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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第31章『トシの追求』

「ねぇ、トシ君……」


 後ろで、か細い女子の声がした。


 どこかで聞き覚えのある声。口調は弱く、ソプラノとアルトの中間くらいのメゾ・ソプラノに近い声だった。しかし、戸塚さんでも大磯さんでもない。はて誰だろう。彼の視線は、教頭先生たち(既に三〇メートルほど先へ離れ、もはやこれ以上の追求は断念せざる終えないという距離となった)へ注がれてはいたが、意識の内側では背後で聞こえた声の主を分かろうと努めていた。


「あなた、勘違いしているわ。教頭先生に迫ったりなんかして」


 振り返るのが怖かった。恵太らが仁王立ちしてこちらを睨んでいるに違いない。そして、大磯さん。彼女の怒りはまだおさまっていないかもしれない。戸塚さんはどうだろう。自分はちょっとカッコつけ過ぎたかもしれない。「アイツの正体を暴いてみせる」と意気込んだけれど、そして教頭先生に迫ってはみたものの、もう少しのところでそれは果たせなかった。


 そんなことを考えながら、ゆっくりと声のするほうへ体を半転させた。


「えっ!?」


 驚いた。


「どうしたの」


 トシの顔色を伺い、声の主も驚いた。


 彼女は、彼を見つめている。なぜここにいるのか。どうして勘違いしているのだと決めつけているのか、などと、そうした疑問符をいっぱい頭の周りに飛ばしているトシのことを考え、胸をしめつけられる思いがした。以前、交わしたデートの約束も守ってもらえないでいる。私のこと避けているのかしら。嫌いなのかしら。一抹の不安さえもよぎっていた。しかし、カレンちゃんが去った今、「チャンスかも」と自分を奮い立たせるのだった。


「ちひろ」


 トシがポツリと呟く。


 しかし、彼女は黙ったまま。どこから話せばいいのか、どう切り出せばいいのかと考えあぐねている。 


「こいつがさ、オレたちを呼んだんだ。体育館へ来いってね」と、恵太。そばにいた彼の声や表情は少しふてくされたようだった。もはや、トシへの怒りはどこかへ消え去り、代わりにキャラメルのおまけみたいに価値のない存在のちひろへ冷たい視線を送った。その場にいた全員が同じように彼女を見つめている。


「トシ君……」。彼女の哀愁を帯びた声は、愛の告白でもするのではないかと周囲を震いあがらせるのに十分だった。


「な、なんだよ」


「役者が揃ったようだから話すわ。あのね、みんな断片的にしか知らないの。それぞれがそれぞれの範疇でしか、物事の真実を掴んでいない。だから、戸塚さんも、大磯さんも、教頭先生だって、みんなアイツのことを知っているようで全然知らないのよ」


 ちひろがそう言うと、周りの連中はお互いに顔を見合わせてア然とした。


「そ、そ、それじゃ、おまえがすべて知っているみたいじゃないか」カツが声を荒げた。彼のその言葉が彼女を勢いづかせた。


「そうよ」


 彼女が胸を張って答える。耐え難い自己満足の空気が周囲に立ち込めた。


「なら、教えてくれ。アイツの正体を」カツは、喧嘩腰だった。コイツは知らないね、と決めつけている風でもあった。


「ちょっと。今さっき、あなたはみんながそれぞれ断片的にしか知らないって言ったわね。あなた自身だって同じことが言えるんじゃないかしら。私、そう思う」大磯さんもカツに加勢するように言い放った。


 が、ちひろは微動たりともせず、それどころか、トシを含めて周囲の微妙な心の動揺を見抜くかのように、その表情は確固たる自信に満ち溢れていた。


「私はすべてを知っているのよ。すべてを!」


 体育館に明かりが灯った。


 教頭先生と眞鍋先生の姿は、既に夕暮れの中へ消えていた。たぶん、職員室へ戻ったのだろう。


 やがて、中で投票の集計をしていた数人の生徒らが館内から出てきた。すべてが終わり、最後に生徒会長が出てきて、こちらに気がついて歩み寄ってきた。何やら、ポケットをじゃらじゃら鳴らして。


 その音は小銭の音に間違いなかった。


「キミたち、投票結果が知りたいのか。残念ながら、教えられないよ。一、二週間後くらいかな、あるいは年明けになるかもしれない。そうしたら学校側から正式な発表があるから」


 こうして集まっているのは、投票の結果待ちと勘違いしたのか、生徒会長はそう言ってから面々を見つめた。すると、ちひろが弁明するかのように答えた。


「いえ、別件で集まっているだけです」


 彼女の声は、感じのいい小さな声だった。


「別件?」


 生徒会長は、一瞬考えあぐねた風だったけれど、「ならいいや」と、すぐに校舎のほうへ消えてしまった。再びポケットのなかで小銭がじゃらじゃら鳴った。その後ろ姿を見つめながら、ちひろはホッと胸を撫で下ろすように息を吐いた。


