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第六章 最後の一発

倉本善治が青い封筒をなくしたことに気づいたのは、河川敷の打ち上げ本部に着いてからだった。


花屋で買った白い花は、墓に供えてきた。


墓石の前で、善治はいつものように長くは話さなかった。

花を替え、水を入れ、線香に火をつける。

それから、ただ黙って立っていた。


墓前で封筒を開けるつもりだった。


今年こそは、と思っていた。

瞬の字を、最後まで読む。

読んでから、明日の一発を決める。


けれど墓に着くと、線香の煙がまっすぐ空へ上がっていくのを見ているだけで時間が過ぎた。

言うことも、読むことも、何もできなかった。


結局、善治は封筒を出さなかった。


逃げたのだ、と自分でも分かっていた。


打ち上げ本部へ戻ると、河川敷は慌ただしかった。


テントが並び、発電機が低い音を立て、若い職人たちが声を掛け合っている。

前日の夕方の空は、まだ明るい。

けれど海の方から、少し湿った風が入ってきていた。


夕立ちの予報は、たぶん当たる。


善治は仮設机の前に座り、明日の打ち上げ順を確認した。


一番玉。

二番玉。

スターマイン。

水中花火。

協賛花火。

終幕特別玉。


紙の上の文字は、毎年ほとんど変わらない。

変わらないからこそ、そこに少しずつ歳月が溜まっていく。


若い頃、善治はこの順番表を見るだけで胸が高鳴った。

どこで観客を驚かせるか。

どこで息をつかせるか。

どの色のあとに、どの音を置くか。


花火大会は、夜空に書く曲のようなものだと思っていた。


いまは、もう少し違う。


一発ずつを無事に上げる。

事故なく終える。

見に来た人が、帰り道に少しだけいい顔をしている。


それで十分だと思うようになった。


十分だと思うようになったのか、十分だと思い込もうとしているのか、善治には分からない。


机の端には、二枚の札が置かれていた。


一枚には、黒い筆文字で書かれている。


『終幕特別玉』


もう一枚には、善治が自分で小さく書いた文字があった。


『夏日憂歌』


その札を、善治は裏返しにしていた。


誰にも見せていない。


職人たちには、終幕用の玉とだけ伝えてある。

花火大会の資料にも、正式な名前は載っていない。

協賛者に説明する必要もなかった。


花火の玉は、すでに出来上がっている。


春から初夏にかけて、善治が少しずつ作った。

火薬の量も、星の配置も、色の移り方も、すべて調整してある。

明日上げようと思えば、上げられる。


だから問題は、作れるかどうかではなかった。


上げられるかどうかだった。


善治は、内ポケットへ手を入れた。


青い封筒に触れるはずだった。


指先は、何にも触れなかった。


一度目は、ゆっくり探した。


次に、もう一度。

今度は、少し乱暴に。


胸ポケット。

内ポケット。

外ポケット。

上着を脱ぎ、裏返す。

ズボンのポケット。

作業用の鞄。

車の助手席。

本部の机の下。


ない。


青い封筒は、どこにもなかった。


「倉本さん?」


若い職人の一人が声をかけてきた。


「どうかしましたか」


「いや」


善治は上着を着直した。


「なんでもない」


なんでもないわけがなかった。


けれど、説明できるものでもなかった。


あの封筒は、花火を上げるための設計書ではない。

なくしたからといって、明日の作業が止まるわけではない。

誰かに怒られるものでもない。

大会に支障が出るものでもない。


ただ、善治の胸の中にあるものが、すうっと暗くなった。


やはり、上げるなということなのかもしれない。


そう思った。


思った瞬間、どこかで少しだけ楽になった自分に気づいた。


封筒がない。

だから読めない。

読めないから、決められない。

決められないなら、いつもの終幕玉でいい。


仕方なかった、という言葉は便利だ。


人はその言葉で、何度でも自分を許すことができる。

許したふりもできる。


善治は、裏返しにしていた『夏日憂歌』の札を見た。


指でつまみ、さらに机の奥へ押しやった。


