■第29章『二人の協約』
地球でいちばん長い午後だった。
今まさに別れのときがやって来たのだが、彼には過去の思い出を振り返るだけの余裕があり、心の中で九〇パーセントの悲しみが支配していたにもかかわらず、残りの一〇パーセントは次への行動をうながしているかのようだった。彼にはまだやることが残っている。
「前へ進まなきゃ」
心のなかでそう呟いて、別れの余韻を黒いカバンのなかへ収め、思い出といっしょにしっかりと閉じて、彼はその場から逃げるようにして体育館へ戻っていった。トシは走った。走らなければならなかった。余韻に浸っているだけでは前へは進めない。体育館では今、戸塚さんや大磯さんががんばっているのだから。
戻ってみると、そこでは何やら大変なことになっているようだった。すぐにはそれとは判らなかった。が、さっきとは雰囲気が違っているのが感じられた。四、五人の灰色の影がひとかたまりになって体育館入り口付近にたたずんでいる。
辺りは静まり返っていた。一旦、彼は歩みを止めて様子を伺う。すると、大磯さんが振り返った。
「辻堂君、どこへ行ってたの!」
語気の強い言葉が飛んできた。恐る恐る近づいて行くと彼女の表情は怒っているようだった。その横には親友のカツも立っていた。二人とも何か憮然とした眼差しをこちらへ向けている。彼らの様子に戸惑いながら、トシの視線は彼らの背後へ向かった。後ろのほうで誰かがうずくまっていたのだ。チラリと見えた影が二つ。ひとつは、恵太だった。そして、もうひとりは……。
なぜ、みんな集まっているんだろう。
横目で体育館を見た。彼らのカバンだろう。さっきまで大磯さんと座っていた椅子と机が扉の横にあり、その机の上にいくつかのカバンが重なり合い、ひと山になっている。扉は半分くらい開け放たれ、その隙間から館内で先生や生徒ら数人が投票用紙の整理や後片付けをしている様子が見えた。
一歩、二歩と近づこうとしたら親友のカツが行く手を遮り、いきなりトシの左肩を小突いた。
「な、何するんだ」
「許せねぇ、コイツ」
カツともみ合いになった。その荒っぽい行動に、何が何だか分からず頭のなかは混乱している。
「やめなさいよ」
大磯さんの制止でカツはすぐに手を離し、息を弾ませた。トシは黙ってカツの顔を見つめていた。
「ついさっき、彼女、沼澤さんが投票して帰っていったわ。二人は何か話し合っていたみたい。きっとあなたのことね。彼女が帰ってからすぐにここで泣き出しちゃって」
大磯さんの言葉を聞きながら、トシはそろりと近づいて恵太の横でうずくまっている彼女の姿を見た。「泣いているのは一体、誰だろう?」
恵太の横に女の子がポツリ。
トシには二人の背中しか見えなかったけれど、泣いているな、と思った。恵太の手が介抱するように彼女の背中に軽く押し当てられていて、その背中は小刻みに震えている。誰だろう。なぜ、泣いているのだろうか。さっぱり理解できない。
泣いている子の横顔がチラリ。
黒ぶちメガネをかけている。
戸塚さんだった。
「ど、どうしたの?」
彼の、か細い問いかけに恵太が応えた。
「うるせぇ。おまえ、何かしたのか」
荒っぽい口調だ。恵太はうずくまったままで、トシの顔が見えるか見えないか程度に首を振り、上目遣いで睨みつけた。ただ、それだけ。
大磯さんが続けた。
「あなた、彼女と会えたの? 最後だったんでしょう。戸塚さんについて、何か彼女に言ったんでしょう。私、悪い噂を知ってる。あなたね。そうよ、そうに決まってる。カレンちゃんが転校するのも、あなたのせいよ」
大磯さんは、自身の小さな世界のなかでひとつの物差しで彼女なりのルールを築き上げていた。「私はすべてを知っている」というふうに。
悪い話はそれとなく耳にしていた。そう、悪い噂を。カレンちゃんが転校し、戸塚さんが泣き崩れ、その間で動き回って何やら関係の深そうな彼。噂の公式が成り立っている。それはダークなイメージの不気味な計算式だ。その構図を彼女なりに解釈して描いた世界地図は、悪魔の世界地図だった。それら、計算式も世界地図も、彼女のルールでは不協和音である。か細いピアノの旋律にうるさく吠える犬の鳴き声と列車が通過するときの踏み切りの音。そして、女性の悲鳴。さらにはFー一〇五戦闘機が彼女の脳みそを否応なく爆撃した。そうして得た結論はこうだ。
「この人が悪い!」
「おまえ、ま、まさか」
