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第五章 バックミラー

夕立ちのあと、駅前のロータリーには忘れ物が増える。


傘。

ハンカチ。

買ったばかりのコンビニ袋。

片方だけのイヤリング。

子どもの水筒。

濡れたタオル。

そして時々、持ち主がなくしたことに気づいた瞬間、顔色を変えるようなもの。


佐伯亮がそのスケッチブックを見つけたのは、駅前のタクシー乗り場横のベンチだった。


雨は少し前に弱まっていた。

それでも、駅前のアスファルトはまだ黒く濡れていて、ロータリーの白線が水を含んでぼやけている。バス停の屋根からは、雨粒が一定の間隔で落ちていた。


佐伯はタクシーをロータリーの端に停め、車外に出た。


後部座席に残った傘を一本、忘れ物として事務所へ持っていくつもりだった。

透明なビニール傘。

どこにでもある傘。

誰かがなくして、誰かが似たものをまた買う傘。


佐伯はそういう忘れ物が好きではなかった。


いや、忘れ物が好きな人間などいないだろう。

ただ、戻らなくても持ち主がなんとかなるものを見ると、少しだけ腹が立つ。戻らなければ本当に困るものは、たいてい戻るまでに時間がかかる。


タクシー乗り場のベンチの下に、それは挟まっていた。


黒いスケッチブックだった。


雨を避けるように、ベンチの座面の下へ斜めに入り込んでいる。

誰かがとっさに押し込んだのか、風で滑り込んだのかは分からない。


佐伯は腰をかがめ、スケッチブックを引き出した。


表紙の角は少し湿っていた。

けれど、全体が濡れているわけではない。


表紙の裏に、細い字で名前と学校名が書かれていた。


凪浜高校三年二組。

森下雫。


女の子の字だと思った。


そう思ってから、佐伯は自分で少し嫌になった。字だけで女の子と決めるのは、たぶん古い考えなのだろう。娘に言えば、そういうところ、と言われるかもしれない。


もっとも、娘に最後にそう言われたのは、もう何年前のことか分からない。


佐伯はスケッチブックを軽く振った。

水滴がいくつか落ちた。


中が濡れていないか確認する必要があった。

持ち主を探すため、名前以外の連絡先がないか確かめる必要もある。


そう自分に言い訳して、最初のページを開いた。


鉛筆の線があった。


石膏像の横顔。

瓶。

手。

古い校舎の窓。

駅前の時計台。


どれも、未完成だった。

けれど、いい加減には描かれていなかった。


佐伯は絵のことなど分からない。


分からないが、そこに描かれたものを描いた人間が、ちゃんと見ようとしていたことだけは分かった。タクシーの運転手は、人の顔よりも、人の視線を見る癖がある。客がどこを見ているかで、急いでいるのか、迷っているのか、誰かを待っているのか、なんとなく分かる。


