終章 エピローグ
あれから、半年が経った。
城下町は、季節をふたつ超えていた。私が追放されて、辿り着いた頃の晩夏は終わって、秋を越え、冬を越え、そして、もうじき、春を迎えようとしていた。
半年のあいだに、私の絵は、城下町の中で、知る人ぞ知る、というところから、知らない人がいない、という場所まで来ていた。子供たちに絵を教える時間は増えた。レオは犬の絵を、初めて描いた日から、毎週、新しい絵を私に見せに来た。ミラは花の絵が得意になった。
城下町の大人たちも、私の絵を求めるようになった。家族の肖像、店の看板、結婚式の記念画。私は依頼された絵を、ぜんぶ描いた。一枚一枚、丁寧に、絵描きの手で置いた。
シグルドは約束通り、毎日、城下町に来た。騎士団長の仕事の合間を縫って、夕方、私の絵を覗き込みに来た。覗き込んでも、もう、銅貨は払わなかった。代わりに、ときどき、画材屋で、新しい絵筆を、私のために買ってくるようになった。
「お代、わりに、絵筆」
初めて絵筆をもらった日に、私はシグに笑った。
「銅貨より、嬉しい」
「そうか」
「うん」
シグは無愛想なまま、すこし口の端を上げた。
* * *
半年で、季節以外にも、変わったことがいくつかあった。
いちばん大きい変化は、たぶん、父からの手紙だった。
名誉が回復された数日後、グレイファン家から、私の元に、一通の手紙が届いた。差出人は父。
私は手紙を、しばらく開けないで、机の上に置いておいた。
開けたのは、それから、ひと月くらい経った頃だった。
『カレン。
本日まで、何も言葉をかけずに、すまなかった。
あの大広間で、お前の視線に応えなかったこと、いまも悔いている。
名誉回復の知らせを受け取った。
お前が城下町を選んだことも聞いた。
お前の選択を尊重する。
もし、いつか機会があれば、お前の絵を見せてほしい。
父より。』
私は手紙を、二度読み返した。
父の文字は、私の知っている、父の文字だった。けれど、いつもより、すこし震えていた。
父も、年を取ったのかもしれなかった。あるいは、ひと月のあいだに、父の中で、何かが変わったのかもしれなかった。
――お父様、絵、見せに行ってもいいですよ。
私は心の中でつぶやいた。
――でも、まだ、すこし、先で。
私は手紙を、机の引き出しの、いちばん奥にしまった。
母の魔石が入っていた、桐の箱の隣に。
いつか、父との和解の絵を描く日が、来るかもしれない。
でも、今日ではなかった。
* * *
兄たちからは、手紙は来なかった。
私は兄たちのことを、すこし考えた。
父が変わったなら、兄たちも、いつか変わるかもしれない。けれど、変わらなくてもいい。私は兄たちの絵を、すでに何枚も、頭の中の額縁に入れている。それで、私の家族の絵は、足りていた。
マレナはある日、私に言った。
「お嬢様、家族ってのは、血で繋がってる人だけ、じゃないよ」
「うん」
「あたしも、ヘルダも、画材屋の爺さんも、子供たちも、シグルド様も、ぜんぶ、お嬢様の家族だ」
「うん」
「あんたの家族は、いっぱい、いる」
私は頷いた。
マレナ、的確だ。
私は心の中でつぶやいた。
絵描きの目で見ても、城下町の人たちは、みんな、私の家族の構図に、ぴたりとはまっていた。
* * *
半年のあいだに、シグルドの溺愛は、相変わらず、止まらなかった。
王宮の事務処理が、夜遅くまで続いた日も、彼は必ず、城下町に顔を出した。たとえ十分でも、来た。
「カレン、顔だけ、見に来た」
「シグ、王宮、忙しいんでしょ」
「忙しい」
「だったら、休んで」
「君の顔、見るのも、休みだ」
私はシグの言葉に、すこし笑いそうになった。
シグの中で、私の顔を見ることが、休みに分類されている。
絵描きの目には、その分類は、まったく論理的ではない。けれど、シグの中では論理的、らしい。
「シグ」
「ん」
「あんた、王宮の大広間の日、私のこと、お前って呼んだよね」
シグはすこし、口を止めた。
止めて、それから、答えた。
「……ああ」
「あれ、いままでで、いちばん、嬉しかった」
「そうか」
「またお前って、呼んでくれてもいいのに」
シグはしばらく私を見ていた。
見て、それから、すこし口の端を上げた。
「いまは、君だ。お前は、特別な日にだけ、取っておく」
「特別な日って、いつ」
「君が、王宮に来る日。あるいは、君の、ぜんぶが、必要な日」
私はすこし笑った。
シグ、答え、用意してきたな。
私は心の中でつぶやいた。
シグはいつも、答えを用意してくる。そして、用意してきた答えはいつも、すこし、不器用なほど、優しい。
私はシグにお茶を出した。
シグはお茶をゆっくり飲んだ。飲んでから、十分くらい、私の絵を見た。それから、王宮に戻っていった。
毎日、その繰り返しだった。
