第三章 レモンアイス
立花遼は、花屋の前で青い封筒を受け取った。
「倉本煙火店の方、今日回ります?」
椎名灯にそう聞かれたとき、遼は最初、いつもの配送の話だと思った。
灯花から旧市街へは、ときどき荷物が出る。
喫茶店の開店祝いの鉢植え。美容室の受付に置くドライフラワー。年配の客が墓参り用に買った花を、自宅まで届けることもある。
商店街の小口配送は、地味な仕事だった。
大きな荷物は少ない。
料金も高くない。
けれど、断るには少しだけ面倒なものが多い。
花。
薬。
修理に出した靴。
クリーニング。
誰かが誰かに渡しそびれた小さな紙袋。
そういうものを、遼は軽バンで運んでいる。
「旧市街の奥ですよね。直接の荷物はないですけど、近くまでは行きます」
「じゃあ、届けてもらえますか。落とし物みたいで」
灯が差し出したのは、古い青い封筒だった。
遼はそれを受け取った。
思っていたより軽い。
けれど、柔らかくなった角を指で押さえた瞬間、ただの紙とは違う感触があった。古い財布や、長く持ち歩かれた手帳に触れたときのような、持ち主の時間が少し染み込んでいる感触。
表に、細い字で書かれていた。
『最後の一発に』
遼は、その文字から少しだけ目を離せなかった。
「夕立ちの予報が出ているから、できれば手渡しで。もし工房にいなかったら、無理しなくていいです。戻してください」
灯が言った。
「分かりました」
「中は見てません」
「見ませんよ」
遼は軽く笑って、封筒を配送用のバッグに入れた。
見ない。
そういう仕事だった。
人の荷物を預かって、人の場所へ運ぶ。
中身を知らないまま、渡す。
それでいい。
むしろ、中身を知りたいと思うようになったら、この仕事は続かない。
遼は灯花の小さな箱を二つ、軽バンの後ろに積んだ。
美容室へ届けるドライフラワー。旧市街の喫茶店へ届ける小鉢。
そして、青い封筒。
運ぶものとしては、どれも軽い。
それでも遼は、軽バンのドアを閉める前に、バッグの中の封筒をもう一度見た。
『最後の一発に』
最後。
その言葉は、嫌なところに触れてくる。
遼はドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
軽バンの中は、昼の熱が残っていた。
エンジンをかけると、弱い冷房が息を吹き返す。ダッシュボードの隅には、古いピックケースが置いてあった。
黒いプラスチック製の、安っぽいケースだ。
表面には、白い文字でバンド名が入っている。
THE LOW TIDE。
干潮。
名前だけは、当時から少し気に入っていた。
売れるほどのバンドではなかった。
それでも一時期は、遼たちなりに本気だった。
ライブハウスの狭い楽屋で汗を拭き、夜中のスタジオで同じフレーズを何度も弾き、デモ音源を送って、返事の来ないメールを待った。
ボーカルは真琴だった。
真琴の声は、まっすぐではなかった。
少し掠れていて、少し遠くて、でも耳の奥に残る声だった。
初めてその声を聞いたとき、遼は思った。
この声なら、自分の作った曲でもどこかへ行けるかもしれない。
それは、恋に近い勘違いだった。
あるいは、恋そのものだったのかもしれない。
遼は左手でハンドルを握り、右手でピックケースを小物入れの奥へ押し込んだ。
もう使わないものだ。
でも、捨てていない。
使わないものと、捨てられないものの間には、長くて暗い廊下がある。
遼はもう三年、その廊下の途中に立っていた。
旧市街へ向かう道は、花火大会の準備で少し混んでいた。
橋の欄干には提灯が吊られ、河川敷へ向かう歩道には屋台の骨組みが並んでいる。交通規制の看板を立てる作業員が、汗を拭きながら道路脇にしゃがみこんでいた。
ラジオでは、天気予報が流れていた。
夕方以降、凪浜市周辺では局地的な雷雨や強い夕立ちにご注意ください。
遼はフロントガラスの向こうを見た。
空はまだ明るい。
けれど海の方角だけ、雲の底が少し濃くなっていた。
「降るなよ」
誰に言うでもなく呟いた。
雨の日の配送は面倒だ。
荷物が濡れる。道が混む。客が機嫌を悪くする。