このスケッチブックの持ち主は、ものをよく見ている。


そう思った。


次のページに、花火を見上げる女の人と、小さな女の子の後ろ姿が描かれていた。


顔はない。


二人とも背中だけだった。


けれど、女の人の肩の傾きや、女の子が少しだけ近づいて立っている距離で、それが親子なのだと分かった。


ページの端には、小さく文字があった。


『お母さんへ』


佐伯は、指を止めた。


雨上がりのロータリーで、バスが水を跳ねて走っていく。

駅の方では、傘を閉じる音がした。

誰かが「もう止んだね」と言った。


佐伯は、スケッチブックを閉じようとして、閉じられなかった。


挟まっていた紙が一枚、少しだけ見えていた。


進路希望調査。


見るべきではないと思った。

しかし、名前と学校名はもう分かっている。届け先も分かっている。ならばもう、これ以上見る必要はない。


そう思ったのに、佐伯の目は紙の上の文字を拾ってしまった。


第一志望。

海晴美術大学。

絵画専攻。


鉛筆で書かれた文字だった。


強く書かれてはいない。

でも、消された跡もなかった。


書くまでに時間がかかった文字なのだと、佐伯には分かった。


娘の美羽にも、そういう紙があったのだろうか。


あったはずだ。


進路希望調査。

部活動の申込書。

三者面談のプリント。

修学旅行の同意書。


佐伯は、そのほとんどを覚えていない。


仕事で帰りが遅かった。

朝は早かった。

妻が全部やってくれていた。

自分は稼いでいるのだから、それでいいと思っていた。


思っていた、というより、そう思わないと家に帰れなかった。


佐伯が娘の進路について初めて真面目に聞いたのは、美羽が高校三年の秋だった。


遅すぎた。


そのとき美羽は、もう志望校も、行きたい学部も、受ける試験も、全部決めていた。

佐伯はそれを聞いて、驚いたふりをした。

本当は、驚く資格すらなかった。


「お父さんに言っても、どうせ分かんないでしょ」


美羽はそう言った。


佐伯は怒った。


分からないと決めつけるな。

親に向かってその言い方は何だ。

誰のおかげで生活できてると思っている。


言ったあとで、しまったと思った。


けれど、言ってしまった言葉は、タクシーの後部座席に置き忘れられた荷物より厄介だ。

気づいたときには、もう持ち主が遠くへ行っている。


美羽はそのあと、あまり佐伯と話さなくなった。


やがて妻とも別れた。

別れたというより、佐伯だけが家から外へ出された。

鍵を返し、荷物をまとめ、父親という役目を途中で置いてきた。


佐伯はスケッチブックを閉じた。


表紙の湿った角を、タオルでそっと拭く。


これは届けなければならない。


誰かの大切なものだった。

まだ誰にも見せるつもりのないものかもしれない。

それでも、なくしたままにしていいものではなかった。


佐伯はスケッチブックを助手席に置いた。

傘よりも丁寧に、濡れない場所へ。


ちょうど無線が入った。


「佐伯さん、旧市街方面行ける?」


「行けます」


「花火大会の実行委員さん。駅前から河川敷本部まで」


「了解」


佐伯はエンジンをかけた。


助手席のスケッチブックは、黙ってそこにあった。


人の大事なものを乗せると、車内の空気が少し変わる。


そういうことは、タクシーの仕事をしているとよくある。


後部座席で泣く人。

花束を抱えた人。

退院したばかりの人。

別れ話のあとらしい沈黙を連れている人。

結婚式場へ急ぐ人。


誰かの人生の途中を、佐伯は何度も運んできた。


それなのに、自分の家族の途中だけは、ろくに乗せられなかった。


駅前で乗せた客は、花火大会の腕章をつけた中年の男だった。


「河川敷本部まで」


「かしこまりました」


客は後部座席に深く座り、電話をかけ始めた。


「はい、今向かってます。ええ、倉本さんにはもう伝えてあります。いや、風向き次第で少し調整が……」


倉本。


佐伯はその名前を聞き流した。

花火大会の関係者なのだろう。


車は旧市街へ向かった。


夕立ちの雲が、海の方から迫っている。

ワイパーはまだ動かしていないが、空の色だけで雨が近いことは分かった。


旧市街の奥へ入ると、道は細くなる。

古い商店の軒先が道路に近く、車幅ぎりぎりの場所も多い。


倉本煙火店の近くまで来たとき、一人の男が路地から手を上げた。