私は毎日、シグの背中を見送った。見送りながら、心の中で、絵をひとつ額縁に入れた。
何枚目になるか、もう数えていなかった。
* * *
春の足音が聞こえ始めた頃、シグルドが、ある日、私に言った。
「カレン」
「シグ」
「正式な発表をする時期が、来た」
来たか。
私は心の中で頷いた。
半年前、シグは「君が、城下町でやりたいことを、ぜんぶやってから、王宮に来てくれたら、いい」と言った。
半年で、私は城下町でやりたいことを、ぜんぶやったかと、聞かれれば、まだ、ぜんぶではなかった。けれど、いま、王宮に行っても、城下町に戻ってくる時間は、たぶん作れる。シグの溺愛の本気度なら、私の城下町通いを止めない、はずだ。
「シグ、いつ、発表する」
「来月の春の祭の日に。マグナス兄上が、王宮の祝祭で発表する」
「春の祭、いいね」
「ああ」
「私、その日、王宮に行く」
「ああ」
「マレナと、ヘルダさんと、子供たちも、招待してもいい?」
シグルドはすこし考えた。
「兄上に聞いてみる」
「お願いします」
シグルドは頷いた。
翌日、シグルドの返事が来た。
マグナス陛下の許可が下りた。城下町の、私の家族たち――マレナ、ヘルダ、画材屋の老人、レオ、ミラ、その他、私が指名する人たち――は、王宮の祝祭に招待される。
* * *
マレナは知らせを聞いて、しばらく、店のカウンターに立ち尽くしていた。
「お嬢様」
「ん」
「あたし、王宮、初めてだよ」
「私も、貴族街育ちだけど、王宮の祝祭は、初めて」
「ドレス、貸してやろうか」
「マレナのドレス、もう一度、貸してください」
「あいよ」
マレナは笑った。
「ただし、お嬢様、あんたが、王宮で着るのは、たぶん、もっと、立派なドレスだ。あたしのドレスじゃ、王妃候補としては、釣り合わない」
「王妃候補」
私はその言葉を、心の中で転がした。
王妃候補。
半年、シグルドのフィアンセとして、私は過ごしてきた。けれど、「王妃候補」という言葉を、はっきり聞かされたのは、今日が初めてだった。
「マレナ」
「ん」
「私、王妃に、なるの?」
「シグルド様の妻になるってことは、王弟妃にはなる。マグナス陛下にお子様ができなければ、王座はシグルド様に回る。そうすると、お嬢様は王妃」
「……ふうん」
私はしばらく考えた。
絵描きの目で見ても、王妃の構図は、私の人生の構図に、ぴたりとはまっていなかった。
けれど、シグルドの隣に立つ構図は、もう、私の人生の構図に、ぴたりとはまっていた。
だったら、シグの隣に立つ、ということが、たまたま王妃である、ということなら、それはそれでいい、と私は思った。
絵描きの仕事は、見ることから始まる。最後の一筆を置くのは、絵描きの手だ。
王妃である、私の手も、絵描きの手で、ある。
描き続ける。
描き続けることは、王妃になっても、変わらない。
* * *
春の祭の前夜。
私は二階の自分の部屋で、机の前に座っていた。
机の上に、紙を広げた。
絵筆を握った。
描き始めたのは、母の絵だった。
半年のあいだ、私は母の絵を、もう、何枚も描いていた。けれど、今夜の母の絵は、すこし違っていた。
描いたのは、母の魔石を消費したあとの、私の中の母の絵だった。
母の体は、いま、私の中でゆっくりと動いていた。
私の血の中で。私の絵筆の動きの中で。私の心象の中で。
母は私の中で生きていた。
いつもの怒っていない笑い方で笑っていた。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
描き終わった絵を、私は母の絵の中で、いちばん前の位置に立てかけた。
お母さん。
私は心の中で呼んだ。
明日、王宮で、私の婚約が発表されます。
お母さんの娘、王弟妃になります。
でも、絵は描き続けます。
お母さんの色も、ぜんぶ入れて、描き続けます。
返事はなかった。
けれど、私の中の母は、すこし強く笑った気がした。
八年前、母が隔離小屋の窓越しに、最後に笑った、あの笑い方だった。
* * *
翌朝、春の祭の日。
私はマレナのドレスを着ていた。紺色の、いつもの戦闘服。
王宮から、迎えの馬車が来ていた。けれど、私は馬車に乗らなかった。
徒歩で、王宮に向かった。
マレナと、ヘルダと、画材屋の老人と、レオと、ミラと、ほかの子供たちと、城下町の人たちと、一緒に。
大通りを、列で歩いた。
子供たちが、いちばん前で走っていた。
マレナとヘルダが、私の両脇を歩いていた。
画材屋の老人は、列の最後尾で、ゆっくりと歩いていた。
城下町の人たちが、私を王宮まで送ってくれた。
私は列の真ん中で、空を見上げていた。
空は春の青。
空の高いところに、淡い水色がひとつ、あった。
淡い青の魔石の色。
お母さん、見てる?
