第十八章 結末
王宮を出た。
シグルドが私の隣を歩いていた。
大広間を出てから、王宮の正門まで、私たちはほとんど何も話さなかった。
大広間でぜんぶ言葉に出してしまったあとで、もう、いまから、王宮の中で、私たちが付け加えることはなかった。
王宮の正門で、シグルドが立ち止まった。
「カレン」
「シグ」
「俺はいったん王宮に残る。事務処理が終わるまで」
「うん」
「夕方、城下町に行く」
「金鹿亭で待ってる」
「ああ」
シグルドはそれだけ言って、王宮の方に戻っていった。
私は王宮の正門から、城下町に向かって歩き始めた。
歩きながら、心の中で、絵をひとつ額縁に入れた。
王宮の正門で、私の隣にいた、シグルドの背中。
いままで何枚も絵にしてきた背中。
けれど、今日の背中は、どの背中ともちょっと違っていた。
責任の、重さが違っていた。
王弟として、王立裁判所代理職の傍系王族を断罪した、その後の、彼の背中。
――シグ、お疲れさま。
私は心の中でつぶやいた。
* * *
城下町に戻る道は、ひと月前、私が追放されて、馬車で通った、あの道と同じ道だった。
けれど、今日の私は馬車ではなかった。
徒歩で戻った。
貴族街と城下町の境の橋を渡った。
橋の上で、私はしばらく立ち止まった。
橋の下を、運河の水が流れていた。
運河の向こうに、城下町の屋根が見えた。茶色い瓦、藁の屋根、煉瓦の煙突。煙が何本か、ゆっくりと空に上がっていた。
お母さん、戻ってきました。
私は心の中で呼んだ。
城下町に、戻ってきました。
お母さんの絵を、こんど、城下町でぜんぶ描き直します。
返事はなかった。
けれど、私の中の母は、いつもの怒っていない笑い方で笑っていた。
そして、その笑いはもう、私の中にぜんぶ染み込んでいた。
私はドレスの裾を、すこし整えて、橋を渡り切った。
城下町の地面の上に、足を置いた。
城下町の、いつもの匂いが、私の鼻に入ってきた。
焼きたてのパンと、魚と、人間の汗と、家畜の毛と、夜のあいだに排水溝に溜まった泥水の匂い。
ただいま。
私は心の中でつぶやいた。
* * *
大通りを歩き始めた。
最初に、私を見つけたのは、果物屋のヘルダだった。
ヘルダは林檎を並べていた手を、ぴたりと止めた。
「カレンちゃん」
「ヘルダ」
「あんた、ドレス、似合うじゃないか」
「マレナのドレスです」
「マレナのか。さすが、見立てがいいねぇ」
ヘルダは笑った。
けれど、笑いながら、彼女の目尻にすこし涙がにじんでいた。
「カレンちゃん、無事、帰ってきたかい」
「無事、帰りました、ヘルダさん」
「よかった」
ヘルダは林檎をひとつ、私の鞄に入れた。
「おまけ、だよ」
「ありがとう、ヘルダさん」
「いつもの、味だ」
私はすこし笑った。
絵描きの目は、ヘルダの皺の多い手を、もう何枚も絵にしていた。
いまの、林檎を入れる手も、また新しい一枚だった。
* * *
大通りをすこし進むと、子供たちが走ってきた。
「カレン姉ちゃん!」
レオが、いちばん最初に走ってきた。
「カレン姉ちゃん、すげえ! ドレスじゃん!」
「ドレスだよ。マレナの」
「お姫様みたい!」
「お姫様じゃ、ない」
「お姫様だよ! 似合うもん!」
レオの後ろから、ミラとほかの子供たちも走ってきた。
子供たちは私の周りを、ぐるぐると回った。
「カレン姉ちゃん、また絵、教えて!」
「教える」
「明日?」
「明日。ドレス、脱いで、いつもの服に戻ったら、教える」
「やった!」
子供たちは笑った。
私も笑った。
貴族街の、私の知っている子供は、こんな笑い方をしなかった。城下町の子供の笑い方は、声が太い。声がまっすぐ、空に向かう。
絵にしたい笑い方だ。
私は心の中でつぶやいた。
* * *
金鹿亭の前に着いた。
マレナが店の入り口で、私を待っていた。
肩には、まだ包帯が巻かれていた。
「お嬢様」
「マレナ」
「お帰り」
「ただいま」
マレナは私をまっすぐ見た。
見て、それから、ふっと笑った。
「やったね」
「やった」
「ぜんぶ聞いたよ。シグルド様の手の者が、伝えに来てくれた」
「マレナ、肩の傷、痛む?」
「痛むね。けど、いい痛みだ。あたしの店を守った勲章だ」
マレナは自分の肩を、軽く叩いた。
「お嬢様」
「ん」
「店の中に、入ろう。みんな、待ってる」
みんな?