黒いキャップをかぶった配送の男だった。

その隣には、小学生くらいの男の子が立っている。男の子は、レモン味らしい棒アイスを持っていた。


佐伯は車を停め、窓を下げた。


「どうしました」


配送の男が、青い封筒を差し出した。


「これ、倉本煙火店あてです。工房が閉まってて、本部へって貼ってあったんで」


佐伯は封筒を見た。


古い青だった。

表には、細い字で何かが書かれている。


『最後の一発に』


「急ぎ?」


「たぶん」


「たぶんか」


「でも、ポストに入れるのは違う気がして」


後部座席の客が、電話を切って言った。


「本部までなら行くついでですよね」


佐伯はうなずいた。


「分かった。預かる」


配送の男は、少し頭を下げた。


「すみません」


「いいよ。ついでだから」


佐伯は青い封筒を助手席に置いた。


スケッチブックの上には置かなかった。

その横に並べた。


黒いスケッチブック。

青い封筒。


どちらも、佐伯のものではない。

どちらも、たぶん大事なものだった。


車を出すと、男の子が路地の端からこちらを見ていた。


佐伯はバックミラー越しにその姿を見た。


男の子は、何かを見届けるような顔をしていた。

自分が渡したものが、ちゃんと次の場所へ行くかを確かめるような顔。


佐伯は少しだけ車の速度を落とした。


それから、角を曲がった。


雨が降り始めた。


大粒の雨がフロントガラスを叩き、すぐに視界が白くなった。

佐伯はワイパーを動かした。


後部座席の客はまた電話をかけている。


「ええ、雨はすぐ抜けると思います。はい、設営はそのままで」


佐伯は、助手席の青い封筒を横目で見た。


『最後の一発に』


最後の一発。


佐伯にとって、花火はあまり楽しい記憶ではなかった。


最後に家族三人で花火大会へ行ったのは、美羽が中学一年のときだった。


美羽は浴衣を着ていた。

紺色の浴衣。

白い朝顔の柄。


妻が選んだのだろう。

佐伯は「似合うな」と言った。

美羽は少し照れたように笑った。


その笑顔を、佐伯はちゃんと見ていなかった。


携帯電話が鳴ったからだ。


仕事の電話だった。

急ぎの確認。

その場で出なくてもよかった電話。

けれど佐伯は出た。


人混みの中を少し離れ、耳をふさぐようにして電話をした。

五分で終わるつもりが、十分になった。

十分が二十分になった。


戻ったときには、最初の花火が上がっていた。


妻は黙っていた。

美羽はたこ焼きのパックを膝に置いていた。


冷めていた。


「仕事なんだから仕方ないだろ」


佐伯はそう言った。


言わなければよかった。


美羽は箸を置き、空を見たまま言った。


「じゃあ来なきゃよかったじゃん」


その言葉に、佐伯は腹を立てた。


誰のために来たと思ってるんだ。

忙しい中、時間を作ったんだ。

せっかく連れてきたのに、その言い方は何だ。


花火の音が大きかった。

だから、自分の声も大きくなった。


美羽は泣かなかった。


泣かなかったことが、佐伯には余計に腹立たしかった。


今思えば、あの日、美羽は泣かないことを選んだのだ。

佐伯の前では泣かないと、決めたのだと思う。


その花火大会が、家族で見た最後になった。


最後になると、そのとき知っていたわけではない。

人はたいてい、最後を過ぎてから、それが最後だったと気づく。


河川敷の打ち上げ本部へ着く頃には、雨は少し弱まっていた。


本部にはテントが並び、スタッフらしい人たちが慌ただしく動いていた。

発電機の音。

無線の声。

濡れたブルーシートの匂い。


後部座席の客が料金を払い、降りた。


「ありがとうございました」


佐伯はそう言ってから、助手席の青い封筒を手に取った。


スケッチブックは車内に残した。

封筒だけを持って、受付のテントへ向かう。


「すみません。倉本さんは」


受付の若い男が顔を上げた。


「倉本煙火店の倉本さんですか?」


「はい」


「少しお待ちください」


若い男が奥へ走っていった。


佐伯はテントの端で待った。


青い封筒の角は、少しだけ湿っていた。

けれど、中まで濡れてはいないようだった。


しばらくして、年老いた男が歩いてきた。


小柄で、背中は少し丸い。

けれど、足元だけはしっかりしていた。

職人の歩き方だと思った。


「倉本さんですか」