そして何より、ギターケースを抱えてライブハウスへ走っていた頃のことを、余計に思い出す。
雨の日のライブは、客が少ない。
それでも来てくれた人の顔は、よく覚えている。
濡れた髪。
足元に置かれたビニール傘。
狭いフロアに残る湿った匂い。
真琴は、雨の日の方がよく歌った。
「客が少ない方が、一人ずつに届く気がする」
そんなことを言っていた。
遼はその言葉を、若い頃は綺麗だと思った。
今思うと、真琴は綺麗なことを言うために歌っていたわけではなかった。
本気でそう思っていただけだ。
遼が音楽をやめたのは、売れなかったからではない。
怖くなったからだ。
真琴の声が、少しずつ遠くへ行くのが分かった。
自分の曲では足りないと思った。
自分のギターでは支えられないと思った。
誰かに言われたわけではない。
ただ、自分でそう思った。
そう思った瞬間から、スタジオの床も、ギターの弦も、真琴の横顔も、全部が少しずつ自分を責めているように見えた。
だから逃げた。
仕事が忙しい。
体調が悪い。
曲が書けない。
少し休みたい。
言い訳は、いくらでもあった。
最後に真琴から届いたメッセージは、まだ携帯に残っている。
『ちゃんと終わらせるなら、ちゃんと来て』
遼は行かなかった。
終わらせることからも、逃げた。
旧市街の美容室へドライフラワーを届け、喫茶店へ小鉢を運ぶ頃には、空がさらに暗くなっていた。
倉本煙火店は、旧市街の一番奥にある。
昔はもっと店が並んでいたらしいが、今はシャッターの下りた建物が多い。古い畳屋、廃業した写真館、看板の文字が薄くなった金物屋。その並びの先に、低い木造の工房があった。
『倉本煙火店』
看板の文字は古いが、手入れはされている。
軒先には、花火大会のポスターが貼られていた。
遼は軽バンを脇に停め、配送バッグから青い封筒を取り出した。
工房の前まで行く。
引き戸は閉まっていた。
呼び鈴を押す。
返事はない。
もう一度押す。
やはり返事はない。
遼は小さく舌打ちしそうになって、やめた。
引き戸の横に、白い紙が貼られていた。
『花火大会準備のため不在にしております。
御用の方は、河川敷打ち上げ本部までお願いいたします』
遼は、封筒を見た。
普通の荷物なら、ポストに入れて終わりだった。
けれどポストは古く、口が少し歪んでいる。
夕立ちの予報が出ている。
封筒も古い。
中身は知らない。
知らないが、濡らしていいものには見えなかった。
表の文字が、また目に入る。
『最後の一発に』
「……だから、重いんだよ」
遼は小さく言った。
軽い封筒に向かって言う台詞ではなかった。
携帯を取り出し、配送アプリで次の予定を見る。
十八時までに、駅前の薬局へ伝票を取りに戻らなければならない。河川敷の本部まで行って戻れば、間に合わないかもしれない。
遼は工房の軒下に立ったまま、しばらく考えた。
雲の奥で、低い雷の音がした。
「兄ちゃん、それ、落ちそう」
声がした。
遼は顔を上げた。
工房の前の路地に、小学生くらいの男の子が立っていた。
青いTシャツに、膝の出た短パン。片手に、コンビニの袋を持っている。袋の中には、溶けかけた氷菓子らしき箱が入っていた。
男の子は、遼の軽バンのボンネットを指さしていた。
そこに、青い封筒が置かれていた。
遼は工房の貼り紙を確認するため、無意識に封筒をボンネットの上に置いていたらしい。
風が吹くたび、封筒の角が少し浮いている。
「あ、悪い」
遼が手を伸ばすより早く、男の子が封筒を押さえた。
「これ?」
「それ。ありがとう」
男の子は青い封筒を両手で持ち、遼へ差し出した。
「大事なやつ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺のじゃないけど、大事なもの」
男の子は少し考えた顔をした。
「人のでも?」
「人のでも」
遼は封筒をバッグの中へ戻した。
そのとき、ボンネットの横で小さな音がした。
カツン、と乾いた音。
遼のポケットから、黒いピックケースが落ちていた。
男の子がそれを拾った。
「これも落ちた」
