■第30章『トシの逆襲』
カレンが自分の元から去り、戸塚さんは泣き崩れ、大磯さんや親友には嫌われ、先生からは犯罪者のごとくひどい扱いを受けた。トシは途方に暮れていた。
(踏ん張るんだ!)もうひとりの自分が励ます。
「悪いのは、アイツだ」トシは心の中で呟いた。「アイツの正体さえ分かれば、この危機を乗り越えられるのに」そうして少し前まで自分に対して怒りに満ちていた教頭先生へ、彼は逆に向かっていった。退学処分にせよ、何にせよ、たとえ世界の終焉が来ようとも本当のことを知りたい。彼は覚悟を決めて臨んだ。
二人は対峙した。目の前は荒野だった。風が吹き、校庭の砂や塵を巻き上げ、夕日がかすんで見えた。トシはひと呼吸置いてから、強い気持ちで話し始めた。
「教頭先生、教えて欲しいことがあるんです。あの体育館からの帰り道のことを」
「体育館? 帰り道?」最初、教頭先生は彼が何を言わんとしているのか、さっぱり理解できない様子だった。
「えーと、確か半年くらい前のことです。そう、あれは五月でした」
すると、親友が一歩前へ出て立った。
「トシ、おまえ何を言っているんだ。そんなことより、ちゃんと何をしたのか説明したほうがいいんじゃないか。素直に、正直に!」恵太が横槍を入れようとしたが、トシは片手を上げてそれを制した。
「今、それをやろうとしているんだ」
トシを見つめていた教頭先生は「五月がどうしたというのじゃ?」と、聞き返す。「はい。昼休みが終わって五時限目が始まっているというのに、二人の生徒と階段で鉢合わせになったことを覚えていますか? 男女のカップルが手をつないで下から駆け上がってきたところへ、教頭先生、あなたと危うくぶつかりそうになって……」
「ふーむ」
教頭先生は顎に手をやりながら考えている様子だったが、すぐにあきらめてしまった。
「分からん。思い出せん」
「あれは、カレン。いや、藤沢さんと僕だったんです」
「そう言われても、思い出せんのじゃ。うむ、待てよ。藤沢くんと挨拶を交わしたかもしれんのー」
「ほら、その二人とぶつかりそうになって教頭先生が注意をしてくれたではありませんか。その後で、ほかに誰かと会いませんでしたか?」
トシが求めていた答えは、それだった。
あの体育館での出来事の後、階段で教頭先生とぶつかりそうになった。もし、体育館に(カレンと自分以外に)誰かがいて、自分たちの様子を盗み見て(そのとき、怪しい物音をさせた)、それから二人の後をこっそりつけていたとすれば、教頭先生とも会っていたかもしれない。その怪しい人物こそアイツなのだ。
そうだ、そうに違いない。
彼は、話を続けた。
「僕たち二人と会った後、誰かを見ませんでしたか。そうですね、玄関あたりとか、体育館へ続く渡り廊下かもしれない」
「いや、きみたちのことさえあまり覚えておらん」教頭先生は、首を軽く振った。
「トシ、おまえ、でたらめな作り話でごまかそうとしているんじゃないのか」横のほうでカツが言うと、大磯さんも同調した。「そうよ。そうよ」
それでもトシはあきらめない。「みんな、聞いてくれ。アイツの正体を暴いてみせる」
「おまえじゃないのか」と、恵太。
「違う」トシは、キッパリと否定した。
カレンは真相を知っていた。でも、自分は何も知らされなかった。どうしてか。さらには京介さんも知らないようだった。さらには、戸塚さんが泣いてしまった理由は何か。すべてを謎にしたまま彼女は消えた。なぜ……。アイツを知ることこそ、すべてを知ることなのだ。カレンが去った今、自分でその真相を解き明かすしかないのだ。
彼は、一歩、教頭先生へ近づいた。そして、鋭い眼差しを注いだ。
「その少し前の出来事で……」
「な、何じゃ」
教頭先生は手脚を蜘蛛のようにゆっくり動かし、一歩、後退した。トシの真剣な表情を見て、蜘蛛男の上唇は引きつっていた。ついさっきまでは、怒りに溢れていた教頭先生だったが、今は、まるで立場が逆になってしまった。