そのとき、雷が遠くで鳴った。


河川敷にいたスタッフの何人かが空を見た。

風が変わっていた。


夕立ちが来る。


善治は立ち上がった。


「シート、もう一度確認しろ」


声を出すと、体が仕事の方へ戻る。


「はい」


「火薬庫の周り、濡らすな。ケーブルも浮かせておけ」


「はい」


若い職人たちが動き出す。


仕事は、悲しみを待ってくれない。


それは昔からそうだった。


瞬が入院していたときも、花火大会はあった。

熱を出した夜にも、発注の電話は鳴った。

病室から帰ったあとでも、火薬は湿気を嫌い、糊は乾き、紙は巻かなければならなかった。


息子が死んだ翌年も、町は花火を待っていた。


善治は、それを恨んだことがある。


どうして上げなければならないのかと思った。

どうして夜空を明るくしなければならないのかと思った。

どうして人は、誰かが死んだあとも、花火を見て笑えるのかと思った。


けれど、花火を上げない夏の方が、もっと怖かった。


何も上がらない夜空を見たら、瞬が本当にいなくなったことを認めなければならない気がした。


だから善治は、上げ続けた。


瞬の花火だけを、上げなかった。


**********


瞬は、花火師になりたがっていた。


善治は最初、それを本気にしていなかった。


子どもは親の仕事を見て、簡単に同じものになりたがる。

電車の運転士。

大工。

魚屋。

消防士。

花火師。


そういう憧れは、年齢とともに薄れていくものだと思っていた。


けれど瞬は、薄れなかった。


小学生の頃、夏休みの自由研究に花火玉の断面図を書いた。

中学生になると、星の色について聞くようになった。

どの金属でどんな色が出るのか。

なぜ青は難しいのか。

なぜ同じ火薬でも、湿気で違うのか。


善治は、面倒くさがりながらも教えた。


教えてしまった。


あの子は覚えがよかった。

それに、見る目があった。


派手なものだけを喜ぶ子ではなかった。

大きな音や、連続して上がるスターマインよりも、消え際の長い花火をじっと見ていた。


「父さん、今の、終わったあとがよかった」


そんなことを言う子だった。


善治は笑った。


「花火は終わる前を見ろ」


「終わったあとも見えるよ」


「見えねえよ。消えたら終わりだ」


「でも、目の中に残る」


瞬はそう言った。


善治は、返事をしなかった。


花火師の息子らしいことを言う、と思っただけだった。


病気が分かったのは、瞬が中学三年の秋だった。


それから、夏の意味が変わった。


工房の夏は忙しい。

病院の夏は白い。


白い壁。

白いシーツ。

白いカーテン。

消毒液の匂い。

冷房の音。


病室の窓から、遠くの空が見えた。


花火大会の日、瞬は病院の屋上へ出る許可をもらった。

けれど、体調が悪くて最後まではいられなかった。


音だけを聞いて、途中で病室へ戻った。


その夜、善治が病室へ入ると、瞬はベッドの上でノートに何かを描いていた。


「寝てろ」


「寝てる」


「起きてるじゃねえか」


「寝ながら描いてる」


「屁理屈言うな」


瞬は笑った。


その笑い方が、いまでも善治の耳の奥に残っている。

声ではなく、息の形として。


ノートには、花火の絵が描かれていた。


青い芯。

白い輪。

金色の細い光。


子どもの絵だった。

正確な設計図ではない。

火薬の量も、星の配置も、専門的な数字も書かれていない。


けれど、何を見せたいのかは分かった。


「青か」


善治が言うと、瞬はうなずいた。


「青から始まるのがいい」


「青は難しい」


「知ってる」


「知ってて言うのか」


「父さんならできる」


善治は、また返事をしなかった。


できるかどうかではなかった。


その花火を作るということが、瞬の終わりを認めるようで怖かった。


瞬はノートの上に、ゆっくりと題名を書いた。


『夏日憂歌』


「なんだ、それ」


善治が聞いた。


「名前」


「読めねえやつがいるぞ」


「読める人が読めばいい」


「花火の名前なんて、もっと景気よくしろ」


「景気いい花火は、他の人が作るから」


