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第一章 スケッチブック

バスが来るまで、あと一分だった。


森下雫は、ベンチの下に落ちている青い封筒を見つめていた。


拾うべきだと思った。

けれど、拾ったあとどうすればいいのかが分からなかった。


駅の改札横には落とし物窓口がある。けれど、そこまで行って戻ってくる時間はない。次のバスを待てばいいだけの話なのに、雫は腕時計を見た。


夏期講習は二時からだった。


遅刻そのものが怖いわけではない。

遅れて教室に入ったとき、講師や知らない生徒たちの視線がいっせいにこちらを向くのが苦手だった。


自分の存在が、予定されていなかった線のように、白い紙の上へ急に引かれる。

その感じが、雫は嫌いだった。


青い封筒は、ベンチの影に半分隠れていた。


古い封筒だった。

端が少し丸まり、表面の青は淡く褪せている。海の色というより、夏休みの終わりに残った絵の具の水のような青だった。


表には、細い字で何かが書かれていた。


最後の一発に。


雫は、小さく息を止めた。


花火のことだろうか、と思った。


明日の夜は、凪浜の花火大会だった。町のあちこちにポスターが貼られている。駅前の商店街も、昨日から提灯を吊るし始めていた。昼間の提灯は眠っているようで、夜になって明かりが入ると、急に自分の役目を思い出す。


最後の一発に。


その言葉は、誰かの願いにも、誰かの命令にも見えた。


バスが、駅前ロータリーに入ってきた。


雫はスケッチブックを胸に抱え直した。

それから、しゃがんだ。


封筒を拾い上げると、思っていたより軽かった。けれど、紙の薄さとは別の重さが指先に残った。中に何が入っているのかは分からない。開けてみようとは思わなかった。


裏を見ると、かすれた判子が押されていた。


倉本煙火店。


煙火店。

やっぱり花火なのだ、と雫は思った。


バスのドアが開いた。

乗客が数人降り、何人かが乗り込んでいく。運転手がミラー越しにこちらを見た。


雫は封筒とバスを見比べた。


駅の窓口に行く時間はない。

交番も遠い。

でも、このまま持っていくのも違う気がした。


そのとき、すぐ横の花屋が目に入った。


店先のバケツにひまわりが並んでいる。黄色い花びらが、強い光の中で少し乾いて見えた。店の奥に、女の人が一人いる。


雫はバスに乗る列から外れた。


「あの、すみません」


花屋の女の人が顔を上げた。


「はい」


「これ、そこのバス停に落ちてました。確か倉本煙火店って見たことあるので、この辺の人のものかなと思って」


女の人は、雫の手元を見た。

そして、青い封筒を受け取った。


「わざわざありがとう」


「いえ。バス、来ちゃったので」


雫は言ってから、自分でも少し変な説明だと思った。

けれど、女の人は笑わなかった。


「大事そうですね」


「たぶん」


「預かっておきます」


「お願いします」


雫は頭を下げて、走ってバスに乗った。


乗り込んだ瞬間、冷房の風が制服の襟元に入ってきた。汗が引く前に、体だけが冷える。座席はほとんど埋まっていて、雫は後ろの方の吊り革につかまった。


バスが動き出す。


花屋の前を通り過ぎるとき、女の人がまだ青い封筒を見ていた。


雫は、その横顔を一瞬だけ見た。

名前も知らない人だった。


それで十分だった。


バスは駅前を抜け、商店街のアーケードを離れた。窓の外では、夏の町が白く揺れている。古い文具店、シャッターの下りた映画館、クリーニング店、ガラス戸に「冷やし中華あります」と貼られた中華料理屋。