 トシは、もういちど考えた。


 彼は会話を聞きながら、ちひろの登場で思わぬ展開になるのかもしれない、と内心穏やかではなかった。彼女は今しがた「教頭先生ではない」と言いきった。アイツの正体を知りたい。そう思ってはいたが、彼女からすべてを明かされることは、アイツとカレンとの秘密がいっさいがっさい暴かれてしまうのではないかという不安がよぎったのだ。それが本当でも、たとえ間違っていたとしても、カレンと自分に関係したことを、彼女なんかに引っ掻き回されるのは嫌なものだ。そんな気持ちで心が揺れていた。


「キャプテンや京介さんもここへ呼んで話がしたかったの。でも、二人は来なかった」


 ちひろは、うつむき加減で残念そうに足元にあった小さな石ころを靴の底で撫でるように転がした。


「ああ、二人のことならもう解決済みだから」


 トシは、ちひろの横へ回り、三年の野球部のツッパリグループのリーダーがカレンの従兄であること、彼らが休み時間に一年生の教室を回っている理由を、その場にいる全員に話して聞かせた。


「それ、本当か」恵太はまだ疑っている。屋上での、決闘の後、どうも彼らを疑っているようだ。あのとき、痛い目に遭っているのだから仕方がない。


「ツッパリグループを信用できないのは分かる。でも、僕を信用してほしい」トシは、一度亀裂の入った仲を修復したいと願い、そして、親友であることを再確認したかった。あの頃が思い出される。野原や小川で三人が遊んだ遠い日。永遠と思えたあの日あの時が回転木馬のようにまわっている。友情は、もう二度と戻っては来ないのだろうか。


「私、信じる」


 いちばん背後にいた戸塚さんが一歩前へ歩み出たことにより、全員が円を描くように集まった。恵太は、戸塚さんをチラリと横目で見た。


 彼女は続けた。


「私が泣いてしまったために、こんなことになってしまって。トシ君には迷惑をかけたと思うわ。素直に謝ります。ごめんなさい。それに私は信じているわ。だって……」言葉を切った。


 頭がいいというのは学業だけではなかった。それは彼女が聡明で状況をキチンと把握していたからに違いなかった。もし、心のすべてを打ち明けるようなことにでもなったのなら、彼女に思いを寄せる恵太や、トシのことを好きなちひろにはかなりの衝撃だっただろうから。そうしなかったのは正しかった。トシはそういうふうに分析しながら、戸塚さんはそういうことを薄々感じていて、でも、自身のなかで消化して、キチンと物事をえり分けながら態度を決めている。周囲のことを考えずに闇雲に自分の気持ちを打ち明けてしまうおバカさんではないのだ。そういう意味では、あの雨の日、階段の踊り場で見せた悲しげで弱々しい姿から少しずつ変わってきたのかな、とトシは感じた。


「私は、ちひろさんが言うように、すべてを知らないかもしれない。でもね、それでも人を信用できなくなったらおしまいだと思うの」


 恵太は、杭を打ち込まれたように体を硬直させた。頭の後ろ側、首筋の辺りがしびれるような感覚に襲われた。彼女の言葉は彼の心を強く打ったのだ。と同時に、それはダムから流れ出る水のように、少しずつ彼の気持ちを軽くしていく。その感覚は、ジャズのいいアルバムを聴いた後の気分に似ていた。「そうだ。ビル・エヴァンスだ」。


 恵太は横にいる戸塚さんを見つめながら、ジャズ喫茶で見かけた彼女の姿を思い浮かべていた。


 運ばれてきたコーヒーに手をつけることなく、じっと座っている。授業中、先生の話にキチンと耳を傾けるように、彼女はまっすぐに前を向いたまま。ジャズ喫茶でも彼女は優等生だった。その視線の向こうにはJBL・パラゴンの巨大なスピーカーが彼女を見つめ返していた。流れていたのは、クルセダーズだったかリターン・トゥ・フォー・エヴァーだったかハッキリ覚えていない。垢抜けたジャズというか、クロスオーバーとかフュージョンとか呼ばれている音だったと思う。


 恵太はビル・エヴァンスのピアノを彼女に聴かせてやりたいと思い、お店の人にお願いした。一時間以上経ってからようやく自分のリクエストが流れると、なぜか多くの客はおもむろに立ち上がって店を出て行ってしまった。しかし、彼女はそのままじっとピアノの美しい音色と響きに耳を傾けていた。


 戸塚さんは、授業にしろ、音楽にしろ、何にしろ、真正面から向き合っていく女の子なのだ。「私、信じる……」彼女の言葉を心のなかで反復しながら、こう思ったのだ。「それに引き換え、オレという男は、……親友を疑ったりして」