瞬はそう言って、鉛筆を置いた。


「これは、そういうのじゃない」


善治は、何がそういうのではないのか分からなかった。


分からないまま、何も言わなかった。


その何も言わなかったことが、あとになって何度も戻ってきた。


瞬が亡くなったあと、病室の引き出しから青い封筒が出てきた。


表には、細い字で書かれていた。


『最後の一発に』


中には、あの花火のラフスケッチと、善治への手紙が入っていた。


善治は、手紙を最後まで読まなかった。


読めなかった。


最初の数行で、息ができなくなった。

封筒を閉じた。

工房の奥の引き出しにしまった。


それから十八年、何度も取り出した。

何度も開こうとした。

何度も閉じた。


そして今年、倉本煙火店を畳むと決めた春、善治はようやく瞬の花火を作り始めた。


設計図ではなく、ラフスケッチだった。

だから、形にするのは善治の仕事だった。


青の芯をどう出すか。

白の輪をどれだけ遅らせるか。

金色の光を、どのくらい長く残すか。


瞬が描いたものを、そのまま空に上げることはできない。

花火は夢ではなく、火薬と紙と湿度と風の中で開くものだ。


善治は、息子の夢を現実に直した。


それが父親として正しいのか、花火師として正しいのかは分からなかった。


ただ、作った。


作ってしまった。


そして、上げられずにいた。


**********


夕立ちは、やはり来た。


本部のテントを、大粒の雨が叩いた。


河川敷の地面が黒く濡れ、スタッフの靴が泥を跳ねる。

若い職人たちはブルーシートを押さえ、発電機の周りに水が流れ込まないように土嚢を動かした。


善治は雨の中を動き回り、何度も声を出した。


仕事をしている間は、封筒のことを考えずに済んだ。


けれど雨が弱まり、空の端に薄い光が戻ると、また胸の中が静かになった。


静かになると、なくしたものの形がはっきりする。


青い封筒。


瞬の字。

読まなかった手紙。

作ったのに上げられない花火。


善治は、仮設机の前に戻った。


『夏日憂歌』の札は、机の奥に裏返しのまま置かれている。


それでいい。


そう思おうとした。


そのとき、受付の方から若いスタッフが走ってきた。


「倉本さん、お客さんです」


「客?」


「タクシーの運転手さんが、倉本煙火店あてのものを預かってきたって」


善治は、すぐには立てなかった。


膝の力が抜けたわけではない。

ただ、体が一瞬、言葉の意味を受け取れなかった。


スタッフが不思議そうに見ている。


善治は、ゆっくり立ち上がった。


受付のテントの端に、タクシー運転手が立っていた。


四十代半ばくらいの男だった。

制服の肩が、少しだけ雨に濡れている。

顔には、余計な愛想がなかった。


「倉本さんですか」


男が言った。


「はい」


「これ、倉本煙火店あてです。配達の人が工房まで行ったそうですが、不在で。張り紙に、本部へとありましたので」


男は、青い封筒を差し出した。


善治は、その封筒を見た。


胸の奥で、何かが止まった。


青は、少し褪せている。

角は柔らかくなっている。

表には、細い文字。


『最後の一発に』


戻ってきた。


それだけだった。


誰が拾ったのか、善治には分からない。

どこを通ってきたのかも分からない。

なぜ捨てられずにここまで来たのかも分からない。


ただ、戻ってきた。


善治は、両手で封筒を受け取った。


封筒の端に、乾きかけた水の跡があった。

濡れたのかもしれない。

濡れそうになったのかもしれない。


けれど、封は開いていなかった。


「……どうも」


声がかすれた。


「いえ」


男はそれ以上、何も聞かなかった。


この封筒が何なのか。

なぜ善治の手が震えているのか。

なぜただの落とし物に見えるものを、老人が両手で抱えるのか。


何も聞かなかった。


男は軽く頭を下げ、タクシーの方へ戻っていった。


善治は、しばらくその背中を見ていた。


知らない男だった。


青い封筒を拾った人も、預かった人も、運んだ人も、善治は知らない。


それでも、封筒は戻ってきた。


その分からなさごと、重かった。