どれも知っているのに、バスの中から見ると少しだけ遠い。


雫は胸に抱えたスケッチブックを見下ろした。


角が少し潰れている。

表紙の裏には、自分の名前と学校名を書いてあった。


凪浜高校三年二組。

森下雫。


自分の名前を書くたびに、雫は少し緊張する。

このスケッチブックの中にあるものが、自分のものだと認めることになるからだ。


美大に行きたい。


その一文は、進路希望調査の紙の上で、まだ鉛筆にもなっていなかった。


担任には、「考え中です」と言った。

友達には、「たぶん普通に大学かな」と言った。

父には、まだ何も言っていない。


普通に大学。


普通とは、何なのだろう。


絵を描くことが普通ではないのなら、雫はずっと普通ではなかった。幼い頃から、広告の裏にも、ノートの端にも、牛乳パックの白い面にも、何かを描いていた。


人の横顔。

窓から見える電柱。

雨上がりの水たまり。

母の手。


母は、それをよく褒めてくれた。


上手だね、ではなく、よく見てるね、と言った。


雫はその言い方が好きだった。

上手かどうかは、誰かと比べられる。

でも、よく見ているかどうかは、自分の目の話だった。


母は絵を描く人だった。


画家と呼ばれるほど有名ではなかったし、絵だけで生活していたわけでもない。パートをしながら、小さな公募展に出したり、近所の子ども向けに絵の教室を開いたりしていた。


家の奥には、母の絵の具箱があった。


今も、ある。


押し入れの奥、古いタオルに包まれて。


雫はときどき、それを開ける。

絵の具はもう固まりかけている。筆の何本かは毛先が割れている。けれど、箱を開けると、まだ母の匂いがするような気がした。


そんなはずはない。

三年も経っている。


それでも、最初の一呼吸だけ、雫はいつも息を止める。


父は、その絵の具箱のことを知らない。

知らないふりをしているのかもしれない。


母が亡くなってから、父は雫の前で絵の話をしなくなった。


中学生の頃までは、母の展覧会へ三人で行くこともあった。小さなギャラリーで、白い壁に絵が並んでいて、父はぎこちなく笑いながら「よく分からないけど、これは好きだ」と言った。


母はそのたびに、子どもみたいに嬉しそうな顔をした。


その顔を、雫は何枚も描いた。


けれど母がいなくなってから、父は現実的な人になった。


食費。

保険。

大学費用。

奨学金。

就職。

資格。


父の口から出る言葉は、どれも間違っていなかった。

間違っていない言葉で囲まれると、人は逃げ道を失う。


だから雫は、まだ言えない。


絵を描きたい。

美大に行きたい。

母みたいになりたい。


その最後の一文が、一番言えなかった。


母みたいに、という言葉は、父を傷つける気がした。

母みたいに生きたいと言うことが、母みたいにいなくなると言っているように聞こえてしまう気がした。


バスが揺れた。


雫は吊り革を握り直した。

スケッチブックの角が胸に当たる。


次は、白帆美術研究所前。


車内アナウンスが流れた。


雫は降車ボタンを押した。


白帆美術研究所は、駅から少し離れた古いビルの三階にあった。美術研究所という名前は少し大げさで、実際には美大受験のための予備校だった。


階段の壁には、合格者の作品写真が隙間なく貼られている。


雫はその前を通るたび、足が遅くなる。


描ける人たちの絵だった。


石膏像の影も、瓶の光も、手の骨ばった形も、そこには迷いなく描かれていた。もちろん実際には迷いながら描いたのだろう。それでも、完成した絵は迷っていない顔をしている。