「藤沢さんが白いハンカチを廊下に落としてしまったのを覚えていますか。それを僕が職員室へ届けにいったのです。ところが、教頭先生、あなたは僕を見るなり怒り始めた。そうするうちに、僕のほうもハンカチのことはすっかり忘れてしまって。それで、職員室を出た後、ハンカチのことを思い出して仕方なく拾った場所へ戻しておいたのです。でも、教頭先生。すべてあなたは知っていたのではないですか。なぜなら、その後、僕たちと廊下でぶつかりそうになったとき、彼女とハンカチのことを話していたでしょう」
「ふーむ。今度はハンカチか。悪いがそれも思い出せんのー」
そう言って、会話を簡単におしまいにしようと背を向けて蜘蛛のようにゆっくりと脚を動かしながら立ち去っていく。それまで無言で成り行きを見ていた真鶴先生も、黙って踵を返すように教頭先生の後をついていく。
「嘘だ! 思い出せるはずだ。あのとき、僕はビートルズのことをしゃべった。教頭先生はさっき知っていたじゃないですか!」
少しだけ興奮していた。
トシは職員室での会話を思い出し、それを口にしようとしたが、それよりも先に「この件は、後日じゃ。私のところへ来たまえ。そのとき、きみの今後の処遇について話し合おう」と、教頭先生は後ろを振り返って告げた。
蜘蛛男は、少しだけ不敵な笑みをこぼしているかのようだった。
真鶴先生も突き放すようにトシに告げた。「もう帰りなさい」。
もはや、なすすべは無いのか。
何か大きな力がすべてを包み込んでいるような気がした。大蛇が鳥の卵を丸のみするような、あるいは、糸にかかって身動きのとれない蝶を捕食する蜘蛛のごとく、圧倒的な力の差。弱肉強食。自然界の摂理。その大きな支配力をひしひしと感じながら、それでもアイツの正体を知りたいと思い、立ち去る教頭先生の背中をじっと見つめていた。
何かある。何かが違う。一体、何だろう。
その後ろ姿を見送りながらトシは考えた。
後ろからついて来なかったとしたなら……。
あの体育館から自分たちの後をつけて来たのではなく、もしかすると先回りをしていたのかもしれない。そうして偶然に会ったと見せかけることもできた。そう考えたのだった。
後ろからではなかった。
とすると、アイツは……。
待て。もしや。嘘だろ!
蜘蛛男とカレンの関係。
トシは、想像してみた。
――――カレンは最初、蜘蛛の糸から逃れようと体全体を力いっぱい動かしてみる。が、まったく歯が立たない。
「ダメだわ」身体の一部が粘り気のある糸にくっついて取れないのだ。「早く逃げたい」わずかに手足の先だけが自由だったけれど、動かせば動かすほどネバネバした糸がからみ、まとわりついた。
「がんばるのよ」と、自分に言い聞かせ、背中の両翼(左右の肩甲骨あたりから生えている)を空へ大きく伸ばした。白地にピンク色の大小様々な斑点のある美しい羽である。それをバタバタはためかせてみたが、手足を縛った糸が少しだけ持ち上がったかのように思えただけで、弾力性のある糸を引きちぎることは困難だった。何度か試してみたものの、やがて力は尽き果て、翼までも粘着性のある糸にくっつき取れなくなってしまった。
ふと横を見ると、灰色の大きな塊があるのに気づいた。「何かしら?」自分の身長とほぼ同じくらいの大きさで、年月が経ち、表面は乾いてカサカサしている。よく見ると糸によって枯葉が全体に巻き付けてあり、物体の半分くらいは中身が空洞のようだ。それは下半身のない昆虫の死骸だった。その種類は分からないものの、顔を見ると苦痛と快楽が複雑に混じり合った、古代のミイラのような表情をしていた。ミイラは悲しくもあり、微笑んでいるかのようでもあった。
「私もあーなってしまうのかしら」と、カレンは絶望感に打ちのめされた。
すると、身体を縛る糸からわずかな振動が伝わってくるではないか。音はしだいに大きくなっていく。蜘蛛男の足音だ。その振動が糸を伝わり、彼女の気持ちを揺り動かした。絶望の針が大きく揺れた。音はすれど姿は見えず。
カレンは「いや、いや」と言った。
泣き叫ぶ彼女へ、一歩一歩近づく男。およそ三〇センチ。目と鼻の先でようやく男が視界に入った。眼は赤く輝き、黄色い三角形の歯を見せながら笑みを浮かべている。口元に白い唾液のような泡をいっぱいにして、とても気色悪かった。――――
トシは、教頭先生の姿とアイツを重ねて見たのだ。