低い声で隣のカツが言った。口元がひきつっている。
「次から次へと女の子を騙して手を出しているっていう噂は本当だったのか!」
「そうよ。きっとそうよ」
大磯さんが念を押すとカツがまた叫んだ。「許せねぇ!」今にもトシへ掴みかかろうとしている。
カツは考えた。大磯さんが怒っている。コイツが悪いと。そうだ、彼女の言うことは正しい。自分は彼女の側へ立つ。正義という刀を振りかざせ。たとえ親友であっても悪いことをするとダメなんだぞ、と分からせなくちゃ。でも、今度、一線を越えてしまえば、親友と取っ組み合いの大喧嘩になるだろう。それが正しい行動なのかどうか分からない。どうする。どうすればいい。崖っぷちに立つような気分でカツは自分を抑えていた。
トシは黙ったまま彼らの怒りを受けて立っていた。最初、カツの怒りに満ちた顔を見て、それはそれで怖かったが、大磯さんの顔へ視線を移したとき、その表情の内側からこみ上げている得体の知れない憎悪みたいなものを感じ、燃え盛り、煮えたぎるドロドロした溶岩の近くにいるような気がした。女子の怒りの恐ろしさをひしひしと実感していたのである。
恵太がポツリと言った。
「戸塚さんにも、か」
恵太にとっては、思いを寄せる女の子がいとおしかった。トシは、戸塚さんに対する自分の気持ちを知っていた。なのに、彼女を傷つけた、と思った。どうしてだ。カレンとの間で何があったのか。戸塚さんへの思いとトシに対する怒り。しかし、理由が分からない。もやもやした気分を抑えるのがやっとだった。少しだけ恵太にあったとすれば、それは嫉妬だったかもしれない。戸塚さんとカレンとトシの三角関係。もしかすると彼女が泣いている原因はそれか。押し寄せる波のように、そして波が岩にぶつかり白く砕け散るように、彼の心は複雑に荒れていた。コイツを殴ってやりたい。殴るだけでは足りない。ムチャクチャにしてやりたかった。が、自分の嫉妬心をあからさまにするのも気が引けたし、今は親友に対する怒りよりも、この子のそばにいてやりたいという彼女への気持ちが少しだけ勝っていた。だからトシへ手を出すのをグッと堪えていた。
「そ、そんなこと……」
困った。トシは見えない重圧に負け、少し首をうなだれ、視線は下方のどこかをさまよい始めた。それでも「違う。僕は何もしていない」という気持ちもあって、ダラリと下げた両手には少しだけ力がこもっていた。
腕時計へ眼を向けると、秒針が止まって見えた。時はそこに凍りついたようにあって、夕日は夜に向けて少しも動く気配はない。
「ごめん。本当にすまない」
平謝りだ。そのときは何も分からずにそうするしか手立てがなかった。彼だけはほんの少し冷静でいられた。周囲が怒っているときは、とにかく黙って聞く耳を持ち、相手の怒りがおさまるのを待ち、しっかり謝るのがいい。流れに逆らわないように。変に言い訳などすると、その正当性を説明したりして、自己弁護ばかりに話しがいき、事の真相が分からなくなってしまう。たとえ何も悪いことをしていなくとも(実際にどうか分からないし、自身で気がつかないだけかもしれない)、たとえそう思っても相手との言い合いばかりで堂々巡りになることがある。ましてや、親友たちだ。グチャグチャして喧嘩別れにならぬよう、その場でトシは素直に謝った。もしや自分が間違っている可能性だってある。
「大丈夫? 戸塚さん、ごめんね」
一息おいて、うずくまっていた戸塚さんがトシをゆっくりと見上げた。黒ぶちメガネの奥の瞳に大粒の涙がたまっている。黙ったままだったけれど、その眼つきは何かを言いたげな風だった。
「あなたのせいよ」
すると再び、大磯さんが彼女の代弁をするかのように言い放ちながら、それでも彼女は怒りを抑えきれない様子で、トシの学生服の袖をグっと掴んで引っ張り始めた。やはりかなり興奮している。
「あなたが悪いの!」
彼女はそう言って、腕を振り上げた。
(ヤ、ヤバイ)もうひとりの自分が叫んだ。それは一瞬の出来事だったけれど、避けようと思えばできたかもしれない。しかし、トシはまるで第三者のような気分で、スローモーションでも見るかのように立ち尽くしていた。
「ダメ!」
戸塚さんが大磯さんを止めようと立ち上がった。恵太もいっしょに立ちかけた。が、遅かった。
次の瞬間、トシの頬を平手打ちが飛んだ。パチーンという音が周囲に響いた。