雫の絵は、いつも途中で黙ってしまう。


講習の教室には、すでに十人ほどの生徒がいた。石膏像を囲むようにイーゼルが並び、紙の白さだけが涼しげだった。扇風機が回っているが、窓際は暑い。


講師の三上が、雫に気づいて手を上げた。


「森下さん、今日はクロッキーから入って」


「はい」


「進路面談の紙、持ってきた?」


雫の手が止まった。


「あ、はい」


「明日までに出せる?」


「……たぶん」


三上は、雫の返事を責めなかった。


「書けないなら、無理に埋めなくてもいいよ」


雫は少しほっとした。


けれど、三上は続けた。


「でも、書けない理由はちゃんと見た方がいい」


雫は顔を上げた。


「理由、ですか」


「そう。志望校が決まってないから書けないのか。行きたいところはあるけど、書くのが怖いのか。それは、全然違うから」


雫は何も言えなかった。


三上は軽く笑って、石膏像の方へ視線を移した。


「まあ、今日は手を動かそう。考えすぎると線が硬くなる」


「はい」


雫は鞄から鉛筆ケースを取り出した。

スケッチブックを開く。


白い紙が出てきた。


何も描かれていない紙を見ると、少しだけ安心する。そこにはまだ失敗がない。けれど、描き始めた瞬間、紙は何かを要求してくる。


ちゃんと見ろ。

逃げるな。

どこを見ているのか、手で答えろ。


雫は鉛筆を持った。


目の前には、石膏像の横顔がある。

額から鼻、唇、顎へ続く線。白いはずなのに、よく見ると白だけではなかった。影の中に灰色があり、光の縁に少しだけ青がある。


よく見てるね。


母の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。


雫は描き始めた。


最初の線は、いつも怖い。

けれど、線を引いてしまうと、少し楽になる。失敗するかどうかより、紙の上に何かがあるという事実が、雫を支えた。


二時間は、思っていたより早く過ぎた。


講師は一人ずつ絵を見て回り、雫の横で少し立ち止まった。


「形は少し弱いけど、光の見方はいいね」


「……ありがとうございます」


「森下さんは、見えてるものを疑える人だと思う」


雫は、鉛筆を置いた。


「疑う、ですか」


「光って、白く見えても白じゃないでしょ。影も黒じゃない。そういうのをちゃんと見ようとしてる」


三上は、雫の紙の端を指さした。


「こういうところ。逃げてない」


逃げてない。


雫はその言葉を、うまく受け取れなかった。


絵の中では、逃げていないのかもしれない。

でも、それ以外のところでは、ずっと逃げている。


父から。

進路希望調査から。

母に似ている自分から。


授業の終わりに、雫はスケッチブックを閉じた。


その端には、授業とは関係のない小さな落書きがあった。


花火を見上げる女の人と、小さな女の子の後ろ姿。

母と自分のつもりで描いたものだった。


描いたのは昨日の夜だ。

父が寝たあと、机の小さな明かりだけをつけて描いた。


母の顔は描かなかった。

描くと、違うと思ってしまうから。


後ろ姿なら、まだ母でいてくれた。


講習が終わる頃には、空が少し暗くなっていた。


窓の外の雲が低い。

遠くで雷のような音がしたが、まだ雨は降っていない。


「夕立ち来そうだね」


誰かが言った。


別の誰かが、明日じゃなくてよかった、と笑った。


明日の花火。


雫はスケッチブックを鞄にしまおうとして、手を止めた。


スマートフォンが震えた。


父からだった。


『今日、夕飯いらない。少し遅くなる。

それと進路の紙、明日までだったよな。書けるところまで書いておきなさい』


雫は画面を見つめた。


父は覚えていた。

雫が忘れたふりをしていた期限を、父は覚えていた。


書けるところまで。


それは優しい言葉にも聞こえた。

でも、逃げ道をふさぐ言葉にも聞こえた。


雫は返信欄を開いた。


『美大に行きたい』


そこまで打って、消した。


『うん』


それだけ送った。


教室を出ると、廊下は蒸し暑かった。階段を降りる途中、窓ガラスに自分の顔が映った。前髪が汗で少し額に貼りついている。


目元が母に似てきた、と親戚に言われたことがある。


雫はその言葉を、うまく喜べなかった。


外へ出ると、風が強くなっていた。


駅前に戻る道の途中、空の端がさらに暗くなっているのが見えた。夕立ちの予報は当たりそうだった。雫は鞄の中を探した。


折りたたみ傘はない。


朝、玄関に置いたままだったことを思い出した。


まだ降らないで、と思った。


駅前のロータリーに着いたとき、雨はぎりぎり落ちていなかった。

けれど空気は湿っていて、遠くの雲の奥で雷が低く鳴っている。


雫はタクシー乗り場横のベンチに座った。

屋根が少しだけ張り出していて、雨が来ても数分ならしのげそうだった。


膝の上にスケッチブックを置く。


父からのメッセージは、画面に残ったままだった。


『書けるところまで書いておきなさい』


書けるところまで。


雫はその言葉を、何度も読み返した。


鞄の中から、四つ折りにした進路希望調査を取り出す。

紙の折り目は、何度も開いて閉じたせいで少し柔らかくなっていた。