善治は封筒を胸に抱え、本部の奥へ戻った。


机の前に座る。

周りの声が、少し遠くなった。


若い職人が何かを尋ねたが、善治は手を上げて制した。


「少し、外す」


誰もそれ以上聞かなかった。


善治は、打ち上げ本部の裏にある小さな資材テントへ入った。


そこには、予備のシートや工具、ケーブル、軍手が積まれている。

湿った土と、火薬と、雨に濡れたビニールの匂いがした。


善治は折り畳み椅子に腰を下ろした。


青い封筒を膝の上に置く。


十八年。


それだけの時間が、この紙の中にあった。


善治は封を開けた。


中から、折り畳まれた紙が数枚出てきた。


一枚目は、ラフスケッチだった。


青い芯。

白い輪。

金色の光。


端には、瞬の字。


『夏日憂歌』


二枚目は、手紙だった。


善治は、最初の行からゆっくり読んだ。


『父さんへ。


この花火を上げるかどうか迷ったら、上げてください。


ぼくを覚えている人のためじゃなくていいです。


ぼくを知らない人が見てくれたら、それでいいです。


今日つらかった人の窓に、一秒だけ映ればいいです。


今日うれしかった人が、もっと遠くまでそのうれしさを持っていけたらいいです。


誰かが、明日を少しだけ待てるなら、ぼくの花火は上がった意味があります。


父さんの花火は、消えたあとも残ります。


ぼくはそれを、何度も見ました。


だから、ぼくの夏を、誰かの始まりにしてください。


最後の一発に。


瞬』


善治は、手紙を持ったまま動けなかった。


何度も読めなかった手紙だった。


読めば、瞬が死んだことを認めることになると思っていた。

読めば、もう何かが終わってしまうと思っていた。


けれど、そこに書かれていたのは、終わりのことだけではなかった。


誰かの始まり。


善治は、声を出さずにその言葉を読み返した。


ぼくを知らない人が見てくれたら、それでいいです。


青い封筒は、瞬を知らない誰かの手で戻ってきた。


善治は、誰の名前も知らない。

顔も知らない。

どんな人が拾ったのかも、どんな気持ちで渡したのかも知らない。


でも、誰かが捨てなかった。

誰かが開けなかった。

誰かが雨から守った。

誰かがここまで運んだ。


それだけは分かった。


瞬の手紙は、瞬を知らない人たちの手を通って、父のもとへ戻ってきた。


善治は、目を閉じた。


長いあいだ、自分だけが瞬を覚えていなければならないと思っていた。


自分が忘れたら、瞬が本当に消えてしまう。

自分が上げなければ、瞬の花火は汚れずに残る。

自分が封筒を閉じておけば、瞬の夏は終わらない。


そう思っていた。


違ったのかもしれない。


閉じていたのは、瞬の夏ではなかった。

善治の方だった。


手紙の上に、涙が落ちそうになった。


善治は慌てて顔をそむけた。


紙を濡らしてはいけない。

十八年も守ってきたものを、今さら自分の涙で濡らすわけにはいかない。


けれど、涙は止まらなかった。


花火師の手は、火薬には慣れている。

紙にも、糊にも、火にも慣れている。


それなのに、息子の字だけは、どう扱えばいいのか分からなかった。


善治は手紙を封筒に戻した。


ラフスケッチだけを机の上に広げる。


子どもの線だった。


拙い。

不正確。

でも、迷いがない。


善治は、資材テントを出た。


雨は上がっていた。


河川敷の空には、雲の裂け目から夕方の光が差していた。

濡れたシートが鈍く光り、川面にはまだ雨粒の輪が残っている。


善治は仮設机へ戻り、奥に押しやっていた札を手に取った。


『夏日憂歌』


札を表に返す。


若い職人が近づいてきた。


「倉本さん、終幕の玉、予定通りでいいですか」


善治は、少しだけ間を置いた。


それから、うなずいた。


「予定通りだ」


「分かりました」


若い職人は、それ以上聞かなかった。


善治は札を持ち、玉の確認表の端に置いた。


手は、もう震えていなかった。


**********


花火大会の日、朝から空はよく晴れていた。


昨日の夕立ちが嘘のように、河川敷には強い日差しが落ちている。

