色をしまってきた。
覚えていて、それでも私は母の言いつけを今日、破った。
いや、破らされたというほうが正しい。
ぶーぶー言っても始まらないが、それでもいちおう文句は言わせてほしい。
* * *
「次。カレン・グレイファン」
実技試験場の声が私を回想から引きずり出した。
場所は王立魔術学院の屋外演習場。柵で囲まれた百歩四方の砂地。中央に魔石を埋めた標的が一つ、奥に三つ、最奥にもう一つ。計五つ。
学院といってもここに来たのは一年前。前はアルデイン王立学院に通っていた。十歳から十五歳までの六年制で、王都の貴族の子はだいたいここを通る。私は五年生の進級試験である事故を起こした。それで卒業を待たずに、こちらに編入させられた。
事故と言っていいのかどうか、いまとなってはわからない。ただ手を抜いて出した術が、教師の評価値を一段、超えてしまった。それだけだ。
お母さん、ごめん。心の中で言う。毎回、術を出すたびに言っているからもう癖になった。
演習場の柵の外を別科の生徒が二、三人、ゆっくりと歩いていく。私の順番が来ると彼らは決まって速度を落とす。視線がこちらに集まる。
あの異常な編入生がまた何かをやらかすぞ。
そういう顔だ。
私は視線に気づかないふりをした。気づかないふりをするのも、八年間で得意になった。
私の前に二人いた。
ひとり目は十六歳の男子生徒。
彼は深く息を吸って、長い詠唱を組み立て始めた。
「我が手に宿るアニムスよ、火の術理に従え。炎の粒子をかの一点に集め、熱を放ち、形を成せ――」
声は震えていた。心象を結ぶのに必死なのだろう。詠唱は長く、彼の額には汗が浮いていた。
「――燃ゆる」
ようやく出た発動語に、標的の一つが控えめに燃えた。
ベルナール先生は手元の書板に、機械的に評点を書きつけた。
「次」
ふたり目の女子生徒はもう少し短い詠唱で、それに見合った少し強い火を出した。標的の中央に鋭い光が走った。
「次」
評点が書かれる。書板の音がさくり、さくり、と砂地に落ちる。
学院では術理は「心象を結び、それを詠唱として組み立てる」ことだと教わる。心象が鮮明であるほど詠唱は緻密になる。詠唱が長く緻密であるほど術は強くなる。学生は短い詠唱から始めて、学年を上げるごとに長い詠唱に耐えるよう鍛えられる。卒業時には自分の心象を最大に支える長さの詠唱を、ようやく組めるようになる。
それが普通だ。
私には最初から、その「普通」が要らなかった。
「カレン・グレイファン、開始」
試験官の声。
ベルナール先生だ。五十がらみ、眉の太い男。元魔術師で、今は教師として教鞭を取っている。第一線を退いてもう久しいが、知識としての術理に関しては学院でも一、二を争う。
そして異常値を見抜く目はまだ衰えていない。
私が編入してきた一年前から、先生は私を疑っていた。
故意に手加減している、と踏んでいる。
その通りだ。
私は深く息を吸う。
「火の術理、第三式」
詠唱は短い。
「点せ」
短い指示。
赤い線が空気を裂いて走る。標的に当たる。標的が燃える。
ここまではいい。ここで止めるはずだった。
「全力でやってみせろ、グレイファン」
ベルナール先生の声がした。
書板を持つ手は動かなかった。評点を書く気がない、ということだ。
「言い訳はいい。学院の評価は出力で決まる。忖度は不要だ」
「先生」
私は振り返らずに声だけ返した。
「やめておいたほうがいいです」
「今日のお前の詠唱は、五年生としては短すぎる。それでこの威力。心象に異常がある。確認させろ」
ばれてる。
いや、最初からこの人はわかっていた。
お母さん。
私はすこしだけ口の端を上げた。それは笑いだったのか、あきらめだったのか。あるいは私の中の、母の言いつけの八年分の重みを、ようやく一度だけ降ろしてもいいと自分に許した瞬間だったのかもしれない。
ま、いっか。
そう思ってしまった瞬間が、たしかにあった。
「わかりました」
私はあらためて目をひらく。今度は絵を描く。