私はすこし首を傾げた。
マレナはにやりとした。
そして、私の背中を、軽く押して、店の中に入れた。
* * *
店の中は明るかった。
昼の、まだ店を開ける前の時間。
けれど、店の中にはすでに、何人もいた。
画材屋の老人。
夜の常連の、傭兵崩れの何人か。
マレナの店の、もう一人の若い女性店員。
そして、ヘルダの隣の、八百屋の主人。革職人の老人。香草屋の婆さん。
城下町の人たちが、たくさん集まっていた。
私が入った瞬間、店の中の、ぜんぶの目が、私の方に向いた。
「カレン姉ちゃん!」
子供たちの声が、外からまた聞こえた。
子供たちが店の中まで入ってきた。
私はすこし、口をぽかんと開けた。
マレナが私の隣で笑った。
「お嬢様、城下町は、あんたの街だ」
「マレナ」
「あんた、無事に帰ってきた。それを、みんな、待ってた」
ありがとう。
私は心の中でつぶやいた。
絵描きの目で、店の中の、ひとりひとりの顔を、ぜんぶ額縁に入れた。
ヘルダの目尻の涙、レオの太い笑い声、画材屋の老人の、片方の口の端だけ上げる、あの笑い方、傭兵崩れの男たちの、剣を握ってきた手で叩く拍手。
全部、私が城下町に来てから、出会った人たちだった。
全部、私が絵にしてきた人たちだった。
「みなさん」
私は口を開いた。
声がすこし上ずった。
けれど、震えはしなかった。
「ただいま、戻りました」
店の中で、低い、笑い声が、波のように広がった。
「お帰り、カレンちゃん!」
「お帰り、姉ちゃん!」
「お帰り、絵描きの嬢ちゃん!」
私は頭を下げた。
貴族街の、お辞儀の角度ではなかった。
城下町の、ありがとう、の角度だった。
私の頭の下げ方は、もう城下町の人間の、頭の下げ方になっていた。
* * *
夕方、シグルドが来た。
騎士団の制服のまま、店の入り口に立った。
店の中の、城下町の人たちは、シグルドを見て、軽く頭を下げた。
シグルドも頭を下げ返した。
「カレン」
「シグ」
シグルドは店の入り口で立ち止まったまま、私を見た。
私は立ち上がって、入り口の方へ行った。
「シグ、入って」
「いや、外でいい」
「外?」
「君に、聞いてほしいことがある」
私はすこし首を傾げた。
マレナがカウンターから、私を見て、にやりとした。
あ。
私はマレナの、にやりを見て、すぐにぴんと来た。
シグが外で、私に聞きたいこと。
たぶん、店の中で、ぜんぶの城下町の人たちが見ている前では、シグの口から出ない言葉。
「マレナ、ちょっと、出てくる」
「いってらっしゃい、お嬢様」
マレナの「いってらっしゃい」は、いつもより、長く伸びていた。
私はシグルドと、店の外に出た。
* * *
シグルドは店の前の街灯の下まで、私を連れていった。
街灯の下は、シグの見張りの男たちが立っていた、あの場所だった。
いまは、誰も立っていなかった。
私たち、二人だけだった。
夕日が、城下町の屋根の向こうに、沈み始めていた。
空は橙色だった。
シグルドの顔が、夕日に染まっていた。
絵にしておきたい夕日だ。
私は心の中でつぶやいた。
シグルドが私を見た。
いつもの、無愛想な顔。
けれど、瞳の中の橙色は、夕日とまったく同じ色をしていた。
「カレン」
「シグ」
「俺は城下町に住むことはできない」
「うん」
「俺は王弟だ。騎士団長だ。俺の仕事は王宮にある」
「うん」
「だから、俺と隣にいたい、と思ってくれるなら、君が王宮に来てほしい」
私はシグルドの目を見ていた。
シグの目はまっすぐだった。
「シグ、私、城下町に戻ったばかりだよ」
「分かっている」
「私の絵描きの仕事は、城下町にある」
「分かっている」
「子供たちにも、絵を教えると約束した」
「分かっている」
「マレナの店も、夜、手伝う」
「分かっている」
シグはすこし笑った。
「だから、急がない。一年、二年、待つ。君が城下町でやりたいことを、ぜんぶやってから、王宮に来てくれたらいい」
「シグ、それは、つまり」
「俺と、結婚してくれ、ということだ」
シグの声は、無愛想なまま、まっすぐだった。
夕日の中で、シグの瞳の橙色が、くっきり見えた。
私はしばらく息を止めていた。
* * *
私はすこし首を傾げた。
「シグ、いまの求愛、すごく、シグらしい求愛だね」
「俺らしい?」
「うん」
「どこが」
「無愛想で、まっすぐで、不器用で、けれど、あんたなりに、私のことをぜんぶ考えてくれてる、ところ」
シグルドはすこし口を止めた。
止めて、それから、答えた。
「俺は求愛が上手じゃない。これが俺にできる、ぜんぶだ」
「うん。知ってる」
私は笑った。
笑いながら、シグルドの顔を見た。
シグルドの顔はいつもの無愛想だった。
けれど、瞳の中で、橙色がいつもよりずっと強く灯っていた。
私の答えを、待っている顔だった。
絵描きとしては、いま、額縁に入れたい顔、なんだけど。
私は心の中でつぶやいた。