濡れた地面は午前中のうちに乾き、草の匂いだけが少し残った。


善治は早朝から打ち上げ場にいた。


点火装置の確認。

ケーブルの確認。

玉の順番。

風向き。

保安距離。

本部との連絡。

若い職人たちの顔色。


花火大会の日は、花火を見る日ではない。


上げる日だ。


観客は夜空を見る。

花火師は地面を見る。


ケーブルの向き。

筒の角度。

湿気。

火の残り。

風の変化。


空に開く一瞬のために、地上で見なければならないものが多すぎる。


善治はそれを五十年以上やってきた。


今年が終われば、倉本煙火店は畳む。

工房の看板も下ろす。

古い道具のいくつかは処分する。

残せるものだけを、若い職人の一人が引き取ると言っている。


善治はそれでいいと思っていた。


思っていたのに、朝、工房の鍵を閉めるとき、手がなかなか離れなかった。


看板の文字が、夏の朝の光を受けていた。


『倉本煙火店』


祖父の代から続いた名前だった。

父が守り、善治が継いだ。

瞬は、継ぐ前にいなくなった。


続かなかったものを数え始めると、きりがない。


だから善治は、続いたものだけを数えることにした。


作った花火。

上げた夜。

見上げた人たち。

そして、戻ってきた青い封筒。


封筒は、本部の机の引き出しに入れてある。


持っていくか迷ったが、打ち上げ場には持ち出さなかった。


もう手に持っていなくてもいいと思った。


瞬の手紙は、読んだ。

読んで、受け取った。


あとは、空へ返すだけだった。


夕方になると、町の空気が変わった。


河川敷の向こうには、人が集まり始める。

屋台の明かりが灯り、提灯が揺れ、橋の上には早くも人の列ができていた。


遠くから、子どもの声が聞こえる。

スピーカーの調整音。

屋台の発電機の音。

川を渡る風の音。


善治は打ち上げ場の隅に立ち、空を見た。


風は悪くない。


若い職人が言った。


「倉本さん、そろそろです」


「ああ」


善治は軍手をはめ直した。


日が沈み、町の灯りが増えていく。


そして、花火大会が始まった。


一発目が上がる。


音が腹に響く。


観客の歓声が、少し遅れて川を渡ってくる。


善治は空を見上げなかった。


点火の確認。

次の段取り。

無線の声。

職人への指示。


花火師は、自分の花火を客のようには見られない。


それでいい。


ずっとそうやってきた。


赤が上がる。

白が上がる。

金が枝垂れる。

連続した光が夜空を埋める。


善治は、必要なときだけ空を見た。

開き方。

風に流れる方向。

煙の残り。


きれいだと思う余裕は、ほとんどなかった。


それでも、音だけは胸に入ってくる。


花火の音は、歳を取ると遠くなると思っていた。

耳が鈍くなり、体が衰え、昔ほど響かなくなるのだろうと。


違った。


歳を取ると、音は奥に響く。


若い頃は腹に響いた。

今は、思い出に響く。


一発ごとに、昔の工房が見える。

父の背中。

若い頃の自分。

病室の窓。

ノートに花火を描く瞬の手。


善治は何度も、目の前の作業へ意識を戻した。


今夜は、思い出に飲まれてはいけない。


飲まれるために上げるのではない。

手放すために上げる。


大会は進んでいった。


河川敷の空気が、少しずつ終わりへ近づいていく。


その気配は、花火師には分かる。

観客のざわめき。

本部の無線。

職人たちの動き。

次に準備される玉の数。


善治は、最後の玉の前に立った。


『夏日憂歌』


正式な資料には、その名前はない。


けれど善治の中では、その名前以外では呼べなかった。


若い職人が、小さく言った。


「点火、こちらで」


善治は首を振った。


「これは、俺がやる」


若い職人は、何か言いかけた。

けれど、善治の顔を見て、何も言わなかった。


「お願いします」


善治は点火装置の前に立った。


指先は静かだった。


不思議だった。


十八年、ずっと逃げてきた。

昨日まで、まだ逃げようとしていた。


それなのに今、怖さはなかった。


悲しみが消えたわけではない。

瞬が戻ってきたわけでもない。

