第十七章 王宮へ
翌朝、第三鐘の手前。
私はまた、紺色のドレスを着ていた。マレナのドレス。城下町の絵描きが、貴族街に攻め込むための戦闘服。
画材の鞄を手に提げていた。鞄の中に、王書庫地下三層の再現画。母の魔石を消費して描いた、私のいちばんの絵。
王宮の正門で、シグルドが私を待っていた。
騎士団の制服。胸に銀の徽章。腰に長剣。
その隣に、もう一人立っていた。
ベルナール先生。
「カレン・グレイファン」
ベルナールが頭を下げた。
いつもの教官の温度ではなかった。証人としての温度だった。
「ベルナール先生」
私は頭を下げ返した。
「ハロルド殿は」
「鑑識報告書を、すでに陛下に提出している。証拠の絵と鑑識計測の結果を突き合わせる作業は、終わった」
「結果は」
「カレン殿の絵に描かれた波線――ドルグ・アルデインの揺らぎは、現場の痕跡と完全一致した。鑑識として、ドルグの術理痕跡で間違いない」
よし。
私は心の中で頷いた。
絵描きの目で見えたものと、鑑識の道具で計測したものが、ぴったり合った。
私の絵は武器になった。
* * *
シグルドが口を開いた。
「カレン。陛下の御前に呼ばれているのは、俺、ベルナール教官、ハロルド殿、それに君。被告人として、ドルグ・アルデイン」
「ドルグ、捕まえたの」
「昨夜遅く、王都の北門で捕縛した」
シグルドの声は淡々としていた。
「逃亡先の予定地を、ファルケンの自白で押さえていた。ドルグはその予定地に向かう途中で、騎士団の包囲網に入った」
ファルケンが、ぜんぶ知っていた。
私は心の中でつぶやいた。
王書庫の、第五式までの暴発の指示。刺客の派遣。逃亡先の予定地。ファルケンはドルグの右腕だったから、ぜんぶ知っていた。そして、自白した。
「ファルケンの動機は」
私は聞いた。
「自白するに、至った動機」
シグルドはしばらく考えた。
それから、答えた。
「俺の尋問の中で、ファルケンはこう言った。『私は二十年、ドルグ様に仕えてきた。けれど、ドルグ様は近年、自分の限界を超えた研究に手を出された。彼は自分の道を、もう歩めない。私がここで口を開かなければ、彼はもっと深い地獄に落ちる。私の最後の務めとして、口を開く』と」
「……」
私はファルケンの顔を、見たことがなかった。けれど、彼の言葉は、ある種の武人の論理として、私の中で額縁に入った。
忠誠と決別の、ぎりぎりの場所に立った男の、最後の言葉。
「いい家臣だね」
私は言った。
「ああ」
シグルドは頷いた。
* * *
私たち三人は、王宮の大広間に向かった。
大広間は、私がひと月前、糾問された場所だった。
天井の高さ、左右の柱、奥の王座、すべて覚えていた。
けれど、今朝の大広間はひと月前と違っていた。
王座に、現国王マグナス陛下が座っていた。
代理職のドルグの席は、空いていた。
大広間の中央――被告人が立つべき位置に、ドルグ・アルデインが立たされていた。
両脇に、衛兵が二人。
ドルグの白い式服は汚れていた。逃亡の途中で付いた泥と、夜露の跡。彼の細い目は、いつもよりずっと落ち窪んでいた。
絵描きの目で、私の絵に入れたい顔だ。
私は心の中でつぶやいた。
けれど、いまは絵を描くときじゃない。
いまは絵で戦うときだ。
「カレン・グレイファン」
マグナス陛下の声が、大広間に響いた。
低く、深く、よく通る声。シグルドの兄らしい声だった。
「貴殿の絵師としての現地調査と再現画の作成について、本日、陛下の御前にて、説明を求める」
「はい、陛下」
私は頭を下げた。
「お申し付けの通り、再現画をご覧いただきます」
私は画材の鞄から、絵を出した。
大広間の中央、ドルグの隣に用意された絵架の上に、絵を置いた。
絵は紙の中に、王書庫地下三層の爆発の瞬間を、ぜんぶ保持していた。
* * *
大広間に居並ぶ貴族たちが、絵を覗き込んだ。
最初は、ざわめき。
次に、息を飲む音。
最後に、誰かが「これは……」とつぶやいた。
絵の中央に、ドルグ・アルデインが立っていた。
白い式服。細い目。芝居がかった顔。私がひと月前、王立裁判所で初めて出会った日の、ドルグの顔。
彼の周りに、四つの色付きの心象が配置されていた。赤、青、薄緑、褐色。
そして、第五式の、白い、光の点が、四つの心象の上に、無理やりねじ込まれていた。
心象の周りに、薄い波線が描かれていた。ドルグ・アルデインの揺らぎの波長。
マグナス陛下が、絵をしばらく見ていた。
見て、それから、口を開いた。
「ドルグ・アルデイン」
「は、はい」
「この絵の中の人物は、誰か」
「……私で、ございます」
「貴殿は自ら、その通り認めるのだな」
「……」
ドルグは絵を見つめた。
絵を見ながら、彼の唇がすこし震えた。