私は心の中で呼んだ。
お母さんも、私と、いっしょに、王宮に、行きます。
* * *
貴族街と城下町の境の橋の上で、私はしばらく立ち止まった。
ひと月前、追放された朝、私が馬車で通った橋。
半年前、王宮の断罪のあと、私が徒歩で戻った橋。
そして、今日、私が城下町の人たちと一緒に、王宮に向かう橋。
橋の上で、絵描きの目で、ぜんぶの絵を見た。
半年、城下町で増えた絵。
マレナの目尻の皺、ヘルダの林檎を入れる手、レオの太い笑い声、ミラの花の絵、画材屋の老人の片方の口の端、子供たちの走る速度、傭兵崩れの男たちの拍手、シグルドの背中、シグルドの瞳の橙色、それから、もうひとつ。
私の手の握り方。
握り方は、いまや、シグの握り方と、ぴたりと同じ温度だった。
――お母さん。
私は心の中で呼んだ。
――色、出します。
――これからも、ずっと。
――お母さんと、お父さんと、シグと、城下町の人たちと、ぜんぶの色を、出します。
返事はなかった。
けれど、私の中の母は笑っていた。
いつもの怒っていない笑い方で。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
私は橋を渡り切った。
貴族街の地面の上に、足を置いた。
貴族街の、いつもの匂いが、私の鼻に入ってきた。
磨かれた石と、切り花の匂い。
半年前は、私の故郷の匂いだった。
いまは、私の、もうひとつの場所の匂い、だった。
王宮の正門で、シグルドが私を待っていた。
騎士団の制服。胸に銀の徽章。腰に長剣。
シグルドの瞳の中の橙色は、いつもよりずっと強く灯っていた。
「カレン」
「シグルド様」
私はシグの方に歩いていった。
城下町の人たちが、私を見送った。
マレナがにやりと笑った。
ヘルダが目尻に涙をにじませていた。
レオがぴょんぴょんと跳ねていた。
子供たちが、私の名前を、何度も呼んだ。
私は振り返って、彼らに手を振った。
振った手の角度は、貴族街のお辞儀の角度ではなかった。
城下町の、ありがとう、の角度だった。
シグルドが私の手を握った。
いつもの、剣を握る手の固さ。
けれど、握り方は、相変わらず、不器用なほど優しかった。
「カレン、行こう」
「行こう、シグルド様」
「シグで、いい」
「うん」
私はシグの隣を歩き始めた。
王宮の長い廊下を、二人で歩いた。
歩きながら、私は心の中で、絵をひとつ額縁に入れた。
シグルドの隣を歩く、紺色のドレスの絵描き、の絵。
絵描きとしては、たぶん、私の人生の中で、いちばん、いい構図だった。
そして、心の中で、もう一度、つぶやいた。
――お母さん、ここから、また、絵を、描き始めます。
――たぶん、ぜんぶの色を、ここで、描き切ります。
――お母さん、見ててね。
返事はなかった。
けれど、私の中の母は笑っていた。
いつもの怒っていない笑い方で。
ぜんぶ見ていたよ、というあの笑い方で。
そして、その笑いは、私の中で、もうずっと続いていた。
いつまでも、続いていた。