佐伯が言った。


老人はうなずいた。


「はい」


「これ、倉本煙火店あてです。配達の人が工房まで行ったそうですが、不在で。張り紙に、本部へとありましたので」


佐伯は、青い封筒を差し出した。


老人は、その封筒を見た。


顔から、少しずつ色が抜けていくように見えた。


佐伯は、余計なことを聞かなかった。


タクシーの運転手は、聞かない方がいいことを知っている。

客が後部座席で泣いていても、理由を聞かない。

花束を抱えた人が行き先を墓地と告げても、誰に供えるのか聞かない。

深夜に若い男が「海まで」と言っても、なぜ行くのか聞かない。


聞かないことが、仕事になる日がある。


老人は、両手で封筒を受け取った。


「……どうも」


声は、かすれていた。


「いえ」


佐伯は軽く頭を下げた。


それ以上は何も言わず、車へ戻った。


運転席に座ると、助手席に黒いスケッチブックがあった。


森下雫。


凪浜高校三年二組。


佐伯は、その名前をもう一度見た。


明日、届けようと思った。


明日は花火大会の日だ。

道路は混む。

仕事も忙しい。

それでも、届けようと思った。


誰かの大切なものを、いつもより少しだけ早く返したかった。


夜、自宅へ戻ると、部屋は湿っていた。


一人暮らしの部屋は、窓を閉めて出ると匂いがこもる。

洗い残したマグカップ。

畳んでいない洗濯物。

古い新聞。

エアコンの埃。


佐伯は風呂に入る前に、携帯電話を手に取った。


美羽の連絡先は、まだ残っている。


名前は『美羽』ではなかった。


『娘』


そう登録してある。


いつ登録したのか覚えていない。

たぶん、携帯を買い替えたときに、昔のデータから移したのだろう。

そのとき名前を直すこともできたはずだ。

でも、直さなかった。


直すには、近すぎた。

そのままにするには、遠すぎた。


佐伯はメッセージ画面を開いた。


最後のやりとりは三年前だった。


『お母さんから聞いた。入院したって本当?』


佐伯は、風邪をこじらせて数日入院したことがあった。

そのとき、美羽から届いたメッセージだった。


佐伯の返信。


『大したことない。仕事戻った』


そのあと、美羽からの返事はなかった。


大したことない。


本当は嬉しかった。

連絡をくれたことが。

心配してくれたことが。


でも、嬉しいと言えなかった。


佐伯は新しいメッセージを打った。


『美羽。元気か。』


消した。


『明日、花火大会だな。』


消した。


『この前は悪かった。』


この前がいつのことなのか、自分でも分からなかった。


消した。


携帯を閉じる。


部屋の中は静かだった。


雨はもう止んでいた。

けれど、窓の外の道路はまだ濡れている。街灯の光が、アスファルトに細く伸びていた。


佐伯は、黒いスケッチブックをテーブルの上に置いた。


そして、何も書けなかった携帯電話を、その横に置いた。


どちらも、誰かに返さなければならないものだった。


**********


花火大会の日の昼、佐伯は凪浜高校へ向かった。


仕事の前に少し時間を作った。


本当なら、忘れ物はタクシー会社の事務所へ届け、そこから警察や学校へ連絡する手順がある。

でもスケッチブックには学校名が書いてあった。

持ち主の名前もある。

凪浜高校は、駅からそれほど遠くない。


直接届けた方が早い。


そういうことにした。


本当は、早く返したかった。


校門の前には、花火大会の臨時駐輪場を案内する看板が立っていた。

夏休み中の校舎は静かで、部活動の声だけが遠くから聞こえる。


佐伯は守衛室でスケッチブックを差し出した。


「駅前で拾いました。表紙の裏に名前と学校名がありましたので」


守衛の男が受け取った。


「森下さんですね。担任に渡しておきます」


「お願いします」


「お名前は」


佐伯は少し迷った。


「結構です」


守衛は一瞬だけ顔を上げたが、それ以上は聞かなかった。


佐伯は校門を出る前に、一度だけ振り返った。


校舎の三階に、美術室らしい大きな窓があった。

誰かがそこにいるわけではない。


それでも佐伯は、あのスケッチブックの持ち主が、いつかあの窓の近くで絵を描くのだろうと思った。


スケッチブックには、小さなメモを挟んでおいた。


『いい絵でした。

捨てないでください。』