いまは絵に入れる前に、答えを出さないと。
「シグ」
「ん」
「私、答え、決めた」
「ああ」
「答え、出す前に、ひとつ、確認したい」
「何だ」
「私、王宮に行ったとき、絵を描いていい?」
「もちろん」
「子供たちにも、絵を教えていい?」
「いい。王宮の中の子供にも教えてくれ」
「マレナの店、夜、手伝いに来ても、いい?」
「いい。俺もついてくる」
シグ、ぜんぶ、即答だ。
私は心の中で笑った。
シグはたぶん、私が何を聞くか、ぜんぶ想定してきた。
そして、ぜんぶ即答できるように、答えを用意してきた。
溺愛の本気度、思ってたよりすごい。
「シグ、答え、出す」
「ああ」
「いいよ。シグと、結婚する」
シグルドはしばらく、何も言わなかった。
何も言わないまま、私を見ていた。
絵描きの目で、シグの顔を観察した。
眉、目、口、頬の筋肉、ぜんぶ、いつもの無愛想だった。
けれど、瞳の中の橙色は、いまや、橙色というよりも、温度の高い、金色に近かった。
「カレン」
シグルドがようやく口を開いた。
「ありがとう」
「ありがとう、は、私の方」
「いや、俺の方だ」
「ふたりとも、ありがとう、で」
「ふたりとも、ありがとう」
私たちはすこし笑った。
ふたりで笑った。
夕日が、城下町の屋根の向こうに、すこし沈んだ。
空が橙色から、すこし紫に変わり始めていた。
* * *
シグルドは私の手を握った。
いつもの、剣を握る手の固さ。
けれど、握り方は、不器用なほど優しかった。
「カレン」
「ん」
「正式な発表は、しばらく先にする。君が城下町でやりたいことを、ぜんぶやってから」
「うん」
「けれど、いまから、俺は君のフィアンセだ」
「フィアンセ」
私はその言葉を、心の中で転がした。
貴族街の言葉。けれど、いまはシグの口から出た言葉。
私のフィアンセ。
「シグ、私のフィアンセ、無愛想なんだね」
「悪いか」
「悪くない。むしろ、いい」
「そうか」
シグルドはすこし口の端を上げた。
私の絵描きの目が、その口の端の角度を、また額縁に入れた。
何枚目になるか、もう分からなかった。
何枚目だろうと、入れる。
絵描きの目は、ぜんぶ覚える癖が、抜けないから。
* * *
店の中に戻った。
マレナが私を見た。
見て、それから、シグルドを見た。
シグルドの隣の、私の手の握り方を見た。
マレナは頷いた。
頷いて、店の中の、ぜんぶの城下町の人たちに、声をかけた。
「みんな、エールだ! 今夜は、奢りだ!」
「マレナの奢り?!」
「珍しいね、おかみが奢るなんて!」
「祝いごとだよ。お嬢様の、無事な帰還の祝い」
マレナは私とシグルドを見ながら、にやりと笑った。
マレナ、もう、ぜんぶ、わかってる。
私は心の中でつぶやいた。
マレナの目は、わりと当たる。
店の中で、エールの杯が鳴った。
「カレン姉ちゃんに!」
「お帰り、絵描きの嬢ちゃん!」
「マレナのおかみに!」
「シグルド殿下にも、いっぱい!」
シグルドはエールの杯を受け取った。
騎士団長として、城下町の人たちと、エールをぶつけた。
絵描きの目には、その光景は、いままで描いてきた、どの絵よりもいい構図だった。
* * *
夜遅く、店じまいのあと、私は二階の部屋に上がった。
シグルドは王宮に戻った。
「明日も、来る」と言って。
私は机の前に座った。
机の上に、紙を一枚置いた。
絵筆を握った。
描き始めたのは、新しい絵だった。
絵の中央に、城下町の大通り。
大通りの両脇に、街灯。
街灯の下に、二人。
片方は、無愛想な、騎士団の制服の男。
もう片方は、紺色のドレスの、絵描きの女。
二人の手が、握られていた。
手の握り方は、不器用なほど優しかった。
空は、夕日の橙色から、紫に変わる時間だった。
空の高いところに、ひとつだけ、星がすこし、早めに瞬いていた。
星の色は、淡い青。
空の高いところの、薄い水色。
私が母の魔石で見ていた、あの色と同じ色だった。
――お母さん。
私は心の中で呼んだ。
――絵を、描き始めました。
――二人の街の、絵を。
――お母さんの色も、ぜんぶ、入れて、描きます。
返事はなかった。
けれど、私の中の母は、いつもの怒っていない笑い方で笑っていた。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
そして、その笑いはもう、私の中にずっといた。
いつも、いた。
これからも、いる。
私は絵筆を握り直した。
最初の一線を、紙の上に置いた。
絵描きの仕事は、見ることから始まる。
そして、最後の一筆を置くのは、絵描きの手だ。
最後の一筆を置くまで、私はずっと絵を描き続ける。
紙の上で、二人の街がすこしずつ、形になっていった。
私は笑った。
絵描きの、笑い方で。
そして、心の中で、もう一度つぶやいた。
――色、出します。
――これからも、ずっと。
――お母さん、見ててね。




