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第二章 閉店前の花屋

女子高生が青い封筒を預けていったあと、灯はしばらくそれを手に持ったまま立っていた。


店の外では、発車したバスが駅前ロータリーをゆっくり回っていく。

後ろの窓に、さっきの女子高生の横顔が一瞬だけ見えた。膝の上にスケッチブックを抱えたまま、彼女は何かを見ているようで、何も見ていないような顔をしていた。


灯は、封筒へ目を戻した。


古い封筒だった。


青といっても、夏の空のような青ではない。何年も机の奥にしまわれて、何度も誰かの手に取られて、そのたびに少しずつ色を失ったような青だった。角は丸く、封の端には細かな毛羽立ちがある。


表には、細い文字で書かれていた。


『最後の一発に』


灯はその文字を、声には出さずに読んだ。


明日の花火大会のことだろうか。


そう思ってから、裏を見る。

かすれた判子が押されていた。


『倉本煙火店』


ついさっき、白いトルコキキョウを買っていった老人の顔が浮かんだ。

毎年、この時期になると必ず来る。口数は少なく、余計なことは聞かれたくないような顔をしているのに、花を選ぶときだけ手つきがとても丁寧になる。


あの人のものだ。


灯は、封筒をレジの奥に置いた。


すぐに届けに行けばよかった。

倉本煙火店は旧市街の奥にある。花屋から歩いて十五分、自転車ならもっと早い。けれど、今は店を空けられない。


午後四時に、大きな花束の予約が入っていた。


婚約祝いの花束だった。


灯はレジ横の伝票を見た。

注文主は、若い女性の名前だった。妹の婚約を祝うのだと、電話で嬉しそうに話していた。


『白と淡い黄色で。明るいけれど、派手すぎない感じにしてください』


その言葉を聞いたとき、灯は受話器を持ったまま少しだけ黙った。

それから、いつも通りの声で「かしこまりました」と答えた。


花屋は、人の始まりに立ち会う仕事だ。


誕生日。

入学式。

開店祝い。

退院祝い。

婚約。

結婚。


それから、人の終わりにも立ち会う。


命日。

葬儀。

法事。

別れの花。


花は、嬉しい日に買われる。

悲しい日にも買われる。


だから灯は、ずっとこの仕事が好きだった。


どちらの日にも、花は必要とされる。

そう思えていた頃は。


「さて」


灯は封筒から目を離し、作業台へ向かった。


白いトルコキキョウ。

淡い黄色のスプレーバラ。

薄緑のユーカリ。

小さな白いカスミソウ。


花束を組むとき、灯はいつも最初に全体の高さを見る。

次に色を見る。

最後に、持ったときの重さを見る。


花束は、見た目だけでは決まらない。

受け取る人が片手で持てるか。

歩くときに崩れないか。

渡した瞬間、どの花が一番先に目に入るか。


そういうことを考えている間は、余計な記憶が遠のく。


鋏の音が、店内に小さく響いた。


茎を切る。

葉を落とす。

水に差す。

紙で包む。


花の仕事は綺麗に見えて、実際には手元がよく汚れる。水は濁るし、葉は床に散るし、夏場の茎はすぐにぬめる。冷房を強くすれば花にはいいが、人間の体が冷える。弱くすれば花が先にくたびれる。