名前は書かなかった。


絵のことは分からない。

分からないのに、そんなことを書くのは失礼かもしれないと思った。


でも、書かずに返せなかった。


あの進路希望調査の一行を、誰かが見たこと。

その誰かが、笑わなかったこと。

捨てなかったこと。


それだけは、伝えたかった。


それは、雫という女の子へ向けた言葉だった。


同時に、美羽に言えなかった言葉でもあった。


お前の選んだものを、捨てるな。

俺が分からなかったからといって、捨てなくていい。


佐伯はタクシーへ戻った。


メーターを入れ、営業を始めた。


花火大会の日は忙しい。


午前中から浴衣姿の客が増える。

午後になると、駅から河川敷へ向かう人で道が詰まる。

夕方には、交通規制が始まり、普段通れる道が通れなくなる。


客はみんな少し浮き足立っていた。


「西橋の近くまで行けますか」


「規制の手前までになります」


「じゃあ、そこでいいです」


「屋台、もう出てます?」


「出てると思いますよ」


「去年より暑いですね」


「毎年そう言ってますね」


佐伯はいつも通りに答えた。


いつも通りの声で。

いつも通りの距離で。


けれど、胸のどこかで、夜が来るのを待っていた。


待っているのか、怖がっているのか、自分でも分からなかった。


日が暮れる頃、佐伯は駅前で若い夫婦と小さな女の子を乗せた。


女の子は浴衣を着ていた。

紺色の浴衣。

白い花の柄。


佐伯は、バックミラーで一瞬だけ見てしまった。


「おじさん、花火見たことある?」


女の子が聞いた。


母親が慌てて言った。


「すみません」


「ありますよ」


佐伯は答えた。


「いっぱい?」


「いっぱい」


「じゃあ、どれが一番きれいだった?」


佐伯は少し黙った。


一番きれいだった花火。


そう聞かれて、すぐに答えられるはずだった。

仕事柄、何度も見ている。

大きな花火も、変わった形の花火も、色鮮やかなものも。


けれど浮かんだのは、美羽がまだ小さかった頃に見た、ありふれた金色の花火だった。


美羽はそのとき、たこ焼きの青のりを浴衣につけて笑っていた。

佐伯はそれを見て、「母さんに怒られるぞ」と言った。

美羽は「お父さんが言わなければばれない」と言った。


ばれた。


妻は笑いながら濡れたハンカチで拭いた。


そういうものを、佐伯はずっと忘れていた。


忘れていたのではない。

思い出さないようにしていた。


「金色のやつかな」


佐伯は言った。


「金色、好き」


女の子は満足したように言った。


その家族を規制の手前で降ろすと、車内が急に静かになった。


後部座席に、浴衣の帯の甘い匂いが少し残っている。

佐伯は窓を少し開けた。


夜の空気が入ってきた。


花火大会が始まった。


最初の音は、町全体の奥から響いた。

建物の隙間から、赤い光が一瞬だけ見えた。


佐伯はその後も仕事を続けた。


客を乗せ、降ろし、また乗せる。

渋滞を避ける。

通行止めを迂回する。

道を聞かれる。

小銭を受け取る。

領収書を渡す。


花火の音は、その間ずっと遠くで鳴っていた。


見ようと思えば見られる。

見ないでいようと思えば、仕事の音に紛れさせられる。


佐伯は、なるべく見ないようにしていた。


けれど、花火は不意に入り込んでくる。


ビルの窓に映る。

フロントガラスの端に光る。

後部座席の客の頬を一瞬だけ照らす。

バックミラーの中で、小さく開く。


夜の終わりが近づく頃、佐伯は西橋の手前で渋滞に捕まった。


後部座席には誰もいなかった。


空車の表示が、フロントガラスの上で赤く光っている。

前の車のテールランプが、濡れてもいない道路に長く伸びて見えた。


佐伯はメーターを切り、ハザードを出した。


動かない。


橋の向こうから、花火の光が見える。

直接ではなく、バックミラーの中に。


佐伯は、ミラーを少しだけ調整した。


そこに、夜空の一部が映った。


花火が上がる間隔が、少し長くなっていた。

町のざわめきが、車の窓越しに遠く聞こえる。


佐伯は携帯電話を手に取った。


美羽の連絡先を開く。


『娘』


その文字を見て、佐伯は少し眉を寄せた。


名前を直そうと思った。


指を動かし、登録名を変える。


『美羽』


たった二文字。


それだけのことなのに、何年もできなかった。