脳の中にまず空のキャンバスを置く。横七十歩、縦四十歩、実際の演習場のとおりに。次に空気を描く。今日の湿度、風向き、砂地の照り返し。すべて見たまま置いていく。
それから火を描く。標的五つに、それぞれ違う筆致で。第一の標的には鋭い線、第二には螺旋、第三には叩きつけるような飛沫、第四には押し包む面、第五、最奥のひとつには爆ぜる中心点。
絵が完成する。
私は口をひらく。
「火の術理、第三式と第七式の連結。標的五つ、それぞれ筆致を違えて、断ち、螺旋、飛沫、面、爆ぜ」
詠唱と呼ぶにはぶっきらぼうすぎた。それは絵の設計図の読み上げだった。
「点せ」
次の瞬間、私は自分の絵を見ていた。
第一標的が線で割れる。鋭く、まっすぐ。割れた断面が赤い。
第二標的が螺旋に巻かれて、上に伸び上がる。綺麗な渦。私の絵のとおりに。
第三標的は飛沫で粉になる。
第四標的は押し包まれて、面のまま消える。
最奥の第五標的は――爆ぜた。
爆ぜて、それで終わるはずだった。私の絵では、爆ぜて、終わるはずだった。
それなのに最奥の標的の向こう、演習場の外壁、煉瓦を組み術式の補強を何重にも入れた、学院でいちばん厚い壁。そこにひびが入った。
長い、長いひびだった。壁の上から下まで、一筋。そのひびの奥からぱらぱらと、煉瓦の欠片が落ちた。
しばらく誰も何も言わなかった。
風がふいて、燃えた標的の灰を私のほうに流してきた。私は灰の匂いを吸い込んで息を吐いた。息を吐いた音が演習場のすみずみまで聞こえる気がした。
……あ。
これ、やっちゃったやつだ。
柵の外の別科の生徒たちが、立ち止まったままこちらを見ている。誰も歩かない。誰もしゃべらない。
「……グレイファン」
ベルナール先生の声がようやく戻ってきた。書板を持つ手がほんのすこし震えていた。たぶん本人も気づいていない。
「採点、不能」
「すみません」
私は短く言った。頭は不思議と冷えていた。やってしまった、という感覚と、母の言いつけを破った、という感覚が、二枚の絵として私の中に並んでいた。
怒りでも悲しみでもなかった。ただ絵が二枚増えた。それだけだった。
ついでに心の中で、もう一度言っておいた。
お母さん、ごめん。
* * *
学院長室への廊下は長かった。
石造りの廊下に夕方の日が、四角い窓のかたちで落ちていた。私はその四角をひとつずつ踏んで歩いた。踏むたびに靴の革がきゅっと鳴った。
すれ違う生徒が私を見て目を逸らした。
「またあいつだ」という空気を、八年やってきたから私はよく知っている。アルデイン学院の頃からずっとこうだ。ただこちらの学院では空気の質が違う。アルデイン学院では「あいつ、また派手にやらかした」だった。ここでは「あれは違う種類の生き物だ」になる。
はいはい、と私は心の中で返事をした。
違う種類でけっこうですよ。
学院長室のドアの前で、私は一度立ち止まった。
深呼吸を一度。
そういえば母の最後の言葉が頭に残っていた。
まわりのことを、よく見てあげてね。
まわり、ね。
まわりはいま、私を見て目を逸らしている。
それはよく見ろということなんだろうか。それともそうならないように生きろ、ということだったんだろうか。
考えても答えは出なかった。
私はノックをしてドアを押した。
学院長室の椅子は深く沈むタイプだった。座ると相手の顔をすこし下から見上げることになる。そういう椅子だ、と思った。圧迫面接用の家具。
「カレン・グレイファン」
学院長は銀髪の、痩せた人だった。学院長になる前は宮廷魔術師長だった、とどこかで聞いた。
「まず確認する。今日の出力は君の本気か」
「いいえ」
私は即答した。嘘をつく気はなかった。
「では本気は、もっと出るのか」
「出ます」
学院長はしばらく私を見ていた。それから机の引き出しを開け、革張りの書類を一冊出した。赤い革。金の縁。
私はその革の色を知っていた。学院に編入したとき、何度か廊下で見かけた色だ。魔女認定書類の表紙の色。
え。もう、それ出してくる感じ?