「絵の中の私の姿は、ぴったり、私です。けれど、絵の中で私が行使していることは――」
「ハロルド殿」
マグナスがハロルドに呼びかけた。
「絵の中の揺らぎの波長は、貴殿の鑑識計測と一致するか」
ハロルドは王座の前で、深く頭を下げた。
「完全一致でございます、陛下。私の四十年の鑑識経験を、賭けます」
「ベルナール教官、貴殿は絵の作成を、現場で立ち会われた」
「はい、陛下」
ベルナールが答えた。
「カレン・グレイファンは、王書庫地下三層の現場にて、肉眼で四種の術理の痕跡を識別し、痕跡の方向、強度、位置から、心象の構造を絵に再現いたしました。彼女の超心象――他の術士の心象と、桁違いの解像度を持つ、彼女の能力――をもってのみ、可能な業です」
「カレン・グレイファン」
マグナスが私に向き直った。
「貴殿の絵は、ドルグ・アルデインの王書庫における禁術行使を、絵で立証している」
「はい、陛下」
「事実として、間違いないか」
「間違いございません、陛下」
私の声は震えなかった。
八年前、母が私に「強い色を、しまっておきな」と言った日から、私がずっとしまってきた色を、いま、ぜんぶ出していた。
出した色は、震えるはずがなかった。
* * *
マグナスがドルグを見た。
「ドルグ・アルデイン」
「は、はい、陛下」
「貴殿はひと月前、本日と同じこの大広間で、カレン・グレイファンを、王書庫地下三層における無許可の大規模術理行使、ならびに禁術書閲覧の疑いで糾問した」
「……」
「糾問の根拠は、貴殿が王立裁判所代理職として、術士部の鑑識結果を提示したものだった。あの鑑識結果は、本物か」
ドルグはしばらく黙った。
「……」
「答えよ」
「……鑑識結果は、私がファルケンに命じて偽造させたものでございます」
大広間がいっせいにざわついた。
マグナスはざわめきに、片手を軽く上げて抑えた。
「では、本物の現場の痕跡は、貴殿の術理痕跡だった、ということだな」
「……はい」
「禁術書〈八重の閉環〉に、第四式まで挑み、第五式――光の祈りで暴発した。これも、事実か」
「……はい」
「カレン・グレイファンに、罪を擦り付けたのは、貴殿の意思か」
「……はい」
「刺客二回を、城下町に送ったのは、貴殿の意思か」
「……はい」
ドルグの声はすでに、ほとんど聞こえなくなっていた。
けれど、ぜんぶ認めた。
逃げ場がもう、ない、と彼は判断したらしい。
絵描きの目で見ても、彼の体はすでに半分崩れていた。
* * *
マグナスが深く息を吐いた。
「ドルグ・アルデイン」
「はい」
「貴殿の罪状は、以下の通り。一、王立裁判所代理職の権限を悪用した、職権濫用。二、王書庫地下三層における、禁術書〈八重の閉環〉の閲覧および、第五式までの行使。これは、信仰冒涜の罪に、相当する。三、術理痕跡の偽造による、虚偽の糾問。四、無辜の魔女、カレン・グレイファンへの、追放処分の不当な強制。五、追放後の、二度の刺客派遣による、殺人未遂」
マグナスはしばらく間を置いた。
「いずれも、傍系王族としては、極めて重い罪だ」
「……」
ドルグは頭を垂れていた。
「貴殿に申し開きはあるか」
「……ございません、陛下」
「ならば、裁定を申し渡す」
マグナスの声がいっそう深くなった。
「ドルグ・アルデインに申し渡す。本日付をもって、貴殿の王立裁判所代理職を剥奪する。傍系ドルグ家の、家名アルデインを剥奪する。以後、ドルグ家は王家の血筋として認められない」
大広間がざわついた。
「貴殿個人については、王都およびエルディア王国全土への永久追放を命じる。再び国境を超えた場合は、王家への反逆として処断する」
追放。
私は心の中で、その言葉を転がした。
私がひと月前、ドルグから宣告された言葉。
いま、ドルグが私から宣告された言葉。
絵描きとしては、構図がぴったり対になっていた。
絵描きの仕事は、見ることから始まる。そして、最後の一筆を置くのは、絵描きの手だ。
最後の一筆、置きました、ドルグさん。
「禁術書〈八重の閉環〉は、王立裁判所より押収済みのため、王家の最深の書庫に永久封印する。貴殿の研究の継続は、不可能となる」
マグナスは続けた。
「以上、本日付をもって、ドルグ・アルデイン、傍系ドルグ家の家名剥奪、ならびに永久追放を確定する」
マグナスの声が終わった。
大広間の貴族たちが、深く頭を下げた。
形式的な礼ではなく、心からの礼だった。
ドルグの細い目が、絵の中の自分の顔を、最後に見ていた。
見ながら、彼の体はすでに、傍系王族としてのすべてを失っていた。
* * *
衛兵がドルグを、両脇から抱えた。
ドルグは抵抗しなかった。
抵抗する力が、もう残っていなかった。
大広間を出ていく途中で、ドルグの目が私の方を、ちらりと見た。
私は彼の目を見返した。