平手打ちを食らったのは、これで二度目だ。まったくどうなっているんだ。親友らは怒っているし戸塚さんは泣いているし平手打ちを食らうし、トシは困惑した。大磯さんがもういちど手を振り上げたので、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
二人の頭上で腕が絡み合う。しかし、平手打ちをしたときの勢いはなく、彼女の腕はやがて力つき、トシへの恨みの言葉へと変わった。
「投票活動を放り出して、しかも、戸塚さんを泣かせちゃって。彼女がどれだけがんばっていたか知ってるの! もうサイテー」
力なく腕をぶらりと下げたまま大磯さんはメソメソ泣き出してしまった。
最後の台詞がナイフのようにトシの心をえぐったが、遠からず当たっているように思えて全身の力が足元から抜けていくのを感じた。「そうだよな。僕は戸塚さんのためには何もしてあげられなかった」。もみ合っていた彼女の腕をゆっくりと放し、トシはただ呆然とするのだった。
そこへ騒動を聞きつけた先生がやって来た。館内で投票整理と後片付けをしていた教頭先生と真鶴景子先生だ。
「辻堂君、何をしているの!」真鶴先生が呼び止めた。
「えっ」
「女の子に何をしているんじゃ!」今度は蜘蛛男(いや違った)、教頭先生がトシの腕を掴んだ。
「な、何もしていません」
「今、暴力をふるったな。職員室へ来い」
まるで現行犯逮捕された悪人のように、警察官、いや、教頭先生に腕を掴まれて連行されそうになった。
「どうしよう」
(人生、最悪の日だな)もうひとりの自分は、苦笑い。
「ふざけるな!」
ただ呆然と誰に叫んだわけでもなかった。彼はもうひとりの自分に向かって言い放ったのだ。すると、教頭先生がカンカンに怒った。
「先生に向かって、ふざけるなとは何だ。確か、キミはビートルズが好きだとか言っておったな。くだらん不良め!」
トシの視線は教頭先生の顔をかすめ、真鶴先生へ。それから空を見上げた。ただ何となく。もしかすると、空に救いを求めていたのかもしれない。自分にせよ誰にせよ、事の真相なんてものは知らない。みんなそれぞれ断片的な事柄しか知らないのだ。それでも周囲を見渡しながら現状を理解しようとしたがやっぱりダメだった。すべてを知っているのは、この空とカレンくらいだろう。トシは思った。
「どこを見ているの。変よ、辻堂君」
視線が定まらない彼を、真鶴先生が驚愕の表情で見つめていた。そばでは、女の子二人がボロボロと泣いている。最悪だ。最低だ。
「こいつが悪い」と言って、カツが顎をしゃくってトシへ向けた。
「よし、こっちへ来い」教頭先生が彼の腕を無理に引っ張り始めた。
(この展開はヤバイぞ)と、もうひとりの自分。
カレンのことが原因で周囲が大きく動いている。急展開している。それなのにもうひとりの自分は、まるで他人事のようだった。そうしてどこかへ消えていなくなってしまう。都合のいいときだけ顔を出して自分を当惑させるのだ。
「先生、違うんです!」
戸塚さんが、一歩前へ出て叫んだ。
「やめてください。辻堂君は関係ないんです。許してあげてください」
必死に訴えかけているその姿を見て、ボー然となった教頭先生は、力を緩め、掴んでいたトシの腕を放して自由にしてやった。
「だ、誰も、私の気持ちなんか分かってくれない」
ポツリと、戸塚さんが呟いた。彼女は眼に涙をためて心中の嵐と闘っている。
「いいのよ。いいの。あなたは何も話さなくて」弁護するように、諭すように、真鶴先生が彼女の肩を優しく抱いた。
「話せないの。でも、誰も悪くない……。誰も」
彼女はそう言いながら先生の肩を借りるようにして顔をうずめた。その間、恵太もカツも大磯さんも、誰も何も言うことはなくなってしまったかのように、立ち尽くしていた。
――――「ゴメンね」。カレンがそう呟いた。
戸塚さんは、考えていた。
先ほどまで、彼女は体育館のなかで投票用紙が入った箱を整理しながら、ひとつの大きな仕事が終わろうとしている安堵感に包まれていた。そこへカレンがやって来た。彼女とは五月のあのとき以来、協約みたいなものを結んでいた。彼女は頭のいい子だったから、それを守り、遂行し、成果を出していた。女の子同士の約束は完璧だった。
「私ね、困っているの。悩んでいるの」
カレンの話は続く。