「カレン・グレイファン」
学院長は書類を私のほうに向けた。
「君を魔女として申請する」
私は書類を見た。書類の中身は思っていたよりも事務的だった。氏名、年齢、出身、家門。出力測定の記録。詠唱の傾向。アニムス保有量の推定値。最後のページに申請書、と大きく書かれていた。
「魔女になると、どうなりますか」
私は聞いた。聞いておきたかった。教科書では知っていたけれど、自分のこととして聞くのは別の話だった。
「国家管理下に入る」
学院長は淡々と続けた。
「行使には王立裁判所の発行する許可が要る。違反は重罪。代わりに生活は王家が保障する。称号は卒業時に正式に授与される。今日から卒業まで、君は『魔女』として扱われる」
「卒業まで、あと一年です」
「そうだ」
「学院は、続けてもいいんですか」
「続けてもらう。それが申請の条件だ。卒業時に最終認定の試験がある」
私は書類をもう一度見た。申請、の文字を見た。
お母さん。全力、出しちゃった。
そう心の中で言った。言ってふっと笑った。笑いが漏れた。
学院長がわずかに眉を上げた。
「何か、おかしいか」
「いえ」
私は背筋を伸ばした。
「ただこうなると、母が言っていたので」
学院長はふうん、と言った。それからペンを差し出した。
「申請書類だ。まだ署名はしなくていい。家に持ち帰って、よく考えて、明日答えを聞かせてくれ」
私は書類を受け取った。赤い革の手触りは思ったより冷たかった。
学院長室を出ようとして、ドアの前で私は振り返った。
「先生」
「なんだ」
「断ったら、どうなりますか」
学院長はすこしだけ目を細めた。
「申請は本人の意思に関わらず、出力が一定値を超えれば自動で行われる」
「……つまり、断る選択肢は」
「ない」
あ、そう。
私はうなずいた。
「わかりました」
そう答えてドアを閉めた。
閉めた瞬間に心の中でちいさく舌打ちをした。
選択肢、ないんかい。
* * *
学院を出ると夕日が、王都の屋根の上に低く広がっていた。
石畳の道は貴族街に向かって、ゆるやかな上り坂になっている。私は馬車を呼ばずに徒歩で進みだした。学院長室を出てすぐに、馬車の御者と挨拶を交わす気にはなれなかった。
歩いている方が絵がよく見える。
貴族街の通りには整えられた生垣と、白い石の館が並んでいる。すれ違う馬車の車輪は石畳の上で軽い音を立てる。すれ違う夫人たちは私の制服を見てわずかに会釈する。私はそれを返す。
返しながら私は絵の構図を見ている。
夫人の帽子の影が生垣の白い壁に、薄い扇のかたちで落ちていた。馬車の車輪のスポークが夕日を切って、放射状の影を石畳に投げていた。私の制服のスカートが私の足元に、紺色の波形を作っていた。
魔女、ねえ。
歩きながら私は心の中で言葉を転がした。ふーん。へえ。私が、魔女。
……マジで?
怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ自分の名前のあとに、その言葉がつくのか、と思った。
カレン・グレイファン、魔女。
カレン・グレイファン、魔女。
何度か舌の上で発音してみた。重くもなかったし軽くもなかった。ただ新しい絵の額縁がひとつ、私の中に増えたという感覚だった。
貴族街の最後の通りを抜けると、坂のいちばん高いところに橋があった。石造りの古い橋だ。橋の下を運河が流れている。
橋の上から下流の方を、私は見下ろした。
貴族街の白い石が途切れた先、運河の向こう岸に雑多な屋根の重なりが広がっていた。茶色い瓦、藁の屋根、煉瓦の煙突。煙が何本も上がっていた。夕餉の煙だ。
城下町。
貴族街からは運河ひとつ越えた先。
通ったことはない。学院と家との往復しかしないから。
でも見えていた。ずっと見えていた。
あっちの煙の色は、こっちの煙突より少し濃いな。
そう思って私は目をすこし細めた。煙の色を額縁にしまった。理由はわからない。ただなんとなく、その絵をしまっておきたかった。
貴族街の煙突の煙は、たぶん薪の質がいい。城下町の煙はもっと混じり物がある。湿った木の匂いがここまで届きそうな色をしていた。私はそれを悪くないと思った。
橋を渡らずに、私は背を向けた。
もうしばらく歩くとグレイファン家の門が見えてきた。
武門貴族の館らしい、無骨な石の門柱。両脇に剣を象った紋章。父と二人の兄が、ここで暮らしている。母がここに住んでいた。
お父さん、なんて言うかな。
門の前で私は立ち止まった。
たぶん何も言わない。
あの人は息子の話しかしない。私の話はいつも、聞いていない振りをする。聞いていないふりをして、聞こえてはいる、たぶん。それがいっそうひどい。
私は書類の入った革鞄をしっかり持ち直した。
明日、署名する。
断る選択肢はない。
だったらせめて自分の足で、自分の手でペンを取る。
それくらいの矜持は母からもらってきたつもりだ。
私は門に手をかけた。
手をかけて、ふっと白木蓮のことを思い出した。
学院の庭にも白木蓮が植わっていた。実家の庭にもある。種類が少しだけ違う。学院の方は花弁が尖っている。実家の方はもう少し丸い。
それでも白木蓮は白木蓮だった。
お母さん。
私は心の中で呼んだ。
絵に額縁が、ついたよ。
返事はなかった。返事がないのは当たり前だった。
ただ夕日が館の白い壁に、薄紫の影を落としていた。母の上着の色とよく似た紫だった。
私はすこしだけ口の端を上げた。それは笑いだった。たぶん笑いだった。
そして門を押した。
魔女・カレン・グレイファンの最初の一日は、こうして暮れた。
ま、こうなったらこうなったでしょうがない。
お母さん、明日からはちょっとずるく生きるね。




