プロローグ
八月の凪浜市は、何もかもが白く光っていた。
駅前のアスファルトも、バス停のベンチも、商店街のシャッターも、海へ向かう歩道橋の手すりも、昼の光に焼かれて輪郭をなくしていた。人も、物も、影でさえも、夏の中では少しだけ頼りなく見える。
花火大会は、明日の夜だった。
凪浜市の花火大会は、毎年八月最後の土曜日に開かれる。川が海へほどけていく河口のあたりに打ち上げ台が組まれ、夜になると町じゅうの人間が、堤防や橋やマンションの非常階段に集まる。
倉本善治は、その花火を五十年以上見てきた。
見る、というより、上げてきた。
駅前の商店街にある小さな花屋の前で、善治は足を止めた。店先には、バケツに挿されたひまわりが大きな顔を並べている。黄色は、夏に少しも遠慮しない色だ。善治はその眩しさを避けるように、店の奥にある白い花へ目をやった。
花屋の名前は、灯花。
古い木枠のガラス戸に、白い文字でそう書かれている。
何年か前までは別の名前の店だった。今の店主が継いでから、看板だけが新しくなった。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、椎名灯が顔を上げた。
水を替えたばかりなのか、床には細い水の跡が残っている。店内には、花の匂いと、濡れた茎の青い匂いが混ざっていた。冷房は弱く、天井の扇風機がゆっくりと回っている。
「白いのを見繕ってもらえますか」
善治が言うと、灯は小さくうなずいた。
「お墓参りですか」
「ああ」
それだけだった。
灯も、それ以上は聞かなかった。善治がこの時期になると白い花を買うことを、彼女は知っている。けれど、それが誰に供えるものなのか、詳しく尋ねたことはない。
人には、花を買う理由を説明したくない日がある。
灯は白いトルコキキョウを数本選び、余分な葉を落とした。鋏の音が、店の奥で小さく鳴った。
レジの横では、小さなラジオが天気予報を流していた。
『午後から大気の状態が不安定になります。
凪浜市周辺では、夕方以降、局地的な雷雨や強い夕立ちにご注意ください』
灯が花を紙で包みながら、外を見た。
「夕方、降りそうですね」
「夏は、降るときゃ急に降るからな」
「お花、外袋もかけますね。濡れるとすぐ駄目になるので」
善治は返事をする代わりに、背広の内ポケットへ手をやった。
そこには、古い青い封筒が入っていた。
青といっても、もう鮮やかな色ではない。長い年月で少し褪せ、角は柔らかくなり、封の端には細かな毛羽立ちがあった。何度も手に取られ、何度も戻されたものの色だった。
表には、細い文字でこう書かれている。
最後の一発に
その文字を見るたび、善治は胸の奥で何かが小さく鳴るのを感じた。
火薬の音ではない。
もっと古く、もっと弱い音だった。
灯が花を差し出した。
「お待たせしました」
善治は封筒から手を離し、花を受け取った。代金を置く。灯が釣り銭を返す。そのどれもが、いつも通りの動作だった。
「花火大会、いよいよ明日ですね」
灯が言った。
「そうだな」
「毎年花火、楽しみにしてます。特に最後のがいいですよね」
善治は、ほんの少しだけ目を伏せた。
最後。
この頃、その言葉は何にでもついて回る。
最後の夏。
最後の大会。
最後の一発。
言葉というものは、軽い顔をして人の胸に入ってくる。入ってきてから、急に重くなる。
「……見えるといいな」
善治が言うと、灯は少し不思議そうに首をかしげた。
「ここからも見えますよ」
「そうか」
善治は花を抱え直し、店を出た。
外の光は、店の中よりもずっと強かった。白い花が、その光を受けていっそう白く見える。善治は帽子のつばを下げ、商店街を抜けて駅前の方へ歩いた。
明日の夜には、町じゅうが空を見上げる。
コンビニの前には、花火大会当日の交通規制を知らせる貼り紙が出ていた。橋の欄干には、まだ点いていない提灯が吊るされている。呉服屋のガラス越しには、浴衣姿のマネキンが涼しい顔で立っていた。
人々は、明日の夜を待っている。
花火が上がるのを待っている。
音が腹に響くのを待っている。
暗い空に、光が咲くのを待っている。
善治は、その待たれるものを作ってきた。
火薬の匂い。
紙の湿り気。
糊の乾き具合。
玉を抱えたときの重さ。
花火は、上がる前がいちばん重い。
夜空に開いた瞬間、人はきれいだと言う。
けれど、その一瞬のために、どれだけの時間が紙と火薬の中に閉じ込められているか、客席からは見えない。
善治はそれを知っている。
知りすぎている。
駅前のバス停まで来ると、風が変わった。
海の方から、湿った匂いが流れてきた。昼の光はまだ強いのに、遠くの空の端だけが、うっすらと灰色に沈んでいる。夕立ちが来るのかもしれない。予報は、外れそうになかった。
善治は白い花を左腕に抱え、右手で内ポケットを押さえた。
青い封筒はそこにあった。
それを確認して、安心したつもりだった。
ちょうどそのとき、バス停の前を自転車が横切った。学生服の少年が、片手でハンドルを持ち、もう片方の手で額の汗を拭っている。善治は半歩後ろへ下がった。
その小さな動きで、白い花を包んだ紙が胸元に当たった。
内ポケットの口が、わずかに開いた。
善治は気づかなかった。
青い封筒は、まず背広の内側で少しだけ滑った。
それから、花を包む紙の縁に押されるようにして外へ出た。
胸元から落ちた封筒は、善治の腕に一度触れ、ゆっくりと空中で裏返り、足元の影の中へ落ちた。
音はしなかった。
落とし物というものは、たいてい音を立てない。
なくした人間が気づかないように、静かに離れていく。
善治はそのまま歩き出した。
白い花を抱えて、駅の向こうにある墓地へ向かっていく。背中は小さく、けれどどこか頑固だった。長いあいだ何かを抱えてきた人間の背中だった。
青い封筒は、風に押されてバス停のベンチの下へ滑り込んだ。
表の文字が、一瞬だけ光の中に出た。
『最後の一発に』
それから封筒は、ベンチの影に半分隠れた。
バス停には、女子高生が一人いた。
膝の上にスケッチブックを抱え、制服の袖口を指でつまんでいる。バスの時刻表と、駅前の時計と、自分の足元を何度も見比べていた。
彼女は、封筒に気づいた。
けれど、すぐには手を伸ばさなかった。
バスが来る音がした。
遠くで、蝉が鳴いている。
空の端には、夕立ちの雲が少しずつ近づいていた。
青い封筒は、誰のものでもない顔をして、ベンチの下に横たわっていた。
まるで、拾われることを待っているように。