第一志望。


その四文字の横だけが、ずっと空白だった。


普通の大学名を書けばいい。

父が安心するような名前を書けばいい。

担任が頷くような名前を書けばいい。


そう思っても、鉛筆は動かなかった。


朝、拾った青い封筒の文字が頭に浮かんだ。


最後の一発に。


誰かにとって、それはきっと大事な言葉だった。

何のための最後なのか、誰に向けた一発なのか、雫には分からない。


それでも、あの封筒をベンチの下に置いたままにはできなかった。


誰かの大切そうなものは拾えた。


では、自分の大切なものは。


雫は鉛筆を握った。


手のひらに汗がにじんでいた。

線を引く前の、あの怖さと同じだった。


白い紙の上に、鉛筆の先が触れる。


第一志望。

海晴美術大学。

絵画専攻。


書いてしまうと、思っていたより小さな文字だった。


けれど雫には、その一行が花火みたいに見えた。

まだ誰にも見えていない。

音もしていない。

それでも、胸の奥で何かが一度だけ光った。


父に言ったわけではない。

担任に出したわけでもない。

何かが決まったわけでもない。


でも、少なくとも自分には嘘をつかなかった。


そのとき、頬に冷たいものが当たった。


雨だった。


一粒目は大きかった。

二粒目が、進路希望調査の端に落ちた。


雫は慌てて紙をスケッチブックに挟んだ。

鞄を抱え、駅舎の方へ走った。


夕立ちは、すぐに本降りになった。


空の底が抜けたような雨だった。人々がいっせいに軒下へ逃げ込み、タクシー乗り場には列ができた。バス停の屋根の下も人でいっぱいだった。


雫は駅舎の端の柱の陰へ駆け込んだ。

息が切れていた。


制服の肩が濡れている。スカートの裾も重い。靴下まで水を吸って気持ち悪かった。


鞄の中が心配になり、慌てて開けた。


教科書。

筆箱。

財布。

スマートフォン。

進路希望調査の予備紙。

ハンカチ。


スケッチブックは、入っていなかった。


雫は一瞬、何を見落としているのか分からなかった。


もう一度、鞄の中を探す。

底まで手を入れる。

横のポケットも見る。

ない。


スケッチブックがない。


さっき、膝の上に置いていた。

進路希望調査を挟んだ。

雨が降った。

走った。


そのあと。


記憶が、雨の音にまぎれて途切れていた。


雫は駅舎の外へ出ようとして、足を止めた。


雨は強すぎた。

歩道の向こう側が白く煙っている。ベンチまではほんの少しの距離なのに、そこへ行くだけで全身が濡れそうだった。


それでも、雫は走った。


タクシー乗り場横のベンチ。

屋根が少し張り出している場所。


そこにはもう、何もなかった。


座面は雨で黒く光っていた。

ベンチの下を覗く。

足元を見る。

周りの柱の影も探す。


ない。


雫は、濡れた前髪を指で押さえた。


スケッチブックには、授業のクロッキーだけではなく、母の絵も入っていた。

花火を見上げる母と自分。

父には見せられない絵。

誰にも見せたくなかった絵。


そして、さっき初めて書いた進路希望調査。


第一志望。

海晴美術大学。

絵画専攻。


見つかってほしいと思った。


でも、誰かに中を見られることを想像すると、息が苦しくなった。


あれはまだ、誰にも見せるつもりのない自分だった。

でも、見つからなければ、その自分ごとなくなってしまう。


矛盾している、と雫は思った。


自分の気持ちは、いつも矛盾している。


見てほしい。

でも見ないでほしい。


分かってほしい。

でも聞かないでほしい。


父に言いたい。

でも、父にだけは言えない。


雨音が、駅の屋根を叩いている。


スマートフォンが震えた。


父からだった。


『雨、大丈夫か。

駅にいるなら、無理して帰らなくていい。止むまで待ちなさい』


雫はその文面を見つめた。


父は、雫の夢のことを知らない。

スケッチブックの中身も知らない。

押し入れの奥に母の絵の具箱があることも、たぶん知らない。


けれど、雨に濡れることは心配してくれる。


それが、余計に苦しかった。


『大丈夫』


雫はそう返信した。


大丈夫ではなかった。

でも、大丈夫ではない理由を説明するには、あまりにもたくさんの言葉が必要だった。


朝、青い封筒を拾ったことを思い出した。


誰かの大切そうなものを、花屋に預けた。

名前も知らない誰かのものだった。

中身も知らない。


それでも、放っておけなかった。


なのに自分は、自分の大切なものをどこかに置いてきてしまった。


夕立ちは、十分ほどで少し弱まった。


雨宿りしていた人たちが、少しずつ動き出す。空の端には、まだ黒い雲が残っている。けれど西の方だけ、雲の裂け目から薄い光が差していた。


雫はもう一度、ベンチの下を見た。


そこにはもう、何もなかった。


**********


翌日の午後、雫は学校に呼び出された。


花火大会の日だった。


夏休み中の校舎は、普段より音が少ない。

廊下には、部活動の声が遠くから響いている。どこかの教室で、吹奏楽部が同じフレーズを何度も練習していた。窓の外では、花火大会の臨時駐輪場になる校庭の隅に、白いロープが張られている。