花屋という仕事が、誰かの想像ほど美しくないことを、灯はよく知っていた。


それでも、彼はこの店の匂いが好きだと言った。


「花の匂いだけじゃないんだよな」


春人はよくそう言った。


「水替えしたあとの匂いとか、葉っぱ切ったときの青臭いのとか、そういうのが混じってるのがいい」


「綺麗な言い方してるけど、要するに店が湿っぽいってことでしょ」


「違う。生きてる匂い」


そう言って、春人は笑った。


灯はその言葉を、一年かけて嫌いになろうとした。

けれど、うまくいかなかった。


店の奥には、白い紙が一枚貼られている。


『閉店のお知らせ

九月三十日をもちまして、灯花は閉店いたします。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました』


プリンターで印刷したものだった。


貼ったのは一週間前。

貼るまでに三日かかった。


何度も文章を変えた。

『諸事情により』と書いて、消した。

『店主体調不良のため』と書いて、嘘になると思って消した。

『一身上の都合により』と書いて、冷たすぎると思って消した。


最後は、いちばん短い文章にした。


閉める理由を説明しようとすると、春人のことまで説明しなければならなくなる。

春人のことを説明しようとすると、灯はいつも途中で言葉をなくした。


一年前の九月。


店を閉めたあと、春人はこの店に来るはずだった。

二人で商店街の奥にある小さな居酒屋へ行き、結婚式の招待状の文面を決める予定だった。


灯はその日、試しに自分のブーケを組んでいた。


白い花を中心にして、少しだけ青を入れた。

春人が「灯には青が似合う」と言っていたからだ。


そのブーケは、結局誰にも渡されなかった。


春人は、店に来なかった。


連絡が来たのは、病院からだった。


灯はその夜からしばらく、花の匂いが分からなくなった。

嗅覚がなくなったわけではない。

ただ、花の匂いが全部、同じ匂いに思えた。


置き去りにされたものの匂いだった。


「すみませーん」


店先から声がした。


灯は顔を上げた。


予約の花束を取りに来た女性だった。二十代後半くらいで、雨が降りそうな空を気にしているのか、何度も外を振り返っている。


「お待ちしておりました」


灯は作業台から花束を持ってきた。


白と淡い黄色の花束。

明るいけれど、派手すぎないもの。


女性は両手で受け取ると、顔をぱっと明るくした。


「わあ、すごい。きれい」


「ありがとうございます。持ち歩きのお時間はどのくらいですか」


「一時間くらいです」


「では、足元に保水を多めに入れてあります。夕立ちの予報が出ているので、濡らさないようにお気をつけください」


「ありがとうございます。妹、絶対喜びます」


妹。


婚約祝い。


絶対喜びます。


灯は、笑った。


「よいお祝いになりますように」


女性は嬉しそうに頭を下げ、花束を抱えて店を出ていった。


その後ろ姿を見ながら、灯は少しだけ息を吐いた。


胸の奥が痛んだ。

でも、痛みには種類がある。


春人を思い出す痛みと、誰かの幸せを見たときの痛みは、似ているようで違う。前者は胸の内側を削る。後者は、閉じていた場所を外からそっと押される。


押されても、開くとは限らない。

けれど、押されたことは分かる。


レジ横の青い封筒が、視界の端に入った。


『最後の一発に』


灯は、またその文字を見た。


最後という言葉は、どこに置いても重い。


最後の客。

最後の予約。

最後の夏。

最後の花束。


閉店のお知らせを貼ってから、常連客はみんな似たようなことを言った。


「寂しくなるね」


「残念だね」


「最後にもう一度買いに来るね」


灯はそのたびに、「ありがとうございます」と言った。

それ以外の言葉は出てこなかった。


最後にもう一度。


そう言われるたびに、店は少しずつ本当に終わりへ近づいていく。

自分で決めたことなのに、誰かがそれを口にすると、急に取り返しがつかないことのように思えた。


午後四時半を少し過ぎた頃、店の外に白い軽バンが停まった。


運転席から、立花遼が降りてきた。


商店街の小口配送を請け負っている男だった。宅配会社の制服ではない。黒いポロシャツに、色の褪せたキャップ。背は高いが、少し猫背で、いつも眠そうな目をしている。


「灯さん、集荷あります?」


遼は店先から声をかけた。


「あります。あと、お願いしたいものが一つ」


灯は、奥から小さな箱を二つ持ってきた。

一つは近所の美容室へ届けるドライフラワー。もう一つは、旧市街の喫茶店へ届ける開店祝いの小鉢だった。


遼は伝票を見ながら、いつものように淡々と確認した。


「美容室、喫茶店。旧市街ですね」


「倉本煙火店の方、今日回ります?」


遼は顔を上げた。


「旧市街の奥ですよね。直接の荷物はないですけど、近くまでは行きます」


「これ、届けてもらえますか」


灯は、レジ横の青い封筒を差し出した。


遼はそれを受け取り、表を見た。


『最後の一発に』


ほんの一瞬、遼の視線が止まった。


灯はその変化に気づいたが、何も言わなかった。


「落とし物みたいなんです。倉本さん、昼に来ていたので、たぶん」


「ポストでいいですか」


「夕立ちの予報が出ているから、できれば手渡しで。もし工房にいなかったら、無理しなくていいです。戻してください」


遼は封筒の角を指で押さえた。


「分かりました」


「中は見てません」


「見ませんよ」


遼は少しだけ笑った。


その笑い方は、若いというより、どこか疲れているように見えた。


灯はふと思った。

この人は、昔何をしていた人なのだろう。


商店街の人たちから、遼が前は音楽をやっていたらしい、という話を聞いたことがある。けれど本人に聞いたことはない。人には、花を買う理由を説明したくない日がある。たぶんそれと同じで、昔の話を説明したくない人もいる。