見ながら、心の中で、絵をもう一枚、額縁に入れた。
最後の、ドルグの顔。
白い式服。落ち窪んだ細い目。崩れた口元。
彼が私を見た瞬間、彼の唇が、何か動いた。
音は出なかった。
けれど、絵描きの目には、彼の唇がこう動いた、と見えた。
――絵を描く目を、結局、潰せなかった。
そんな唇の動きだった。
私は頷きそうになった。
頷かなかった。
代わりに、心の中でつぶやいた。
――あんたが、潰せなかったんじゃ、ない。
――絵描きの目は、もう、潰されない目に、なってたんだ。
――お母さんと、お父さんと、シグと、マレナと、ヘルダさんと、レオと、ミラと、ぜんぶの、城下町の人たちが、私の絵描きの目を、強くしてくれたんだ。
ドルグは衛兵に抱えられて、大広間を出ていった。
* * *
マグナスが私を見た。
「カレン・グレイファン」
「はい、陛下」
「貴殿の名誉を、本日付をもって回復する。ひと月前の追放処分を取り消す。貴殿の、王都内における居住権、移動権、術理行使権を回復する。グレイファン家の名誉も、共に回復する」
「……」
「貴殿に不当な処分を強いた、王家の代表として、私から謝罪をする」
マグナスは王座から立ち上がった。
立ち上がって、私に頭を軽く下げた。
私は息を止めた。
王が、追放されていた魔女に、頭を下げる。
貴族街では、ありえない構図だった。
けれど、マグナスはそれをした。
「陛下」
私は声を絞り出した。
「どうか、頭をお上げください」
「貴殿のご寛容に感謝する」
マグナスは頭を上げた。
けれど、彼の目はすこし湿って見えた。
兄として、弟が想う女に、王としてできる限りの誠意を示した目だった。
シグルドは、自分の兄の隣に立っていた。
シグルドの目は、私を見ていた。
瞳の中の橙色が、いつもよりずっと強く灯っていた。
* * *
「カレン・グレイファン」
マグナスがもう一度、私の名前を呼んだ。
「貴殿の意思を、確認したい」
「はい、陛下」
「貴殿は追放処分を取り消されたのち、貴族街への帰還を希望するか。あるいは、別の処遇を希望するか」
来た。
私は心の中でつぶやいた。
王宮ではっきりと聞かれる質問。私が貴族街に戻るのか、戻らないのか。
私の答えはもう、決まっていた。
「陛下」
私は答えた。
「私は、城下町に戻ります」
大広間がまた、ざわついた。
魔女が貴族街への帰還権を回復したにもかかわらず、城下町に戻る、と言ったから。
「理由を、聞かせていただける」
マグナスは聞いた。
「私はひと月、城下町で生活しました。城下町には、私の友人と、私の仕事と、私の生き方があります。貴族街に戻りたい、と思いません」
「グレイファン家への、帰還も希望しないのか」
「はい」
「父君と面会しないのか」
「父とは、いずれ機会があれば」
私は答えた。
父の絵は私の中に、もうたくさんある。それを、いま整理する気はなかった。
いつか整理する。けれど、今日ではない。
「わかった」
マグナスは頷いた。
「貴殿の意思を尊重する。城下町への帰還を認める」
「ありがとうございます、陛下」
私は頭を下げた。
* * *
マグナスがシグルドの方を見た。
「シグルド」
「はい、兄上」
「貴様、何か、言うことが、あるのではないか」
「……兄上」
シグルドがすこし口を止めた。
「カレン・グレイファンの意思を、尊重します。けれど、私は彼女の隣にいたい」
大広間がまた、ざわついた。
王弟が、追放を解かれた魔女に、公の場で、隣にいたい、と言ったから。
マグナスはふっと笑った。
兄として、弟の不器用な告白を聞いた、笑いだった。
「シグルド、それは私が許す問題ではない。カレン・グレイファンに聞け」
「はい、兄上」
シグルドは私の方に向き直った。
大広間の、ぜんぶの目が、私たちに集中していた。
公の場で、こんなこと、言わせる気か、シグ。
私は心の中でつぶやいた。
けれど、シグの目は、いつものまっすぐな目だった。
瞳の中の橙色が、まっすぐ、私を見ていた。
「カレン」
「はい、シグルド様」
「お前の、隣に、いたい。許してくれるか」
お前、と言った。
シグの口から、初めて、聞いた呼び方。
私は心の中でつぶやいた。
急ぐ、けれど、嬉しい。
私はすこし、笑いそうになった。
けれど、笑わなかった。
代わりに、しっかりと答えた。
「シグルド様、城下町まで、ついてきてくださるなら」
シグルドの口の端が、ほんのわずか上がった。
「ついていく」
「では、許します」
大広間で、低い笑い声が、波のように広がった。
マグナスも笑っていた。
貴族たちも笑っていた。
皆、私たちの不器用な、最初の約束を聞いていた。
絵描きの目で見ても、それは悪くない構図だった。
むしろ、いままでの私の人生で、いちばんいい構図だった。