職員室の前で、担任の宮田が待っていた。


「森下、落とし物」


そう言って、透明な袋に入ったスケッチブックを差し出した。


雫は、すぐには受け取れなかった。


「……どこに」


「駅前で拾ったって。表紙の裏に学校名と名前があったから、届けてくれたみたいだ」


「誰が、ですか」


「名乗らなかったらしい。守衛さんが受け取ったって」


名乗らなかった。


雫は透明な袋越しにスケッチブックを見た。

角は少しだけ湿って波打っている。けれど、中まで濡れているようには見えなかった。


「よかったな。大事なやつだったんだろ」


宮田は軽く言った。


雫は、うなずくこともできずにスケッチブックを受け取った。


「はい」


「進路の紙、今日までだけど」


その言葉で、雫は現実に戻された。


「……すみません。あとで出します」


「急かしたいわけじゃない。ただ、書けるところまででいいからな」


昨日と同じ言葉だった。


書けるところまで。


雫はスケッチブックを抱えたまま、職員室を離れた。


美術室は三階にあった。

夏休みの午後、そこには誰もいなかった。


窓を開けると、湿った風が入ってきた。夕立ちの名残なのか、町のどこかにまだ雨の匂いが残っている。遠くの河川敷では、花火大会の準備が進んでいるはずだった。


雫は窓際の机に座り、透明な袋からスケッチブックを取り出した。


手が少し震えていた。


ページを開く。


石膏像のクロッキー。

母と自分の後ろ姿。

花火の落書き。

紙の端に描いた父の横顔。


全部、あった。


次のページを開くと、進路希望調査の紙が挟まっていた。


第一志望。

海晴美術大学。

絵画専攻。


昨日、自分で書いた文字だった。


その下に、青い付箋が貼られていた。


知らない字だった。


『いい絵でした。

捨てないでください』


それだけだった。


雫は、その文字をしばらく見つめた。


誰かが見たのだ。

母の絵を。

花火の絵を。

父に言えない進路希望を。


恥ずかしさが、最初に来た。

次に、怖さが来た。

そのあとに、もっと小さく、別のものが来た。


見られた。

でも、捨てられなかった。


笑われたわけでもない。

破られたわけでもない。

どこかに置き去りにされたわけでもない。


誰かが拾って、学校まで届けてくれた。


そして、捨てないでください、と書いた。


雫は付箋に触れた。

紙の端が、少しだけ濡れた指に貼りついた。


いい絵でした。


母はよく、上手ではなく、よく見てるね、と言った。

知らない誰かは、いい絵でした、と言った。


その二つは、同じ意味ではない。

でも、雫にはどちらも、紙の上に置かれた小さな火のように見えた。


雫は進路希望調査の紙を机に置いた。


第一志望は、昨日のままだった。


海晴美術大学。

絵画専攻。


消しゴムを出す。

けれど、消さなかった。


代わりに、第二志望の欄を空白のままにして、用紙の端を丁寧に伸ばした。


全部決まっていなくてもいい。

書けるところまででいい。


なら、今の自分が書けるのは、この一行だけだった。


雫は紙を折らずに、スケッチブックの間へ戻した。


そのあと、しばらく美術室に残った。


何かを描くつもりはなかった。

けれど、スケッチブックを開いたままにしていると、少し呼吸が楽だった。


窓の外では、夕方の光が校庭を斜めに照らしていた。

校門の近くには、花火大会へ向かう人たちが少しずつ増えている。浴衣の帯。ビニール袋。うちわ。子どもの声。遠くの町が、夜を待つために少しずつ色を変えていく。


雫は、父にメッセージを送ろうとして、やめた。


まだ言葉が足りない。

でも、言葉が足りる日など本当に来るのだろうか。


母の絵の具箱を開けるとき、雫はいつも最初の一呼吸だけ息を止める。


もしかすると、父に話すことも同じなのかもしれない。


最初の一呼吸だけ、怖い。

でも、そのあとでしか開かないものがある。


夜になると、校舎の外の空気は少し涼しくなった。


凪浜高校は、町より少し高い場所にある。花火大会の日だけは、校庭の一部が臨時駐輪場になり、教員が交代で見回りをしている。美術室のある三階の外廊下からは、河口の方角が少し見えた。