「お願いします」


灯が言うと、遼は軽く封筒を掲げた。


「預かります」


その言い方が、ただの配送ではなく、少しだけ何かを守るように聞こえた。


軽バンが走り去ったあと、店内は急に静かになった。


封筒がなくなったレジ横に、四角い空白が残っている。


灯はそこを見つめた。


誰かの大切なものを預かって、誰かに返す。

それだけのことだった。


それだけのことのはずだった。


でも、胸の奥で何かが小さく揺れていた。


春人が亡くなってから、灯は何かを返せないままでいる気がしていた。


ありがとう。

ごめんね。

待っていてくれていたのに。

花束、まだ渡せていない。


そういう言葉が、一年分、店のどこかに積もっている。


花びらなら掃ける。

枯れた葉なら捨てられる。

濁った水なら替えられる。


けれど、言えなかった言葉は、どこへ捨てればいいのか分からなかった。


夕立ちは、五時前に来た。


最初に、大きな雨粒が店先のひまわりを叩いた。

次に、道路の色が一気に暗くなった。

それから、空の底が抜けたような雨が降った。


灯は慌てて店先のバケツを中へ入れた。


水を吸った花は重い。

ひまわりの大きな顔が、雨に打たれて少し下を向いている。


道路の向こうでは、駅へ走っていく人たちがいた。傘を差す間もなく濡れて、軒下へ逃げ込む。タクシー乗り場の列が乱れ、バス停の屋根の下に人が詰まっていく。


灯は、ふとバス停を見た。


さっきの女子高生の姿は、もうなかった。


青い封筒は、今ごろどこにあるのだろう。


遼が工房へ向かっているだろうか。

それとも、どこかで雨宿りしているだろうか。


灯は少しだけ心配になった。

けれど、すぐに首を振った。


自分にできることは、もうした。

拾った人から預かり、届けられる人に渡した。


その先は、その先の誰かの手に任せるしかない。


そう思ったとき、灯は自分の店の扉に貼られた閉店のお知らせを見た。


それもまた、誰かの手に任せることなのだろうか。


店を閉めれば、この場所は終わる。

花の冷蔵庫も、作業台も、古いレジも、春人が好きだと言った匂いも、どこかへ片づけられる。


灯は、その終わりを望んでいるのだと思っていた。


ここにいると、春人がいないことを毎日思い出す。

花を組むたび、春人が受け取ることのなかったブーケを思い出す。

客が「きれい」と笑うたび、その笑顔を春人に見せたかったと思う。


だから閉める。


そう決めたはずだった。


雨は十分ほどで弱まった。


道路から湯気のような湿気が上がる。

店先の鉢植えに残った水滴が、夕方の光を受けて細かく光った。


灯は店の床を拭き、濡れた葉を拾い、バケツの水を替えた。


閉店時間になっても、なかなか照明を落とせなかった。


店というものは、閉めると急に人の気配を失う。

昼間あれほど花で満ちていた空間が、夜には少しだけ倉庫のように見える。


灯はレジを締め、売上を数え、明日の仕入れ表を確認した。


明日。


花火大会の日。


店は午前中だけ開ける予定だった。

午後は臨時休業にして、春人の墓へ行くつもりだった。


去年は行けなかった。


花火の音を聞くのが怖かったからだ。


春人と最後に見た花火は、二年前だった。

商店街の屋上から見た。


人混みが苦手な春人は、河川敷まで行きたがらなかった。灯も店を閉めたあとで疲れていたので、二人でビールを一本だけ買って、古いビルの屋上へ上がった。


遠くの花火は、小さかった。


けれど春人は「これくらいがいい」と言った。


「大きすぎると、こっちが負ける」


「花火に勝とうとしてるの?」


「負けるよ。すぐ負ける」


そう言って笑った。


最後の一発が上がったあと、春人はしばらく空を見ていた。


「消えたあとも、見える気がするな」


「残像でしょ」


「そういう現実的なことじゃなくて」


「じゃあ何」


「余韻」


「便利な言葉」


「灯も花束作るとき、そういうの考えてるだろ。渡したあと、どこに残るか」


灯はそのとき、何も答えなかった。


答えなくても、分かってもらえると思っていた。


分かってもらえると思っていた言葉ほど、言わないまま残る。


灯は店の鍵を閉めた。


扉の内側から、閉店のお知らせが見える。


『九月三十日をもちまして、灯花は閉店いたします』


灯はその文字を、しばらく見ていた。


それから明かりを消した。


**********


花火大会の日、灯は午前中だけ店を開けた。


商店街は朝から落ち着かなかった。

浴衣姿の若い人たちが早い時間から歩いている。屋台の準備をする人たちが、段ボール箱を抱えて河川敷の方へ向かう。交通規制の看板が立てられ、臨時駐輪場の案内が貼られている。