失った時間が返ってきたわけでもない。


ただ、悲しみを握りしめたままでは、花火は上がらない。


火をつけるには、手を開かなければならない。


善治は、夜空を見た。


どこかで誰かが見ている。


自分のことを知らない人。

瞬のことを知らない人。

倉本煙火店の名前も知らない人。


夢を言えずにいる人。

誰かに謝れない人。

戻りたい場所から逃げた人。

さよならを言えない人。

失くしたものを探している人。


善治には、その誰の顔も見えない。


それでよかった。


瞬が望んだのは、そういう花火だった。


善治は点火した。


一瞬、地上が静かになった。


次に、筒の底で火が走る音がした。


玉が上がる。


黒い夜空へ、まっすぐに。


善治は顔を上げた。


音より先に、光が開いた。


青い芯が、夜の真ん中に咲いた。


強すぎない青だった。

けれど弱くもない。


夏の昼に焼かれた町の、誰にも言えなかった影を、そっとすくい上げるような青だった。


その青を包むように、白い輪がゆっくり広がった。


白は眩しくなかった。

病室の壁のような白でも、墓前の花のような白でもない。

もっと柔らかく、夜空の中でほどけていく白だった。


そして外側から、金色の光が降った。


細く、長く。


雨のように見えた。


けれど、濡らすための雨ではなかった。

落ちていく光の一つひとつが、消えることを急がず、空にしばらく残ろうとしているようだった。


派手な花火ではなかった。


観客を驚かせる大きさではない。

腹の底を揺らす轟音でもない。

夜空を埋め尽くす数でもない。


けれど、消え際が長かった。


消えているのに、まだ見える。

もうそこにはないのに、まぶたの裏に残る。


瞬が言っていた通りだった。


終わったあとも見える。


善治は、空を見上げたまま立っていた。


音が遅れて届いた。


その音に、胸の奥の何かがほどけた。


泣いていることに、少し遅れて気づいた。


涙は頬を伝った。

拭かなかった。


若い職人たちも、誰も声をかけなかった。


善治は、小さく口を開いた。


「瞬」


その声は、夜と音に紛れて消えた。


届かなくてもよかった。


この花火は、死んだ息子へ届けるためだけに上げたものではない。

息子が残したものを、知らない誰かの夜へ手放すために上げたものだった。


青い封筒は戻ってきた。

けれど、花火は戻ってこない。


空へ行ったものは、空で消える。


消えて、誰かの目の中に少しだけ残る。


それでいい。


それがいい。


善治は、もう一度だけ空を見た。


青も、白も、金色も、もうそこにはなかった。


けれど胸の中には、まだ光があった。


「今年の夏は」


善治は、誰にも聞こえないくらいの声で言った。


「ちゃんと終わったぞ」


終わった。


その言葉は、昨日まで思っていたよりも冷たくなかった。


終わることは、なくなることではないのかもしれない。


終わるから、誰かが帰れる。

終わるから、誰かが言える。

終わるから、誰かがまた始められる。


善治は、点火装置から手を離した。


その手は空だった。


もう何も握っていなかった。


本部の方から、拍手のような音が聞こえてきた。

観客の歓声なのか、職人たちの声なのか、川の風に混ざってよく分からない。


善治には、分からなくてよかった。


自分の息子の花火が、どこで誰に見えたのか。

誰の窓に映ったのか。

誰が息を止めたのか。

誰が少しだけ明日を待てるようになったのか。


善治には知る術がない。


それでも、花火は上がった。


瞬の夏は、空に開いた。


そして、知らない誰かの夜へ消えていった。


善治は工房を畳む。


看板は下りる。

道具はいくつか残り、いくつかは捨てられる。

来年、この打ち上げ場に善治が立つことはないかもしれない。


けれど、もうそれを寂しさだけでは見なかった。


夜空には、もう何も残っていなかった。


けれど凪浜のどこかで、いくつもの物語が、音もなく火をつけられていた。

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