雫はスケッチブックを抱えて、外廊下へ出た。


本当は、花火大会へ行かないつもりだった。


父と花火大会へ行ったのは、母が亡くなる前が最後だ。三人で堤防に座り、母が買ったかき氷を三人で分けた。父はブルーハワイを「絵の具みたいな色だ」と言い、母は「だからいいんじゃない」と笑った。


その翌年から、父は花火大会の日になると仕事を入れるようになった。


忙しいから。

混むから。

暑いから。


理由はいくつもあった。


雫も、行きたいとは言わなかった。


言わないことは、時間が経つと、最初からなかったことみたいになる。


最初の花火が上がった。


音が少し遅れて届く。

腹の奥で、小さく響いた。


校庭にいた人たちが声を上げた。

雫はフェンス越しに空を見た。


赤。

白。

緑。

金。


遠くに開く光は、音が届くまで少しだけ無音だった。その無音の間、雫はいつも、花火がまだこの世にあるものではないような気がする。


母なら、どう描くだろう。


そんなことを思った。


花火は、何発も上がった。


大きいもの。

小さいもの。

一度にいくつも開くもの。

光の尾を長く引いて、海の方へ消えていくもの。


雫はスケッチブックを開いた。


描けるわけがない。

花火は一瞬で消える。

形を追ったときには、もう別の光が空に咲いている。


それでも雫は、鉛筆を持った。


丸ではなく、線を描いた。

光ではなく、消えたあとの残り方を描こうとした。


母の後ろ姿の隣に、小さな花火の線が増えていく。


やがて、アナウンスの声が遠くで響いた。


最後の花火です。


誰かが校庭でそう言った。

正確には、河川敷のスピーカーから聞こえた言葉を、誰かが繰り返しただけだったかもしれない。


雫は鉛筆を止めた。


最後。


朝、青い封筒に書かれていた言葉が蘇る。


最後の一発に。


夜空が、一瞬だけ静かになった。


それから、青い光が開いた。


派手な花火ではなかった。

けれど、その青は不思議なくらい目に残った。


絵の具箱の底に残っていた色に似ていた。

母がよく使っていた、名前を忘れてしまった青。濃すぎず、薄すぎず、光と影の間に置かれたような色。


青の周りに、淡い白がほどけた。

その外側から、金色の細い光がゆっくり降っていく。


消えた、と思っても、まだ残っていた。

空ではなく、まぶたの裏に。


雫は、スケッチブックを閉じた。


スマートフォンを取り出す。

父へのメッセージ画面を開いた。

何度も書いて、何度も消してきた画面だった。


雫は息を吸った。


最初の一呼吸だけ、怖い。

でも、そのあとでしか開かないものがある。


『お父さん。

進路のことで、話したいことがあります。

美大に行きたいです。

怒ってもいいから、最後まで聞いてほしい』


送信ボタンを押すまでに、少し時間がかかった。


けれど、押した。


画面に、送信済みの文字が出た。


雫はスマートフォンを握ったまま、夜空を見上げた。


花火はもう消えていた。

けれど、まだ何かが残っている気がした。


光ではない。

音でもない。


知らない誰かが拾ってくれたスケッチブック。

青い封筒の文字。

母の絵の具箱。

父に送った、初めての本当の言葉。


その全部が、胸の奥で小さく火を持っていた。


スマートフォンが震えた。


父からだった。


雫は、すぐには画面を見られなかった。


少しだけ待って、それから目を落とした。


『分かった。

帰ったら聞く』


それだけだった。


それだけで、十分だった。


雫はスケッチブックを抱え直した。


夜空にはもう何も残っていない。

けれど白い紙の上には、まだ描ける場所があった。

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