店には、いつもより客が多かった。


「仏壇に供えるから、暑さに強いのを」


「浴衣に合う髪飾りありますか」


「明日渡すので、今日中に持ちますか」


花火大会の日でも、人は花を買う。


特別な日だから買う人もいる。

特別な日とは関係なく買う人もいる。


灯は一つずつ応対した。


午前の終わり頃、年配の女性が店に入ってきた。

常連の一人だった。毎月、夫の月命日に花を買う人だ。


女性は、扉に貼られた閉店のお知らせを見てから、灯に言った。


「本当に閉めちゃうのね」


灯は、少し笑った。


「はい。九月いっぱいで」


「そう」


女性は、菊ではなく白いリンドウを手に取った。


「ここで買う花、好きだったのよ。長持ちするし、余計なこと聞かないし」


灯は花を包む手を止めかけた。


余計なことを聞かない。


それは褒め言葉なのだろうか。


女性は続けた。


「でも、決めたなら仕方ないわね。寂しいけど」


「……ありがとうございます」


灯は、いつもの言葉を言った。


女性が帰ったあと、店内はまた静かになった。


午前十一時半。

灯は店の札を『準備中』に返した。


明日の仕入れはない。

午後の予約もない。

店内の花を整え、冷蔵庫の温度を確認し、床に落ちた葉を拾った。


墓へ持っていく花は、自分で組んだ。


白いトルコキキョウ。

薄い青のブルースター。

少しだけ黄色いスプレーバラ。


春人なら、黄色を多めにしろと言うかもしれない。

白ばかりだと灯らしくない、と。


灯は迷って、黄色を一本だけ増やした。


店を出る前、扉の閉店のお知らせを見た。


剥がそうとは思わなかった。

まだ。


灯は花束を抱えて、坂の上の墓地へ向かった。


凪浜の墓地は、町の東側の高台にある。

坂道は長く、夏の午後に歩くには少しつらい。けれど、上まで行くと河口が見える。花火大会の夜には、ここからでも空に開く光が見える。


春人の墓は、端の方にあった。


新しい石は、周りの古い墓石の中で少しだけ浮いて見える。

灯はいつも、その新しさが嫌だった。

春人がここにいることを、墓石だけが真面目に証明しているようで。


水を替え、花を供えた。


白。

青。

黄色。


風が吹くと、ブルースターの小さな花が揺れた。


「来たよ」


灯は言った。


それから、何を話せばいいのか分からなくなった。


一年分の言葉があるはずだった。

でも、多すぎる言葉は、一つも声にならない。


店を閉めること。

閉店のお知らせを貼ったこと。

客に寂しいと言われたこと。

昨日、青い封筒を預かったこと。

それを配送の人に託したこと。

夕立ちが急に来たこと。


話せることはいくつもある。


けれど、本当に言いたいことは別だった。


あなたがいない店にいるのが、つらい。

でも、あなたが好きだと言った店を閉めるのも、つらい。


どちらを選んでも、春人を裏切るような気がした。


灯は墓石の前に腰を下ろした。


遠くから、花火大会の会場アナウンスがかすかに聞こえてくる。

風向きによって、音が届いたり途切れたりした。


夕方になると、空は少しずつ色を失っていった。


青が薄くなり、町の屋根が黒くなり、河口の方に明かりが増える。

遠くの堤防には、人の列が小さく見えた。


灯は、花束の余ったリボンを指で触っていた。


春人と見た、二年前の花火を思い出す。


『消えたあとも、見える気がするな』


あのとき、灯は余韻という言葉を笑った。


でも今なら、少しだけ分かる。


春人はいなくなった。

それでも、消えたあとも残っているものがある。


残っているから苦しい。

残っているから、立っていられる。


最初の花火が上がった。


音は少し遅れて届いた。

高台の墓地では、河川敷ほどの迫力はない。けれど、その分、光は静かに見えた。


灯は墓石の隣に座ったまま、空を見上げた。


赤い花火。

白い花火。

金色に枝垂れる花火。


明るい光が開くたび、墓石の表面が一瞬だけ照らされた。春人の名前が、夜の中で浮かんでは消えた。


花火は、誰かのために上がっているようで、誰のものでもない。


会場にいる人にも見える。

橋の上の人にも見える。

病院の窓からも、タクシーの中からも、どこかの屋上からも見える。


昨日の青い封筒のことを思い出した。


『最後の一発に』


あの封筒は、ちゃんと届いただろうか。


灯には分からない。


自分が預かって、誰かに渡した。

その先でどうなったのかは知らない。


知らないけれど、ふと、届いていてほしいと思った。


誰のものかも、何が入っているのかも知らない封筒だった。