遼は反射的に手を伸ばしかけて、途中で止まった。
男の子は、ピックケースの表面を見た。
「ざ、ろう……?」
「読まなくていい」
遼は少し強い声で言った。
男の子はびくっとして、ピックケースを差し出した。
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ。悪い」
遼は受け取った。
黒いケースは、男の子の手の中にあると、思っていたより小さく見えた。
昔はこれを、何度もポケットから出していた。ライブ前に一枚選び、指でしならせて、また戻す。その動作だけで、自分が音楽をやっている人間だと思えた。
「ギターのやつですか」
男の子が聞いた。
遼はピックケースをポケットに入れようとして、また止めた。
「昔な」
「昔って、もういらないってこと?」
悪気のない声だった。
それなのに、遼はすぐに答えられなかった。
いらない。
そう言えたら、どれだけ楽だっただろう。
いらないから捨てた。
いらないからやめた。
いらないから忘れた。
そういうことにできれば、夜中に古い音源を聞き返すこともなかった。弦の切れたギターを部屋の隅に置いたまま、見ないふりをする必要もなかった。真琴のメッセージを消せないまま、三年も携帯の奥に残しておくこともなかった。
「いらないわけじゃない」
遼は言った。
男の子は首をかしげた。
「じゃあ、いるの?」
遼は笑いそうになった。
笑えなかった。
「そういうのが、一番困るんだよ」
「へんなの」
「大人は変なんだよ」
「知ってる」
男の子は即答した。
遼は今度こそ少し笑った。
「名前は?」
聞いてから、余計なことを聞いた気がした。
男の子は一瞬迷ってから言った。
「奏太」
「そっか。奏太」
「そっちは?」
「遼」
「りょう」
奏太は、名前を覚えるように一度だけ繰り返した。
それで十分だった。
遠くで、また雷が鳴った。
奏太は空を見た。
「降るかな」
「予報では降る」
「お母さん、早く戻れって言ってた」
「じゃあ戻れよ」
「戻るけど」
奏太はコンビニ袋を見た。
中の氷菓子の箱が少し濡れている。
さっきから歩いていたせいか、箱の角が柔らかくなっていた。
「それ、溶けるぞ」
「うん」
奏太は袋の口を握り直した。
遼は少し考えてから、軽バンのドアを閉めた。
「待ってろ」
「え?」
「礼」
近くの自販機には、アイスの販売機も並んでいた。
遼は小銭を入れ、レモン味の棒アイスを一本買った。
子どもに渡すには安い。
でも、高いものを渡すのも変だった。
遼は戻って、奏太に差し出した。
「これ、さっきの礼」
「いらない」
「じゃあ俺が食う」
「食べれば」
「俺が食うには、もう似合わない」
奏太は眉を寄せた。
「アイスに似合うとかあるの?」
「あるんだよ、大人には」
「やっぱり変」
そう言いながらも、奏太はアイスを受け取った。
袋を破って、少しだけかじる。
すぐに顔をしかめた。
「すっぱい」
「レモンだからな」
「知ってる」
奏太はもう一口かじった。
その顔を見て、遼はなぜか昔の自分を思い出した。
夏のリハーサルのあと、真琴と二人でコンビニの前に座って食べた安いアイス。汗をかいた手でギターケースを持ち、財布の中には小銭しかなく、それでも明日もスタジオへ行くことを少しも疑っていなかった頃。
あの頃の自分は、馬鹿だった。
けれど、馬鹿だったから続けられたこともある。
「遼」
奏太が言った。
「それ、どうするの」
「どれ」
「人のだけど大事なやつ」
青い封筒のことだった。
遼は工房の貼り紙を見た。
河川敷打ち上げ本部。
「本部まで届けたいけど、仕事が詰まってる」
「届けないの?」
「届けるよ」
遼は言ってから、少し驚いた。
迷っていたはずだった。
店に戻してもいい。
明日でもいい。
そう考えていた。
けれど、奏太に聞かれると、届ける以外の答えが出てこなかった。
俺のじゃないけど、大事なもの。
自分で言った言葉が、戻ってきた。
路地の向こうから、タクシーがゆっくり走ってきた。
空車ではなかった。