「ある人から言い寄られていてね。付きまとわれているっていうほうが当たっているかも。最初は軽く遊びのつもりだった。好奇心でね。でもね、やっぱり肌が合わないっていうか、女の子なら分かるでしょ。外見や中身は別にしても、もう絶対にダメで受け付けないタイプがいるって。なのに、そういう人に大切なものを奪われてしまったら……」
それはとてもショッキングな内容だった。
「それからというもの、気持ちと体がバラバラになって、耐え難い苦痛の毎日になってしまったの。そういうことを話せる人は、親でも先生でも友人でもなかった。信頼できるいちばん身近な存在の人。それが私の場合、三年生の従兄だった。しつこく付きまとう人がいて悩んでいるって。彼は男の子だったから、悩みのすべてを打ち明けることはできなかったにせよ、私の気持ちを汲み取ってくれて、ね。これからおまえをずっと守ってやるって。そのときすごく嬉しかった。以前にも同じような事件があったらしく、彼の助言は別の誰かと付き合うことで、その悪魔のようなやつは手を引くだろうって。それで、人畜無害な男の子に私はターゲットを絞ったの。それが彼。辻堂君。同じクラスのね。彼ならば女の子には縁がなさそうだし、ゴメンね。変な言い方で。でも、フリをするのもいいかもって。彼氏ができたと分かれば、アイツは私から手を引くだろうしね。従兄の存在も心強かったわ。ところがアイツは信じなかった。新しい彼氏は誰か、証拠を見せろって。そうした事情で、やむなく辻堂君との付き合いを公にしないといけなくなってしまって。アイツを信じ込ませるために。私たち、本当に付き合っているのよってね。私のほうは切羽詰っていたの。戸塚さんにおいては、あなたの気持ちを踏みにじるような行為かもしれないけれど、少しの間、許してほしいの。お願いだから、私たちのことを。三人で仲良くやっていけるように。あ、それからこのことは誰にも話さないでね。辻堂君本人にも。こんなこと、気遣いであるのと同時に自己中心的な振る舞いかもしれないけれど、ね。いずれ、彼とは正式に話しをして別れるときがくると思う。そのときが、彼にとってあなたがきっと必要になるときね。それまでは、絶対に……」
こんな具体だった。
カレンの話を聞き、彼女は自分の恋愛よりも三人の友情を選んだ。片思いや失恋、という二文字が目の前にチラつき、それを恐れたということもあったかもしれない。でも、始まったばかりの高校生活を台無しにはしたくなかったし、自分にはイギリス留学というもうひとつの夢があった。みんなで楽しく過ごすのがいちばんいい。カレンを気遣い、トシのことを思い、三人で友情を織り込んでいけたらいいと願った。そんな趣旨のことを彼女に告げた。
そうして、協約は遂行された。従兄らが彼のことをアイツと間違えて威嚇したこともあったし、制服問題のときはカレンが危うく処分の対象となった。そういうときには、自分が何とか陰で上手に立ち振る舞ったのだった。一方で、トシ君は自分に親しくしてくれたし、カレンとも仲良くできた。結局、アイツの正体は分からなかったが余計な詮索などしなかった。なぜなら、すべてがうまくいっていたのだから。
今となっては、彼女の話が本当だったのか偽りだったのか、分からない。なぜなら、さっきの彼女の態度はまったく違っていたから。
「私、トシ君のことが好き。大好き。本当に好きよ。家庭の事情でやむなく転校するけれど、私の気持ちはずっと変わらない。ずっとよ。来年も、再来年も、その次もずっと。彼も同じ気持ちよ。あ、それから戸塚さん、あなたの夢が実現するといいわね。がんばって。ほんとゴメンね。そして、ありがとう」
そう言い残して立ち去った。
結局、私の立場、存在は何だったの。
そんなことを考えると、自然に涙が出てきてしまった。みんなの手前泣きたくはなかった。でも「泣かないわ」と思えば思うほど、悲しくなった。
混乱して筋が通らない自分の精神状態を認識して、彼に対する気持ちの有り様も複雑になって、カレンの話はただ自分を泣かせるだけ泣かせた。――――しかし一方で、彼女は理性も忘れなかった。――――たとえカレンちゃんとトシ君が仲良く付き合おうと、私は自分を変えないし、曲げやしない。それは、決心とか決意とか、頑なに守るためでも確固たる自信でもないけれど、恋よりも自分の夢を取ろうって。
泣きながら自分に言い聞かせるのだった。