それでも、あの封筒には、誰かが手放せなかった時間が入っている気がした。


手放せなかった時間。


灯は、自分の膝の上に置いた手を見た。


春人のために作るはずだったブーケを、まだ作れていない。

作っても渡せないから、意味がないと思っていた。


でも花は、渡せる人にだけ作るものではないのかもしれない。


言えなかった言葉を、形にするために作ることもあるのかもしれない。


花火が続いた。


町のあちこちから歓声が上がる。

灯は静かに見ていた。


やがて、少しだけ間が空いた。


夜空が暗く戻る。

その暗さが、さっきより深く見えた。


遠くで、誰かが言った。


「最後だ」


灯には、その声が誰のものか分からなかった。


最後。


その言葉が、灯の胸に入ってきた。


店の扉に貼った文字が浮かぶ。


『閉店のお知らせ』


九月三十日。

最後の日。


最後にしようと決めたのは自分だ。

でも、本当に最後にしたいのかと聞かれたら、灯はまだ答えられなかった。


夜空の真ん中に、青い光が開いた。


派手な花火ではなかった。

大きさだけなら、それまでに上がった花火の方がずっと大きかった。


けれど、その青は灯の目を離させなかった。


白い輪が、青を包むように広がる。

その外側から、金色の細い光がゆっくり降った。


散る、というより、ほどけるようだった。


消えていくはずなのに、消えることを急いでいないように見えた。


灯は、春人の墓石を見た。


金色の光が、ほんの一瞬だけ石の表面に映った。

春人の名前が、かすかに光った。


「店」


灯は声に出した。


花火の音が遅れて届いた。

その音に言葉が少し揺れた。


「閉めるの、やめた」


言ってから、灯は自分でも驚いた。


そんなふうに決めるつもりはなかった。

もっと考えて、もっと理由を並べて、それでも無理なら続けようと思うはずだった。


けれど、言葉は先に出た。


「もう少しだけ、やってみる」


墓石は何も答えない。


灯は少し笑った。


「怒る?」


風が吹いた。


供えたブルースターが揺れた。

黄色いスプレーバラの花びらが一枚、花束の中で小さく震えた。


春人が返事をしたわけではない。

そんな都合のいいことは、灯も信じていない。


けれど、消えたあとも残るものがあるなら。

残っているものを、終わりと呼ばなくてもいいのなら。


灯は、まだ店に戻れると思った。


花火はもう消えていた。


夜空には何も残っていない。

けれど、墓石の前に置いた花だけが、暗がりの中で少しだけ明るく見えた。


灯は立ち上がった。


帰り道、商店街は花火帰りの人たちでにぎわっていた。浴衣の裾を直す人、子どもの手を引く親、屋台の袋を下げた高校生。店はほとんど閉まっているのに、町全体がまだ夜を終わらせたくないように光っていた。


灯花の前まで戻ると、扉の内側に貼った閉店のお知らせが見えた。


『九月三十日をもちまして、灯花は閉店いたします』


灯は鍵を開け、店内に入った。


照明をつける。

夜の花屋は、昼よりも少し広く見える。


冷蔵庫の低い音。

水を張ったバケツ。

作業台の上に残った葉の切れ端。

濡れた茎の匂い。


春人が好きだと言った匂い。


灯は扉の内側に立ち、閉店のお知らせの端を爪でつまんだ。


一度貼った紙は、思ったよりしっかりくっついていた。

剥がすとき、テープが小さく音を立てた。


紙は少し曲がった。

でも破れなかった。


灯はそれを二つに折り、さらにもう一度折った。


捨てようとして、やめた。


レジの引き出しを開け、奥にしまう。

そこには昨日まで、青い封筒が置かれていた。


今はもうない。


誰かの大切なものは、誰かの手に戻ったのだろうか。


灯には分からない。


でも、分からないままでいいと思った。


灯は店の奥から、小さな白いカードを一枚出した。

ペンを取り、少し考えてから書いた。


『明日も、十時から開けます』


それだけだった。


扉の内側に、そっと貼る。


閉店を取り消すには、あまりにも小さな紙だった。

けれど今の灯には、それくらいの大きさがちょうどよかった。


全部を始め直すわけではない。

悲しみが消えたわけでもない。

春人が戻るわけでもない。


ただ、明日も店を開ける。


それだけなら、できる気がした。


灯は照明を消す前に、作業台の上の鋏をまっすぐに置いた。

水の入ったバケツを一つずつ確認し、冷蔵庫の扉を閉める。


店の中には、まだ花の匂いがあった。


生きている匂いがした。

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