後部座席に、花火大会の腕章をつけた中年の男が乗っている。河川敷の実行委員だろうか。助手席の窓が少し開いていた。
遼は手を上げた。
タクシーが停まる。
運転席の男が窓を下げた。
四十代半ばくらい。疲れた目をしているが、乱暴な感じではなかった。
「どうしました」
「河川敷の本部まで行きますか」
「行くけど」
遼は配送バッグから青い封筒を出した。
「これ、倉本煙火店あてです。工房が閉まってて、本部へって貼ってあったんで」
運転手は封筒を見た。
「急ぎ?」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも、ポストに入れるのは違う気がして」
運転手は少しだけ黙った。
後部座席の実行委員らしき男が、「本部までならすぐそこだろ」と言った。
運転手はうなずき、窓から手を出した。
「分かった。預かる」
遼は青い封筒を渡した。
「すみません」
「いいよ。ついでだから」
それだけだった。
運転手は封筒を助手席に置き、タクシーを発進させた。
遼はタクシーが角を曲がるまで見ていた。
奏太が隣でアイスを食べている。
レモンの匂いが少しした。
「届く?」
奏太が聞いた。
「届くだろ」
「たぶん?」
「たぶんじゃない」
遼は言った。
「届く」
奏太はそれで納得したのか、残りのアイスを少しずつ食べ始めた。
夕立ちの最初の雨粒が落ちたのは、その直後だった。
大粒の雨が、工房の前の地面に黒い点を作った。
二つ、三つ。
すぐに数えられなくなる。
「帰れ」
遼が言うと、奏太はコンビニ袋を握って走り出した。
途中で振り返る。
「ピック、落とすなよ」
遼は返事をしなかった。
代わりに、ポケットの中のピックケースを握った。
雨が強くなった。
遼は軽バンに乗り込み、ワイパーを動かした。
フロントガラスの向こうで、旧市街の路地が白く煙っていく。
『昔って、もういらないってこと?』
奏太の声が、雨音の間から聞こえた気がした。
遼はエンジンをかけた。
次の配送へ向かわなければならない。
仕事は待ってくれない。
雨も待ってくれない。
終わらせなかったものだけが、いつまでも待っている。
**********
花火大会の夜、遼は配達先のビルの非常階段にいた。
本当なら、もう家に帰っている時間だった。
けれど花火大会の日は道路が混む。商店街の配送も、通常より遅れる。最後の荷物を届け終えたときには、夜の空にいくつも花火が開いていた。
ビルは河口から少し離れた場所にある。
五階建ての雑居ビルで、一階は古い居酒屋、二階は学習塾、三階から上は事務所だった。
遼は軽バンを裏手に停め、非常階段に腰を下ろした。
ここからは、花火の全体は見えない。
隣のビルの隙間から、空の一部だけが見える。
それくらいがちょうどいいと思った。
大きすぎるものを見ると、自分が小さくなる。
花火も、ライブハウスの照明も、真琴の声も、昔の遼にはときどき大きすぎた。
携帯を取り出す。
画面には、三年前のまま残っている連絡先があった。
真琴。
本名ではなく、バンドで使っていた名前のままだった。
変える機会はいくらでもあった。
消す機会もいくらでもあった。
そのどちらもしなかった。
遼は、送信されないまま保存していた音源ファイルを開いた。
作りかけの曲だった。
最後に真琴とスタジオへ入る予定だった日に、持っていくはずだった曲。
ギターだけ録って、歌は入っていない。
サビの手前で、いつも止まる。
曲名もない。
三年前、遼はそのファイルを何度も聞いた。
そして、自分には才能がないと思った。
真琴に渡すには足りないと思った。
それから聞かなくなった。
けれど、消さなかった。
非常階段の鉄の手すりに、花火の光が一瞬だけ映った。
遼はポケットからピックケースを出した。
黒いケース。
白い文字。
THE LOW TIDE。
奏太が拾ったとき、ケースには少し傷がついていた。昔からあった傷なのか、落としたときについた傷なのか分からない。
『ギターのやつですか』
『昔な』
『昔って、もういらないってこと?』
遼はケースを開けた。
中にはピックが三枚入っていた。