「くだらん」


 恵太がそう言うと、周囲の空気が変わった。それまで緊張し続けていた糸がプツリと切れ、ダラリと緩み、シラけた雰囲気になってしまった。


「帰るよ」


 力なくサラリと告げた。


「そうだ」「帰ろ、帰ろ」そうして、体育館の横に置いてあったカバンをそれぞれが取ると、トシとちひろを残してみんなは校門のほうへ向かった。四人が歩くたびに足元に敷き詰められた小石がじゃらじゃら鳴った。すでに夕日が沈み、薄暗がりの空にカラスがカァと鳴きながら飛んでいく。


 あっけなかった。もはや、ちひろの出番はなくなった。


「ね、ちょっと待ってよ」


「僕も帰る」


 ちひろは慌てた。トシの腕を無意識のうちに掴み引き寄せた。驚くトシ。帰り始めたみんなは気がついていない。彼女はそっと彼の耳元でアイツの名前を囁いた。


「……」


「えっ。そうなんだ」


 そのときのトシの表情は、意外にもクールで、まるで興味がないという風にさえ思えた。それとも、彼女の告白など、ちっとも信用していなかったのか。いや、違う。彼はアイツの名前を聞かされて、気持ちが引き締まる思いがしたのだ。もちろん、鵜呑みにはしなかった。彼女の告白が本当かどうか。別の角度、やり方、違う誰かに、しかも、こっそりと気づかれずにアイツの正体を確かめなければならない。人類学者のごとく、歴史をたどるときのように、確認、確証が必要なのだ。


「本当か」


「あの人に聞いてよ」トシの考えを察知したように、ちひろは言った。


「あの人って?」


 彼女には彼が何を考えているのかがすぐに分かった。なぜなら、いつもの癖――――考え事をするときはいつも指先で唇を触りながら――――を繰り返していたから。


 トシは、ちひろが指差す方向へ顔をゆっくりと向けた。彼女の指先が「ほらほら、あこそよ」と上下に揺れている。その方角には校舎の前に横たわる花壇があり、用務員さんが中腰になりながら、物静かに花壇のなかでゴミ拾いをしていた。


「えーっ、用務員さんにか!」


 まさか、と思った。


「用務員さんじゃなくってよ。校長よ」


 彼女は胸を張る。


「校長?」


 知らなかった。そう言われてみれば、入学式のとき、朝礼台の上で新一年生の僕らへ向けて丁寧に祝辞の挨拶をした背広姿の校長と何となく似ている。服装が変わっただけだったのだ。それにしても随分と変貌する校長だな、と彼は思った。


「あなた、自分の学校の校長くらい知っておくべきよ。あの人、用務員も兼ねて学校を管理しているのよ。あの人はなんでも知っているんだから、もう」


 そうか。知っているのか。校長先生に聞けば分かるというのか。トシは、ついさっき教頭先生に尋問した内容をもういちど頭に描いてみた。そうだ。毎日、昼休みに花壇で清掃している用務員さん、いや、校長先生に同じことを尋ねてみればいいのかもしれない。「あのとき、誰かを見ませんでしたか」と。そうだ。きっと見ていたに違いないのだ。その人物が教頭先生だったか、それとも、ちひろが告白した人物なのか、あるいはまったく別の何者かが……。


「私が尋ねてもよくってよ」


 ちひろが二、三歩前へ出た。


「いや、待て」


 もしや、校長先生がアイツだったら……。


「あのおじさん、何でも知っているの」。あの井の頭公園へ行くときに聞いたカレンの言葉がひっかかった。彼の頭のなかで、彼女の言葉がよみがえり、それが断片的な映像(最初、花壇で声をかけたとき、次に屋上で会ったとき)を巻き込んで渦となり、嵐となってトシの心へモーレツに吹き荒れた。


 カレンも同じことを言っていたぞ。校長先生がアイツかもしれない。


そうなると、問題はとてつもなく大きかった。アリさんが巨象に立ち向かうようなものだ。あのときのことが脳裏をかすめた。初めて声をかけた日のことを。鮮烈な眼差しで睨まれたあの恐ろしい体験を。ただ、あれは夢の中の出来事だったかもしれないというのに彼はゴクリと唾を飲み込んで緊張した。


 さらに、その後の屋上での遭遇も同じように存在感があった。大人のオーラに圧倒された。あのときは三年生のツッパリらもたじろいでいた。まさに、いぶし銀。風格、威厳、貫禄、調和、統合が感じられた。威風堂々。ヨーロッパ大陸のごとく、様々な思いや異なるものをひとつにまとめていくダイナミックで大きな心を持った人物。果たして……。


 彼はツッパリとは対等に渡り合えたが、果たして、校長先生のような大人とはどうだろうか。


「うーん、やるぞ。とことん、やってやる」


 トシは胸を大きく膨らませて、ぜんまいをいっぱいに巻いたときのような感じで身を引き締めた。来たるべく決着のときへ向けて。

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