佐伯はメッセージ画面を開いた。


昨日、何度も書いては消した画面だった。


今度は、消さずに打った。


『美羽。

花火、見えてるか。

もし見えてたら、来年はたこ焼き買う係だけでもやらせてほしい。』


送信ボタンの上で、指が止まった。


たこ焼き。


冷めたたこ焼き。

膝の上に置かれたパック。

浴衣の朝顔。

泣かなかった娘の横顔。


佐伯は、目を閉じた。


謝りたいことは山ほどある。

けれど、謝罪を全部並べると、自分が楽になりたいだけの文章になる気がした。


来年。


その言葉だけを送るのは、ずるいかもしれない。

でも、過去をやり直せないなら、未来の中に小さな席を一つお願いするしかない。


佐伯は送信した。


画面に送信済みの表示が出た。


すぐには返事は来なかった。


当たり前だと思った。


むしろ、届いただけでも驚くべきことだった。

番号が変わっていない。

拒否されていない。

それだけで、もう十分かもしれない。


夜空に、青い光が開いた。


バックミラーの中だった。


小さなミラーの中で、青い芯が静かに咲いた。

その周りに白い光がほどけ、さらに外側から金色の細い線が降っていく。


佐伯は、息を止めた。


派手ではなかった。


もっと大きな花火は、さっきまでいくつも上がっていた。

音も、もっと腹に響くものがあった。


けれど、その青は、ミラーの中にあるせいか、ひどく遠くて、ひどく近かった。


バックミラーは、後ろを見るためのものだ。


過ぎた道。

離れていく景色。

降ろした客。

追い越していった車。


そこに、花火が映っている。


佐伯は思った。


自分はずっと、後ろを見ないふりをしていたのかもしれない。


見れば戻りたくなる。

戻れないことが分かる。

だから見なかった。


でも、後ろを見なければ、何を置いてきたのかも分からない。


花火の音が遅れて届いた。


車の窓が、少しだけ震えた。


携帯電話も震えた。


佐伯は画面を見た。


美羽からだった。


『見えてる』


それだけだった。


佐伯は、画面を見たまま動けなかった。


その一文の短さが、美羽らしいと思った。

美羽らしい、などと言えるほど自分は娘を知っているのかと、すぐに思い直した。


それでも、その短い言葉の向こうに、夜空を見ている美羽がいた。


今どこにいるのかは分からない。

誰といるのかも分からない。

一人かもしれない。

友人といるのかもしれない。

恋人がいるのかもしれない。


佐伯の知らない美羽の人生が、そこにある。


佐伯は、それを初めて少しだけ嬉しいと思った。


美羽が、自分の知らない場所で生きている。

それは寂しい。

けれど、ありがたいことでもあった。


しばらくして、もう一つメッセージが来た。


『たこ焼きは二つで』


佐伯は、鼻の奥がつんとした。


笑おうとして、うまくいかなかった。


返事を打つ。


『分かった。二つな。』


送信してから、少し考えて、もう一行送った。


『青のりついても、今度は怒らない。』


返事はすぐに来た。


『そこ覚えてるんだ』


佐伯は画面を見つめた。


覚えている。


忘れていたことにしていただけで、覚えている。


たこ焼きの匂い。

浴衣の朝顔。

冷めたパック。

花火の音。

娘が泣かなかったこと。


忘れてはいけなかったものが、急にいくつも戻ってきた。


佐伯はハンドルに両手を置いた。


渋滞が少しずつ動き始める。


バックミラーには、もう花火は映っていなかった。

夜空だけが残っている。


佐伯はウインカーを出し、ゆっくり車を進めた。


空車の赤い表示が、フロントガラスに映っている。


後部座席には誰もいない。

それでも佐伯は、ひとりではないような気がした。


誰かのスケッチブックを拾った。

誰かの封筒を届けた。

自分の言葉を、ようやく娘に送った。


どれも、小さなことだった。


けれど、小さなものほど、失くすと見つけにくい。

そして、見つかったときに手が震える。


佐伯は信号で停まった。


携帯電話をもう一度見る。


美羽の名前が、画面に残っていた。


『美羽』


それだけで、長いあいだ戻せなかったものが、少しだけ戻ったように見えた。

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