白、黒、透明のもの。透明のピックは黄ばんでいて、もうきれいではない。
一枚を指で挟む。
驚くほど、手が覚えていた。
弦を弾く感触。
手首の角度。
ライブ前、親指と人差し指の間でピックを回す癖。
いらないわけじゃない。
そう答えた自分の声を、遼は思い出した。
では、いるのか。
奏太の問いは、まだ終わっていなかった。
花火が何発も上がった。
歓声は、ここまでは届かない。
音だけが少し遅れて、ビルの壁に跳ね返ってくる。
遼は携帯の画面を見た。
真琴との最後のやりとり。
『ちゃんと終わらせるなら、ちゃんと来て』
その下には、遼が送らなかった返信が下書きのまま残っていた。
『ごめん』
たった三文字。
それすら送らなかった。
ごめん、と言えば終われると思っていた。
でも、本当は終わらせたくなかったのかもしれない。
終わらせる勇気も、続ける勇気もなかった。
だから何も送らず、何も言わず、逃げた。
非常階段の下から、居酒屋の客の笑い声が聞こえた。
誰かが花火を見ようとして外に出ているのだろう。酒の匂いと、焼き鳥の匂いが夜気に混ざる。
遼は音源ファイルを選択した。
送信画面が開く。
宛先。
真琴。
件名。
遼はしばらく考えた。
長い言葉はいらない。
言い訳もいらない。
説明も、たぶんいらない。
件名の欄に入力する。
『続き』
本文。
指が止まる。
花火の音が遠くで響いた。
遼は、昔のスタジオを思い出した。
真琴がマイクの前でヘッドホンを片耳だけ外し、「もう一回」と言った夜。遼が「今のでよくないか」と言うと、真琴は笑った。
「よくない。まだ行ける」
まだ行ける。
遼は画面に文字を打った。
『返事はいらない。
でも、もう一度だけ歌にしたい。』
送信ボタンの上で、指が止まった。
三年前と同じだった。
送れば、何かが変わる。
送らなければ、何も変わらない。
何も変わらないことは、楽だった。
楽で、息苦しかった。
夜空がしばらく暗くなった。
それまで続いていた花火の間隔が、少しだけ長くなる。
町の方からざわめきが上がったが、非常階段まで届く頃にはただの風のように聞こえた。
遼は空を見た。
ビルの隙間に、青い光が開いた。
その青は、すぐには消えなかった。
白い光がその周りを包み、金色の細い線がゆっくりと降っていく。
遼は、音が届く前に送信ボタンを押した。
画面に、送信済みの表示が出た。
その瞬間、花火の音がビルの壁に響いた。
遼は携帯を膝の上に置いた。
何かが終わったわけではない。
何かが始まったとも、まだ言えない。
ただ、三年間動かなかったものが、一度だけ動いた。
それだけだった。
しばらく返信は来なかった。
当然だと思った。
真琴が今も同じアドレスを使っているかどうかも分からない。
読んでくれるかも分からない。
怒るかもしれない。
笑うかもしれない。
何も返さないかもしれない。
それでも、送った。
それだけで、遼は非常階段の空気が少し変わったように感じた。
花火は消えていた。
夜空には、もう黒だけが残っている。
遼はピックケースを閉じた。
そのとき、携帯が震えた。
心臓が一度、強く鳴った。
画面を見る。
真琴からだった。
返信は、一行だけだった。
『明日、スタジオ空いてる』
遼はその文字を見たまま、しばらく動けなかった。
笑うでもなく、泣くでもなく、ただ息を吐いた。
三年前に止まった時間が、許されたわけではない。
逃げたことが消えたわけでもない。
真琴が許してくれたとも限らない。
それでも、明日という言葉があった。
明日。
遼は携帯を胸の前で握った。
非常階段の鉄が、夜風で少し冷えていた。
下の通りでは、花火帰りの人たちの声が少しずつ増えている。
遼は立ち上がった。
軽バンに戻らなければならない。
家に帰ったら、まず弦を張り替えなければならない。
三年放っておいたギターが、まだ音を出すかどうかは分からない。
でも、いるのかと聞かれたものに、今なら答えられる気がした。
いらないわけじゃない。
いる。
遼はピックケースをポケットに入れた。
今度は、落とさないように深く。




